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ライトノベルを読んで「才能」の高い壁を考える。
2016-05-19 13:3151pt
白鳥士郎の将棋ライトノベル『りゅうおうのおしごと!』の最新刊を読みました。
この刊はこれまでの2巻を超えて、シリーズ最高傑作といっていい出来栄え。とても面白かったです。
今回の話は――と自分の手で物語を語りたいところですが、面倒なのでここは手抜きをして、表紙裏のあらすじをそのまま引用します。
「あいも師匠と一緒に『おーるらうんだー』めざしますっ!!」
宿敵≪両刀使い≫に三度敗れた八一は、更なる進化を目指して≪捌きの巨匠≫に教えを乞う。
一方、八一の憧れの女性・桂香は、研修会で降級の危機にあった。急激に成長するあいと、停滞する自分を比べ焦燥に駆られる桂香。
「私とあいちゃんの、何が違うの?」
だが、あいも自分が勝つことで大切な人を傷つけてしまうと知り、勝利することに怯え始めていた。そして、桂香の将棋人生が懸かった大事な一戦で、二人は激突する――!
中飛車のように正面からまっすぐぶつかり合う人々の姿を描く関西熱血将棋ラノベ、感動の第三巻!!
なかなかよくまとまっているあらすじです。
そう、今回の陰の主役はいままでの巻で少しずつその苦悩を見せていた主人公憧れの女性「桂香さん」。
今回、降級の危機に見舞われた彼女が「才能」という絶対的な壁を前に、悩み、惑い、そしてその苦しみを突き抜けていく様子が一巻をかけて描かれます。
「才能」。忌々しい言葉です。「頑張った者がそのぶん報われる」という教育的な教訓をあっさり否定してしまう、この不埒な言葉。
幻想のようでもあり真実のようでもあるあいまいな概念。
しかし、あたりまえの努力では埋めることができない絶対的な差は現実にあります。
将棋指しは、あるいはその「才能」が最もわかりやすく目に映る世界かもしれません。
何しろ、将棋の世界には「勝ち」と「負け」のふたつしかないのですから。
これほど「結果」が明快に分かれる業界もないことでしょう。
まあ、ほんとうは才能と実力の差が「結果」となって表れるのはどの業界も同じで、たとえば作家もそうだし、もっというならブロガーもそうなのだけれど。凡人辛いっす(涙)。
それは余談。
「才能」という、目には見えない、それでいて厳然として存在する「壁」に挑むとき、ひとはどうすればいいのか? 自分のすべてを賭してなお叶わない目的があるとすれば、どのような姿勢で望めばいいのか? それがこの巻のテーマ。
主人公の八一は十代にして史上最年少で竜王のタイトルを手に入れたという「天才」側の人間です。だから、このテーマを語るためにはふさわしくない。
そこで今回、主役級の役割を与えられたのが桂香さん。
25歳にして、女流棋士という夢をあきらめざるを得ない苦境に立たされた彼女は、今回、どうあがいても越えられないかもしれない「才能」という壁を前にし、絶望します。
それは作者自身の想いが投影された姿なのかもしれません。白鳥さんはあとがきでこう書いています。
私が小説を書き始めたのはラノベ作家としては遅くて、大学院の二年生くらい。それも、お金を稼ぐためでした。漫画やアニメが好きで、本を読むのも好きでしたが、子供の頃から作家になりたいなんて思ってたわけじゃないんです。プロになってもう何年にもなりますが、振り返ってみれば、何となく「こういうのが受けそうだな」と思って書いたことはあっても、「これが書きたい!」と思って書いたことはなかったような気がします。
今までは。
この作品は、「これが書きたい!」と心の底から思って書いた作品です。特にこの三巻は、自分がなぜ物語を書いているのか、どうして生きているのか、その理由を問い直すために書いたと言っても過言ではありません。桂香が答えを見つけたように、私も答えを見つけました。小手先のテクニックではなく、剥き出しの魂をぶつけることで、読む人の心を揺らしたい。私はこれからも、そうやってこの物語を書いていくつもりです。
その意気やよし。
ただ、この人の「才能」は「剥き出しの魂」というよりは「小手先のテクニック」のほうにあるよなあ、という気がしなくもない。
じっさい、 -
人工知能が天使になるとき、悪魔と化すとき。
2016-05-17 20:5451pt淡々とマーベル映画を見ています。
あとは『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』と『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』を見れば完全制覇。
ぜいぜい。はあはあ。さすがに短期間で10作続けて見ると疲れる。全部見終わったらまとめて記事を書こうと思います。
ほんとうはこうやって極端に集中して見るんじゃなくて、毎日1本ずつくらい見て行くのがいいんだろうなあ。結果的にはそっちのほうがたくさん見れるはずだし。
ぼくはどうも長距離走を短距離的に走り抜こうとして失敗する傾向がある。いいかげん自分のリミットを把握しなければ……。
さて、NHKの「天使か悪魔か 羽生善治人 工知能を探る」という番組を見ました。
タイトルからわかるように、世界各地で急速な進歩を遂げている人工知能(AI)に関する番組です。
