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記事 8件
  • 京都アニメーションの事件と、悪と狂気、そして人間の心に残された光について。

    2019-07-30 14:13  
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     どもです。本日、41歳になりました。ハッピーバースデー>オレ。てれびんからサーティワンアイスクリームのチケットをもらったので買ってこようと思います。
     野郎からしかバースデープレゼントをもらえないわが身の哀しみよ。奴の悪意が身に染みるぜ。でも、サーティワンのアイスクリームはおいしいけれど。
     まあ、それはどうでもいいので、ネットで見つけた興味深い記事の話をしましょう。批評家の宇野さんの記事と、アニメ監督の「ヤマカン」こと山本寛さんの記事です。
     まず、宇野さんは山本さんが新海誠監督の京アニスタッフの無事を祈るツイートに対し、「ちょっと黙ってて」と呟いて強い非難を受けたことに対し、こう述べています。

     山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。
    https://note.mu/wakusei2nduno/n/n617c6cdb8ea0

     「ゲーム感覚」。非常に違和を感じさせもする言葉遣いですが、とりあえずそれは措いておいてヤマカンさんの記事を見てみましょう。
     かれは、犯人の「狂気」は京アニが「「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」その「代償」だといいます。

    片や僕は12年間、その「代償」を少しずつ、いや少しどころではないが、断続的に払い続けてきた。
    本当に毎日のように「狂気」が襲いかかり、炎上は何百回したか解らない。
    「どうしてヤマカンは俺たちの言うことが聞けないんだ!俺たちのために奴隷のように働かないんだ!」という、支配欲の塊となった人間たちからの強要・脅迫。
    その声が高まるにつれ、友には見放され、代わりに周囲に集まってきた人間たちは僕を都合良く神輿に乗せては、崖から放り捨てた。
    僕は体調を崩し、遂に心身共に限界を感じ、廃業宣言に至った。
    その一方で、僕が12年間、何度も悔し涙を流しながら払い続けた「代償」を、京アニは今、いっぺんに払うこととなった。
    いっぺんにしてもあまりに多すぎないか?僕は奥歯をギリギリ噛みしめながら、そう思う。
    しかし、彼らにも遂に「年貢の納め時」が、来たのだ。https://gamp.ameblo.jp/kanku0901/entry-12497416248.html

     はっきりいってしまえば、言語道断の意見です。ヤマカンさんのいう「狂気」という言葉には、中身がない。京アニがそれを「自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」とすることにも根拠がない。
     このような凄惨きわまりない事件に際してなお、私怨にもとづいてかれのいう「オタク」を攻撃しようとするかとも見える態度は、醜悪とも、卑劣とも思えます。じっさい、ネットでは口をきわめて非難されている。
     しかし、その表現から受ける酷薄な印象をぬぐいさって見てみれば、ヤマカンさんの発言は宇野さんのそれと内容は同じです。
     つまり、「悪」と「狂気」と使っている言葉こそ違いますが、インターネットで自分たちに「石を投げる」人の「悪」や「狂気」と、京アニ事件の犯人の「悪」や「狂気」は連続したものである、と語っているわけです。
     これをどう受け止めるべきか。非常に迷うところですが、ここでいきなり、きょう見てきた映画の話をしたいと思います。新海監督の『天気の子』(傑作)や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』(大傑作)ではなく、ディズニーの『アラジン』。
     てれびんのろくでなしが見に行ってぼくに延々とネタバレ感想を話したから見に行こうという気になったのですが、これは意外な収穫でした。ぼくはオリジナルのアニメ版はべつに好きでも何でもないのだけれど、この実写版は素晴らしい。
     シナリオの基本線はそのままながら、人物造形が深みを増していて、非常に魅せます。
