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  • いちばん恥ずかしいところを晒せ! 真夜中のポエムをひとに読ませるべきたったひとつの理由。

    2015-03-07 10:10  
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     きょうは「羞恥心」について話をしたい。一般にひとが備えている恥ずかしいと感じる気持ちのことだ。一説によるとアダムとイヴが知恵の果実を齧った時に生まれたというが、国家も宗教も超えて存在する人間の最も人間らしい想いのひとつである。
     たとえば洋服の下の裸を見られたとき、ひとは恥ずかしいと感じる。あるいは、秘密の日記を見られたとき、さもなければ、本棚の奥に隠していた秘密のエロ本コレクションを見つかったときなど、多くの人は羞恥心を感じ、叫び出したいような気分になる。その気持ちをまったく理解できないというひとはほとんどいないはずだ。
     しかし、これはひとが生まれつき備えている感情ではない。現実に赤子は裸でいても恥ずかしいとは思わないし、人前でも平気で排泄する。あたりまえといえばあたりまえのことだが、羞恥心とは人間が作り出した文化に由来する感情に過ぎないのである。
     それでは、人間にとって最も恥ずかしいこととは何か? いろいろな答えが考えられるだろうが、ぼくはそれは心を覗かれることだと思う。
     心の奥底のだれもが抱える秘密の部分、そこに必死に隠しているものを見られることほど恥ずかしいことはないのではないか。それに比べれば肉体的欠陥を見られることなど、どうということはないとすらいえる。
     自分がほんとうは何を好きで何を嫌いなのか、何を美しいと感じ、何に怒りを覚えるのか、その、きれいごとではないほんとうのところを晒すことは途方もなく恥ずかしい。なぜならそれは、いかなる虚構でも守られていない裸のその人自身だからだ。
     人前で裸になることもたしかに恥ずかしいが、精神的に裸になることはそれ以上に恥ずかしい。心のストリップは肉体のストリップ以上の屈辱を伴うのである。
     何年か前に『サトラレ』という漫画が流行ったことがあった。この作品の主人公たちは、自分の心のなかを無意識に周囲に漏らしてしまう人々、「サトラレ」たちだった。
     物語のなかではかれらは自分がサトラレであることを気づかないよう守られている。なぜなら、自分の心の中をそのまま覗かされていることを知ってしまったならば、羞恥心で自殺しかねないからだ。心こそは人にとって究極のプライバシーエリアなのである。
     しかし――人が人と交流するということは、そのプライバシーをある程度開陳するということである。自分のことを一切知らせないで相手のことを知ろうとすることには無理がある。だれかと語り合うためには、どこかで、自分はこういう人間なのだと知らせなければならない。
     まして、何か作品を創造し、人の心を揺さぶろうなどと考えた時には、自分をオープンにせざるを得ない。アートとは心のストリップショーなのだ。
     何か作品を創造し、それを発表したならば、その人の人生、教養、価値観、偏見、感情、自負、傲慢、それらすべてがつまびらかにならざるを得ない。また、そうでなければ決して人の心を打つものは作れない。
     だからこそ、アーティストという名のストリッパーには自分の本心を晒す勇気が必要となってくる。
     自分の高潔さ、偉大さ、賢さ、自己犠牲の精神などだけ晒せるならいいが、じっさいにはそうは行かない。そういったプラスの側面を晒す時には、無知、卑小さ、愚劣さ、エゴイズムといったマイナスの側面をも晒さなければならないのである。
     なぜか? それはつまり、心のストリップショーにおいて大切なのは、最後の一枚まですべての衣服を脱ぎ捨てることだからだ。一枚でも身につけている限り、魅力的なショーとはなり得ないのだ。
