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記事 9件
  • 人間の正しい生き方とは何か。

    2016-04-18 13:10  
    51pt

     夜中にLINEで話していて出た話をしようと思います。
     ひとにとって正しい生き方とはどんなものか、ということ。
     まあ、ぼくは長年ひきこもりやっているような男なので大上段にかまえて人生を語る資格はまったくないわけですが、それでも思うことがあります。
     それは、ひとの正しい生き方とは、しだいに自分が解放されて自由になっていくような生き方を指すのだということ。
     もしだんだん不自由になっていくとしたら、それはどこかで間違えているのです。
     つまり、生きつづけることでより幸せになっていくようなスタイルが正しいのだと思う。
     人生が進めば進むほどに不幸に不自由になっていく生き方は、どこかに問題がある。
     もちろん、人生はそううまくいくとは限りません。生きていれば色々なアクシデントがありえるでしょう。
     しかし、少なくとも精神的にはゆっくり楽になっていくことが望ましい。
     生きつづければ生きつづけるほどにしんどくなっていくのだとすれば、何か問題を抱えていると考えるべきです。
     その生き方をひとことで「成長」と呼んでもかまいませんが、必ずしも能力が向上し人格が陶冶される、といったことを指しているわけではありません。
     ダメなままでもいいのです。
     ただ、自分を縛る色々なものから解き放たれていくことが大切だと思う。歳を取れば取るほど縛られていくようでは困る。
     正しく生きていれば、ひとはゆっくり解放されるものです。
     これは『3月のライオン』あたりを読んでいると強く思うことですね。
     この物語の主人公である桐山零は、ほぼ最悪の状況で登場し、しだいに幸福と自由を手に入れていきます。
     かれはまさに正しい生き方をしていると思うのですよ。
     それは「光の差すほうへ向かう」生き方。
     かれの場合、物語が始まった当初では幸せにたどり着く道筋はまったく見えなかったわけですが、それでもひたすらあがくことによって前へ進んでいく。
     これが「正しい努力」というものです。
     いま光のなかにあるか闇のなかに留まっているかということではなく、光の差すほうへ向かっていることが大切なのだということ。
     正しい努力をくり返して生きていけば、人生はだんだん楽になって来るはず。
     ひとは外的環境をコントロールできませんから、何かひどいアクシデントが起こって状況が過酷になるということはありえます。
     しかし、 
  • 『無職転生』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』を比較する。

    2016-04-14 05:55  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事が面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160413/p1
     今回のぼくの記事は、この記事に注釈をほどこす形で、最近友人と話し合ったりしたことをまとめておこうと思います。
     長くなりますが引用しますね。

     この話を読んだときに僕がとても思い出したのは、レスター伯さんと、永遠の日常モノの類型を話しているときでした。過去の記事で読んでいる人はこのあたりの議論の流れが思い出せると思うのですが、永遠の日常類型モノ、、、、これにハーレムメイカーなどの快楽線ばりばりの類型全部を話していると仮定してもいいのですが、これを話しているときに、レスター伯と僕の世代、僕は団塊Jrで現在の40代。レスター伯の世代は、10年ほど下の世代ですね。1970年代生まれと1980年代生まれ。このあたりの世代からは、どうも感受性がまったく逆になっているんじゃないかという議論しました。このときは、とても抽象的な議論で、団塊Jrくらいの僕らの世代は、物語を見るときに、非日常から入って日常に戻る流れの時間感覚で世界を眺めているみたいなんです。逆に、10歳下ということは1980年代以降の世代は、日常から入って非日常に向かっていく時間感覚をもつようなんですね。
     いまいちよくわからないでしょうが、そのときの議論は、ノスタルジーを感じる、もしくは「自分がいる世界との接続感がある」世界や空間がどんなものか?という議論でした。
     レスター伯が語ったのは、ひとつ前の世代が物語(共同幻想としてもつ世界のイメージ)において、非日常から「帰るべき場所」として想定される日常世界が、そもそも彼らが生まれて育って、抜けられないと苦しみ、そして喜ぶ世界なんだ、ということだったんですね。ここでは、物語の類型で、永遠の日常と呼べるような時が止まったような、マクロと何の関係もなく、非日常に接続されることもなく、明日が今日と同じように続いていく絶望と諦めとぬるま湯の安心が続くために、ミクロの狭小の「そこにある関係性」だけにフォーカスして戯れるのが、彼らにとっての「普通」であると。なので、彼らの基盤は常に「永遠の日常」にあり、その日常以外はリアル(現実感)に感じられなくなっているんです。この物語類型は『ゆゆ式』で頂点を極めたと、当時の僕は分析していますね。

     わかってもらえるでしょうか。
     ペトロニウスさんは1970年代以前の生まれと80年代以降の生まれを区別して、それぞれがべつの感性を持つ世代であるようだ、と語っているのです。
     ここでは仮に前者を「旧世代」、後者を「新世代」と呼ぶことにしましょう。
     70年代以前生まれの旧世代は物語(共同幻想としての世界のイメージ)において「非日常」から入って「日常」へ帰る、というパターンを好みます。
     これが端的に表れているのがたとえば『機動戦士ガンダム』です。
     ペトロニウスさんはこう書いています。