     物語の軸となっているのは、主人公アラジンと悪役ジャファーの対立です。アラジンはアラビアのある架空の国の孤児で泥棒の青年ですが、ジャファーもまたかつては泥棒であった身の上であり、ふたりは自分の凄さを知らしめたいという共通の野心を抱いています。
     そのため、ジャファーはどんどんダークサイドに堕ちていくのですが、魔法のランプを手に入れたアラジンもまた終盤でランプの精ジニーを自由にするという約束を破ろうとし、欲望のダークサイドに堕ちかけます。
     しかし、最終的にはアラジンは救われ、ジャファーはそのまま破滅することになります。ふたりの違いは何か? どこに差があったのか? 色々と挙げることはできるでしょうが、結局、それはアラジン自身、ジャファー自身が自分で選んだことなんですよね。
     ぼくはこの映画を見ていて、宇野さんはヤマカンさんのいうことをつくづく思いだしました。「悪」や「狂気」は連続したものであるという主張は、よくよく考えてみると、たしかにそのとおりであるとも思えるのです。
     しかし、それは宇野さんやヤマカンさんを非難する人々と京アニ事件の犯人の間でだけ連続しているのではなく、宇野さんやヤマカンさンを含むすべての人のなかにひそんでいるものだと思います。
     「悪」と「狂気」、少なくともその種子は、だれのなかにも、つまりアラジンとジャファーのなかにも、宇野さんとヤマカンさんのなかにも、かれらを非難する人のなかにも、そしてこのように語っているぼくのなかにも眠っている。
     あとはそれが芽吹くかどうかの違いでしかない。そして、それを芽吹かせるか抑え込むかを決めるのは自分。『アラジン』という映画はそういうことをいっているのではないかと。
     宇野さんはまだしも、ヤマカンさんの論理は論外です。自ら怒りや憎しみを集めに行っているとしか思われない。なぜ、自ら望んでこのような行動を取るのか、ぼくにはどうしても納得がいきませんでした。
     でも、かれは自分が引き寄せた「怒り」や「憎しみ」に対し同じ怒りや憎しみを返していくことであそこまでになってしまったのでしょう。
     自分は京アニ事件を予言した、自分は「狂気」と戦っていると主張して注目を集めようと画策するかとも見えるその姿は、まるで、かつての日の屈辱を晴らし、「自分は特別だ!」と思いこもうとするジャファーのよう。
     うん、やはりヤマカンさん自身もまた、自ら「狂気」というその心性と無縁ではないように思えます。かれは自分でその道を選んだ。
     ほんとうはだれでも、自分自身で愛と信頼に充ちた光の側へ行くか、怒りと憎しみに支配されて闇の側に堕ちるか、選ぶことができるのです。まさにアラジンとジャファーがそうしたように。
     もちろん、『アラジン』はただの映画であり、おとぎ話です。現実には、どんなに人を愛し、誠実に行動したとしても、だれもが地位を手に入れたり、プリンセスに選ばれるわけではない。
     それどころか、まさに京アニの無残な事件が表しているように、すべてが「悪」と「狂気」に蹂躙されることすらありえる。しかし、その「悪」と「狂気」に充ちたこの理不尽な世界のなかで、それでも、自分の意思だけは自分で決めることができるのですよね。
     ライトサイドを選ぶか、ダークサイドへ進むか、それを決定するのは自分以外にいないということ。愛すれば愛が、信じられば信頼が返ってくる。それに対し、怒りと憎しみに対してはやはり怒りと憎しみが押し寄せてくる。選ぶのは自分。
     宇野さんやヤマカンさんがいうことはたぶん一面では真実でしょう。でも、かれらは、特にヤマカンさんは自分の正義を信じるあまり、自らもまた「悪」や「狂気」を発芽させているようにも見える。
     ぼくはかれがなぜあえて怒りと憎しみしか返ってこないような行動を取るのか謎に思うけれど、その道を選んだのも結局はヤマカンさん自身なんですよね。
     ひっきょう、「おれはすごい! だれよりも特別なんだ!」と叫ぶほど人は孤立し、孤独に陥っていく。ジャファーのように。その反対に、何者でもない平凡な自分を認め、正直に世界と相対するとき、愛と信頼が返ってくる。アラジンのように。
     いや、それはウソだ。あるいは何ひとつ返って来ないかもしれない、それどころか愛に対しては面罵が、信頼に対しては裏切りがやって来るかもしれない。けれど、それでもなお、自分自身をライトサイドに留めるものは自分だ。
     古今東西、あらゆる物語で語られる光と闇の戦いって、つまりそういうことなんですよね。人間の内面の葛藤。そして選択。
     だれであれ、人は初めから「悪」と「狂気」に捕らわれているわけじゃない。生まれたときにはだれもが無垢なのだから。ただ怒りに対し怒りを、憎しみに対し憎しみを返しているうちにダークサイドに堕ちていくのでしょう。