     その人の最も秘められ隠されたグロテスクな陰部をこそ観客は見たがる。そこを隠していてはショーは成立しないのである。
     しかし――それは何と恥ずかしい、痛々しい、格好悪いことなのだろう。自分の最も隠したい、醜い場所をこそ晒さなければならないとは、何という拷問だろう。
     人はそのさまを見て笑うに違いない。何と無知な人間だ、愚かな精神だ、虫けらにも劣る恥ずかしい奴なのだ、と。それはまさに衆人の視線のなかで全裸となるに等しい行為だ。
     おそらく賢い人間はそんな真似をしないに違いない。賢い人間は、自分は衣服をまとったままで、他人の裸を笑うのである。そうすれば、自分の陰部は隠したままで、他人の陰部の形を嘲ることができる。パーフェクトに安全で、絶対に傷つかない賢いやり方である。
     こういう人のあり方を、ぼくは「利口」と呼ぶ。一方、自分のすべてをさらけ出す行為は、これはもう「バカ」としかいいようがない。必然的に傷だらけになり、最後にはズタボロになってしまうスタイルといえる。
     人はどのように生きるべきなのか、「利口」が良いか、それとも「バカ」を尊ぶべきか、それは人それぞれであることだろう。しかし、ぼくは断然、「バカ」を選ぶ。
     自分も「バカ」でありたいと思うし、「バカ」を晒している人をこそ尊敬する。「利口」なあり方は、賢いとは思うが、リスペクトには値しないと考える。
     あるいはそれは偏見かもしれない。「バカ」のほうがより偉いという下らない思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、それでもぼくは「利口」より「バカ」を取る。なぜなら、いままでじっさいにぼくを感動させた創作作品は、いずれもすさまじく「バカ」な代物だったからだ。
     自分の欠点を晒し、汚点を見せつけ、偏見を隠さず、傲慢を示した人々の作品だけが、ぼくの心を鋭く射抜いたのである。
     ぼくはそれらの作家と作品を尊敬し、自分もまた「バカ」であろうと試みて来た。その成果が即ちこのブログとその前のブログ「Something Orange」である。
     しかし、自分がほんとうに「バカ」になれたかどうかといえば、これは微妙なところだろう。どこかで自分のほんとうに恥ずかしい部分は隠そうとしてしまっているかもしれない。
     何かの作品をひとに奨めるとき、ぼくはほんとうにいつも本気だっただろうか。時には「仕事だから」とか「読む人のためを思って」といったいい訳を用意して自分をごまかしていたのではないか。そう思うと、忸怩たるものがある。
     しかし、プロフェッショナルなクリエイターにとってすら、自分のすべてをさらけ出すことは簡単なことではない。しかし、ぼくはその自己開示に成功した「バカ系」の作品をこそ好きなのだ。
     たとえば、高河ゆんに『恋愛 REN-AI』という長編がある。ぼくがいままで読んだあらゆる漫画のなかで、最も好きな作品のひとつである。
     しかし、ぼくは長い間、自分がなぜこの作品を好きなのか、説明することができなかった。いまならできる。『恋愛』は極端なまでに「バカ」な漫画だからだ。作者が一切照れることも衒うことも恥ずかしがることもなく自分の価値観をオープンにしている作品だからなのである。
     この物語の主人公は、たぐいまれな美少年、田島久美(ひさよし)。しかし、かれは現実の女性ではなく、テレビのなかのアイドルに恋をしている。やがて、かれはその恋を叶えるため、自分自身もアイドルとして芸能界に乗り込んでいく。
     あるとき、女友達から「恋愛はいつか終わるのだから、終わり方こそが大切だ」といわれた久美は、こう応える。「関係ないね、ぼくの恋愛は終わらないよ」。
     ああ、何て「バカ」で、恥ずかしいセリフなのだろう! ここには「成熟した恋愛感情」とか「大人の恋心」といいたいようなものはかけらも見あたらない。ひたすらに、少女漫画を読み過ぎた男のような思い込みの激しさが見られるだけである。
