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  • 『転スラ』の人気の秘密は「面白さ」を「最小単位」で並列提供する「マルチ・カタルシス・システム」にあり!

    2021-03-05 07:00  
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     ペトロニウスさんがYouTubeで引用していた記事が面白い。例によっていくらか長くなりますが、引用します。

    荒木:僕らの世代はなんだかんだで「頑張れば報われる」という右肩上がりを前提で生きてきた。会社に入って、新人時代は給料低くても地道な努力をすれば、いずれ偉くなって処遇もよくなるぞ。そんな「修行モデル」で生きてきたんです。つまり、今はつらくてもいずれペイする、という長期的な採算で帳尻を合わせる前提で頑張ってきた人は多いはずなんです。ところが、バブル崩壊後の不況や終身雇用の崩壊でじわじわとその前提が崩れていき、このコロナでとどめを刺されてしまった。この劇的な前提の転換を冷静に受け止めないといけないですし、子どもたちはもっと純粋にこの前提をインストールしていることを認識しないといけないと思っています。
    すると、子どもたちにかけるべき言葉も変えなければいけないということでしょうか。
    荒木:そう思います。修行モデルが通用しなくなった世界では、何が大事になるのか。それは、「今この瞬間が楽しいか」という一点ではないでしょうか。例えば、野球に打ち込む子どもに「毎日素振りを100回やりなさい。頑張れば3年後の大会でヒットを打てるはずだから」というロジックはもう響かないと思ったほうがいい。「不確定の未来に向けての努力」は、彼らのストーリーには通用しないんです。素振りの意味を言い換えるならば、「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」といった感じでしょうか。
    つまり、努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている。
    荒木:おっしゃるとおりです。すると、これからより大事になってくるのは、その都度その場で得られるリターンを自分で発見する能力です。昭和の大流行ドラマ『おしん』のような、耐え忍んで、耐え忍んで、耐え忍んだ先に……という期待感は、今の子どもたちは持ちづらくなっているでしょう。かつて、体育会系の部活で「体罰」が黙認されていたのも、受ける側の生徒たちが「この痛みの先に最高の結果が待っている」という文脈で許容できたからです。大人だって、会社の上司から理不尽なパワハラを受けても、10年後には「あの時の叱責があったから今の俺がある」と美談に変えられた。そのロジックはもう通用しないのだと自覚しないといけませんね。
    https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00128/00050/

     ペトロニウスさんはこの話を「小説家になろう」の作品群と重ね合わせて語っています。よければ聴いてみてください。
    https://www.youtube.com/watch?v=shffngyNx6A
     ここで語られている「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」。これが、キーワードです。
     「小説家になろう」の作品は、しばしば「努力」が描かれていない、と批判されます。努力もしていないのに成功するなんてリアリティがない、と。
     しかし、現代において「長年にわたって努力を続けた結果、成功する」という「修行モデル」の物語はもはや説得力がないのですね。
     かつては、努力を続けさえすればその果てに「報い」が待っているということが信じられたのでしょう。それは社会全体が「右肩上がり」の成長を遂げていたからです。
     だけど、現代ではその成長がほぼストップしてしまっているから、どんなに努力したところで「報い」を得られる可能性は非常に少ない。そこで、「努力に対する成果の“収支”の確定」が、「極端に短期」でしか認識されなくなったわけです。
     いま努力したらすぐに成果が欲しい。あるいは、そのような成果しか信じられない。それが、現代の若年層のリアルだと思います。
     これに対して、「辛抱が足りない」といった説教をすることはできます。でも、繰り返しますが、そうやって「辛抱」したところで、報われる可能性はほとんどないのが現代社会であるわけです。その種の説教はもはや無効になっているといって良いでしょう。
     そこで、LDさんがいう「面白さの最小単位」の話が出てくる。「面白さの最小単位」とは、つまり、「いかに短いスパンで読者に先を読むインセンティヴを与えることができるか」というテーマです。
     LDさんがいうには、かつて「紙帝国」がメディアを支配していた頃と現代とでは、メディアのあり方そのものが変化してしまっていると。
     たとえば漫画は、「紙帝国」の栄光の象徴であるところの『少年ジャンプ』が最大部数600万部を売り上げていたときには、「ひたすら物語を長大化する」ことが最適戦略だった。なぜなら、ヒット作が出たらそれを延々と長続きさせることが必要だったから
     ところが、ソシャゲやネット小説など、他の多数のエンターテインメントと激しく競合しなければならない現代においては、そのやり方は通用しない。そこで、読者に先を読んでもらうため、「面白さ」を「最小単位」で提供する方法論が起こることになる。
     これは、たとえばTwitter漫画などを見ていると最もわかりやすいことでしょう。そこではわずか4ページで「面白さ」を提供しなければならない。エンターテインメントの表現のあり方そのものがメディアの変遷にともなって根本的に変わってしまっているわけです。
     現代においては、たとえば主人公が延々と「努力」を続け、その結果、大きな「成果」を得るといった「修行モデル」の描写、いい方を変えるなら「面白さの最大単位」を求める方法論は通用しない。
     その理由は、そう、「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」からです。
     それでは、「面白さの最小単位」とは具体的にどのようなものなのか? 色々考えられますが、最も端的なものは「小さな成功体験」でしょう。「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」というそれです。
     いま、「小説家になろう」発のアニメ『無職転生』や『転スラ』で描かれているものは、まさにその積み重ねですね。『無職転生』では、ちょっと努力すると、すぐに成功する。『転スラ』に至っては、ほとんど何も努力することなしにひたすら成功だけが繰り返される。
     もちろんそこには苦難も失敗もあるけれど、この場合、それは本質ではない。これは、「努力なしに栄光なし」という「修行モデル」の考え方すると、単なる甘ったるいファンタジーであるに過ぎません。「なろうは現実逃避だ」という類の批判が生まれることも無理はないといえるでしょう。
     ですが、何度も繰り返しますが、「努力」と「成功(栄光)」をワンセットで考える思考のフレームそのものが、すでに過去のものになってしまっているのです。
     こういった「修行モデル」なり「努力神話」のナラティヴはもう現代においては通用しない、とぼくは考えます。
     『転スラ』は「面白さ」を「最小単位」にまで煮詰めるために、「努力」というパートをほぼカットした。いわば、「フリ」があって「オチ」があるという方法論から「フリ」の部分を切除してしまった。これが、『転スラ』から非常にスマートな印象を受けるその秘密だと思います。
     しかし、「フリ」をカットして「オチ」だけがある、そんな物語が面白いのか? いや、あきらかに面白いのですが、それはなぜ面白いのか? そこがいまひとつうまく言語化できない。
     そこで、他者の言説に目を向けてみましょう。飯田一史さんは、『転スラ』の魅力について、このように語っています。