     この世界で人間にはすべてが許されている。倫理だの法律だのといってみたところで、それはあくまで人間が作り出した人間のルール。神さまの法則というわけじゃない。神さまの作り出した理(ことわり)は人間にはどうにもならない。
     だから、巨大な暴力や悪意に対抗するすべはほとんどない。しかし、 「それでもなお」、ぼくたちは自分自身の行動だけは選択することができる。憎しみに対し愛で返すこともできるし、愛に対して憎しみで答えることもできる。そういうことをいっている映画だと思いました。素晴らしいですね。
     うむ。我ながらいいことを書いた気がする。41歳の海燕さんは違うな! お誕生日おめでとう! これからもよろしくお願いします。はい  
  • 『劇場版 響け!ユーフォニアム』はテレビシリーズを凌ぐ熱さの傑作映画だ。

    2016-04-24 01:11  
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     喩えるならば情熱の赤。
     『劇場版 響け!ユーフォニアム』は、登場人物ひとりひとりが放つパッションの炎で赤々と燃え上がるような映画だった。
     いままで数々の傑作を生み出してき京都アニメーションが制作した劇場映画は、みごと新時代を切り拓く名作として完成を見た。
     限られた尺でありながら、テレビシリーズにまさるとも劣らない、否、大きく凌ぎすらする感動で見る者の心を打つ。
     青春映画の新しいマスターピースといっていいだろう。
     ぼくは暗い劇場の座席で心震わせながら、ひとり思った。
     いっしょうけんめいに生きるということは、なんと美しいのだろう。そして、なんと強くひとを揺り動かすのだろうか。
     これが、これこそが物語の力なのだ。素晴らしい。実に素晴らしい。見に行ってほんとうによかった。
     テレビシリーズを再編集してまとめあげた総集編でありながら、一本の映画作品として過不足なくできあがっている。
     見に行くべきか迷っている向きはぜひ行ってみることをお奨めする。後悔はさせない。
     これは現代を代表する青春映画の豊潤な果実だ。
     物語は、主人公・黄前久美子が中学生の頃から始まる。
     吹奏楽部だった久美子は、コンクールで金賞を取りながら全国大会出場を逃してしまう。
     予想以上とも思える結果を喜ぶ久美子。しかし、彼女のとなりでは高坂麗奈が悔しさを噛みしめて泣いていた。
     そんな麗奈に対し、久美子は「ほんとうに全国大会へ行けると思っていたの?」と声をかけてしまう。
     彼女には理解できなかったのだ。落涙するほどに悔しがるということが。
     そして高校入学。久美子と麗奈は同じ高校に進学し、やはり吹奏楽部に入る。
     新たに部の顧問を務めることになった滝昇によって、彼女たちは猛練習をすることになるのだが――。
     これは泣くほどの悔しさを知らなかったひとりの少女が、それを手に入れるまでの物語だ。
     ひとは、ほんとうに真剣に努力することなしには悔しさを知ることがない。
     心の底から悔しがるためには、自分の限界まで頑張り抜く必要がある。
     だから、久美子はそれまで悔しさを覚えることがなかった。
     中途半端な結果にも満足することができた。
     しかし、滝によって導かれ、鍛え上げられ、限界を超えていくことを知った久美子は、もう、半端に妥協することはできない。
     あるいは、知らないほうが楽だったかもしれない。目覚めないでいれば泣くこともなかったかもしれない。
     だが、彼女は知ってしまった。ほんとうにいっしょうけんめいに生きることの意味を。
     そして、一度知ったならもう引き返せない。自分のなかに眠っていた炎が爛々と燃え上がる。
     ひとり、街を走りながら久美子は叫ぶのだ。「うまくなりたい、うまくなりたい、うまくなりたい」。
     それまでの彼女なら飼い慣らせていた内なる獣は、いまや自由に闊歩し咆哮し慟哭する。「うまくなりたい!」。
     それまでは生ぬるく生きてきた久美子がひとりの音楽者として覚醒した瞬間だ。
     はたしていち学生がこのように部活動でしかない音楽に力をつぎ込むことが正しいのか、否か、議論があるところかもしれない。
     じっさい、ぼくもテレビシリーズを見ていた頃は「これでいいのだろうか?」と思うこともあった。
     しかし、 