ついにさまざまな領域に進出しつつある人工知能について、将棋というゲームに関する「人類最高の知性」であるところの羽生善治が探求するという内容。
非常に興味深い番組だったのですが、最終的に出てきたのは人工知能の倫理問題でした。
人間の理解を超える領域にまで進歩していこうとしている人工知能に対し、どうすれば倫理的な制約をもうけることができるかという問題です。
ぼくたちは多数の映画や小説で「危険な人工知能」というヴィジョンを見せられてきています。
そういう作品では、人工知能はなんらかの目的のために「暴走」し、人類滅亡といったプロジェクトを開始するのです。
しかし、現実的に考えればそういう「邪悪な」人工知能は生まれづらいでしょう。
人工知能をそういうふうに捉えることはいわば人工知能の擬人化であるに過ぎません。
だから、『ターミネーター』に出てきたような「邪悪な支配欲に駆られた人工知能」といったものを想定することはばかばかしい。
しかし、その一方で「人類の利益に対して一切無関心な人工知能」は考えられるでしょう。
そういう人工知能は、ある目的のために「結果として」人間の目から見ると邪悪ともとれる行動を取るかもしれない。
人工知能のそういう「結果としての暴走」をどう阻止すればいいのか。あきらかに人工知能に倫理を学ばせる必要があるという結論が出そうです。
しかも、その「学習」は、人間が「これは良いことだ。これは悪いことだ」と教え込むという形ではなく、人工知能自身に考えさせ、結論を出させる必要がある。
つまりモラル面のディープ・ラーニングです。
ぼくは思うのですが、たとえば「住宅街に向かってミサイルを発射せよ」とだれかが命令したとき、命令通りに発射する人工知能と命令に背く人工知能、人類にとって安全といえるのはどちらでしょうか?
あるいは、もしその住宅街にテロリストがひそんでいて、そのテロリストを殺害することによって何万の人を救えるかもしれないとしたら?
こういった問題は人類が現段階で明確な答えを持っていないものです。何が正しいのか、だれにもわからない。
いまのところ人工知能は「成か、否か」明確に分けることができる領域で活躍していますが、その能力の劇的な進歩に連れて、やがて必ずこういった「答えのない問い」の領域にまで進出していくでしょう。
そのときには、どれほど高度な知性を持つ人工知能といえども、完全に正しい答えを出すことはできないはず。
問いそのものにパラドックスが設定されている問題だからです。
そういうパラドキシカルな状況設定に対して超高度な人工知能がどのような答えを出していくのか、ぼくは興味があります。
そしてまた、 -
あなたがハマっている趣味の面白さを教えてください!
2015-05-28 12:2851pt
ふたつ前の記事でふれたPhaさんの新刊『持たない幸福論』を読み終わった。
くわしい感想はのちほど書くとして、個人的に参考になったのが「お金をかけずに時間をつぶす方法」のところ。
ほぼ、ぼくと同じ結論なので、やっぱりそうだよなあとひとりうなずいた。
たとえば、将棋。
ぼくはまったく将棋をたしなまない人なのだが、一定の興味はあって、いつか覚えてみたいなあと思っている。
もっとも、もう30年近くそう考えているので、このまま一生、覚えずに終わるかもしれないが、とにかくローコストで楽しく過ごすために将棋(や囲碁やチェス)はとてもいい方法だと思うのである。
ほかには、競馬とかサッカーとかアイドルなどが思い浮かぶ。
いずれもハマったら奥深そうで、それなりに資金もかかりそうだが、テレビやネットで観ている分にはほとんどお金はかからない趣味である。
これだけではインドアに偏りすぎているので、フットサルとかハイキングとか山登りを付け加えてもいいだろう。
いまの世の中、ほとんどお金がかからない娯楽があふれていて、ぼくのような貧乏人でも、趣味でお金を使いすぎることは心配しなくていい。
娯楽を供給する側から見れば大変かもしれないが、消費する側としては実にいい時代だ。極楽極楽。
しかし、いくら口先でそういっていも、じっさいには新しい趣味を始めることはわりに大変である。
ぼくが「将棋を覚えたいなあ」と考えてから30年間、ほぼなんの行動も起こしていないことからもそのことはわかる。
どんな趣味でも始めようと思ったらそれなりのハードルを乗り越えないといけないわけだ。
そのとき、最も良いのは既にその趣味に習熟しているだれかから手ほどきしてもらうことだろう。
たとえば、将棋を始めるときにも、ある程度くわしい人から教えてもらうと、入門のハードルがかなり下がると思う。
また、その趣味にくわしい人にしても、自分と同じ興味を持つ人が増えることは嬉しいから、嬉々として教えてくれたりするものだ。
こうして需要と供給がマッチすれば、教える側も教わる側も幸福になる――理屈では、そうなるはず。
ところが、これが必ずしも上手くいかないんだよなあ。
自分が好きなものの魅力を、それについてくわしくしらない人に教えることは、案外むずかしいものだ。
『3月のライオン』に主人公がしりあいの女の子に将棋の面白さを教えようとして失敗するエピソードがあったが、どのジャンルでもそういうことはしばしばくり返されているのだと思う。
これがねえ、どうにかならないものかといつも思うんだよね。