    作品内容に目を向けてみよう。『転スラ』は何がおもしろいのか?
    用意しているおもしろさの種類が多様なのである。
    キャラのかけあいの楽しさもあるし、複雑な物語展開もあれば、主人公リムルなどの転生者たちがなぜ異世界に召喚されたのかといった「世界の謎」もある。大集団同士が戦略を練って戦いあう「戦記」要素もあるし、コミュニティをいかにして導いていくかという「内政」要素もある。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79230?page=2

     さすがというか、この意見は非常によくわかる。『転スラ』は「おもしろさの種類」が多彩なのです。よくなろう小説は『ドラクエ』をフォーマットにしているといわれますが、『転スラ』はむしろより現代的なゲームに近い。
     ぼくはここでたとえば『ルーンファクトリー』というゲームを思い出します。『ルーンファクトリー』では主人公にはいくつものパラメーター、つまり成長要素が用意されていて、それがいろいろな行為によって少しずつ向上していきます。たとえば、ただ一定歩数を歩いただけでもあるパラメーターが上昇したりする。

     『転スラ』はこれと似ているんじゃないか。最初の段階ではシンプルに主人公のレベルアップが「気持ちよさ」を生んでいるんだけれど、どんどんレベルが上がり、視点が高くなるにつれて、べつの「最小単位の面白さ」が開放されていく。
     たとえば、主人公であるリムルの成長だけじゃなくて、脇役のだれそれの成長といった要素も入ってくるわけです。あるいは、国家の拡大とか内政の充実といった要素も出てくる。
     そして、それぞれの要素で「ちょっとずつ気持ちよくなれる」ようになっている。いわば、マルチ・カタルシス・システム。これが『転スラ』の「面白さ」の根幹にあるものであるように思います。
     なろう小説とはつまり「ビデオゲーム疑似体験小説」であるといって良いと思うのですが、『転スラ』にはロールプレイングゲーム要素もあれば、アドベンチャーゲーム要素もあれば、シミュレーションゲーム要素もある。
     そして、つねにそのどれかの「ゲーム性」が動いていて、「小さな成功体験」が続く、なので読者は飽きずに見つづけることができる。そういうことなのではないか、と。
     そのひとつひとつを取れば、おそらく『転スラ』より優れた作品はあるでしょう。もっとよくできた「成長もの(ロールプレイングゲーム)」もあれば、「内政もの(国政シミュレーションゲーム)」もあるだろうし、「学園もの(教育アドベンチャーゲーム)」もあるに違いない。
     しかし、『転スラ』の特徴は、それらの「面白さ」を細かく細かく打ち出してくるところにある。ひとつひとつの「面白さ」は、あるいはカタルシスは小さいかもしれないのだけれど、それが次を読むインセンティヴを生み、いつのまにか「大きなストーリー」に、つまり「最大単位の面白さ」に到達して大きなカタルシスを得るまでになる。
     ようするに『転スラ』から得られる教訓はこうです。「面白さは最小単位まで分割し並列せよ」。この作品の本質的な魅力は、たしかに「面白さが多様であること」にあるのだけれど、それだけでは言葉足らずかもしれない。 むしろ「多様な面白さが並行していることによって常に「小さな成功体験のカタルシス」が提供される仕組みができていること」にあるというべきではないかと。
     いまでは最初から「最大単位の面白さ」を目指す「修行モデル」のような超長期的な物語スタイルは受け入れられない。しかし、 
  • 「正義」と「寛容」は矛盾し対立する。

    2021-03-04 07:00  
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     きのう、『無職転生』の「低俗の肯定」というテーマに関する記事を書いたわけですが、それからちょっと考え込んでいます。つまり、「低俗を肯定すること」はほんとうに正しいことなのか、と。
     この場合の「低俗の肯定」とは、たとえば性的なだらしなさを許容することを差しています。
     べつだん、性的にだらしないことを「正しいこと」と見なすわけではない、それはダメなことであるには違いないのだけれど、ダメなことをダメなことと認めた上で、その存在を許すこと。それが、現代社会に最も欠けている視点なのではないか、という話でした。
     ぼくは、個人的にこの考え方に強く共感するところがあります。何といっても、現代社会は、というよりインターネットは、あまりにも個人の失敗に厳しすぎる。
     芸能人が何かちょっとセックススキャンダルでも起こした日には、再起不能になるまで叩いて、叩いて、叩く、それがインターネット、あるいはソーシャルメディアのスタイルです。
     そこには一切の容赦はないし、許容もない、「寛容の美徳」など夢のまた夢というしかありません。
     ネットではよく「また××が炎上した」などといいますが、このいい方は誤解を招く余地がある。「炎上事件」はかならずしも「炎上」した本人に責任があるとはかぎらないのです。
     もちろん、そこには何かしらの「火種」があるには違いないけれど、その「火種」が完全に倫理的な悪であるとはいい切れないことも多い。「燃えあがらせる」側が何らかの誤解や誤読にもとづいて一方的に怒り狂っている場合も少なくないのです。
     じっさいのところ、「炎上」という言葉は、「集団での一方的な袋叩き」というほうが遥かに実態に即していると思います。それが「炎上」と呼ばれているのは、結局は「炎上」させる側が責任を負いたくないからに過ぎないでしょう。
     インターネットにはあまりにも「正義」が、いな、「独善」が強すぎる。「自分で勝手に正義の味方だと思い込んだ頭のおかしいネットストーカーたち」が徒党を組んで(ただし、自分の自覚ではたったひとりで)何か問題を起こしたとみなされた個人を攻撃している状態こそが、「炎上」の本質です。
     そして、「炎上」に参加した各人は、その後何が起こっても、たとえば自殺騒動に発展しても、決して責任を取ることはありません。この種の「正義の味方」ほど醜いものはないとぼくは思います。
     いやー、ひどいですね。ここら辺、『推しの子』という漫画の最新三巻を読んでいただくとわかっていただけると思います。面白いですよ。

     さて、そのあまりにも「正義」が過剰すぎるいまのネットに決定的に欠けているのが、 
  • 『無職転生』はほんとうに「低俗を肯定」しているのか?