  • ゼロ年代からテン年代に至るアニメの演出が進歩していく流れを考える。

    2015-11-15 18:15  
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     きょうのラジオで、最近、アニメの演出がきわだって進歩しているよね、という話をしました。
     ぼくの場合は『心が叫びたがってるんだ。』で思い知らされたわけなのですが、いやー、この頃のアニメってほんとうにレベル高いですよね。
     まあ、ぼくはそこらへん専門ではないので詳しく語れないのですが、ゼロ年代を通してアニメの演出が別次元のものへ変わっていったという印象はあると思います。
     特に日常系がはやったことから日常の演出がすばらしく進歩したと感じています。
     そういう意味でのエポックメイキングな作品を一作選ぶとすると、やっぱり『涼宮ハルヒの憂鬱』だと思います。
     ほんとうはその前に『AIR』があり、『フルメタル・パニック?ふもっふ』があり、特に『AIR』は個人的に衝撃の一作だったわけなのだけれど、それにしても一般的には『ハルヒ』のインパクトは大きかった。
     さすがに最近のことなのでみんな憶えていると思うのですが、けっこうみんな『ハルヒ』でびっくりしたわけなのですね。
     テレビアニメでここまでの作画が可能なのか、と。
     そのあとの京アニの快進撃は皆さんご存知の通り。
     『けいおん!』を初めとする数々の傑作を生みだし、最新作『響け! ユーフォニアム』に至っています。
     『ユーフォ』にまで至るともう歴然としているのですが、アニメの演出はほんとうに進歩しました。
     これも何かで話したのだけれど、昔だったらひょっとしたら宮崎駿くらいしかやらなかったことをいまはみんながやるようになって来ているという印象です。
     それがどこで見られるかというと、たとえば『けいおん!』の劇場版だとか、『たまこマーケット』の劇場版に結実しているわけなんですけれど、あたりまえのテレビアニメでも高度な演出を普通に見るようになりました。
     これっていまでこそ当然のようになっているけれど、ほんとはすごいことだと思うんですよ。
     ぼく、90年代に青春期を過ごしているのですけれど、その頃の有象無象のアニメは、いま見るとかなりきついものだと思います。
     もちろん、その時代にも名作はあり、『少女革命ウテナ』とかそれはそれは凄かったのですが、ここでいうのはそれには及ばない、歴史の露と消えていった作品群のことです。
     いやー、あの頃はぼくもいろいろ見ていました。
     『ハイスピードジェシー』とか、そういういまとなっては無名でしかない作品をたくさん見ていたのですが、それらの作品はきょう的な意味でのバリューは少ないと思うのです。
     そして時が過ぎ、ゼロ年代が訪れて、ぼくは京都アニメーションと出逢うことになります。
     『AIR』です。 
  • 『響け! ユーフォニアム』のたったひとつの瑕。

    2015-08-08 06:00  
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     ペトロニウスさんが『響け! ユーフォニアム』の記事を上げていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150807/p1
     で、ぼく、これを読んでびっくりしたのだけれど、『ユーフォ』のキャラクターデザインって、『青春しょんぼりクラブ』の作者さんなんですね……。
     いやー、いまさら何をいっているんだお前はといわれるかもしれないけれど、ぼくのなかでこのふたつの名前は結びついていなかった。
     アサダニッキってどこかで聞いた名前だとは思っていたんだけれども。
     予想外のところで色々関係が繋がっているものだなあ、とあらためて感嘆。
     いや、ぼくの予想が貧弱なだけかもしれませんが、それにしてもね。
     ぼくはそんなにアニメを見る人ではないのですが、『ユーフォ』は『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているのだろうか』と並んで、ここ最近見たもののなかでは収穫といえる秀作だと思います。
     何か異常な熱気があるというわけではないかもしれないけれど、とにかくていねいに脚本が組まれていて、作画も綺麗にまとまっている。
     『けいおん!』以降の青春ものアニメとして、最高の作品といっていいのではないでしょうか?