     僕がいつも思い出す例は、ガンダムファーストのアムロ・レイです。彼は「帰るべきところがあるんだ」と擬似家族共同体と化したホワイトベースの仲間のところに帰って行くことになります。物語は、すぐ非日常に叩き込まれて、最後には「帰るべき」「帰りたい」場所として、日常の世界や、擬似家族的な小さな手が届く範囲での共同体の関係性が選ばれ、志向されるんです。これは、非常に僕ら団塊Jr以前の感性です。非日常(戦争)から日常(自覚された家族)に戻るんです。

     しかし、これが80年代以降生まれの新世代となると、まったく逆になる。「日常」から入って「非日常」へ向かう、という形になるわけです。
     さらにペトロニウスさんの記事から引用しましょう。

     なので、同じ物語類型でも順序が逆なんだということを、いっていたんです。究極のところ人間なので、求めている物語の基本的なフォーマットが変わるわけではありませんが、感性の順番が逆だ、と。えっと、ここが重要な部分なんですが、物語世界における「旅に出る(いまいる世界から出て行って、成長して、そして帰ってくる)」という人類の持つ物語のアーキタイプ自体が、別になくなったわけではないんです。別に、エヴァンゲリオンでもガンダムでも、特に何も変わりません。少年がいきなりモビルスーツを動かして、世界を助けるために戦うという原型は、何も変わりませんよね。けれども、昔は、何か事件に巻き込まれて、戦争(=非日常)とかに連れ出されても、特に違和感を感じなったようなんですね。そして、そこで苦しみと成長を遂げて、最も大切な家族という日常(=平和)の元へ帰るという順番でした。それで、特に問題なかった。たぶん、クリエイターの世代の人に、戦争体験者の影が色濃く残っていたり、高度成長期によって社会(家族の在り方)自体が根元から変わっていってしまうような非日常が、その世代の人々にとっては、あたりまえだったからなんだと思います。けれども、1980年以降の停滞期に入った日本社会で育った世代は、もしくはその時代をメインで生きるプロのクリエイターの世代は、戦争とか高度成長による社会の急激な大変革(非日常)が、見たことのない、よくわからないものになったんだろうと思います。彼らの想像力が及ぶ範囲は、いま彼らが生きる世界。それは、1980年代から生まれて、リーマンショックやバブルの崩壊以来、建築という物理的なものですらまったく変化のない、永遠の日常の郊外空間。また彼らのリアルな現実である学校空間。そしてその中で唯一、その日常から脱出できる世界は、ゲームの世界の冒険。それだけなんですよね。