     あたりまえの漫画家なら、だれか第三者の視点を用意して、このセリフを茶化してみせ、自分を弁護することだろう。つまり、「これはあくまで作中のキャラクターのセリフであって、作者自身はこんな青くさいことは思っていないよ」というポーズを取り、裸の自分を守るわけである。
     しかし、高河ゆんはここで完全なる確信を込めてこのセリフを書いている。一片の弁解も、自己弁護も、ここには介在しない。ぼくにはそのように思われる。
     この漫画では、ほかにもとんでもない「恥ずかしい」セリフや行動が頻出する。そもそも一介の少年がアイドルの少女に恋をし、彼女を恋人にするため芸能人になる、というストーリーそのものが限りなく青くさく恥ずかしいし、痛々しい。
     しかし、ぼくはいいたい。だからこそこの漫画はすばらしいのだ、と。『恋愛』という作品の魅力はまさにその確信の強さにある。高河ゆんはこの主人公の行動や言動を本気で格好いいと思っていて、そのように描いているのだと信じられる。そこがこの漫画の魅力だ。
     しかし――そのしばらく後に描かれた姉妹編の『恋愛 CROWN』では、もうその確信は消えている。象徴的なことに、この漫画のあとがきでは、作者自身が久美に対し「恥ずかしい」と語りかけるシーンが存在する。
     これはぼくにはある種の「いい訳」と受け取られてしまう。そして、その種の「いい訳」を挟んだ途端に、あれほど輝かしかった『恋愛』という漫画は、ただのありふれた恋愛漫画のひとつまで落ちるのだ。ぼくは『恋愛』は大好きだが、『恋愛 CROWN』はさほど評価しない。
     『恋愛』だけではなく、ぼくの好きな作品は、どれも決定的に「バカ」である。自分の自意識を守っていない。たとえば、永野護の『ファイブスター物語』。
     『恋愛』とはまったくベクトルの違う作品だが、これも作者が「自分が本気で格好いいと思うもの」だけを描いているという点が共通している。
     永野護は、自分が生み出したナイト・オブ・ゴールドやツァラトゥストラ・アプターブリンガーといったロボットを、あるいはエストやクローソーといった美少女たちを、本気で美しいと考えていると思う。
     たとえ、人から見ていかにもその姿が異形に見えるとしても、かれにとっては関係ないのだ。たとえ世界が「こんなもの格好悪い」といっても、かれは自分の生み出したものの格好良さを信じるに違いない。
     何というナルシシズムであり、恥ずかしさだろう。しかし、まさにそうだからこそ、ぼくは永野護の漫画を好きなのだ。
     あるいは、栗本薫でも、田中芳樹でも、司馬遼太郎でもそうである。栗本薫はアルド・ナリスを世界一美しいキャラクターだと本気で信じていただろうし、田中芳樹もオスカー・フォン・ロイエンタールほど格好いい男はいないと信じているだろう。
     司馬遼太郎も土方歳三や高杉晋作をこの上なく理想的な男子のあるべき姿、と確信していたに違いないとぼくは信じることができる。ぼくはそういう「確信」が好きなのだ。
     客観的に見れば、ほんとうに美しいか、格好いいか、理想的かどうかなど、測りようもないことである。だから、それらの価値観はあくまで作者の思い込みということになる。自分で生み出したものを、自分で美しいとか、格好いいと思いこむとは、何と恥ずかしいことなのだろう。
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  • TONOとよしながふみの落差。

    2014-01-24 18:34  
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     さて、ふたつほど前の記事で書いたように、山梨のてれびんの家に二日ほど居座って漫画を読んで来ました。ちょうどTONO『カルバニア物語』が床に散らばっていたので、拾い集めて再読してみたのですが、いや、これ、ほんとすばらしいですね。
     掲載誌がいつのまにかボーイズ・ラブ雑誌になっていた『Chara』ということもあって、あまり一般的な知名度は高くない漫画だと思いますが、でもこれは必読クラスの名作といっていい。