     青春の光と闇、栄光と挫折を、非常に美しく描いているように思えます。
     ひと言でいうと「やる気のない人間がやる気を出すまでのお話」なので、気に食わない人もいることでしょう。
     しかし、どこまでも続く永遠の日常もさすがに苦しく思えて来ている昨今、その突破を目ざす作例のひとつとして本作は記憶されてもいいと思います。
     なんといっても、圧倒的に出来がいい。
     コメディにも依らずシリアスにも依らず、しかし全体的にはきわめて感動的に演出された物語は、まさに「さすが京都アニメーション!」といいたくなるクオリティです。
     特に後半の盛り上がりは素晴らしく、パーフェクトではないにしても、限りなくそれに近い作品といってもいいでしょう。
     しかし――そこにひとつだけ瑕疵があるように見えることもたしか。
     これは以前、友人たちと話をした時もその話題になったことですが、ほとんど完璧に組まれているように見えるこの物語の唯一といっていい問題点が滝先生の描写だと思うんですよ。
     かれがどういう動機でもって吹奏楽部の生徒たちを指導しようとしていて、それにどこまでの正当性があるのか、その点がいまひとつあきらかになっていない。
     もちろん、かれ個人の内面では正当性がある話なのだろうけれど、客観的に見ればそうでもないわけで、その問題点が突き詰められずに終わっているところが隔靴掻痒の印象を残す。
     当然、制作スタッフはその点に気付かなかったわけではなく、検討の結果、そこは描かないと決めたのだと思います。
     あるいは 
  • 『響け! ユーフォニアム』で考える百合論。

    2015-07-12 15:43  
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     『響け! ユーフォニアム』をようやく第8話まで見ました。
     一応、最終回まですべて録画してあるのだけれど、ついつい見るのが遅れてしまっています。
     いや、面白いんですけれどね。いつ見てもいいと思うと、すぐに見る気になれなくなってしまう。
     もっとも、アニメはやはりリアルタイムで追いかけるのが良いと思います。
     あまり放送から時間を置くといろいろネタバレも入って来るし、良くないことが多い。
     まあ、そういいつつ今季のアニメも消化が遅れているぼくなのですが……。
     『ユーフォ』の話でした。
     事前に話に聞いてはいたのだけれど、この第8話はまさに百合回。
     それもちょっとありえないくらい高いクオリティの神回。
     京アニが本気だすとここまでのものが仕上がるのか!とキョーガクの渦にひきずり込まれるかのような傑作エピソードでした。
     いやー、これは百合オタじゃなくてもずきずき来るわ。
     狙っているとしか思えない台詞もばんばん飛び出してくるし。
     いや、ほんと、いいものを見た。
     あるひと夏の、ふたりの少女の、交錯する想いと「愛の告白」。たまらないですね。
     ぼくはそんなにカップリング妄想をするほうではないけれど、このふたりのいちゃいちゃを見ていると、たしかにこれは恋愛だよなあ、と思ってしまいそうになります。
     ただ、ぼくは百合という言葉に、またジャンルそのものに微妙に距離を置きたいと思っていて、それはこういう「名前のない関係」を恋愛と置き換えることによって失われるものがあると思うからなんですね。
     友人、恋人、伴侶、先輩後輩、教師と生徒、同僚、仕事のパートナー――人間同士の関係は多くが名づけられているけれど、でも、同時に、この世には「まだ名前が付いていない関係」もあるはず。
     そういう関係性の繊細さを、恋愛として、あるいは性愛として読み替えることは、ある種の単純化に近い側面があるように思えてしまうのです。
     ここらへん、たとえば腐女子の人たちはどう思っているのだろう?と考えるのだけれど、まあそれはわからない。
     ただ、ぼくの視点から見ると、あれこれの関係を恋愛とみなしていく作業によって喪失するものは確実にある。
     それによって微妙で繊細で多様な何かが壊れてしまうように思えてならないのです。 あるいは、「百合」という言葉は、「名前のない関係」を名前がないままで語るためにあるのかもしれませんが――。
     ただ、そうはいっても、「名前のない関係」を名前のないまま放置しておくと物足りないこともたしかなんですよね。