     ここで試みにぼくの知りあいを持ち出して分けてみると、現在40代のLDさんやペトロニウスさんは完全に旧世代ですね。
     30代前半のレスター伯やてれびんあたりは新世代。
     そしてぼくは1978年生まれの37歳ですから、ギリギリ旧世代に属していることになります。
     確認していないけれど、敷居さんあたりはギリギリ新世代ということになるのではないかな。
     さて、ここで、そもそもの話の始まりである「小説家になろう」から旧世代寄りと新世代寄りと思える作品を取り出して比較してみようと思います。
     『無職転生 -異世界行ったら本気だすー』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』です。
     ぼくの理屈でいうと、前者は旧世代寄りの物語、後者は新世代寄りの物語ということになると思うのですよ。
     なぜ「なろう」の無数の作品からあえてこの二作を取り出して比べるかというと、この二作、構造的にとてもよく似たプロットを採用していると思うからです。
     両者とも何年間もひきこもりしていた男が、異世界へ行って初めて外へ出て、その世界を冒険するという物語です。
     しかし、作品から受ける印象は対照的といっていいほど違う。なぜなのか、という話をしたいと思います。
     結論から書くと、両作品の差異は「主人公の意識の差」にあると考えます。
     そして、その意識の差が世代を象徴していると思うのですね。
     つまり、『無職転生』の主人公ルーデウスは旧世代的な思考の持ち主であり、『引きニート』の主人公であるユージは新世代的な考え方をしているということです。
     まず、「小説家になろう」堂々のランキング第1位である『無職転生』の魅力がどこにあったか確認してみましょう。
     端的にいって、それはひきこもりだった主人公が異世界へ行くことで今度こそ本気をだして生きようとするその真摯な姿勢にあると思います。
     ルーデウスはあるときトラックに轢かれて死んで異世界へ転生するのですが、生前の後悔からこの人生こそは成功させると努力します。
     そのかれの「本気さ」が読者の共感を呼ぶのです。
     一方、『引きニート』はどうか。
     実は、ユージはひきこもりをしていた10年間もの歳月を、それほど強く悔やんでいるようには見えません。
     かれは異世界へ行くとあっというまにそこになじみ、わりと気楽に暮らしていきます。
     それはルーデウスの真剣な姿勢とは大違いといっていいと思います。
     ここでなぜルーデウスは過去を悔やみ、ユージは悔やまないのかと考えると、究極的にはルーデウスはひきこもりの歳月を「自分のせい」と受け止めているのに対し、ユージは「運が悪かった」と捉えているからではないか、と思い至ります。
     つまり、ルーデウスは何年間もひきこもって周りに迷惑をかけたのは自分が悪かったのだと思っている。
     だからこそ、転生した後は同じ過ちを繰り返すまいと考える。
     しかし、ユージはいってしまえば自分は事故に遭ったようなもので、だれが悪いのかといえば、あえていうなら運命が悪いというほどに考えているように見える。
     この差があるから、ルーデウスは悔やみ、ユージは悔やまないのではないか。
     いい換えるなら、ルーデウスはとても自分中心に世界を捉えている。運命を自分の力で変えることができるものだとみなしている。
     対して、ユージは世界と世界として受け止め、運命に対して「ポジティヴな諦念」とでも呼ぶべきあきらめを抱いている。
     ユージにはこの世界は自分ではどうすることもできない悲惨な出来事が起こるものであって、それは避けようがないのだ、という思想があるということでもある。
     これを反転すると、ルーデウスにとっては自分の成功は「自分の功績」であるが、ユージにとっては「運が良かった」ないし「周囲のおかげ」であるということになる。
     まあ、簡単にいって、ふたりの間にはこういう差があるわけです。
     さらに、ルーデウスは非常に生真面目に第二の人生を生きようとし、それが崩壊しそうになると大きなショックを受け放心状態になったりするのに対し、ユージはとてものん気に見える。
     ルーデウスの心理には常に「不安」がよぎっているようにも思えます。
     いくら幸せになっても、成長しても、一瞬ですべてが元の木阿弥に帰すのではないかという心配がかれの脳裏から完全に消え去ることはない。
     そしてじっさい、その心配はいくつかの「ターニングポイント」という形で現実になる。
     一方、ユージはとても警戒心が薄い。よくそれで生きのびられるな、と思うくらいのんびりとしていて、大きな不安は持っていないでしょう。
     つまり、ルーデウスは世界を敵だらけの場所(非日常)だと認識し警戒しているのに対し、ユージはその点にほとんど思いが至っていない(日常)といういい方もできる。
     ルーデウスは危険に対しときに過剰なほど敏感なのに対し、ユージはその逆に過剰なまでに鈍感なのです。
     象徴的なエピソードだと思うのですが、ユージは異世界へ転移してすぐ、食料として赤いきのこを採取します。
     で、いかにも怪しいそのきのこを平気で食べるんですよ(笑)。
     結果として食あたりを起こすのですが、ルーデウスだったら絶対に食べないでしょう、そんなもの。
     ふたりの差はかくのごとし、です。
     世界に対し不安と警戒心を抱くルーデウスは、ときとして不要な小細工にも思えるほど策謀を弄します。
     しかし、どんなに策謀を重ねても、当然、100%成功するというわけにはいきません。
     どこで出て来たのか忘れたけれど、ルーデウスの言葉として非常に印象に残っているものに「自分にはベストを出すのは無理だ。せいぜいがベターにやるしかない」という意味のものがあります。
     これはつまり、100%成功させることは無理で、たとえば80%くらいの成功率の策しか思いつかない、ということだと思います。
     ルーデウスが「本気だす」というのは、この80%をなんとか81%に、82%に、あるいは85%にしようと努力する、ということだとぼくは思っています。
     つまり、かれはある程度の成功の見込みがあるにもかかわらずそれをさらに高めようと頑張る男なのです。
     かなり行きあたりばったりの人生を送っているユージとは大きな違いです。
     こう書くと、二度目の人生を真剣に生きているルーデウスに比べ、ユージはただのん気なだけの男に見えるかもしれない。
     ですが、必ずしもそういうことではありません。
     なんといっても、ユージにはルーデウスにはない「人徳」が備わっている。
     そのおかげでユージは人々の協力を録りつけ、生きることができます。これはルーデウスにはない能力でしょう。
     いや、ほんとうにルーデウスには人徳がないのでしょうか? かれはただ計算高いだけの男だと考えていいのか?
     実はぼくはそうは思いません。じっさい、魔大陸でルイジェルドがルーデウスを助けてくれたのは、ルーデウスが策破れてどうしようもなくなっていたときでした。
     ルーデウスは実はかれの計算が通用しないところでひとに好かれていたりするのです。
     しかし、かれがそれをどこまで自覚しているかというと、怪しいものがある。
     かれの認識では、まわりの人をかなりの程度コントロールしてかれらの好意を得ているということになっているのではないか。
     ですが、事実としては、たとえばルーデウスの妹はルーデウスの抱える不安を見て取って、それで初めてかれに心を開きます。
     意外にもルーデウスの弱さやダメなところこそが、周囲の好意の源になっていたりするのです。
     つまり、ルーデウスもユージもその人柄のよさで人々の協力を得て活躍していることに変わりはない。
     だから、ほんとうに違うのはかれらの意識だけなのです。
     ルーデウスは自分が自分の思惑を超えて愛されていることにわりあい無自覚に思えます。
     一方、ユージはある意味、そのことを当然視しているように見える。
     これはルーデウスが実の兄弟から家を追い出されるという目に遭っているのに対し、ユージの家族仲が良さそうであるところにも原因があるでしょう。
     ユージは愛されることを当然に思っているのに対し、ルーデウスは愛を得るために策を練るのです。
     また、ユージのような感性は日本の平和で豊かな社会でしか育成されえないものであるのに対し、ルーデウスの心理はもう少し貧しく危険が多い時代に生まれた人間のそれであるように思えます。
     そういう意味で、まさにふたりは新世代寄りと旧世代寄りの違いがあるのです。
     『無職転生』が一人称で主人公の行動と心理を追っていくのに対し、『引きニート』が三人称を採用しているのは偶然ではないでしょう。
     『無職転生』は基本的にルーデウスの主観の自己中心的な物語であるのに対し、『引きニート』はもう少し引いた視線で世界を俯瞰しているのです。
     そしてまた、ルーデウスにとっては、世界はどこまでいっても敵だらけであり、ある日それまで積み上げたものが崩れ去るという心配が消せません。
     一方、ユージにとっては異世界での生活すらそこまで警戒に値しないものです。
     ルーデウスは二度目の人生を生きているというチートを用いていますが、インターネットの掲示板にアクセスするパソコンを除くと、ユージにチートはありません。
     ルーデウスは自分は二度目の人生というチートで本気をだすことによって成功していると誤解(というか、一面的な理解)しているかもしれませんが、ユージはそもそも自分だけに根差すチートを持っていないので、他人だよりであることに自覚的です。
     そういう意味では、『無職転生』はやはり「なろう」らしい小説なのですね。
     まだしもチートやハーレムに意味がある。
     『引きニート』はある意味で「なろう」的でないといえる。
     『無職転生』の世界はまだルーデウスの心理のなかで非日常的なところですが、ユージにとっては異世界もまた日本の日常の延長線上にあります。
     だからこそ、かれはあんなに安心しているし、警戒心が足りないのです。
     つまり、ユージにとっては異世界は新しく人生を生きなおせるようなフロンティアではない。
     故にかれは「転生」ではなく「転移」するのだと思います。
     かれには転生して新たに生きなおす意味がないのですね。
     これは、ルーデウスが財産や能力を積み上げていきながら、それがどこかで崩れ去るという心配を抱いているのに対し、ユージはそもそもほとんど積み上げることすらしないという違いにも表れています。
     また、ユージは積み上げたものでも自ら崩すことができるので、ルーデウスのように全部まとめて「リセット」する必要がないのです。
     ここにも世代の差が見えますね。『引きニート』は『無職転生』以上に現代的です。