趣味を媒介にした教導関係がうまくいかないのは、教える側が「なぜか偉そう」とか、「初心者の気持ちがまったくわかっていない」とか、「いきなりマニアックなところから教えてしまう」とかだったりするあたりに主な問題点があると思うのだが、これらを解決するノウハウを蓄積することはできないのだろうかと思うわけなのですよ。
たとえば、将棋初心者が気楽に入門できて、その奥深さの一端をしるところまでサポートしてくれるサイトがあるととても嬉しい。
いや、わかっている、もちろんそういうサイトはたくさんあるだろう。
また、入門書などもたくさん出ていることと思う。
しかし、その最も丁寧なものすら、初心者以前のぼくから見ると敷居が高い。
さすがにコマの動かし方を覚えるくらいまでは行くんだけれど、そこから先へ進むことがどうにもできず、挑戦と挫折をくり返してしまうわけなのだ。
べつだん、将棋に限らない、たとえばアイドル歌手なんかも興味はあるのだけれど手を出しづらいジャンルだ。
お前が軟弱すぎるだけじゃないかといわれればその通りだけれど、ぼくのような人種はどのジャンルでも大量にいると思うのである。
そういう「新人」をどうやってその趣味に招き入れるかによって業界自体の栄枯盛衰が決まってくると思うのだけれどどうだろう。
ぼくとしては「一見してわかりやすいもの」だけに人々の興味が集まるのは面白くない、「わかりづらいけれどなれると超面白いもの」も広まっていってほしいと思うから、わりと切実な話なのである。どうしたものやら。
というわけで、何かぼくに新しい趣味を教えてやろうという方がいらっしゃいましたらコメント欄やTwitterに書き込んでください(笑)。
たとえば、野球観戦の面白さについて教えてくださると、ぼくとしては興味津々、聞き入ることと思います。
野球の面白さはまったくわからないわけではありませんが(野球漫画たくさん読んでいるし)、どこを注目して見ると面白いのかはいまひとつよくわかっていないんですよね……。
もちろん、野球やサッカーではなく、フィギュアスケートでも、BL小説でも、YouTubeでも、競艇でも、陶芸でも、パン作りでもかまいません。あなたがハマっている趣味についてぼくに教えてほしいのです。
まあ、コメント欄でのやり取りには限界がありますから、さらにくわしいことはFacebookなりLINEあたりで教えていただけると助かりますが……。
「教わる」ことを通じて、その趣味で初心者がどう挫折するのかあきらかにできたらなあ、などと考えています。
あと、『スプラトゥーン』をプレイする予定の(あるいは、既にプレイしている)人がいたら教えてください。ぜひいっしょに遊びましょう。
いや、ぼくはこれから買う予定なんですけれどね。
人生は楽しみに満ちているなあ。ひきこもり生活も退屈する心配はないようです。 -
運命はいつも極限の二択を突きつけてくる。選べ。「立ち向かう」か「座り込む」か。
2015-05-11 03:0851pt
いま、『3月のライオン』の連載が非常にタイムリーな話題を扱ってくれています。
以下、ネタバレあり。
さて、今週号の『ライオン』は主人公である桐山零くんのこのような独白で始まります。
人生はいつも
「立ち向かう」か「座り込む」かの
二択だ
何もしないでいても救かるなら 僕だって そうした
――でも そんな訳無い事くらい 小学生にだって解った
だから 自分が居てもいい場所を 必死に探した
自分の脚で立たねばと思った
一人でも
生きていけるように
誰も
傷つけずに すむように
ここで桐山くんはダメ人間の川本父と対峙しながらこう考えているわけです。
一見して、非常にきびしい内容であることがわかります。
つまり、人生における「立ち向かう」と「座り込む」の二択で、自分はいつも「立ち向かう」ことを選んで来た、それは自立してひとを傷つけないようにするためだった、ということだと思います。
ここにはあきらかにその都度の選択肢で常に「座り込む」ことを選んで来た(ように見える)川本父に対する批判が見て取れます。
ある意味で零くんはここで自分自身のシャドウと向き合っているといえる。
川本父はもしかしたらそうだったかもしれないもうひとりの自分の姿なのです。
しかし、それでもなお、零くんと川本父は決定的に違う。
それはつまり人生の志の差なのだということは前回で語られました。
零くんには長期的な視点があり、川本父には短期的なそれしかないのだ、と。
これはじっさい、連載をここまで追いかけてきた読者にとっては説得力ある話です。
なんといっても、読者は零くんがこれまでズタボロになりながら努力する姿をさんざん見て来ているわけですから。
そのかれがいう「自分の脚で立たねば」という言葉からは非常に強い印象を受けます。
しかし、同時にこれは「そういうふうにできない」人間を切り捨てる話にもなりかねないわけです。
ネットでこういうことを意見にして書くとものすごく叩かれますよね。世の中にはそうできない人間もいるんだ、お前は弱者を切り捨てるのか、と。
つまり、非常に微妙な問題を孕んだエピソードがここにあるということ。
ぼくの意見をいわせてもらうなら、
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