    2021-03-03 07:00  
    50pt

     アニメ『無職転生』を見ています。すでに各所で話題になっていますが、このアニメ版、非常に出来が良い。おそらく2クール続くと思うのだけれど、原作を適度にアレンジしながらそれでいて原作の本質を非常にうまく取り入れている印象です。
     もともと原作がよくできた話だけに、ここまでうまく映像に置き換えられると素晴らしいクオリティの作品ができあがる。「小説家になろう」原作作品の理想のアニメ化といっても良いのではないでしょうか。
     「なろう小説」のアニメ化としては比較的遅いスタートになったことによって、結果としていままでのアニメ化の知見が蓄積されていたことも大きいのかもしれません。とにかく面白いし、よくできている。未見の方にはぜひ見ていただきたいですね。
     さて、この作品についてTwitterで興味深いツイートがあったので、ちょっと長くなりますが、引用させていただきたいと思います。

    『無職転生』のアニメ版を見て、やっぱこの作品はなろう小説においての金字塔で、同時に異形でもあるなと改めて思ったので、「何が」傑出しているのかちょっと書き起こしてみます。
    『無職』の異様さは、「低俗の肯定」にある。
    後発作品では「意図的にフック・サービスとして描く」か、無意識にマイルドにされている性描写が平然と「ここではそういうもの」として置いてある。
    親は子供がいても二人目作ろうと毎日お盛んだし、貴族は子供の前でもメイドで性処理する。
    とかく作品内のモラルというのは、現代の常識が反映されがちではあるけど、それにしたって性の描写というのは「逃げ」られすぎている。
    本来、中世レベルの文化を描くならそこから逃げられるはずもない。『無職』は当然のように描く。女性の自慰も平然と描く。無料連載だったから越えられたタブーだ。
    ダメな主人公はダメなまま肯定されるわけではない。
    ダメな部分を消して高潔になるわけでもない。
    ダメなりに反省し、善く生きようともがき、結果として「許容される」。
    この「ダメだけど許容する」という視点が昨今のメディア文化に欠けている視点であるように思うのだ。
    ルーデウスは成長する。しかしもと変態中年の精神は変質しない。それでも「報われていい」。
    ここには他者への赦しがある。
    「ダメだから袋叩きにして排斥してやろう」的なヘイトの対極にある。
    俗物の変態に生理的嫌悪感を感じる人もいるだろうが、それでも許されることがこの作品のテーマである。
    ちょっと盛りすぎかもしれないが「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の精神にも通じるのではないだろうか。
    https://twitter.com/kakashiasa/status/1365850988792356866

     これ、どうなんだろうと思うんですよ。LINEでもちょっと話しあったのですが、「低俗」が肯定されているのは男性陣だけで、女性陣に対してはやはり理想が仮託されているのではないか、と。
     たしかに「女性の自慰も平然と描」かれてはいる。しかし、そこで女性の性のセクシュアリティのあり方が十全に「許容」され、「肯定」されているかというと、そんなことはないんじゃないか。
     これ、作品を批判するつもりでいうわけではないから誤解しないでほしいのだけれど、『無職転生』の「低俗の肯定」の描写はやっぱり男性中心的なハーレムものの限度を超えてはいないと思うのです。
     繰り返しますが、超えなければならないとか、そこが男女平等でなければならないというつもりはまったくないんですよ。ただ、客観的に見たとき、女性のほうの「低俗」が男性ほど「許容」されているかというと、どうしても否定的にならざるを得ないのはほんとうのところなのではないか。
     『無職転生』の物語のなかで、主人公ルーデウスの父・パウロは浮気をし、子供を作り、妻と息子を含む家族から「許容」されます。作者もそれを「許容」する描写をしているし、読者もまた「許容」したと思う。
     そして、 
  • 人間の正しい生き方とは何か。

    2016-04-18 13:10  
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     夜中にLINEで話していて出た話をしようと思います。
     ひとにとって正しい生き方とはどんなものか、ということ。
     まあ、ぼくは長年ひきこもりやっているような男なので大上段にかまえて人生を語る資格はまったくないわけですが、それでも思うことがあります。
     それは、ひとの正しい生き方とは、しだいに自分が解放されて自由になっていくような生き方を指すのだということ。
     もしだんだん不自由になっていくとしたら、それはどこかで間違えているのです。
     つまり、生きつづけることでより幸せになっていくようなスタイルが正しいのだと思う。
     人生が進めば進むほどに不幸に不自由になっていく生き方は、どこかに問題がある。
     もちろん、人生はそううまくいくとは限りません。生きていれば色々なアクシデントがありえるでしょう。
     しかし、少なくとも精神的にはゆっくり楽になっていくことが望ましい。
     生きつづければ生きつづけるほどにしんどくなっていくのだとすれば、何か問題を抱えていると考えるべきです。
     その生き方をひとことで「成長」と呼んでもかまいませんが、必ずしも能力が向上し人格が陶冶される、といったことを指しているわけではありません。
     ダメなままでもいいのです。
     ただ、自分を縛る色々なものから解き放たれていくことが大切だと思う。歳を取れば取るほど縛られていくようでは困る。
     正しく生きていれば、ひとはゆっくり解放されるものです。
     これは『3月のライオン』あたりを読んでいると強く思うことですね。
     この物語の主人公である桐山零は、ほぼ最悪の状況で登場し、しだいに幸福と自由を手に入れていきます。
     かれはまさに正しい生き方をしていると思うのですよ。
     それは「光の差すほうへ向かう」生き方。
     かれの場合、物語が始まった当初では幸せにたどり着く道筋はまったく見えなかったわけですが、それでもひたすらあがくことによって前へ進んでいく。
     これが「正しい努力」というものです。
     いま光のなかにあるか闇のなかに留まっているかということではなく、光の差すほうへ向かっていることが大切なのだということ。
     正しい努力をくり返して生きていけば、人生はだんだん楽になって来るはず。
     ひとは外的環境をコントロールできませんから、何かひどいアクシデントが起こって状況が過酷になるということはありえます。
     しかし、 
  • 『無職転生』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』を比較する。

    2016-04-14 05:55  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事が面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160413/p1
     今回のぼくの記事は、この記事に注釈をほどこす形で、最近友人と話し合ったりしたことをまとめておこうと思います。
     長くなりますが引用しますね。