     ちなみに、自分の理解できる「なじみの風景と関係性」を、異なる世界にまで持ち込んでしまうことは、真の脱出、真の成長、そんなものがあればですが、ではないという風にいえるとは思います。ただ、それは現代社会の、「いまここから」の脱出の不可能性という構造を、無視している議論だと思います。フロンティアが存在しない世界なんですよ、僕らが今生きるパラダイムは。だから、閉塞的になっているんです。それは、全世界的な傾向であって、よほどパラダイムの変換、、、、この場合は、テクノロジーによる巨大なブレイクスルーがない限り、このデジタル中世へ向かうような閉塞感は消えないはずです。

     『無職転生』の物語は、ある意味でルーデウスが「これで安心だ」と不安から解放されるところで終わっています。
     かれは「逃げ延びた」のです。
     論理的にいえば積み上げたものが崩れ去る(新しい「ターニングポイント」が訪れる)可能性がなくなったわけではありませんが、かれは「もう大丈夫」だと考えたのでしょう。
     一方、ユージは初めから不安や警戒心をほとんど持っていません。
     かれは友達でもない掲示板の人間たちをあっさり信用してしまいます。
     そこが、世界すべてがどこまでいっても「平和な日常」である新世代寄りの人間なのだろうと思います。
     ある意味で、新世代タイプのユージはのんびりしていて、性善説的です。
     そして、苦労を苦労とも思いません。
     それこそ、旧世代の人間からすれば説教や注意のひとつでもしてやりたくなるほどに。
     ここで、すべての話の発端である『このすば』に対する野尻抱介さんの苦言のことを思い出してみましょう。かれはこういっていたのでした。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