     『ユーフォ』を見ていると、 
  • 動機がない人間は勝てない。アニメが垣間見せるきびしすぎる現実。

    2015-05-19 02:27  
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      なかなか出来がいいアニメ版の『ベイビーステップ』を見ています。
     原作ではしばらく前に通り過ぎてしまったお話であるわけですが、マーシャとか清水さんが登場しているのがひそかに嬉しい。
     ふたりともなっちゃんを前に敗れ去っていったヒロインなんだけれど、十分にメインヒロイン張れるだけの魅力があるキャラクターだと思います。
     ていうか、可愛いよなあ。マーシャも清水さんも。
     なっちゃんの太陽のような輝きがすべてをかき消してしまうんですけれどね……。
     リアルではあるけれど残酷だなあ。
     それにしても、『ベイビーステップ』を見ていると、主人公であるエーちゃんの動機の強さが印象に残ります。
     ペトロニウスさんも書いていますが、エーちゃんは決して選ばれた天才でもなんでもないんですね。
     運動能力という意味では凡人でしかありえないかれが、それでも「選ばれた神々の領域」にまで才能を開花させていけるのは、ひとえに高いモチベーションがあったからです。
     常に高度な向上心を持って自分をきびしく追い詰めていくかれのスタイルも、すべては「テニスが好きだから」という想いがあってこそ。
     その動機の強さを見ていると、ぼくはどうしても『響け! ユーフォニアム』あたりを思い出すわけです。
     こちらはまだ最新話まで追いつけていないのだけれど、『響け! ユーフォニアム』はいってしまえば普通のモチベーションしか持たない人たちの物語なんですよね。
     自分自身のなかから「とにかくこれをしたい!」という欲望が湧き上がることがない人たちの物語、といえばいいかな。
     そのジャンルの才能という意味では、エーちゃんと『ユーフォニアム』の少女たちはそれほど大きな差があるわけではないかもしれません。
     しかし、動機の強度が決定的に違う。
     エーちゃんはとにかく圧倒的にメンタルが強いのです。絶対的なメンタルを持っている人間とそうでない人間が勝負をすると、長期的にはもう勝負にならないくらいの差が付いてしまうのですよね……。
     人間の動機には「内発的動機(内発性)」と「外発的動機(外発性)」があるといわれています。
     内発的動機とは、自分の内側から沸き上がってくる動機のこと、外発的動機とは外部的な条件によって決まる動機のことですね。
     この内発的動機がエーちゃんは驚異的に強い。こと内発性にかけては、ほとんど天才的といえると思う。
     テニスの技術や才能ではなく、この動機の強靭さこそがかれの特別さでしょう。
     だからこそ、後発のスタートでありながら、次々とライバルたちを打ち破ることができた。
     だれよりも強く勝ちたいと思っている、というか思いつづけていることがかれの強みなのです。
     で、だから『ユーフォニアム』は見ていて辛いものがあるんですよね。 
  • 『響け! ユーフォニアム』を観て「あずにゃん問題」を再考する。

    2015-04-10 01:13  
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     今季の新作アニメを粛々と消化しています。
     今季の目玉はやはり『アルスラーン戦記』あたりかと思いますが、そのほかにも注目作は多いですね。
     そのひとつが『響け! ユーフォニアム』。
     武田綾乃による小説を京都アニメーションが映像化した一作です。
     京アニの音楽ものということで、どうしても『けいおん!』を連想させられるのですが、それとはまたひと味違う雰囲気の一作に仕上がっています。
     非常に王道の青春ものという印象を受けますね。
     『けいおん!』は音楽ものとはいっても、じっさいにはぬくぬくとした仲間空間の心地よさを描くことに主眼がありました。
     しかし、『響け! ユーフォニアム』は何らかの「競争」を描くことになるのではないかと思います。
     ただ仲良くしているだけではいけないような何らかの競争原理が働く世界なのではないかと。
     どこまでシリアスな話になるかは未知数ですが、京アニの新境地を期待したいところです。