     この話を読んだときに僕がとても思い出したのは、レスター伯さんと、永遠の日常モノの類型を話しているときでした。過去の記事で読んでいる人はこのあたりの議論の流れが思い出せると思うのですが、永遠の日常類型モノ、、、、これにハーレムメイカーなどの快楽線ばりばりの類型全部を話していると仮定してもいいのですが、これを話しているときに、レスター伯と僕の世代、僕は団塊Jrで現在の40代。レスター伯の世代は、10年ほど下の世代ですね。1970年代生まれと1980年代生まれ。このあたりの世代からは、どうも感受性がまったく逆になっているんじゃないかという議論しました。このときは、とても抽象的な議論で、団塊Jrくらいの僕らの世代は、物語を見るときに、非日常から入って日常に戻る流れの時間感覚で世界を眺めているみたいなんです。逆に、10歳下ということは1980年代以降の世代は、日常から入って非日常に向かっていく時間感覚をもつようなんですね。
     いまいちよくわからないでしょうが、そのときの議論は、ノスタルジーを感じる、もしくは「自分がいる世界との接続感がある」世界や空間がどんなものか?という議論でした。
     レスター伯が語ったのは、ひとつ前の世代が物語(共同幻想としてもつ世界のイメージ)において、非日常から「帰るべき場所」として想定される日常世界が、そもそも彼らが生まれて育って、抜けられないと苦しみ、そして喜ぶ世界なんだ、ということだったんですね。ここでは、物語の類型で、永遠の日常と呼べるような時が止まったような、マクロと何の関係もなく、非日常に接続されることもなく、明日が今日と同じように続いていく絶望と諦めとぬるま湯の安心が続くために、ミクロの狭小の「そこにある関係性」だけにフォーカスして戯れるのが、彼らにとっての「普通」であると。なので、彼らの基盤は常に「永遠の日常」にあり、その日常以外はリアル(現実感)に感じられなくなっているんです。この物語類型は『ゆゆ式』で頂点を極めたと、当時の僕は分析していますね。

     わかってもらえるでしょうか。
     ペトロニウスさんは1970年代以前の生まれと80年代以降の生まれを区別して、それぞれがべつの感性を持つ世代であるようだ、と語っているのです。
     ここでは仮に前者を「旧世代」、後者を「新世代」と呼ぶことにしましょう。
     70年代以前生まれの旧世代は物語(共同幻想としての世界のイメージ)において「非日常」から入って「日常」へ帰る、というパターンを好みます。
     これが端的に表れているのがたとえば『機動戦士ガンダム』です。
     ペトロニウスさんはこう書いています。

     僕がいつも思い出す例は、ガンダムファーストのアムロ・レイです。彼は「帰るべきところがあるんだ」と擬似家族共同体と化したホワイトベースの仲間のところに帰って行くことになります。物語は、すぐ非日常に叩き込まれて、最後には「帰るべき」「帰りたい」場所として、日常の世界や、擬似家族的な小さな手が届く範囲での共同体の関係性が選ばれ、志向されるんです。これは、非常に僕ら団塊Jr以前の感性です。非日常(戦争)から日常(自覚された家族)に戻るんです。

     しかし、これが80年代以降生まれの新世代となると、まったく逆になる。「日常」から入って「非日常」へ向かう、という形になるわけです。
     さらにペトロニウスさんの記事から引用しましょう。

     なので、同じ物語類型でも順序が逆なんだということを、いっていたんです。究極のところ人間なので、求めている物語の基本的なフォーマットが変わるわけではありませんが、感性の順番が逆だ、と。えっと、ここが重要な部分なんですが、物語世界における「旅に出る(いまいる世界から出て行って、成長して、そして帰ってくる)」という人類の持つ物語のアーキタイプ自体が、別になくなったわけではないんです。別に、エヴァンゲリオンでもガンダムでも、特に何も変わりません。少年がいきなりモビルスーツを動かして、世界を助けるために戦うという原型は、何も変わりませんよね。けれども、昔は、何か事件に巻き込まれて、戦争(=非日常)とかに連れ出されても、特に違和感を感じなったようなんですね。そして、そこで苦しみと成長を遂げて、最も大切な家族という日常(=平和)の元へ帰るという順番でした。それで、特に問題なかった。たぶん、クリエイターの世代の人に、戦争体験者の影が色濃く残っていたり、高度成長期によって社会(家族の在り方)自体が根元から変わっていってしまうような非日常が、その世代の人々にとっては、あたりまえだったからなんだと思います。けれども、1980年以降の停滞期に入った日本社会で育った世代は、もしくはその時代をメインで生きるプロのクリエイターの世代は、戦争とか高度成長による社会の急激な大変革(非日常)が、見たことのない、よくわからないものになったんだろうと思います。彼らの想像力が及ぶ範囲は、いま彼らが生きる世界。それは、1980年代から生まれて、リーマンショックやバブルの崩壊以来、建築という物理的なものですらまったく変化のない、永遠の日常の郊外空間。また彼らのリアルな現実である学校空間。そしてその中で唯一、その日常から脱出できる世界は、ゲームの世界の冒険。それだけなんですよね。