     これは完全に新世代の人間への旧世代の人間からの説教であり、忠告です。
     物語世界を危険な非日常的空間として認識し生きている旧世代の人間からすると、新世代の人間はいかにものん気に思えてしかたないのです。
     そういえば、『このすば』の主人公は実はけっこう苦労しているという話がありましたね?
     なぜそれが「苦労もせず」と見えるのかといえば、苦労しているように演出されていないからです。
     つまり、『このすば』のような新世代的な物語では苦労を苦労として演出することがない。
     それが、旧世代から見ると「苦労もせず」と受け取れるのだと思います。
     それでは、新世代的な物語やキャラクターはほかに何があるでしょうか?
     ぼくはまだすべて見たわけではありませんが、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のミカヅキなんかは新世代っぽいですよね。葛藤しない。不安がらない。
     そして、『ベイビーステップ』のエーちゃんなんかも新世代のキャラクターだと思います。世界に対して過剰な不安や警戒心を抱いていない。
     今週の『マガジン』のエピソードは象徴的にそこが出ています。
     『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんなんかも新世代っぽいキャラクターですね。
     彼女は一切悩みませんし、苦しむようすも見せません。
     以上、旧世代(70年代以前生まれ。物語において世界を「危険に満ちた非日常」と認識する)と新世代(80年代以降生まれ。物語においては世界を「平和な日常」と認識する)についての話でした。
     ちょっと面白いでしょ?
     じっさいには世界そのものがほんとうに違っているわけではありません。
     『引きニート』の世界でもそうとうひどいことは起こります。その世界もやはり平和などではなく、地獄的な状況なのです。
     しかし、それに対する認識が新世代は旧世代とは違っているということです。
     うん、面白いですね。ぼくは面白いと思います。
     それでは、次の記事で逢いましょう。
     疲れた! 
  • 漫画版『無職転生』が至上の完成度。

    2015-09-29 22:51  
    51pt

     漫画版『無職転生』最新刊を読み終わりました。
     あいかわらず素晴らしい出来ですねー。
     「小説家になろう」で抜群の人気を誇る有名作の漫画化です。
     ある事件をきっかけにしてひきこもりになった男が異世界に転生して、今度こそ本気で生きようと決意するというお話なのですが、この漫画版は原作を忠実に再現しています。
     もっとも、原作の内容をそのままデッドコピーしているわけではなく、かなりエピソードの取捨選択が行われてもいます。
     この巻では主人公のルーデウスにとって最初の「ターニングポイント」まで話が進むのですが、コンパクトに構成しなおされた展開が非常に美しい。
     この調子だとかなり先まで話が進むかも、と思わせられます。
     さすがにラストまで全部描き切るのはむずかしいだろうけれど、後半まで描くことはできるのでは。
     ちなみに主人公の人生にとってターニングポイントにあたるエピソードを、そのまま「ターニングポイント」と題してしまうのは『無職転生』の発明ですね。
     この「ターニングポイント」ではいつもルーデウスの人生が根本から揺り動かされるような事件が起こり、物語はドラマティックに進展します。
     この第一の「ターニングポイント」は特に過激で、ルーデウスのそれまでの人生は根こそぎ破壊されてしまいます。
     守るべきものはただひとり、傍らの少女エリスのみ。しかし、そのエリスを守って旅を続けることは至難。さて、そんなルーデウスの前に現れる男は何者なのか――?
     原作を読んでいる人にしてみれば自明な話なのですが、非常に盛り上がる展開となっています。
     この「どんなに幸せを積み上げても一瞬で覆される」という感覚は『無職転生』のオリジナリティですね。
     あとで書きますが、これあっての『無職転生』という気がします。
     漫画版はまだ序盤ではありますが、原作のサスペンスをうまく再現していますね。
     まあ、とにかくこの漫画版は非常にうまくできていて、第1巻及び第2巻のときも感心した記憶がありますが、続くこの第3巻は輪をかけて高い完成度を示しています。
     ルーデウスの日常を描く合間にロキシーの冒険がインサートされたりとか、とてもとても洗練された印象。
     最近、小説や漫画を読んでも「面白い」より先に「うまい」という言葉が出て来ることが多くなったぼくですが、この作品もとにかくうまくできていると感じます。
     もちろん、原作の物語の素晴らしさがあってこそですが、この序盤は『無職転生』全編のなかでも殊の外完成度が高い下りなので、こうも巧みに漫画化されたことはいち読者として嬉しいです。
     以前にも書いた記憶がありますが、この『無職転生』という物語の面白さはひとつにはその「優しさ」にあると思います。
     「ひとを裁かない優しさ」。 
  • それは優しさのレッスン。『無職転生』で学ぶひとを赦す心。

