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記事 88件
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
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     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
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  • 「想像力」の正体。初期『ドラクエ』や『ウィザードリィ』の感動の本質は何だったのか?

    2020-05-15 03:18  
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     ども。夜更けて、やることもないので、記事を書いています。いや、やるべきことは色々あるはずなのだけれど、もう、こうね、何ひとつやる気にならない。ミツユビナマケモノよりも怠惰な日常といえるでしょう。
     いやー、『鬼滅の刃』、ほんとうに終わるんですかねー。『SPY×FAMILY』、面白いですよねー。売れまくっていますねー。はあ(精魂尽き果てたため息)。
     そんなリヴィングデッド的に腐り果てた精神状態でTwitterをさまよっていたら、ひとつ面白い記事を見つけたので、紹介させてもらいます。「「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か」というタイトル。
     書き手の方は「ファミコンのゲームをやってた時に、ドット絵からリアルを想像していたか?」ということについて考えた結果、「これ、冷静に自分の記憶をたどってみると、たぶん、「していなかった」と思うんですよね。」という結論にたどり着いています。
     で、そこから先が興味深い。

    確かに、ドット絵の向こうに「見た目以上の何か別の世界」を感じ取ってはいたんだけど、それは「リアル」の延長というわけではなかった。マリオはマリオであってボブ・ホスキンスではなかったし、グーニーズを遊びながら映画のマイキーを想像したこともなかった。ドラクエ1で草原を歩いていても、現実の草原のような風景は浮かばなかった。
    例えば、マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした。「アトランチスの謎」ではだだっ広い島を探索しているような気分を味わったし、「ドラクエIII」は本当に世界をまたにかけて冒険している感覚があった(よくオープンワールドゲームで「マップの広さ比較」が話題になるけど、宇宙規模のやつを除けば僕は今でもドラクエIIIがトップ陣に食い込むと思ってる)。
    それは決して「リアル」な風景ではなかったけど、少なくともわずか25色、256ドット×224ドットの画面から得られる以上の「何か」を受け取っていたのは間違いなかった。でもその「何か」って一体なんだ? と考えると、これがなかなかうまく言語化できないんですよね……。
    https://note.com/tekken8810/n/ncfe394d7d6be

     わかる! わかるわー。この話、めちゃくちゃよくわかるわー。ぼくもファミコンの『マリオ』からずっとゲームを遊んで来ている年寄りゲーマーなので、この方が何をいわんとしているのか、実感としてめちゃくちゃ伝わってくる、と思います。
     たしかに、ぼくも『マリオ』や『ドラクエ』をプレイしているとき、現在のゲームのような「リアルな」グラフィックを想像していたわけではなかった。
     そもそも、どこぞの天才児ならともかく、人並みの平凡なイマジネーションしか持ち合わせていない地方都市の一小学生に「リアルな」映像なんて想像できたはずもないんですよね。
     でも、それなら当時のゲームはつまらなかったかといえば、めちゃくちゃ面白かったんです。まさに「マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした」のです。
     おそらく、多くの人が「チープなグラフィックを想像力で補っていた」というのは、この感覚のことを指しているのではないでしょうか。ごくあたりまえに考えて、ファミコンのドット絵から具体的に壮大な冒険世界を想像/創造できるほどイマジネーションの豊かな人はそうはいないでしょうからね。
     しかし、それでは、上記記事でも書かれているようにこの感覚はいったい何なのでしょう? 「想像力で補う」とは実際にはどういうことなのでしょうか?
     これも上に書かれていることですが、「パッケージやイメージイラストから想像を膨らませ」るということがひとつあると思います。これね、ぼくはかなりやっていた。
     当時のゲームグラフィックは限りなくチープで、それに対しパッケージなどのイラストは(センスの古さはともかく)いまと同等に描き込まれていたわけですから、それらのイラストのイメージをゲームのグラフィックに上書きするかたちで想像していた側面はあると思う。
     ただ、それを「ゲームグラフィックを見て、イラストのリアルなグラフィックが動くところを想像していた」というふうに表現すると、やはり違う。
     もしかしたら一定以上の絵画的才能がある人はドット絵から詳細なグラフィックを想像できたかもしれないけれど、ぼくにはできなかった。
     ただ、何というか、ぼくの頭のなかではチープなドット絵と、パッケージや攻略本などで仕入れてきたイラストなどが混然一体となって、ひとつの「リアルな」、あるいは「リアルに感じられる」世界を形づくっていたのです。
     この感覚、わかりますかね? わかってもらえると非常に嬉しいんですけれど。
     まあ、そういうことをやっていない人もいるとは思うんですけれど、そういう人もただ単にドット絵をドット絵としてしか認識していなかったわけではないんじゃないかな、と思います。
     そう。それは、あるいは夢を見ている感覚に近いものかもしれません。夢のなかでは、すべてがぼんやりと曖昧です。決して理路整然としてはいないし、飛躍しているところもたくさんあるはずなのに、なぜかすべては強烈に現実的に感じられます。
     それと同じように、少年時代にゲームをしていたときのぼくは、すべてが曖昧で抽象的で、しかしなぜかはっきりと現実として感じられる世界を旅していたのではないか。そんな気がするんですね。
     もっというなら、そもそも子供時代にはまだ現実は完全に現実ではなかったのではないか。もちろん、普段は現実に所属しすべてを受け入れて生きていたけれど、ゲームをしたり、小説を読んだりしているときはそのあたりまえの世界から遊離して、まさに夢のようにファジィで非現実的な宇宙に旅立っていたのかもしれない。
     もう少し言葉を弄するなら、ゲームをやっていたときは「リアルの閾値が下がっていた」のかもしれません。
     ぼくたちが現実世界を現実として認識するためには、それなりの情報量が必要です。つまり、視覚、聴覚を初めとする五感で世界を詳細に把握して初めて、これは現実だと感じ取れる。
     その一方で、初期の『マリオ』や『ドラクエ』のようなチープなグラフィックは「現実ではない」と判断するわけです。しかし、もし、ゲームをするとき、その「現実らしさ」の基準がはるかに曖昧になっていたとしたら?
     それならば、チープなグラフィックをチープと認識したそのままで、広大な世界を経巡る大冒険を感じ取るという矛盾した現象が説明できるのではないでしょうか。
     もちろん、「ほんとうに」現実と非現実が区別できなくなっていたわけではない。理性ではゲームはゲームに過ぎないとわかっている。しかし、その一方で感性の領域では幻想と現実が混然となった感覚に酔っていたとはいえないでしょうか。
     それはチープなグラフィックを見ながら「想像力でリアルな世界を築き上げた」ということとは違う。チープなドット絵はチープなものとしてきちんと認識しているのです。ですが、その一方でそれと同時にはるかに広い世界をぼんやりと感じ取っていたということなのではないか、と。
     この話を突き詰めると、人間はどのようにして世界を認識しているのか、ということに行き当たるように思えます。
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  • ゲーム実況『アサシンクリード オリジンズ』やるよ!

