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記事 7件
  • 『君の名は。』ネタバレ感想。物語を形づくる三枚のカード。

    2016-08-29 04:53  
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     先ほどまで映画『君の名は。』のネタバレラジオを放送していたのですが、そこで話したことを記事の形でもまとめておきます。
     以下、『君の名は。』のネタバレを含みます。未見の方はなるべく読まないでください。オーケー?
     さて、『君の名は。』では、クライマックス、ふたりの主人公、瀧と三葉はすべての記憶を失って離ればなれになります。
     瀧は何かを失ってしまったという喪失感を抱えながら日々を過ごし、そして数年後、ふたりが運命的に再開するところで物語は終わります。
     感動的なハッピーエンド。しかし、ぼくはここでもう少し印象が弱いものを感じたのですね。いや、作品そのものは傑作で、クオリティ的には文句なしなのですが、いわば99点で、100点は付けられないようなところをどこかに感じたのです。
     それはどこなのかといえば、いまにして思えば、このハッピーエンドそのものに「嘘」を感じ取っていたのだと思う。
     つま
  • 『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力はどこにあったのか。

    2015-10-24 17:16  
    51pt

     つい先ほどまでラジオで話していた内容が興味深いので、ちょっとぼくなりにまとめてみたいと思います。
     端的にいうと、『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とはなんだったのか、なぜあの作品はウケたのか、という話ですね。
     ご存知の通り、『まどマギ』はここ最近の深夜アニメのなかではトップクラスといっていいくらいにヒットしたわけなのですが、では、なぜヒットしたのか? どこが特別だったのか? と考えるとよくわからないところがあるわけです。
     一見すると、『まどマギ』の特徴は「可愛らしい絵柄の女の子(萌え美少女)を徹底的にひどい目に遭わせていること」であるように見えるし、その点に影響を受けたと思しいフォロワー作品がいくつかある。
     まあ、じっさいに直接的な影響があるかどうかは知りようもないわけですが、『まどマギ』の後、ぼくたちが「女の子をひどい目に遭わせる系」とそのままのネーミングで呼んでいる系譜の作品がいくつか出て来たことは事実です。
     しかし、ほんとうに『まどマギ』のヒット要因がそこにあったのかというと疑問なんですよね。
     というのも、いま述べたようなフォロワー作品はそこまでウケているようには見えないからです。
     どうやら女の子をひどい目に遭わせればそれでいいというものではないらしい。
     むしろ、女の子たちがひどい目に遭うことがありえる世界でどのように生きていけばいいのかというところにフォーカスするべきなのかもしれない。
     と、ここまではいままで語ってきた通りです。
     で、今回、LDさんが仰っていたのが、つまり『まどマギ』とは「女の子(萌え美少女)と一見それと関係なさそうなジャンルを接続するという方法論の作品」のひとつだったのだ、ということです。
     この場合、女の子が何に接続されたのかといえば、ぼくたちがいうところの新世界系(突然ひとが死ぬような過酷な世界を描いた物語)ということになります。
     『まどマギ』とは、萌え美少女と新世界を接続した作品だったわけです。
     そして、その結果、副次的に女の子がひどい目に遭うことになった、ということです。
     つまり、『まどマギ』は女の子を趣味的にひどい目に遭わせたところに魅力がある作品ではなかったし、そこにウケた理由があるわけでもない、ということですね。
     いい換えるなら、『まどマギ』が「女の子をひどい目に遭わせる系」に見えるのは一種の錯覚ということになります。
     もちろん、じっさいに女の子はひどい目に遭っているのだけれど、そこを目的とした作品ではないのです。
     女の子をひどい目に遭わせようという趣味自体は、いうまでもなくはるか昔からあったものと思われます。
     表面に出て来ることは少ないにしても、エロゲやエロマンガといったアンダーグラウンドカルチャーでは、凌辱系と呼ばれるジャンルは昔から人気があったわけですから。
     だから、『まどマギ』はその意味では特に画期的ではない。
     それならどうしてウケたのかといえば、 
  • ハッピーエンド評論家になりました。情報求む。