    2015-03-29 01:09  
    51pt


     「小説家になろう」で連載中の『無職転生』漫画版第2巻が出ました。原作は佳境を迎えているようですが、漫画はまだ始まったばかりです。
     うーん、ほんとうはKindleで欲しいところなのだけれど、いつになるかわからないから紙で買おう。
     では、いまからちょっとTSUTAYAまで行って来ます。――(移動中)――しゅたっ。買って来ました。
     さっそく読んでみましょう。――(読書中)――びゅわっ。読み終えました。
     いやー、この巻も面白かったですね!
     小説を漫画化したときのクオリティは当然ながら千差万別であるわけなのですけれど、この『無職転生』の漫画版はほんとうによくできている。
     原作に対する理解度の高さ、エピソードの取捨選択の見事さ、純粋な作画能力、キャラクターデザインのセンス、いずれも文句なし。
     まさに『無職転生』の世界がここにある、と感じます。
     いまさらながら説明しておくと、『無職転生』はあるとき偶然に異世界へ転生することとなったひとりの中年ニート男性が、その世界で新たに「本気で生きる」ことを決心して生きていくというストーリー。
     いくらかの才能はあるものの、特別にチートを与えられているわけでもない主人公が、ただ「本気」の力で少しずつ成長していくさまが読みどころです。
     大長編ではありますが、大変面白いので未読の方は読んでみてください。「小説家になろう」の不動の首位です。
     で、この漫画版はその原作を実にうまく処理しているように感じられます。
     それこそ「わかってる度」が高いという表現を使いたいくらいですが、もうひとつ、おそらく作者が女性であることがプラスに作用しているんじゃないかな。
     男性作家が描いていたらルーデウス(転生前)の気持ち悪さがシャレにならないレベルになっていた可能性がある。
     文字で読むぶんにはスルーできても、ヴィジュアルで見せられるときついことってありますからね。
     原作では転生前の現実世界におけるルーデウスはほんとうにどうしようもない男として描かれているので、それをそのまま執拗に描いていたら辛いところだった。さらっと流した選択は正しかったと思う。
     で、この第2巻です。
     この巻では、前巻のロキシー、シルフィに続いて、第三のヒロインであるエリスが登場します。
     ルーデウスをして「狂犬」といわしめる凶暴なお嬢様なのですが、ルーデウスはある手管を使ってこの「狂犬」を調教していきます。
     いかにして凶暴きわまりないエリスがルーデウスに「デレ」ていくのか、そこらへんが読んでいて実に楽しい。
     原作でもここらへんから一気に面白くなってくる感じだったんですよね。
     そして、この先では第一の「ターニングポイント」が待ち受けているのですが、それはいったいどのようにして描かれるのでしょうか? いまから楽しみです。
     それにしても、「小説家になろう」の膨大な作品群のなかで首位に屹立する『無職転生』の魅力とは何でしょう?
     ぼくはそれは「ひとに対する優しさ」に尽きるとぼくは思います。
     主人公のルーデウスは一度、堕ちるところまで堕ち切った人間です。
     ひととして最低のところまで堕落しきった経験をもつかれは、それがために軽々にひとを責めません。
     かれのまわりの人間は欠点だらけの人物が多いのですが、そういう人々に対しても、かれの目はどこか優しいのです。
     もちろん、作品世界は現実世界とくらべても相当にひとにきびしい世界で、ともするとひとは簡単に死んだり廃人になったりします。
     また、現代日本の倫理からすればかなりゲスな行動に走るひとも少なくありません。
     ですが、そういう世界であり人々であっても、ルーデウスが周囲を見る目は決して責め咎めるものではない。
     その底知れない優しさこそが、この小説の最大の魅力なのではないでしょうか。
     現代日本は、あまりに「正しさ」ばかりが強く語られすぎる社会であるようにも思われます。
     ぼくはひとを責める「正しさ」だけでは、それがどんなにほんとうに正しいとしても、社会は行き詰まると思う。
     愚かで欲望に走りやすい人間たちを赦し、認める「優しさ」があって初めて、人間社会は円滑に動く。そうでないでしょうか?
     なぜなら、 
  • 日常に安住する価値、非日常を渇望する価値。幸せなのはどちらなのか。(2071文字)

    2013-08-15 15:38  
    53pt




     『そだ☆シス』という小説をご存知だろうか。「小説家になろう」で連載されている作品のひとつで、なろうにはよくある生まれ変わりものである。
     異世界の赤ん坊に生まれ変わった主人公が少しずつ成長していく展開を描いてゆく。と、ここだけ抜き出すと『無職転生』あたりと同じなのだが、この作品には端的な特徴がひとつあって、主人公の成長がものすごく遅い。
     具体的に云うと、最初の最初の何十話かは幼児、いや乳児のまま(笑)。もちろん、主人公には意識があって、状況を把握しているのだけれど、それにしてもまったく話が進展しない。
     ぼくはそこまで読んでいないが、200話を過ぎてもまだ幼児のままらしい。ここまで来るといっそ凄まじい話である。
     もちろん、なろうにはほかにも展開が遅い話がある。『盾の勇者の成り上がり』あたりはなかなか話が進展しない。
     しかし、それでもとにかく冒険はしているわけだから、『そだ☆シス』と比べるとかなりあたりまえの話だと云える。
     それでは、そんな『そだ☆シス』のどこに魅力があるのか。……どこだろう? いや、読んでいるとたしかにおもしろいのだが、具体的にどこがどうと云う気にはなれない。
     何しろこの話、波瀾万丈とは限りなく縁遠い。ひたすらに平和で、平穏で、幸福な日々がつづく。それはもう、日常系萌え四コマ漫画を思わせる平和さ。
     決して時間が停止しているわけではなく、少しずつ時は流れていくのだが、しかしそこに世界が崩壊する不安はない。
     きのうは当然のようにきょうへと続き、そのきょうはさらにあしたへと繋がっている、その連続性に対する絶対的な信頼が存在すると云えばいいだろうか。
     それはあたりまえの平和な日常が続いていてもどこか滑落の不安と無縁ではない『無職転生』とは対照的だ。
     もちろん、それが『無職転生』の魅力であり、どちらがどう優れているの劣っているのという話ではないのだが、てれびん(@terebinn)あたりはここに価値観の違いを見て取るらしい。
     『無職転生』は平和なだけでは完結しない物語なのだ。どうしても、どこかで非日常をくぐり抜け、そこで冒険し、戦い、勝利しなければ終わらない。
     それはもちろん、平和で幸福な生活が崩れ去る不安と紙一重だ。だからこそ物語としておもしろいのだが、『無職転生』には「絶対的な安心」は存在しない。
     