     ここで試みにぼくの知りあいを持ち出して分けてみると、現在40代のLDさんやペトロニウスさんは完全に旧世代ですね。
     30代前半のレスター伯やてれびんあたりは新世代。
     そしてぼくは1978年生まれの37歳ですから、ギリギリ旧世代に属していることになります。
     確認していないけれど、敷居さんあたりはギリギリ新世代ということになるのではないかな。
     さて、ここで、そもそもの話の始まりである「小説家になろう」から旧世代寄りと新世代寄りと思える作品を取り出して比較してみようと思います。
     『無職転生 -異世界行ったら本気だすー』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』です。
     ぼくの理屈でいうと、前者は旧世代寄りの物語、後者は新世代寄りの物語ということになると思うのですよ。
     なぜ「なろう」の無数の作品からあえてこの二作を取り出して比べるかというと、この二作、構造的にとてもよく似たプロットを採用していると思うからです。
     両者とも何年間もひきこもりしていた男が、異世界へ行って初めて外へ出て、その世界を冒険するという物語です。
     しかし、作品から受ける印象は対照的といっていいほど違う。なぜなのか、という話をしたいと思います。
     結論から書くと、両作品の差異は「主人公の意識の差」にあると考えます。
     そして、その意識の差が世代を象徴していると思うのですね。
     つまり、『無職転生』の主人公ルーデウスは旧世代的な思考の持ち主であり、『引きニート』の主人公であるユージは新世代的な考え方をしているということです。
     まず、「小説家になろう」堂々のランキング第1位である『無職転生』の魅力がどこにあったか確認してみましょう。
     端的にいって、それはひきこもりだった主人公が異世界へ行くことで今度こそ本気をだして生きようとするその真摯な姿勢にあると思います。
     ルーデウスはあるときトラックに轢かれて死んで異世界へ転生するのですが、生前の後悔からこの人生こそは成功させると努力します。
     そのかれの「本気さ」が読者の共感を呼ぶのです。
     一方、『引きニート』はどうか。
     実は、ユージはひきこもりをしていた10年間もの歳月を、それほど強く悔やんでいるようには見えません。
     かれは異世界へ行くとあっというまにそこになじみ、わりと気楽に暮らしていきます。
     それはルーデウスの真剣な姿勢とは大違いといっていいと思います。
     ここでなぜルーデウスは過去を悔やみ、ユージは悔やまないのかと考えると、究極的にはルーデウスはひきこもりの歳月を「自分のせい」と受け止めているのに対し、ユージは「運が悪かった」と捉えているからではないか、と思い至ります。
     つまり、ルーデウスは何年間もひきこもって周りに迷惑をかけたのは自分が悪かったのだと思っている。
     だからこそ、転生した後は同じ過ちを繰り返すまいと考える。
     しかし、ユージはいってしまえば自分は事故に遭ったようなもので、だれが悪いのかといえば、あえていうなら運命が悪いというほどに考えているように見える。
     この差があるから、ルーデウスは悔やみ、ユージは悔やまないのではないか。
     いい換えるなら、ルーデウスはとても自分中心に世界を捉えている。運命を自分の力で変えることができるものだとみなしている。
     対して、ユージは世界と世界として受け止め、運命に対して「ポジティヴな諦念」とでも呼ぶべきあきらめを抱いている。
     ユージにはこの世界は自分ではどうすることもできない悲惨な出来事が起こるものであって、それは避けようがないのだ、という思想があるということでもある。
     これを反転すると、ルーデウスにとっては自分の成功は「自分の功績」であるが、ユージにとっては「運が良かった」ないし「周囲のおかげ」であるということになる。
     まあ、簡単にいって、ふたりの間にはこういう差があるわけです。
     さらに、ルーデウスは非常に生真面目に第二の人生を生きようとし、それが崩壊しそうになると大きなショックを受け放心状態になったりするのに対し、ユージはとてものん気に見える。
     ルーデウスの心理には常に「不安」がよぎっているようにも思えます。
     いくら幸せになっても、成長しても、一瞬ですべてが元の木阿弥に帰すのではないかという心配がかれの脳裏から完全に消え去ることはない。
     そしてじっさい、その心配はいくつかの「ターニングポイント」という形で現実になる。
     一方、ユージはとても警戒心が薄い。よくそれで生きのびられるな、と思うくらいのんびりとしていて、大きな不安は持っていないでしょう。
     つまり、ルーデウスは世界を敵だらけの場所(非日常)だと認識し警戒しているのに対し、ユージはその点にほとんど思いが至っていない(日常)といういい方もできる。
     ルーデウスは危険に対しときに過剰なほど敏感なのに対し、ユージはその逆に過剰なまでに鈍感なのです。
     象徴的なエピソードだと思うのですが、ユージは異世界へ転移してすぐ、食料として赤いきのこを採取します。
     で、いかにも怪しいそのきのこを平気で食べるんですよ(笑)。
     結果として食あたりを起こすのですが、ルーデウスだったら絶対に食べないでしょう、そんなもの。
     ふたりの差はかくのごとし、です。
     世界に対し不安と警戒心を抱くルーデウスは、ときとして不要な小細工にも思えるほど策謀を弄します。
     しかし、どんなに策謀を重ねても、当然、100%成功するというわけにはいきません。
     どこで出て来たのか忘れたけれど、ルーデウスの言葉として非常に印象に残っているものに「自分にはベストを出すのは無理だ。せいぜいがベターにやるしかない」という意味のものがあります。
     これはつまり、100%成功させることは無理で、たとえば80%くらいの成功率の策しか思いつかない、ということだと思います。
     ルーデウスが「本気だす」というのは、この80%をなんとか81%に、82%に、あるいは85%にしようと努力する、ということだとぼくは思っています。
     つまり、かれはある程度の成功の見込みがあるにもかかわらずそれをさらに高めようと頑張る男なのです。
     かなり行きあたりばったりの人生を送っているユージとは大きな違いです。
     こう書くと、二度目の人生を真剣に生きているルーデウスに比べ、ユージはただのん気なだけの男に見えるかもしれない。
     ですが、必ずしもそういうことではありません。
     なんといっても、ユージにはルーデウスにはない「人徳」が備わっている。
     そのおかげでユージは人々の協力を録りつけ、生きることができます。これはルーデウスにはない能力でしょう。
     いや、ほんとうにルーデウスには人徳がないのでしょうか? かれはただ計算高いだけの男だと考えていいのか?
     実はぼくはそうは思いません。じっさい、魔大陸でルイジェルドがルーデウスを助けてくれたのは、ルーデウスが策破れてどうしようもなくなっていたときでした。
     ルーデウスは実はかれの計算が通用しないところでひとに好かれていたりするのです。
     しかし、かれがそれをどこまで自覚しているかというと、怪しいものがある。
     かれの認識では、まわりの人をかなりの程度コントロールしてかれらの好意を得ているということになっているのではないか。
     ですが、事実としては、たとえばルーデウスの妹はルーデウスの抱える不安を見て取って、それで初めてかれに心を開きます。
     意外にもルーデウスの弱さやダメなところこそが、周囲の好意の源になっていたりするのです。
     つまり、ルーデウスもユージもその人柄のよさで人々の協力を得て活躍していることに変わりはない。
     だから、ほんとうに違うのはかれらの意識だけなのです。
     ルーデウスは自分が自分の思惑を超えて愛されていることにわりあい無自覚に思えます。
     一方、ユージはある意味、そのことを当然視しているように見える。
     これはルーデウスが実の兄弟から家を追い出されるという目に遭っているのに対し、ユージの家族仲が良さそうであるところにも原因があるでしょう。
     ユージは愛されることを当然に思っているのに対し、ルーデウスは愛を得るために策を練るのです。
     また、ユージのような感性は日本の平和で豊かな社会でしか育成されえないものであるのに対し、ルーデウスの心理はもう少し貧しく危険が多い時代に生まれた人間のそれであるように思えます。
     そういう意味で、まさにふたりは新世代寄りと旧世代寄りの違いがあるのです。
     『無職転生』が一人称で主人公の行動と心理を追っていくのに対し、『引きニート』が三人称を採用しているのは偶然ではないでしょう。
     『無職転生』は基本的にルーデウスの主観の自己中心的な物語であるのに対し、『引きニート』はもう少し引いた視線で世界を俯瞰しているのです。
     そしてまた、ルーデウスにとっては、世界はどこまでいっても敵だらけであり、ある日それまで積み上げたものが崩れ去るという心配が消せません。
     一方、ユージにとっては異世界での生活すらそこまで警戒に値しないものです。
     ルーデウスは二度目の人生を生きているというチートを用いていますが、インターネットの掲示板にアクセスするパソコンを除くと、ユージにチートはありません。
     ルーデウスは自分は二度目の人生というチートで本気をだすことによって成功していると誤解(というか、一面的な理解)しているかもしれませんが、ユージはそもそも自分だけに根差すチートを持っていないので、他人だよりであることに自覚的です。
     そういう意味では、『無職転生』はやはり「なろう」らしい小説なのですね。
     まだしもチートやハーレムに意味がある。
     『引きニート』はある意味で「なろう」的でないといえる。
     『無職転生』の世界はまだルーデウスの心理のなかで非日常的なところですが、ユージにとっては異世界もまた日本の日常の延長線上にあります。
     だからこそ、かれはあんなに安心しているし、警戒心が足りないのです。
     つまり、ユージにとっては異世界は新しく人生を生きなおせるようなフロンティアではない。
     故にかれは「転生」ではなく「転移」するのだと思います。
     かれには転生して新たに生きなおす意味がないのですね。
     これは、ルーデウスが財産や能力を積み上げていきながら、それがどこかで崩れ去るという心配を抱いているのに対し、ユージはそもそもほとんど積み上げることすらしないという違いにも表れています。
     また、ユージは積み上げたものでも自ら崩すことができるので、ルーデウスのように全部まとめて「リセット」する必要がないのです。
     ここにも世代の差が見えますね。『引きニート』は『無職転生』以上に現代的です。