    2015-04-30 17:53  
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     唯野奈津実『副業革命! スキマ評論家入門 世界で一人だけの評論家になって稼ぐ方法』という本を読みました。
     著者は日本唯一のカラオケ評論家で、カラオケに関しては日本一くわしいと自称する人物。
     そのかれが「どうすれば評論家になって稼ぐことができるか」を懇切丁寧に解説しています。
     その答えは簡単で、「名乗ってしまえばいい」というもの。
     評論家に資格はいらないのだから、そう名乗ってしまえばきょうからでも「××評論家」になれるわけです。
     もちろん、それ相応の知識や見識は必要になるが、それはあとから身につけていけばいいというのがかれの考え。
     よく考えてみればそれももっともな話で、「ちゃんとした知識が身についてから名乗ろう」などと考えていたらいつまで経っても名乗れないかもしれない。
     とにかく無謀でもなんでも一歩を踏み出す勇気が必要なのでしょう。
     そういうわけなので、ぼくもがっぽり儲けるべく、何かの評論家を名乗ってみようと考えました。
     当然ながら、評論分野は自分の趣味、好きなことから選ぶべきでしょう。 しかし、そうかといって文芸評論家、映画評論家、ミステリ評論家といったジャンルにはすでに途方もなくくわしい人たちがいます。後発ではちょっと勝負になりそうにありません。
     それなら、どうすればいいのか。
     実はぼくには腹案があるのです。
     以前からハッピーエンドの物語ばかりを集めた本を出したいと思っていたのですね。
     もちろん、出版社にコネはないので同人誌か電子書籍で出すことになるでしょうが、とにかくそういう本を作りたいなあというアイディアはあったのでした。
     というのも、ぼくが殊にハッピーエンドの作品を好きだからで、そしてそういう作品を調べようと思ってもあまり情報が見あたらないからなのです。
     ちょっと調べてみたのですが、意外にも日本にはハッピーエンドの作品をまとめた本やウェブサイトは存在しないらしいのですね。
     検索でひっかかってくるのは、精々が「ハッピーエンドの作品を読みたいのですが、いいのはありませんか」というQ&A程度。
     そこでぼくが日本初のハッピーエンド評論家を名乗り、ハッピーエンド作品の情報を集めて、このブロマガを通じて発信していこうと考えたわけなのです。
     ついでにブロマガの名前も(すいません、何度目になるかわかりませんが)変えようと思います。
     「海燕ハッピーエンド研究室」ということでどうでしょう? 平凡だけれど無難なところなのではないでしょうか。
     さて、そういうわけで、お初にお目にかかります。きょうからハッピーエンド評論家になった海燕です。
     ほんとうは本名を名乗ったほうがいいのかもしれないけれど、海燕という名前をあまりに長く使ってきて愛着もあるので、そこはどうしたものかと悩むところですね。
     まあ、とりあえずこのままでいいだろう。
     さて、めでたくハッピーエンド評論家とはなったものの、当然ながらまだ「ハッピーエンドに関しては日本一くわしい」というほどの知識はないので、ハッピーエンドの作品に関する情報を募集しています。
     小説、漫画、映画、なんでもいいです。
     できれば客観的に見て「これはハッピーエンドだろう」という作品が望ましいですが、あなたがハッピーエンドだと思う作品ならなんでもいいので教えてください。
     コメント欄、Twitter、またはメール(kenseimaxi@mail.goo.ne.jp)などでよろしくお願いします。
     たとえば『風ととともに去りぬ』や『あしたのジョー』がハッピーエンドかどうかは微妙なところですが、そういう作品でもかまいません。
     ぼくひとりで調べられることには限りがあるし、ましてこの件に関しては(一種のネタバレになるからでしょうが)インターネットにもそれほど情報がない。
     どうか「海燕ハッピーエンド研究室」にご協力ください。
     もちろん、 
  • 映画『楽園追放』の率直な感想。

    2014-11-16 02:13  
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     えー、錦織対ジョコビッチの頂上(直前)決戦の興奮が冷めやらないなか書いているのですが、先ほど、きょう公開初日のアニメーション映画『楽園追放』を観て来ました。
     面白かった――かな?というところでうすね、ぼくの評価は。公開初日の映画に対し、あまりネガティヴなことを書くのもどうかと思うのでどう書いたらいいものか迷うんだけれど、いやー、微妙でした。ぼく的には。
     これがほんとに出来が悪い映画だったら気にせず「ふんっ」とか書いちゃうんだけれど、決してそうではないあたりが悩ましい。
     見方によっては傑作ともいえると思うし、じっさいTwitterで感想をあさってみたところかなり好評の模様ではある。まあ、わざわざ初日に観に行く人たちの感想だからいくらか偏りはあるにしてもね。
     だから、まあ、わざわざ批判するようなことを書く意味もないとは思うんだけれど、そうだとすると、ぼくのこの割り切れない気持ちをどこにやったらいいのか――ううう。
     そういうわけなので、以下は多少のネタバレを含みながら語ってみようと思います。あくまで個人的な意見として受け止めてください。お願いします。
     あ、余計なことは頭に入れずに観たいという方は観てから読んでくださいね。そこはまあ、各人にお任せします。
     さて――この映画、ぼくは一切事前情報を仕入れずに観に行きました。知っていたのはサイバーパンクSFで、虚淵玄が脚本を担当しているということだけ。
     ヒロインが釘宮声だということも知らなかった。で、特に予想も期待もなく観に行ったのですが、それでも予想したものとは違っていました。
     うーん、まさか 
  • キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。