  • まだ読んでいないあなたに全力でオススメ! ウェブ小説の金字塔『無職転生』を読もう。(2081文字)

    2013-08-13 11:00  
    53pt




     ウェブ小説投稿サイト「小説家になろう」連載の『無職転生 異世界行ったら本気だす』がここのところいっそうおもしろい。
     もともと無類におもしろく、「なろう」でも傑出した人気を誇っている作品だが、物語は「第三のターニングポイント」を迎えてさらに加速して行っている。
     連載は一章の区切りを迎えていま休眠期間にあるので、ここらへんでこの作品の魅力を解説しておきたい。
     『無職転生』は理不尽な孫の手という奇妙なペンネームの書き手によるウェブ連載小説である。
     物語は、あるひとりのひきこもり中年男が交通事故にあい、死亡し、異世界に転生するところから始まる。典型的な「なろうテンプレート」に沿った展開。
     しかし、テンプレどおりであるからこそ、作家の個性は際立つ。『無職転生』はここから圧巻のオーヴァードライブを開始するのである。
     異世界でひとりの赤ん坊に転生した男は、ルーデウスと名づけられ、第二の人生を充実させるために努力しはじめることになる。
     初めの人生を絶望のなかで過ごし、ついに幕をとじた男には、深い後悔があった。今度こそ過ちを繰り返さない。素晴らしい人生にしてみせる。
     そんな感慨とともに歩みはじめた男は、少しずつ成長しながら人生をより良いものに変えていく。一度目の人生での絶望は、男を思慮深く、おごり高ぶらない人材へと変えた。
     そしてルディはひたすら敵をつくらないように気を付けながら、少しずつ少しずつ人間的にも成長していくのである。
     それにしても、いったいこの小説のどこがおもしろいのか? それを明確に解説することはむずかしい。たしかに作者のストーリーテリングは紛れもなく一定以上の水準に達している。
     しかし、ただ小説技術だけを問うなら、もっとうまい作家はいるだろう。それにもかかわらず、『無職転生』はほかに類のない個性と魅力をもった作品なのである。
     ひとつには、この小説が、ひとの弱さや愚かしさに対して寛容であることが挙げられる。何しろ主人公ルディは、もとが絶望的なダメ人間である。ひとのことを声高に糾弾できるようなキャラクターの持ち主ではない。
     だから、かれはひとの弱点を上から見下ろして責めるようなことはめったにしない。善悪でひとを測って断罪したりもしない。倫理感がないわけではないが、とくにそういうことにこだわるタイプではないのだ。どんな意味でも「正義の味方」には程遠い男である。
     そんなルーデウスが、いちいち自分の行動の意味をたしかめながら世界を歩いて行くところに、この作品のおもしろさはある。
     ルーデウスは、初め、あらゆるモラルやバリューを嘲笑する「傍観者」だった。しかし、じっさいにひとりの人間として生きていくうちに、かれは現実世界と向きあうことになる。
     純粋なひとごとなら、どうとでもあざ笑うことができても、じっさいに目の前に困っている人間がいたらつい助けてしまう。そういうことはある。
     かれの生き方は空想のナルシシズムのなかですべてを判断してきた人間がほんとうの現実と出会っていくプロセスそのものである。
     
  • 鬱展開の自由を守れ!

    2013-04-01 08:35  
    53pt




     またまた「小説家になろう」の話なんですが、『無職転生』の感想欄を読んでいると「ああ、この世にはストレスを嫌う読者がほんとうにいるんだなあ」とあらためて気付かされます。
     そういうひとが目立つだけかもしれませんが、「なろう」の特徴は作者に直接にああいう展開はいやだとかこういう展開にしてほしいといった要望を送れるところにあるので、作者のもとには「ストレスフルな展開を避けてほしい」という要望が積まれることとなるようです。作者がそういった意見に応えるとどう展開が歪んでてしまうかは過去記事で書きましたが、こういう読者心理そのものも興味深い。
     まあ、いまの時代でもそれこそ『まどか☆マギカ』みたいな作品がヒットしているわけで、何が何でもほのぼのじゃないとダメだというわけではないんだろうけれど、コミカルな作品で悲劇的だったり惨劇的だったりする展開になると「裏切られた」と感じるんだろうなあ、きっと。『無職転生』の場合、そういうことが起こりうる残酷な世界だということはしっかり行間を読んでけばわかるのですが。
     でも、それも仕方ないことなのかもしれません。Amazonなんかを見ていてもわかるけれど、評価が高いのは読者の欲望にストレートに応えている作品なんですね。
     これはべつに萌えだとかエロだとかいうことじゃなくて、たとえば「このキャラクターにはかっこよく死んでほしい」あるいは「死なせてほしくない」と読者が思っている時に、その望みを叶えてあげる作品の評価が必然的に高くなる。
     読者がバトルを望んでいるのに農業を始めてしまう『バガボンド』とか(笑)、そういう作品の評価は、あれほどクオリティが高くてさえ低くなる傾向があるようです。
     「期待に応えて予想は外す」ことが最善とはよくいわれることですが、じっさいには「期待」と「予想」は不可分の状態にあることも多いわけで、なかなかそういうわけには行かないでしょう。いちじるしく予想を裏切ればやっぱり期待も裏切ったことになってしまう場合が多いようです。
     