     てれびんもいっていたけれど、おがきちかさんの『Landreaall』に近い気がする。まあ、ペトロニウスさんがいつだったか書いていたように、ほぼミクロの関係性に終始する少女漫画なので、つまらないと思う人もいるだろうけれど、ぼくにとっては至上の作品です。
     何が面白いのか。ひとつにはやっぱり性差の問題を繊細に描き込んでいることがあるでしょう。
     主人公はカルバニア王国のうら若き女王タニアと公爵令嬢のエキュー・タンタロット、彼女たちは国を統べる頑固な男たちとさまざまな局面で対決させられます。そしてしばしば性差別的ともいえる「壁」にぶつかって悩んだり怒ったりすることになるのです。
     しかし、それなら「性差別反対!」「女性に権利を!」的な物語なのかといえばまったくそうではないあたりが面白い。
     いや、たしかにタニアたちは差別的な扱いにうんざりしながら抵抗を続けていくのですが、だからといって彼女やエキューが常に正しいというわけでもないんだよね。
     時には頭の硬いおっさんたちのほうが正論をいっていることもあるし、どっちもどっちということもある。重要なのは決して物語が「政治的正しさ」の奴隷に堕ちないということです。
     すべてのエピソードはあくまでナチュラルに、スムーズに進んでゆくのです。で、ぼくとしてはたとえばよしながふみの『きのう何食べた?』とか『フラワー・オブ・ライフ』あたりと比べると、格段にこちらのほうが好みなんですね。
     このふたりの作品、どこが違っているんだろうとよく考えます。表面的にはそう大きな違いがないように見える。どちらも非常に政治的に公正で、ユーモラスで、マイノリティへの配慮が行き届いている。それにもかかわらず、ぼくにとってはまったく違う作風です。
     たとえば志村貴子さんという作家さんがいますが、彼女の作品に対してはぼくは特段の違和は感じません。『青い花』であれ、『敷居の住人』であれ、とても楽しんで読むことができます。
     それに対し、『きのう何食べた?』に対しては何かこう、いいようがない読後感を覚える。いったいどこが違っているのか? さっぱり言葉にならないのですが、あえていうなら 
  • このベテラン少女漫画家が凄すぎる。(2119文字)

    2013-05-01 17:34  
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     雑誌『メロディ』がおもしろい。ぼくのなかでは少年漫画雑誌のベストが『月刊少年マガジン』で、少女漫画雑誌のベストがこの『メロディ』だったりする。
     樹なつみ、清水玲子、よしながふみ、種村有菜、高橋しん、成田美名子、川原泉などなど、キャリア10年から30年程度のベテラン作家ばかりをそろえた雑誌で、決して少女漫画の最前線とはいえないはずなのだが、どうしてどうして、圧倒的に面白い。
     今月号で圧巻だったのは清水玲子『秘密』の番外編。本編が終わったあと、主人公の隠された過去を振り返るエピソードの完結編なのだが、いやあ、凄まじい。ここまでいい話をきちんと築き上げた上でそこに繋げますか。あなたは鬼ですか鬼なんですか。さすが『竜の眠る星』の、『月の子』の、『輝夜姫』の清水玲子である。素晴らしい。
     でもまあちょっと、やっぱりそうですか、結局、男同士の友情ですか、という気がしなくもない。ちょうど樹なつみの『花咲ける青少年特別編』がまたそういう話だっただけに、なおさらそんな感じがする。いや、それが悪いわけではまったくないのだが、一応は少女漫画なんだからもう少し女性キャラクターにスポットライトがあたっても、と思うのだ。
     この雑誌の女性読者はそういうことを考えないのかな。みんながみんな腐女子じゃあるまいし。それともみんながみんな腐女子なのだろうか。まさかね。