    2014-07-16 17:02  
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     きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。
    http://www.ustream.tv/recorded/49943304
     このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。
     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
     そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。
     『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。
     『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。
     「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。
     ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。
     これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。
     それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。
     さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。
     ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。
     これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。
     で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。
     それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!
     つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。
     「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。
     だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。
     そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。
     しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。
     ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。
     しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。
     そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。
     ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。
     とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。
     なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。
     そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。
     まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。
     ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。
     これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。
     ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。
     ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。
     戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。
     で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。
     『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。
     ところで、上記で取り上げた同人誌『戦場感覚』はいまなら送料込み800円でお買い求めいただけます(笑)。
    https://spike.cc/p/dD23B3S9
     さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
    https://spike.cc/p/pzKHubR0
     『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。
    https://spike.cc/p/6r9vgAr0
     安っ。2冊とも12~13万文字程度の分量があります。よければ、ぜひどうぞ。 
  • 少年の夢と少女の視点は補完しあう。永野護、宮崎駿、虚淵玄の世界を比較鑑賞する。(2174文字)

    2013-08-18 18:33  
    53pt




     宮崎駿はどこまでも純粋に「少年の夢」を追いかけつづけるクリエイターだ。
     少年の夢とは、たとえば世界の救済、囚われの少女を塔から救い出すこと、あるいは空を翔ぶ城――男ならだれもが幼い日に夢みるロマンだ。
     多くのひとはやがてその日の情熱を失い、あたりまえの日常のなかに人生を埋没させていくのだが、この老天才作家の想像力は枯れることがなかった。
     かれが70歳を過ぎたいまでも少年めいたロマンを保ちつづけていることは、映画『風立ちぬ』を見ればよくわかる。
     しかし、きょうではピュアな少年の夢を叶えることはむずかしいことも事実だ。
     それは暴力や戦争、そして帝国建設に直結していく想いだからだ(ラピュタ王を目ざしたムスカ!)。
     しかし、そういう問題点を認識したうえで云うなら、ぼくはやはり「男の子の物語」が好きだ。そういう少年にしか感情移入できないと云ってもいい。
     コナンが好きだし、ルパンが好きだ。パズーが好きだし、堀越二郎が好きだ。
     ほかの作家の作品で云えば、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンが好きだし、『燃えよ剣』の土方歳三が好きだし、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンも好きだ(ぼくのハンドルネームはカイエンから採っている)。
     どこまでも純粋で美しい少年の夢に殉じて一生を終える男たちの生きざまが好きでならない。
     しかし、そういう「男の子の物語」ばかり見ていると、やはり物足りなくなる。そこに「少女の視点」が欠けているからだ。
     
     これはべつに政治的正しさとか倫理的正当性といった話ではなく、自分の趣味の問題として云うのだが、「男の子の物語」ばかり見ていると、そこに「女の子の物語」が欠けていることに残念さを禁じえない。
     あたりまえのことだが、少年の夢があれば少女の視点があり、男の子の願いを叶える物語があるなら女の子の祈りに通じる物語があるのだ。
     ぼくとしては、少年の夢と少女の視点が拮抗した物語を見たいと思う。
     いずれかに偏るのではなく、両方が緊張感をもって対決する世界を見てみたいと望む。
     しかし、現実には少年の夢を描いた物語では、やはり女の子たちは脇に追いやられることになりがちなのではないか。
     『Fate/Zero』が典型的で、あの小説を読んだひとが最も印象にのこるのは、征服王イスカンダルのキャラクターとエピソードだと思う。
     イスカンダルのサーガは典型的な「男の子の物語」で、かれは夢に生き、夢に死ぬ。
     かれの夢とは世界征服。まさに男の子がそのままになったような男で、イスカンダルはあった。
     いまどきこういう男子は貴重だから、イスカンダルは非常に印象的なキャラクターとして成功していると云える。腐女子人気が沸騰したこともよくわかる。
     しかし、そこに被害者の視点がない。イスカンダルが征服した土地にいた人々の想いは、そこではまったく描かれていない。
     なるほど、男たちはかれの夢に魅せられ、ともに歩んでいこうとしたかもしれない。それがイスカンダルの軍団を形成していったかもしれない。
     しかし、女はどうか? 少女や妻や母親たちはどうなのか?
     おそらく彼女たちの平和な生活はイスカンダルの征服によって蹂躙されたはずだ。
     イスカンダルは決して征服や略奪や陵辱を悪と見做してはいないように見える。
     かれが赴いたところ、悪夢のような地獄が誕生したはずだ。そこで女たちはどうしたのか、その視点が必要だと思うのだ。
     くり返すが、ぼくはそれが倫理的に重要だという理由で少女の視点を求めているわけではない。
     そうではなく、少年と少女の両方の視座がそろって初めて、物語に緊張感が生まれると思うのだ。
     そういう意味では、永野護監督の『ゴティックメード』は良かった。
     
  • 『Fate/zero』を熱く語る。血と暗黒の大傑作スペクタクルエンターテインメント。(3939文字)

    2013-01-21 14:30  
    53pt
    『Fate/Zero』はぼくにとって、「いやー、こういうの読みたかったんですよ」という作品でして、ある意味でぼくの理想に最も近いところにある一作といってもいいかもしれません。その『Fate/Zero』について5年ほど前に書いた文章を微修正の末、再掲しておきます。ぼくが書いた文章のなかでもかなり「熱い」語りだといえるかと思いますので、読んでくださいませ。