  • 「小説家になろう」とポルノ的想像力の地平線。

    2013-03-28 20:35  
    53pt
     ここのところ、毎日、「小説家になろう」で『無職転生』を読んでいるのですが、いやー、おもしろい。いままでもおもしろいと思っていたし、そう書いてきたのだけれど、おもしろさの質が一段上に上がった気がします。
     いま第六章の終わりまで来ているのですが、このエピソードで主人公は決定的に変化します。ネタバレなので書けませんが、ある登竜門をくぐり抜けるわけです。これがね、なかなか興味深い。
     この小説を読んでいて強く思うのは、ひきこもりの妄想的な世界観と現実の世界とはやはり違っているのだということです。ひきこもりが想像する世界が「一部のパワーエリートがひたすらに弱者を虐げている」という単色のイメージで塗り込められているのに対し、現実の世界は、豊かで、残酷で、美しく、醜く、鮮やかで、繊細と、対立しあう概念の豊かなグラデーションのなかに存在しているわけです。
     ひと言で「現実とはこうだ」といい切れないことこそ現実の本質である、とぼくは思います。『無職転生』の主人公は初め「一部のパワーエリートがひたすらに弱者を虐げている」というその世界観で生きるひきこもりです。
     しかし、かれが転生してからじっさいに出逢う世界は、そんな単純なものではありません。そこには正義もあり、悪もあり、陰謀を企む人物がいるかと思えば、すべてを洗い流してしまう大災厄が起こったりもするという、きわめて複雑なタペストリが広がっているのです。
     この「頭のなかだけで考えた世界」と「現実の豊穣な世界」との落差、これこそが『無職転生』の最大の魅力といってもいいのではないでしょうか。世界は「リア充爆発しろ」と叫ぶひきこもりやオタク少年が想像するようにはできていないんですね。
     そもそも、「小説家になろう」の小説群を生み出しているのは、前者の世界観をもとにした想像力であるように思います。「世界は一部のチート持ちが牛耳っている」「そのチート持ちになって剣を振るい、女を抱いて生きることが最大の幸福である」というような想像力。
     エロゲ的想像力というか、いっそポルノ的想像力といえばいいかもしれません。しかし、ポルノ的想像力には明白な限界が存在します。たとえば、ポルノでも仮にヒロインが妊娠してもそこで物語は終わってしまいます。面倒な子育てのディテールが描かれることはまずありえない。興ざめだからです。
     しかし、じっさいにはセックスすれば子供ができる可能性があり、そうなったらその子供をどう育てるか考えなくてはならず、そうでなくても相手に対する責任が生じるわけです。
     もちろん、そういった責任すべてを放棄して、相手の身体だけを自由にするという「鬼畜ルート」も考えられはしますが、「なろう」を読んでいるオタク青少年の大半は、ポルノのなかではともかく、現実にはその選択を選べるほど「鬼畜」ではないでしょう。
     いや、ポルノ的作品のなかですらも、ほんとうに真剣に考えていけばどこかでその現実と向かい合うことになってしまうわけです。ここでは仮にそのポイントを「ポルノ的想像力の地平線」と呼ぶことにしましょう。
     
  • 読者の要望が物語を狂わせるとき。

    2013-03-20 21:32  
    53pt
     「小説家になろう」の人気作『無職転生』の作者さんが最近の展開について書いています。
    http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/288399/blogkey/647146/
     まあ、最近の展開がなぜ無理があるものになってしまったのかという説明(悪く取るなら言い訳)なのですが、読んでみると非常に興味深い。読者の反応を気にすると物語がいかに歪んでしまうかということがよくわかります。
     作者さんによると、本来、もっときつい方向に話を振ろうとしたのだけれど、読者の要望を鑑みてソフトな方向に振ったと。しかし、それがためにどうしても無理がある展開になってしまった、ということのようです。
     うーん、「なろう」ではきわめてよくあることとはいえ、このレベルの書き手と作品でもこういうことになっちゃうんだなあ、というのが非常に感慨深いですね。
     おもしろいのは、一箇所変更すると、その他の箇所まで必然的に変更せざるをえなくなっていくという物語の構造があきらかになっているところです。小説というものは一箇所で妥協するとその影響が波のように広がっていって全体を狂わせてしまうものらしいんですよね。恐ろしい話。
     まあ、この作家さんの場合はあくまでアマチュアだし、妥協したからといって責めるつもりはないのだけれど、やっぱりじっさいの展開は無理があるものになっている印象は否めません。ぼくとしてはやっぱり物語の流れに殉じてほしい。でもそうしていたら感想欄は大荒れだっただろうけれどね。