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『ナルニア国物語』とダークファンタジーの起源。
2020-11-22 00:5950pt
『ナルニア国物語』が第一巻の『魔術師のおい』から順番に漫画化されているようです。いまになって『ナルニア』が漫画の形になることは驚きですが、じっさいに読んでみると、これがよくできている。
ファンタジー小説の古典として名作と名高い『ナルニア』を漫画の形にするということはそれなりに勇気がいることだったと思いますが、この場合は成功しているといって良いでしょう。素晴らしいと思います。
とりあえず『魔術師のおい』は完結したので、この先の物語も、最終巻の『最後の戦い』まで描きつづけてほしいと思います。いろいろと議論を呼ぶクライマックスではあるのですが――。
上述したように、『ナルニア』は『指輪物語』と並ぶファンタジー文学のクラシック中のクラシックです。20世紀ファンタジーの最高傑作のひとつといって良いでしょう。
後世に与えた影響も莫大で、たとえば小野不由美『十二国記』は『ナルニア』の設定 -
『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。
2015-04-24 05:0751pt
深い眠りに落ちる
少し前の手前の
まどろみの中に似た
密やかな夜に
探し続けてるのは
あのメタフィジカ
祈るように紡ぎだす
ひとつの歌
「メタフィジカ」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25268427)
「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。
20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。
ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。 また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。
かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。
さて、本題に入りましょう。
このタイトルと書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが(笑)、気にせず始めることにします。
これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。
べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。
さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。
いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。
少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。
その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。
じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。
ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。
この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274730242
この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。
しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。
そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。
答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。
それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。
「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから40年前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。
ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。
なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)
では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
「想像できないことを想像する」
という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
SFだったら、それが可能なのではないか?
だめだろうか?
だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。
かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。
そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。
前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでもしられています。
そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。
『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。
「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。
その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。
山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。
そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。
どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。
ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。
つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。
それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。
それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?
『イザヤ書』
しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。
「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。
そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。
おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。
あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。
そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。
いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。
この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。
彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。
「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。
さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。
20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。
そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。
その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。 たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。
この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。
神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。
いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。
ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。
あるいは前の記事で取り上げた『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。
これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。
しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。
一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。
とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。
その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、SFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。
いずれも古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。
さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。
『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。
とまれ
階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。
超意識の意味は?
低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……
晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。
一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。
いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。
『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。
それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。
もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。
天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。
ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。
スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。
目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。
同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。
これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。
一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。
麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。
この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。
はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。
しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。
少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。
この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。
なぜ? それはわかりません。
ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。
ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。
つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。
『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。
やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。
さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。
トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。
それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。
そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。
「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。
あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。
「僕は、帰らなければならないのですね?」
「きみ次第じゃ」
「選べるのですか?」
「おお、そうじゃとも」
ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。
「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」
「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
「先へ」
ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。
「先」。
それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。
つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。
さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。
『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は -
異世界ファンタジーはいつ誕生したのか。(2548文字)
2013-07-04 09:4553pt
異世界ファンタジーが花ざかりだ。たしかに、一時期のブームは何だったのか、商業作品としてはあまり見かけなくなってしまったが、小説投稿サイト「小説家になろう」ではほとんど異世界召喚/転生ものしか存在しないといっていい状況である。
この手の小説はその特性から「ハイ・ファンタジー」と呼ばれることもある。一方、日常と生活の空間を舞台にした小説は「ロー・ファンタジー」。この区別は絶対的なものではないが、便利なのでいまでも使用されている。
さて、主にどことも知れないはるかな異世界を舞台とするハイ・ファンタジーなのだが、そもそも「異世界」というアイディアはいつ頃から生まれたのだろう?
これは昔から疑問に思っていたことだ。というのも、ファンタジーの古典と呼ばれる作品を読んでいると、あまり異世界は出てこないような気がするのである。
たとえばロバート・E・ハワードやクラーク・アシュトン・スミスのヒロイック・ファンタジーを読むと、その舞台は太古だったり、超未来だったり、火星だったりするわけで、「異世界」の出番は少ないように思える。
ハワードのコナンシリーズの舞台は一万何千年か前の世界なのだ。まあ、特別にその手の作品にくわしいわけではないので、その時代にも完全な異世界を舞台とした作品があるかもしれない。
うん、いま思い出したけれど、ロード・ダンセイニの『ペガーナの神々』は一応は異世界が舞台ですね。
しかし、とにかくいまより異世界ものが少なかったことはたしかで、つまり異世界というアイディアそのものがいまほどメジャーでなかったのだと思われる。
太古のアトランティス大陸とか、超未来の退廃の大陸ポセイドニアとかのほうが、純然たる異世界よりも人気のある舞台だったのだろう。なぜだろう。非常に単純な話で、まだ過去や未来に夢を見ることができる時代だったのだと思われる。
ハワードやスミスがパルプ雑誌にヒロイック・ファンタジーを書きまくったのは、前世紀初頭のことだ。その頃はまだ時間的に現実と地続きの世界に剣と魔法の時代があるという設定が読者を納得させられたのだろう。
ただし、その頃すでに空間的に地続きの世界で素朴な冒険物語を書くことはできなかったわけだ。つまり、空間的には世界は征服されつくしていて、あとは時間に夢を託すよりなかったということ。
そしてやがて時間的な過去未来にも冒険の舞台を求めることはできなくなり、どうしようもなく異世界が要求されることになる。そのターニングポイントはどこにあったのか。
きちんと調べたわけではないので正確なところはわからないが、1950年発表の『ナルニア国ものがたり』あたりなのかなあ、という気がする。
1954年発表の『指輪物語』は、一応は同じ地球のべつの時代の物語という設定だったはずなので(だよね?)、完全無欠の異世界ものとはいいがたい。ただ、『指輪』がのちの異世界ものに巨大な影響を与えたことは間違いないが。
で、1961年の『エルリック・サーガ』まで行くと、これはもう完全に現代的な異世界ファンタジーである。
そのあとの『エレコーゼ・サーガ』に至っては異世界に召喚されて英雄となる主人公が出て来る。完全になろう小説の原型ができあがっているといっていい。
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