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タグ “ストーリーテリング” を含む記事 5件

なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

 ぼくはエンターテインメント小説が好きで、いろいろ読んでいるわけですが、エンターテインメントというものはある種、矛盾した条件を抱えているよな、と思うことがあります。  つまり、普遍性と独創性の双方を兼ね備えていなければならないのですね。  理想的なエンターテインメントとは「だれも見たことがないほど独創的で、しかもだれもが楽しめるほど親しみやすい作品」ということになるでしょう。  ここにはあからさまなパラドックスがあります。  「だれも見たことがないほど独創的な表現」を求めるととっつきづらいものができるし、「だもが楽しめるほど親しみやすい展開」を求めるとどこかで見たようなものが仕上がるわけです。  このふたつの条件を同時に満たすことは、不可能ではないにしても、恐ろしく困難でしょう。どちらか片方だけならできないことはないだろうけれど。  エンターテインメントの究極の目標は「だれが読んでも面白いと感じる」作品であるわけで、その点を追い求めていくとどうしてもどこか似通ったものになるのだと思います。  その意味でエンターテインメント作品のオリジナリティにはある種の限界があるといえるかもしれません。  一般的なライトノベルを先鋭的な実験文学を比べたらどうしたって実験文学のほうが独創的になることでしょう。それはそうだと思います。  それにもかかわらずぼくがエンターテインメントを好むのは、「型」に対する「ズレ」に面白みを感じるから。  ある種の固定されたスタイルを前提とした逸脱的表現は、完全に自由な状態での表現よりも面白く感じるということです。  ただ、その「ズレ」はジャンルが洗練されていくにつれて修正され、消滅していく傾向があるように思います。  ジャンルのターゲットがはっきりすると、カテゴリエラーな作品は追放されてしまうわけです。  そうなってくると、ぼくとしてはもうひとつ面白くなくなる。  ぼくはやっぱりカテゴリの常識からちょっとズレたものを読みたいのです。酔狂ではありますが。  ――というようなことを、この記事を読んで考えました。 http://seagull.hateblo.jp/entry/%E5%AD%A6%E6%88%A6%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF-vs-%E8%90%BD%E7%AC%AC%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%8B%B1%E9%9B%84%E8%AD%9A  『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』というふたつのアニメの初回の内容がきわめて似通っていたという話ですが、これは偶然ではないと思います。  そうかといって「「アニメ化されるラノベの書き方」みたいなマニュアルの存在を信じたくなる」というのもちょっと違う気がする。  エンターテインメントが 

なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

 うー、昼間寝まくってしまったおかげで夜になっても眠れない。  完全な昼夜逆転状態で、ちょっと困ったものなのだけれど、まあいくら嘆いても眠くはならないので記事を更新しましょう。  先月、先々月とあまりに記事数が少なかったので、今月はちょっと真面目に更新したいと思います。  さて、前の記事で『鉄血のオルフェンズ』のシナリオについていくつか注文めいたことを書きましたが、じっさいの話、どう直せば良くなるのかということはよくわからないんですよね。  それがわかったらぼく自身が作家か脚本家になっているわけで、しょせん外野から文句を垂れているに過ぎないわけです。  ここらへん、いつも非常に申し訳なく思ってはいるのですが、だからといって沈黙するわけにもいかないので、あくまでアマチュアの戯言とでも思って読んでいただければいいかと。  まあ、こうしてお金をもらっている以上、ぼくも何かのプロではあるのでしょうが、でも、創作のプロじゃないものね。  閑話休題。  さて、ひとが何か物語を作るとき、必然的に「何を」「どのように」語るのか、という問題が発生します。  何を語るのかはそれぞれの作家がそれぞれの意図で選ばなければならないところであるわけですが、いまぼくが注目したのは「どのように」語るのか、という問題です。  一般的にいって、同じ物語を語るにしても、より効率的に語れたほうが良いと考えられるわけです。  したがって、小説であれアニメであれ映画であれ、作家は意図して物語を「構成」する必要があり、その物語を構成する力量を「構成力」といいます。  構成力にはどうやら年齢的なピークがあり、歳を取るとタイトな物語を紡ぐことはむずかしくなって来るということは以前書きました。  しかし、ここではとりあえず、そもそも良い構成とはどのようなものか、ということを書きたいと思います。  あとまあ、世の中には初めから終わりまで完成した物語がひと塊で降りて来るという天才もいるらしいですが、そういう化け物のことを話しても仕方ないので、とりあえず一般常識の範疇で話しましょう。  良い構成とは何か。ごく常識的に考えると、それは無駄のない構成のことだといえるでしょう。  物語とは、つまりひとつながりの連続した情報のことです。  したがって、それらの情報をなるべく整然と語っている作品が良い物語であるということができます。  『鉄血のオルフェンズ』を例に取るとわかりやすくなると思うのですが、このとき、この物語にはどうしても果たしておかなければならない使命(ミッション)がいくつかあります。  たとえば物語の背景世界がどうなっていて、主人公たちがいまどういう状況に置かれているのかをさりげなく説明すること、主人公たちを巻き込む戦闘を起こして最後に主役ロボット・ガンダムを動かすこと、などが挙げられるでしょう。  これらのミッションをどう合理的にクリアするのかということが作家に与えられた課題です。  下手に並べるとエピソードとエピソードがうまく繋がらず、無駄が発生してしまう。  どうやってきれいにエピソードを並べたら良いのか、まさに腕が問われるところです。  これはエモーションというよりはロジックのレベルの問題なので、やはり歳を取るとなかなかうまくこなすことができなくなる気がします。  歳を取っても良い物語を書いている作家はよほど自分をきびしく律しているのでしょうね。偉いものです。  さて、ここで注意しなければならないのは、ただ整然と情報を並べられればそれでいいというものではないということです。  ただ 