     ちなみに、自分の理解できる「なじみの風景と関係性」を、異なる世界にまで持ち込んでしまうことは、真の脱出、真の成長、そんなものがあればですが、ではないという風にいえるとは思います。ただ、それは現代社会の、「いまここから」の脱出の不可能性という構造を、無視している議論だと思います。フロンティアが存在しない世界なんですよ、僕らが今生きるパラダイムは。だから、閉塞的になっているんです。それは、全世界的な傾向であって、よほどパラダイムの変換、、、、この場合は、テクノロジーによる巨大なブレイクスルーがない限り、このデジタル中世へ向かうような閉塞感は消えないはずです。

     『無職転生』の物語は、ある意味でルーデウスが「これで安心だ」と不安から解放されるところで終わっています。
     かれは「逃げ延びた」のです。
     論理的にいえば積み上げたものが崩れ去る(新しい「ターニングポイント」が訪れる)可能性がなくなったわけではありませんが、かれは「もう大丈夫」だと考えたのでしょう。
     一方、ユージは初めから不安や警戒心をほとんど持っていません。
     かれは友達でもない掲示板の人間たちをあっさり信用してしまいます。
     そこが、世界すべてがどこまでいっても「平和な日常」である新世代寄りの人間なのだろうと思います。
     ある意味で、新世代タイプのユージはのんびりしていて、性善説的です。
     そして、苦労を苦労とも思いません。
     それこそ、旧世代の人間からすれば説教や注意のひとつでもしてやりたくなるほどに。
     ここで、すべての話の発端である『このすば』に対する野尻抱介さんの苦言のことを思い出してみましょう。かれはこういっていたのでした。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

     これは完全に新世代の人間への旧世代の人間からの説教であり、忠告です。
     物語世界を危険な非日常的空間として認識し生きている旧世代の人間からすると、新世代の人間はいかにものん気に思えてしかたないのです。
     そういえば、『このすば』の主人公は実はけっこう苦労しているという話がありましたね?
     なぜそれが「苦労もせず」と見えるのかといえば、苦労しているように演出されていないからです。
     つまり、『このすば』のような新世代的な物語では苦労を苦労として演出することがない。
     それが、旧世代から見ると「苦労もせず」と受け取れるのだと思います。
     それでは、新世代的な物語やキャラクターはほかに何があるでしょうか?
     ぼくはまだすべて見たわけではありませんが、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のミカヅキなんかは新世代っぽいですよね。葛藤しない。不安がらない。
     そして、『ベイビーステップ』のエーちゃんなんかも新世代のキャラクターだと思います。世界に対して過剰な不安や警戒心を抱いていない。
     今週の『マガジン』のエピソードは象徴的にそこが出ています。
     『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんなんかも新世代っぽいキャラクターですね。
     彼女は一切悩みませんし、苦しむようすも見せません。
     以上、旧世代(70年代以前生まれ。物語において世界を「危険に満ちた非日常」と認識する)と新世代(80年代以降生まれ。物語においては世界を「平和な日常」と認識する)についての話でした。
     ちょっと面白いでしょ?
     じっさいには世界そのものがほんとうに違っているわけではありません。
     『引きニート』の世界でもそうとうひどいことは起こります。その世界もやはり平和などではなく、地獄的な状況なのです。
     しかし、それに対する認識が新世代は旧世代とは違っているということです。
     うん、面白いですね。ぼくは面白いと思います。
     それでは、次の記事で逢いましょう。
     疲れた! 
  • 漫画版『無職転生』が至上の完成度。

    2015-09-29 22:51  
    51pt

     漫画版『無職転生』最新刊を読み終わりました。
     あいかわらず素晴らしい出来ですねー。
     「小説家になろう」で抜群の人気を誇る有名作の漫画化です。
     ある事件をきっかけにしてひきこもりになった男が異世界に転生して、今度こそ本気で生きようと決意するというお話なのですが、この漫画版は原作を忠実に再現しています。
     もっとも、原作の内容をそのままデッドコピーしているわけではなく、かなりエピソードの取捨選択が行われてもいます。
     この巻では主人公のルーデウスにとって最初の「ターニングポイント」まで話が進むのですが、コンパクトに構成しなおされた展開が非常に美しい。
     この調子だとかなり先まで話が進むかも、と思わせられます。
     さすがにラストまで全部描き切るのはむずかしいだろうけれど、後半まで描くことはできるのでは。
     ちなみに主人公の人生にとってターニングポイントにあたるエピソードを、そのまま「ターニングポイント」と題してしまうのは『無職転生』の発明ですね。
     この「ターニングポイント」ではいつもルーデウスの人生が根本から揺り動かされるような事件が起こり、物語はドラマティックに進展します。
     この第一の「ターニングポイント」は特に過激で、ルーデウスのそれまでの人生は根こそぎ破壊されてしまいます。
     守るべきものはただひとり、傍らの少女エリスのみ。しかし、そのエリスを守って旅を続けることは至難。さて、そんなルーデウスの前に現れる男は何者なのか――?
     原作を読んでいる人にしてみれば自明な話なのですが、非常に盛り上がる展開となっています。
     この「どんなに幸せを積み上げても一瞬で覆される」という感覚は『無職転生』のオリジナリティですね。
     あとで書きますが、これあっての『無職転生』という気がします。
     漫画版はまだ序盤ではありますが、原作のサスペンスをうまく再現していますね。
     まあ、とにかくこの漫画版は非常にうまくできていて、第1巻及び第2巻のときも感心した記憶がありますが、続くこの第3巻は輪をかけて高い完成度を示しています。
     ルーデウスの日常を描く合間にロキシーの冒険がインサートされたりとか、とてもとても洗練された印象。
     最近、小説や漫画を読んでも「面白い」より先に「うまい」という言葉が出て来ることが多くなったぼくですが、この作品もとにかくうまくできていると感じます。
     もちろん、原作の物語の素晴らしさがあってこそですが、この序盤は『無職転生』全編のなかでも殊の外完成度が高い下りなので、こうも巧みに漫画化されたことはいち読者として嬉しいです。
     以前にも書いた記憶がありますが、この『無職転生』という物語の面白さはひとつにはその「優しさ」にあると思います。
     「ひとを裁かない優しさ」。 
  • それは優しさのレッスン。『無職転生』で学ぶひとを赦す心。