     清水玲子さんはともかく、樹なつみさんというひとは徹底して女性人物に興味がないように見えるひとである。ほとんど嫌悪しているのではないかと思うくらい。やはり世代的な問題があるのだと思うが、このひとの漫画で女性キャラクターを「可愛いなあ」とか思って読んでいると大抵ひどい目に遭う。それはもういつものことだ。
     ぼくは繰り返し書いているのだが、『OZ』におけるエプスタイン姉妹の扱いはもう少しなんとかならなかったのだろうか。ヴィアンカはまだしも仮にもフィリシアはメインヒロインだぞ。少女漫画なんだぞ。ボーイズラブじゃないんだぞ。
     あきらかに作者の愛情が主人公ムトーと、性別不詳のアンドロイド19(ナインティーン)に偏っていて、ヒロインたちにはないことがわかるだけに、何となく悔しいような思いがする。お願いですから女の子たちにももう少しいい役を与えてやってください。まあ、無理なんだろうけれど。
     『花咲ける青少年』の場合、メインヒロインの花鹿・バーンズワースにはたしかに光が集中している。しかし、逆にいうと「花鹿みたいな子じゃないとダメなのか」ということがわかってしまう絶望がある。あそこまでスペック高くないと赦されないんですかねえ。いやはや。
     
  • 『十二国記』のここが納得いかない。(2211文字)

    2013-01-24 08:24  
    53pt



     今年、小野不由美『十二国記』の新刊が出るという。まずは短篇集になるようだが、長編が続くと考えていいのではないか。物語は素晴らしくいいところで中断している。十年ぶりに続刊を読めるとしたらこれ以上の歓びはない。
     『十二国記』は稀代の傑作である。だれもがそういうし、ぼくも異論はない。ほんとうに面白い物語だと思う。ただ、それでもぼくはこの小説にかすかな違和感を覚えることがある。批判というほどつよい思いではない。ほんとうに小さな、それでいいのか、という違和。
     それはこの小説の価値観に対する違和だ。『十二国記』の登場人物はそれぞれ偉い。立派である。初めは愚かだったり卑小だったりする人物も、時の流れとともに成長してゆく。ぼくはその立派さについていけないものを感じる。だれもがあまりにも偉すぎる。というか、物わかりが良すぎる。
     それをいちばん強く感じたのが、いまのところ最大の長編である『風の万里 黎明の空』だ。主人公である陽子を含めた三人の少女たちの放浪と成長を描いた物語だが、その成長がぼくには少々無理があるものに思えた。
     『風の万里 黎明の空』一編を貫くテーマは「自己憐憫に耽るな」ということだと思う。自分を哀れんで泣いてばかりいると、自分がだれよりも可哀想に思えてくる。それは何ら事態の解決につながらない。だからそうしてばかりいないで、行動したほうがいい、と。
     このテーマ自体には異論はない。ぼくもよく同じ趣旨のことをいうし、正しい考え方だと思う。しかし、ぼくにはどうにもその正しく、また高潔な考え方に違和を覚える。つまり、自己憐憫に耽るまい、と思ってもどうしてもそうしてしまうのが人間ではないか。
     たしかに自分を哀れむことは不毛かもしれないが、だからといっていつも凛としていられるかというとそうでもないはずだ。しかし、『十二国記』はそうした弱さを許さないように思える。そこに何か窮屈なものを感じざるをえない。
     これが『銀河英雄伝説』だと、そういう感想にはならない。ラインハルトは高潔だが、それは単にかれが特別な人物だからそうだというだけであって、だれもが高潔であるべきとは描かれていないと思うからだ。『銀英伝』には善人とはいいがたいが魅力的なキャラクターもたくさん出てきていて、それが作品を多彩に彩っていると思う。
     『十二国記』の場合は、やはり悪い奴はひたすらに悪い奴、というところがある。それが最もつよく出ているのが『東の海神 西の滄海』で、この作品の敵役である斡由は、初めは颯爽たる姿で出てくるのだが、結局、無残な醜態をさらして退場する。かれの役割は主人公のひきたて役であるに過ぎない。こういうところが、どうにも納得できない。