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

 前々回の記事「なぜ作家は衰えるのか。」の続きです。  あの記事は、結局のところ、作家は歳とともに「窮屈さ」に耐えられなくなっていくから衰えるのだという話でしたが、それではその「窮屈さ」の正体とは何なのか話したいと思います。  作家を縛る「窮屈さ」。それは結局、エモーション(感情)に対するロジック(論理)の束縛だとぼくは思います。  つまり、作家は自分の内なるエモーションに従って作品を書こうとするけれど、良い作品を書くためには精緻なロジックに従う必要がある。  そこで湧き上がるエモーションを管理しつづける作業は窮屈だといえます。  その窮屈さがしだいに耐えられなくなっていくというのが「作家衰退」の真相なのではないかと。  もちろん、エモーションそのものが枯れ果ててしまうこともありますが、そういう人は大抵が作家を辞めてしまうので「衰えた」という印象は与えない。  やはり問題はエモーションの暴走をどう止めるか、というところにある。  ここでむずかしいのは、作家本人にとってはエモーションが暴走している状態のほうが楽しいということです。  あるいはロジックという窮屈な枷のなかで書いているより、面白いものを書けているという実感を持てるかもしれない。  しかし、ぼくが岡目八目で見る限り、やはりエモーションを優先させすぎた作品はダメですね。  なんというかこうキャラ愛あふれる同人誌みたいなものになりがちです。  そう――ロジックによって管理しなければならないエモーションの第一が「愛情」なんですね。  キャラクターに対する、あるいは物語に対する愛情を的確にコントロールできなければ、面白い物語(「読者にとって」面白い物語)は作れない。  このあいだ、Twitterで話していて偶然、椎名高志『ゴーストスイーパー美神極楽大作戦‼』の「ルシオラ事件」の話になりました。  いまとなっては「ルシオラ事件」について知っている方のほうが少ないかもしれませんが、ようはこの漫画の脇役のひとりであるルシオラというキャラクターが人気が出すぎてしまい、また作者が愛着を抱きすぎて物語が破綻しかけるところまで行ってしまったという「事件」です。  最終的には一応、ルシオラは物語から退場して終わるのですが、かなり苦し紛れともいえる結末に多くの読者は不満を抱きました。  これなどは物語空間に横溢するエモーションを冷徹なロジックによって管理し切れなかった典型的な一例だと思います。  ルシオラなー。可愛いんだけれどなー。  でも、そのおそらく作者にとっても可愛い、愛しいキャラクターを、作劇のための「駒」として割り切る視点がなければ面白い物語は書けないのです。  シナリオメイキングとは 

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

 勝木光『ベイビーステップ』を読み返しています。  第1巻から始めて、いま、第20巻くらい。全日本ジュニアの全国大会が始まったあたりですね。  あらためて読み返してみると色々気づくことも多いわけですが、今回特に思ったのは、作劇の方法論がほんとうに独特だな、ということ。  通常のスポーツ漫画とストーリー展開の方程式が異なっている。非常にオリジナリティが高い。  通常のスポーツ漫画の代表格として、たとえば『スラムダンク』を挙げたいと思いますが、『スラムダンク』と『ベイビーステップ』の作劇を比較してみると落差が露骨にはっきりしています。  『ベイビーステップ』のほうが変わっているんですよ。  いまさらいうまでもないことですが、『スラムダンク』の全体の構成は非常に美しく完成しています。  各試合が過不足なく描き込まれ、日本最強の山王工業への勝利で終わるという流れ。  主人公桜木花道は全体を通し一貫して成長していて、その頂点で物語そのものが完結します。  なんて素晴らしい。  しかし、逆をいうなら、あまりに美しくできているからこそ次の展開は予想しやすいということもいえるわけです。  すべてが「物語的必然」に沿ってできあがっているわけで、たとえば湘北が突然無名の高校に負けてしまうなんてことは起こりえない。  『スラムダンク』の展開は厳密な「漫画力学」にきれいに従っているということもできるでしょう。  しかし、『ベイビーステップ』は違います。  主人公であるエーちゃんがだれに勝ち、だれに負けるかが「物語的必然」で決まっていないように見える。  もちろん、適当に決まっているはずはないのですが、エーちゃんの試合結果は「漫画力学」とはべつの理屈でもって決まっているように思えます。  予想外のところで勝つこともあるし、負けることもありえる。  なぜそこで勝ち、負けるのか、「そのほうが面白くなるから」という理屈では説明できない。  読者から見れば非常に先が予測しにくい漫画といえます。  まあ、読者の予想を先読みしてあえて外しにかかる漫画ならほかにいくらでもありますが、『ベイビーステップ』の作劇はそれとも違う。  どういえばいいのか、「こうなれば面白いはず」という期待をかなりの程度、無視しているようなのです。  典型的なのが 

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

なぜ作家は衰えるのか。

 ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。  で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。  なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。  決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。  まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。  それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。  もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。  というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。  少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。  その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。  この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。  もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。  これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。  ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。  でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。  あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。  でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。  「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。  ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。  構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。  歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。  でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。  書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。  作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。  べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。  しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。  物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。  だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。  そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。  残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。  ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 

なぜ作家は衰えるのか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年生。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼は〈kaien2990@gmail.com〉まで。

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