    2015-03-29 01:09  
    51pt


     「小説家になろう」で連載中の『無職転生』漫画版第2巻が出ました。原作は佳境を迎えているようですが、漫画はまだ始まったばかりです。
     うーん、ほんとうはKindleで欲しいところなのだけれど、いつになるかわからないから紙で買おう。
     では、いまからちょっとTSUTAYAまで行って来ます。――(移動中)――しゅたっ。買って来ました。
     さっそく読んでみましょう。――(読書中)――びゅわっ。読み終えました。
     いやー、この巻も面白かったですね!
     小説を漫画化したときのクオリティは当然ながら千差万別であるわけなのですけれど、この『無職転生』の漫画版はほんとうによくできている。
     原作に対する理解度の高さ、エピソードの取捨選択の見事さ、純粋な作画能力、キャラクターデザインのセンス、いずれも文句なし。
     まさに『無職転生』の世界がここにある、と感じます。
     いまさらながら説明しておくと、『無職転生』はあるとき偶然に異世界へ転生することとなったひとりの中年ニート男性が、その世界で新たに「本気で生きる」ことを決心して生きていくというストーリー。
     いくらかの才能はあるものの、特別にチートを与えられているわけでもない主人公が、ただ「本気」の力で少しずつ成長していくさまが読みどころです。
     大長編ではありますが、大変面白いので未読の方は読んでみてください。「小説家になろう」の不動の首位です。
     で、この漫画版はその原作を実にうまく処理しているように感じられます。
     それこそ「わかってる度」が高いという表現を使いたいくらいですが、もうひとつ、おそらく作者が女性であることがプラスに作用しているんじゃないかな。
     男性作家が描いていたらルーデウス(転生前)の気持ち悪さがシャレにならないレベルになっていた可能性がある。
     文字で読むぶんにはスルーできても、ヴィジュアルで見せられるときついことってありますからね。
     原作では転生前の現実世界におけるルーデウスはほんとうにどうしようもない男として描かれているので、それをそのまま執拗に描いていたら辛いところだった。さらっと流した選択は正しかったと思う。
     で、この第2巻です。
     この巻では、前巻のロキシー、シルフィに続いて、第三のヒロインであるエリスが登場します。
     ルーデウスをして「狂犬」といわしめる凶暴なお嬢様なのですが、ルーデウスはある手管を使ってこの「狂犬」を調教していきます。
     いかにして凶暴きわまりないエリスがルーデウスに「デレ」ていくのか、そこらへんが読んでいて実に楽しい。
     原作でもここらへんから一気に面白くなってくる感じだったんですよね。
     そして、この先では第一の「ターニングポイント」が待ち受けているのですが、それはいったいどのようにして描かれるのでしょうか? いまから楽しみです。
     それにしても、「小説家になろう」の膨大な作品群のなかで首位に屹立する『無職転生』の魅力とは何でしょう?
     ぼくはそれは「ひとに対する優しさ」に尽きるとぼくは思います。
     主人公のルーデウスは一度、堕ちるところまで堕ち切った人間です。
     ひととして最低のところまで堕落しきった経験をもつかれは、それがために軽々にひとを責めません。
     かれのまわりの人間は欠点だらけの人物が多いのですが、そういう人々に対しても、かれの目はどこか優しいのです。
     もちろん、作品世界は現実世界とくらべても相当にひとにきびしい世界で、ともするとひとは簡単に死んだり廃人になったりします。
     また、現代日本の倫理からすればかなりゲスな行動に走るひとも少なくありません。
     ですが、そういう世界であり人々であっても、ルーデウスが周囲を見る目は決して責め咎めるものではない。
     その底知れない優しさこそが、この小説の最大の魅力なのではないでしょうか。
     現代日本は、あまりに「正しさ」ばかりが強く語られすぎる社会であるようにも思われます。
     ぼくはひとを責める「正しさ」だけでは、それがどんなにほんとうに正しいとしても、社会は行き詰まると思う。
     愚かで欲望に走りやすい人間たちを赦し、認める「優しさ」があって初めて、人間社会は円滑に動く。そうでないでしょうか?
     なぜなら、 
  • 日常に安住する価値、非日常を渇望する価値。幸せなのはどちらなのか。(2071文字)

