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  • シリーズ20年ぶりの新作! 『太宰治の辞書』に時のたゆまぬ流れを見た。

    2016-05-03 15:54  
    51pt

     北村薫の『太宰治の辞書』を読んでいる。
     タイトルだけでわかる人はわかるように、「円紫師匠と私」シリーズの、じつに20年ぶりの第6弾である。
     買ったのは1年も前なのだけれど、いまに至るまで読まずに本棚に仕舞いこんでいた。
     特に理由があって読まなかったわけではない。ただなんとなく積読していただけだ。
     そのつもりだが、どこかで、読みたいようで読みたくないような、そんな心理が働いていたかもしれない。
     なんといっても、20年ぶりのシリーズ新作、感受性豊かな女子大生だった「私」も、20年ぶん歳を取っているわけである。
     変わってしまった「私」を見たくないという気分が、あるいはどこかにあったとしてもおかしくはない。
     時は経つ。人は変わる。あたりまえといえばあたりまえのことだが、泰然と受け入れることは容易ではない。小説のなかのことでさえ、そうなのである。
     さて、このシリーズを読むのは『朝霧』以来のこととなる。
     ひょっとしたらその世界に入りづらいかとも思ったのだが、まったくそんなことはなく、すんなりと入りこめた。
     さすがに作家としての力量が違う。最近は「小説家になろう」出身の半アマチュア的な作家の作品を読むことが多いから忘れていたが、ああ、小説とはこういうものだったのだ、という思いがする。
     セリフのひとつひとつ、文章の一行一行がしっとりと落ち着いていて、読み耽るほどに深々とその世界に浸りきるような気分になってくる。
     そうだ、読書とは、こういう行為だったのだ。
     この作品は北村薫のデビュー作から連なるシリーズだけあって、一応はミステリの体裁を成しているが、じっさいには事件らしい事件は起こらない。
     「日常の謎」すらない。名探偵の活躍もほとんどない。この作品で主題となるのは、はるかな大正、昭和の文学作品である。
     芥川龍之介に、三島由紀夫に、太宰治。きわめて有名な、有名すぎるともいえる作家たちの作品や発言を巡って、主人公の「私」が考察をくり広げる、そういう作品になっている。
     そんなものが面白いのか。面白いのである。
     まあ、なんといっても北村薫だ。もとは国語教師だったという人物だから、過去の文学作品を読むその目は鋭く、また、あたたかい。
     実に細かいところを見つけ出しては、そこに作家の感性なり個性を見て取る。
     なるほど、本とはこういうふうにして読むのだ、と思わせられるくらいだ。一読、感嘆するしかない。
     この本には、破天荒なトリックとか、理路整然たるロジックといったものは、一切出てこない。
     ただ、芥川の「舞踏会」なり、太宰の「女生徒」を紐解いては、ああでもないこうでもないと考え、語るだけだ。
     それが読み始めたら辞められなくなるほど楽しいのだから、これは小説の力というほかはない。
     まったくどうということはない細部にこだわった作品なのだが、それでも、実に楽しい上に、納得が行くのである。
     推理小説のロジックには、ただでさえどこか詐術めいたところがある。
     それが文学作品の読解となったら、これはもう、幻術の類に近くなる。なんとでもいえるだろう、とも思う。
     しかし、それでも、その幻術にたぶらかされる楽しさ、というものもあるのだ。
     北村薫の「語り」は 
  • 書き出しが良いとそれだけで傑作に思える症候群。

    2015-04-15 01:27  
    51pt
     ども。
     なんかめちゃくちゃ長い記事を書いてしまったので、すぐには内容のある記事を書く気になれません。
     あの長さの記事をだれが読むのかという気がしますが、何人かには読んでいただけたようで幸いです。
     我ながらひきこもりの身の上でよくこれだけ書けるものだと思いますにょろ。だれも褒めてくれないから自分で褒めておこう。
     まあとにかくやる気が湧き出てこないので、ひとつコピペだけで安直な記事でも作ろうかと思います。
     ちょうどTwitterで「印象にのこる小説の書き出し」に関するツイートが流れてきたので、これに便乗することにしましょう。
     ぼくが、個人的に印象に残っている小説の書き出しです。
     まずは、そう、

     九歳で、夏だった。

     乙一ですね。
     「夏と花火と私の死体」。

     極限まで簡潔な――というかほとんど極限を超えて文法的におかしいのではないか、と思われる一文が印象的です。
     16歳でこれが書けてしまうということは、やはりただ者ではない。天才の片鱗は既にここに表れています。
     続いては、

     申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

     太宰治の「駈込み訴え」。

     この疾走的なリズム感。こういう小説を書かせると太宰は日本文学最強の書き手ですね。「生かして置けねえ」と崩れるところの迫力が凄い。
     ちなみにこの小説は青空文庫で読めます。かなり泣かせる傑作短編なので、オススメ。
     香気馥郁たる美文、ということでは、やはり連城三紀彦の文章が印象深いものがあります。
     特にこれ、と挙げるのなら「花緋文字」でしょうか。「花葬」シリーズのなかでも凶悪ともいうべき一作ですが、その冒頭の美しいこと。

     石畳に水でも打ったように滲む茶屋の灯を小波だたせ、一陣の秋風が吹きぬけるなか、三津が、私の呼び停めた声につと高下駄の音をとめてふり返り、
    「――兄さん」
     思わずそう呟いたものの、まだ誰か思い出せぬように、首を傾げて立ち竦んでいたのを、今でもはっきりと憶えております。


     また、個人的に気に入っているところでは、石田衣良『波のうえの魔術師』があります。
     石田衣良の全作品のなかでも、この作品の書き出しはスペシャルに格好いいと思う。凡手が真似できない匠の切れ味。

     灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
     波のうえの魔術師だ。

     秀抜な文章もさることながらイメージそのものが美しい。
     「灰色のデジタルの波」、「細かな数字の飛沫」、そして「波のうえの魔術師」。
     こういう繊細なイメージを味わえるのが小説の醍醐味ですね。
     石田衣良は格好つけるとほんとうに格好いい。天才的です。
     さて、ここらへんで有名どころをひとつ押さえておきましょう。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』。

     港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
    「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど--」
     と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。
    「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
     《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壺(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。


     うん、一読して「は?」となった人もいるかもしれませんが、「空きチャンネルに合わせたTVの色」とは、つまり曇り空の灰色のことです。
     この小説の冒頭の舞台ははるか未来の「千葉市(チバ・シティ)」なのだけれど、いったいどこの千葉なのだろう……。
     個人的にあらゆる書き出しのなかでもベストに近いと思っているのが、 
  • 宮沢賢治と太宰治と。綺麗な心に生まれなかったひとはどうやって生きていけばいいのか。(2156文字)

    2013-01-18 14:14  
    53pt
    宮沢賢治と太宰治をひきあいに出しつつ、「心の美しさ」について語っています。心の綺麗さとは、ただ単に賢くて正しい行動を取れるということではありません。それはもっと純粋で崇高な観念です。しかし、ぼくはそこまで心が綺麗に生まれなかった、あるいは育たなかった自分自身を知っています。そういうひとはどう生きればいいのか。ひとつの例を示してみました。