     ところで、この作品を見ていると『けいおん!』放送当時の議論(?)を思い出します。
     その頃、「あずにゃん問題」(笑)という問題提起がぼくたちの間であって、つまり「中野梓(あずにゃん)は軽音部のあのぬるい空気のなかで堕落していってしまっていいのか?」という話だったんですね。
     努力すれば光るかもしれない才能を持っているのに、それを微温な仲良し空間で腐らせてしまっても良いものなのか、と。
     もちろん、明確なアンサーが出る話ではありませんが、この問題をぼくはずーっと抱え込んで考えているのです。
     ペトロニウスさんは「日常をたゆたい「いまこの時の幸せをかみしめる」か、それとも志と夢を持ってつらく茨の道をかけのぼるか?」と書いていますが、つまりは「成熟か、成長か」という問題であるのだと思います。
     ひととして成熟し幸福になればなるほど、そのすべてを捨ててさらなる成長の試練に挑もうというモチベーションは薄くなる、ということ。
     ぼくは昔、 
  • 『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

    2015-03-28 14:31  
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     アニメ『艦これ』の最終回の評価、さんざんだったようですね。
     ぼくも見ましたけれど、たしかに「……」な出来。
     とくべつ作画が崩壊したとかそういうことじゃないんだけれど、シナリオの脈絡がなさすぎる。
     いや、脚本家としてはすべての描写に意味があると主張したいかもしれないけれど、ファンが一生懸命「解釈」しないと意味が通らない時点でやはり失敗でしょう。
     シリアスをやりたいのかコメディをやりたいのかよくわからないですしね。シリアスな場面でむやみと萌えカットを挟むのはやめてほしいところ。
     ただ、今回、このアニメ版が不評なのは、単純に出来が悪いという以上に、原作の設定を大きく改変しているという一点に問題があるらしい。
     意味もなく原作を改変すると熱心なファンが沸騰するといういいサンプルですね。
     その話を聞いてすぐに思い出したのがアニメ『真月譚月姫』であるキャラクターがスパゲッティを食べている描写があったこと。
     本来ならまったくどうということはない一シーンなのですが、そのキャラクターは原作では根っからのカレー好きという設定なので、ファンは強烈な違和感を抱き、大きな話題になったのでした。
     ことほどさように視聴者は作品のディティールに愛着を抱き、大切にするものだということです。
     製作スタッフにしてみれば「そんなの、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんが、むしろそういう細部こそが作品に命がこもるかどうか決する決定的なポイントなのです。
     『真月譚月姫』にせよ、『艦これ』にせよ、そこまでクオリティが低いアニメというわけでもない。
     むしろそれなりにはよくできているからこそ、原作ファンは「何か違う」と感じてしまうのだと思います。
     で、面白いのは、同じ『真月譚月姫』であっても、佐々木少年による漫画版の評判は非常に高いんですね。
     ぼくも全巻読みましたが、たしかに傑作だったと思う。
     ただ、漫画は漫画でオリジナル展開を付け加えたりしているんですよ。
     それなのに、そのことに対して文句をつけるファンはほとんどいない。いったいどこが違うのか?
     それについて、ぼくは昔、「わかってる度」という尺度を考えたことがありました。
     「原作に忠実」と評されている作品でも、じっさいにはメディアが違うわけだからそこまで忠実に映像化しているはずはない。
     やはり、原作の描写や設定を何かしら解釈して描き出していることには違いないわけです。
     しかし、それらの作品では原作に対する理解とリスペクト、つまり「わかってる度」が高いから、ファンがそうしてほしいように解釈している。
     結果、あたかも何もかも原作に忠実であるかのような印象を与える作品ができあがることになる――そういうことなのではないかと。
     つまり、『月姫』の漫画とアニメでは「わかってる度」に差があるわけです。
     「わかってる度」が高いとは、