    2013-08-15 15:38  
    53pt




     『そだ☆シス』という小説をご存知だろうか。「小説家になろう」で連載されている作品のひとつで、なろうにはよくある生まれ変わりものである。
     異世界の赤ん坊に生まれ変わった主人公が少しずつ成長していく展開を描いてゆく。と、ここだけ抜き出すと『無職転生』あたりと同じなのだが、この作品には端的な特徴がひとつあって、主人公の成長がものすごく遅い。
     具体的に云うと、最初の最初の何十話かは幼児、いや乳児のまま(笑)。もちろん、主人公には意識があって、状況を把握しているのだけれど、それにしてもまったく話が進展しない。
     ぼくはそこまで読んでいないが、200話を過ぎてもまだ幼児のままらしい。ここまで来るといっそ凄まじい話である。
     もちろん、なろうにはほかにも展開が遅い話がある。『盾の勇者の成り上がり』あたりはなかなか話が進展しない。
     しかし、それでもとにかく冒険はしているわけだから、『そだ☆シス』と比べるとかなりあたりまえの話だと云える。
     それでは、そんな『そだ☆シス』のどこに魅力があるのか。……どこだろう? いや、読んでいるとたしかにおもしろいのだが、具体的にどこがどうと云う気にはなれない。
     何しろこの話、波瀾万丈とは限りなく縁遠い。ひたすらに平和で、平穏で、幸福な日々がつづく。それはもう、日常系萌え四コマ漫画を思わせる平和さ。
     決して時間が停止しているわけではなく、少しずつ時は流れていくのだが、しかしそこに世界が崩壊する不安はない。
     きのうは当然のようにきょうへと続き、そのきょうはさらにあしたへと繋がっている、その連続性に対する絶対的な信頼が存在すると云えばいいだろうか。
     それはあたりまえの平和な日常が続いていてもどこか滑落の不安と無縁ではない『無職転生』とは対照的だ。
     もちろん、それが『無職転生』の魅力であり、どちらがどう優れているの劣っているのという話ではないのだが、てれびん(@terebinn)あたりはここに価値観の違いを見て取るらしい。
     『無職転生』は平和なだけでは完結しない物語なのだ。どうしても、どこかで非日常をくぐり抜け、そこで冒険し、戦い、勝利しなければ終わらない。
     それはもちろん、平和で幸福な生活が崩れ去る不安と紙一重だ。だからこそ物語としておもしろいのだが、『無職転生』には「絶対的な安心」は存在しない。
     
  • まだ読んでいないあなたに全力でオススメ! ウェブ小説の金字塔『無職転生』を読もう。(2081文字)

    2013-08-13 11:00  
    53pt




     ウェブ小説投稿サイト「小説家になろう」連載の『無職転生 異世界行ったら本気だす』がここのところいっそうおもしろい。
     もともと無類におもしろく、「なろう」でも傑出した人気を誇っている作品だが、物語は「第三のターニングポイント」を迎えてさらに加速して行っている。
     連載は一章の区切りを迎えていま休眠期間にあるので、ここらへんでこの作品の魅力を解説しておきたい。
     『無職転生』は理不尽な孫の手という奇妙なペンネームの書き手によるウェブ連載小説である。
     物語は、あるひとりのひきこもり中年男が交通事故にあい、死亡し、異世界に転生するところから始まる。典型的な「なろうテンプレート」に沿った展開。
     しかし、テンプレどおりであるからこそ、作家の個性は際立つ。『無職転生』はここから圧巻のオーヴァードライブを開始するのである。
     異世界でひとりの赤ん坊に転生した男は、ルーデウスと名づけられ、第二の人生を充実させるために努力しはじめることになる。
     初めの人生を絶望のなかで過ごし、ついに幕をとじた男には、深い後悔があった。今度こそ過ちを繰り返さない。素晴らしい人生にしてみせる。
     そんな感慨とともに歩みはじめた男は、少しずつ成長しながら人生をより良いものに変えていく。一度目の人生での絶望は、男を思慮深く、おごり高ぶらない人材へと変えた。
     そしてルディはひたすら敵をつくらないように気を付けながら、少しずつ少しずつ人間的にも成長していくのである。
     それにしても、いったいこの小説のどこがおもしろいのか? それを明確に解説することはむずかしい。たしかに作者のストーリーテリングは紛れもなく一定以上の水準に達している。
     しかし、ただ小説技術だけを問うなら、もっとうまい作家はいるだろう。それにもかかわらず、『無職転生』はほかに類のない個性と魅力をもった作品なのである。
     ひとつには、この小説が、ひとの弱さや愚かしさに対して寛容であることが挙げられる。何しろ主人公ルディは、もとが絶望的なダメ人間である。ひとのことを声高に糾弾できるようなキャラクターの持ち主ではない。
     だから、かれはひとの弱点を上から見下ろして責めるようなことはめったにしない。善悪でひとを測って断罪したりもしない。倫理感がないわけではないが、とくにそういうことにこだわるタイプではないのだ。どんな意味でも「正義の味方」には程遠い男である。
     そんなルーデウスが、いちいち自分の行動の意味をたしかめながら世界を歩いて行くところに、この作品のおもしろさはある。
     ルーデウスは、初め、あらゆるモラルやバリューを嘲笑する「傍観者」だった。しかし、じっさいにひとりの人間として生きていくうちに、かれは現実世界と向きあうことになる。
     純粋なひとごとなら、どうとでもあざ笑うことができても、じっさいに目の前に困っている人間がいたらつい助けてしまう。そういうことはある。
     かれの生き方は空想のナルシシズムのなかですべてを判断してきた人間がほんとうの現実と出会っていくプロセスそのものである。
     
  • 鬱展開の自由を守れ!

    2013-04-01 08:35  
    53pt




     またまた「小説家になろう」の話なんですが、『無職転生』の感想欄を読んでいると「ああ、この世にはストレスを嫌う読者がほんとうにいるんだなあ」とあらためて気付かされます。
     そういうひとが目立つだけかもしれませんが、「なろう」の特徴は作者に直接にああいう展開はいやだとかこういう展開にしてほしいといった要望を送れるところにあるので、作者のもとには「ストレスフルな展開を避けてほしい」という要望が積まれることとなるようです。作者がそういった意見に応えるとどう展開が歪んでてしまうかは過去記事で書きましたが、こういう読者心理そのものも興味深い。
     まあ、いまの時代でもそれこそ『まどか☆マギカ』みたいな作品がヒットしているわけで、何が何でもほのぼのじゃないとダメだというわけではないんだろうけれど、コミカルな作品で悲劇的だったり惨劇的だったりする展開になると「裏切られた」と感じるんだろうなあ、きっと。『無職転生』の場合、そういうことが起こりうる残酷な世界だということはしっかり行間を読んでけばわかるのですが。
     でも、それも仕方ないことなのかもしれません。Amazonなんかを見ていてもわかるけれど、評価が高いのは読者の欲望にストレートに応えている作品なんですね。
     これはべつに萌えだとかエロだとかいうことじゃなくて、たとえば「このキャラクターにはかっこよく死んでほしい」あるいは「死なせてほしくない」と読者が思っている時に、その望みを叶えてあげる作品の評価が必然的に高くなる。
     読者がバトルを望んでいるのに農業を始めてしまう『バガボンド』とか(笑)、そういう作品の評価は、あれほどクオリティが高くてさえ低くなる傾向があるようです。
     「期待に応えて予想は外す」ことが最善とはよくいわれることですが、じっさいには「期待」と「予想」は不可分の状態にあることも多いわけで、なかなかそういうわけには行かないでしょう。いちじるしく予想を裏切ればやっぱり期待も裏切ったことになってしまう場合が多いようです。