    2019-05-28 13:15  
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     本日午後8時ごろからYouTubeでSteamのセールで購入した『アサシンクリード オリジンズ』のゲーム実況を行う予定です。
     何しろ生まれて初めての実況なので、上手くいくかどうかさっぱりわかりませんが、もし良ければご視聴ください。
    https://youtu.be/P2L7cnfbZL0
     これがある程度、成功するようだったらシリーズにしたいと思います。失敗したら改善点を見つけてやはりシリーズにしたいと思います。だって、やりたいんだもの!
     ほんとうはNintendo Switchのゲームなんかを実況したいところなのですが、そのためにはさらに数万円の出費を覚悟しなければならないため、まずはPCゲームでチャレンジです。
     以前に比べればPCのスペックは破格に向上しているのでどうにかなるはず。たぶん。きっと。
     視聴者数がゼロだと寂しくて死んでしまうので見に来てね。ついでにコメントもしてく

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  • 人狼ゲーム部員を募集するよ!

    2019-01-07 13:23  
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     さて、一昨日の記事の続きです。2018年は友達のあいだの関係性がさらに一段階ディープに進展した年だったという話でした。
     これはぼくの友人関係のなかでも最も親しく付き合っている人たちとの話ですが、もう少し広い関係でもいろいろと成果が出ています。
     ぼくはいま、いくつかのそれぞれ性質の異なるLINEグループで日々、コミュニケーションを続けているのですが、そのなかにはある趣味を共有しようとするグループもあります。
     たとえば、「ゲーム部」であるとか、「読書部」だとかですね。「ゲーム部」はいっしょに対戦ゲームを遊ぶ人たちのグループですし、「読書部」では月一回、ボイスチャットによる読書会をひらいています。
     ここに「映画部」などを加えたいのですが、どうかなあ。需要はあるでしょうか?
     まあ、それはともかく、そういうLINEグループをいくつか持っているわけです。これらのグループは、オフ会に参加して
  • 『ドラゴンクエストビルダーズ2』にはまる日々。

    2018-12-31 09:11  
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     ども、海燕です。最近は『ドラゴンクエストビルダーズ2』をプレイしています。
     ……待て。いや待て。いいたいことはわかる。おまえ、またプレイ途中の作品を放り出して、購入予定のなかったゲームを買ったな?といいたいのでしょう。
     まったくもってその通りなので反論はできませんが、でも、やりたかったんだよ! ちなみに前作は途中で放りだしています。いや、前作も良いゲームだったんだけれどね? 
     このシリーズ、いわゆる『マインクラフト』系のサンドボックスと呼ばれるジャンルで、ブロックを壊したり積んだりして建物を造っていくところに面白さがあります。
     今回もその点は前作と変わっていないのですが、この『2』は空を飛べたり海にもぐれたりと活動範囲が大幅にひろがっているようです。前作からの正当な進化形といって良いでしょう。
     細かいところもいろいろと改善されていたりするようですが、いちばん大きな変化は仲間がい
  • エリ・エリ・レマ・サバクタニ。わがはてしなき贖罪の日々。

    2018-12-25 09:35  
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     ども。クリスマスですが、昨日に続いて「内容がないよう」な記事ですので、気になる方は読み飛ばしてくださってかまいません。さて、少しずつわが罪コンテンツを減らしています。
     あまりに膨大な作品の重みに耐えながら少しずつ、ほんとうに少しずつ消化を進めていくプロセスは、十字架を背負ってゴルゴダの丘を行くがごとしで、ふと、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、なぜわたしを見捨てたのですか)」とか呟いてしまうのですが、よくよく考えてみれば人類の罪を背負った苦行でも何でもなくただの趣味なのでした。
     よくよく考えなくてもそうですね。申し訳ない。まあ、人生は選択の連続で、ある本を読めばべつの本は読めず、ある人と知りあえばべつの人とは出会えないようにできています。
     そのなかで、幸運にも巡り会えたコンテンツたちのことはなるべく純粋に楽しみたいものだと思います。ほかの無数の、たまさか同じ世界に生まれながらぼ
  • ダークファンタジーと宗教性。

    2018-12-17 09:50  
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     冬来たる。
     『ゲーム・オブ・スローンズ』のスターク家の家訓ではありませんが、冬が来たようで、すっかり寒くなってきました。こうなると一々外に出るのも億劫なわけで、家に籠もって読書やらゲームやらに耽りたくなってきます。
     冬といえばゲームの冬なのだ。おまえは春でも夏でも秋でもずっと家にひきこもっているだろうというツッコミはなしね。
     そういうわけで、『ダークソウル3』とか『シドマイヤーズシヴィライゼーション6』、『大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL』などを買っては放置しています。って、放置しているんかい!
     いや、申し訳ない。ぼくも遊びたいんだけれど、どうにも気力が湧かないんだよね。やらないくらいなら買わなければいいという意見もあるでしょうが、ぼくとしては買ったうえで遊ばないほうが買わないよりはまだマシだと判断しているのです。
     だって、『シヴィライゼーション6』っていちど始めると長
  • ゲーム、ゲーム、ゲーム。

    2018-11-26 10:00  
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     やりかけの積みゲーをプレイしています。最近のゲームはクリアまで50時間、100時間かかるものはざら、コンプリートしようとするとさらに時間がかかったりするので、はたしていま積んであるソフトを来年までに消化し切れるか、どうか。
     ちなみに現在の積みゲーは主に、
    ・『シャドウ・オブ・ウォー』
    ・『ドラゴンクエスト11』
    ・『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』
    ・『アサシンクリードオデッセイ』
    ・『ルーンファクトリー4』
     あたりになります。
     このほかに『大逆転裁判』とかスーパーファミコンのレトロゲームなども遊んでいるのですが、まあ、それは数に入れずにおきましょう。
     いまは主に『ゼルダ』と『ドラクエ』を進めているところ。どちらも30年も前から続いているシリーズですが、この期に及んで最高傑作を更新してきているあたりが凄すぎる。
     いくらゲームのハードウェアが進歩しているからといって、普
  • Nintendo Switchのクラウドゲー『アサシンクリードオデッセイ』が面白い!

    2018-11-05 03:49  
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     Nintendo Switchで『アサシンクリードオデッセイ』をプレイしています。
     これが何と、画期的なことに遠方のコンピューターですべてのデータ処理を行うクラウドゲーム。
     つまり、Switch本体では何の処理も行っていないわけで、本来、Switchではプレイできないはずの最先端ゲームをはるか彼方のコンピューターからネットを通じて送信してもらって遊ぶことができるのですね。非常に未来を感じます。
     いや、ほんと、じつに素晴らしい。何といってもプレイステーション4並か、あるいはそれ以上のグラフィックを誇るゲームを、お手軽な携帯機でプレイできるということは魅力的。
     いままでいろいろなゲームを試しては投げ出していたぼくもここしばらくはこの作品に集中しています。
     まあ、2年間プレイする権利を得るために9000円以上かかってしまうのは高いけれど、その気になれば100時間以上プレイできるとなれ
  • たまには理解を絶する映画を見よう。

    2018-02-06 23:16  
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     どもです。結局、数日空いてしまいました。なかなか毎日更新はむずかしいですね……。
     最近は『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を再開してプレイしています。
     いまさらぼくがいう必要もありませんが、驚異的な傑作ですね。
     恐るべき完成度もさることながら、何より素晴らしいのは遊んでいてワクワクするところ。少年の日の冒険の楽しさを思い出させる作品です。
     『スーパーマリオオデッセイ』と並んで文字通り世界最高峰のゲームなので、しばらく暇は潰せそう。
     いや、『プリティーリズム オーロラドリーム』も見ないといけないし、読みかけのライトノベルも大量にあるのですが。
     よく無人島に一冊本を持っていくなら何にするか?という話がありますが、いまの時代、スマホがひとつあればいくらでも暇つぶしできますよね。まあ、電源が切れないならという条件だけれど……。
     さて、それはともかく、大林宣彦監督の最新作『