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記事 14件
  • 『俺ガイル』は分裂と対立の時代における最先端のテーマを扱った文学的傑作(!)だったという話。

    2020-12-03 17:57  
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     賛否両論のNIKEのCMについて、この記事が面白かった。
    https://this.kiji.is/706779517293429857
     賛成、反対、両方の意見が載っているのだけれど、ぼくが興味深かったのは、やはり批判的な意見です。

    他方で、幼少時にイタリアでいじめられた経験があるという元経産官僚の宇佐美典也氏は、「ものすごく嫌な気分になった。嫌いだ」と切って捨てる。
    「吐くほどいじめられた。今でも夢に出るくらいだ。だからアングロサクソンに対しても、ずっと不信感を抱いてきた。しかし東日本大震災のときに米軍が日本人を助けてくれている姿を見て、自分の中のモヤモヤしたものが抜けていった。一方で、僕もいじめる側になったこともある。差別というのは、する側とされる側がいる。そのお互いがいかに理解し合い、問題を解決していくのか。そういう姿を描いてほしかったのに、今回の動画では差別される側だけが取り上げられているし、しかもスポーツによって一人で克服していくヒーローのように描かれていると感じた。逆に言えば、克服できなかった奴、スポーツができない奴は弱い奴になってしまわないか。僕がイタリア人にいじめられていた時にほしかったのは、“一緒にスポーツしようぜ”と手を差し伸べてくれる存在だった。いま、現実にイジメられている人たちが何を求めているかということも考えないといけなかったのではないか」。

     これ、すごく面白い意見だなあと思うんですね。つまり、このCMで「弱者」、「被差別者」、「マイノリティ」として描かれている人物たちが、じつは他方では「スポーツによって一人で克服していくヒーロー」としての属性も持っているという指摘であるわけです。
     人種的には「マイノリティ」だけれど、能力的には「ヒーロー」なんだよ、という描写のCMになっているということ。これはほんとにそうで、このCMは「選ばれしヒーローとしてのマイノリティ」を描き出したものなんですね。
     じゃあ、ヒーローになれない人間はどうすれば良いんだということにはまったく答えていない。もちろん、たかが一本のCMにそこまでの内実を求めることは必須ではないけれど、単純なヒーロー礼賛に留まってしまっているという評価にはならざるを得ない。
     で、なぜこのCMが反発を受けるかというと、ようするに「上から目線の説教」になっているからですよね。おまえらは気づいていないだろうけれど、この国にはこんなに人種差別があるんだよ、だから反省して注意しなさい、というめちゃくちゃ偉そうな説教。
     これが左派が嫌われる理由を端的に示していると思う。自分たちの正義を疑わず、それをウエメセで押しつけてくるという尊大さ。
     でも、左派のほうはその傲慢に気づかず、ひたすら「あいつらはあまりに正しいことをズバッと指摘されたから受け入れられずに困っているんだろ」としか考えない。そのことを象徴する発言が、たとえば、これ。

    また、動画への批判についても、「“自分の周りにはなかった”とか、“大したことないと言える人が、この社会のマジョリティなんだろうと思うし、このような社会問題を気にしなくても済んでいる状況にたまたま位置づけられている人々が反発しているのだと思う。だからこそ、自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と分析。「マイノリティが何かを言うことによって分断が生まれているわけではなく、そもそも人種差別などの不平等と不公正が存在し、そのことによって楽しい学生生活や、アスリートとして活躍するチャンスそのものを与えられない人たちがいるということ可視化・認識するところから始めていかなければいけないのではないか」と話した。

     おそらく無意識だと思うけれど、批判者を非常に下に見て、「自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と決めつけている。
     ぼくにいわせれば、じっさいに差別していないのに「差別に加担したと指摘」されたら怒って当然だと思うのですが、この方はその「告発」をまっすぐ受け入れて反省するのが「正しい態度」だと考えているのでしょうか。
     しかし、この記事のあとのほうで佐々木俊尚さんも書いている通り、もはやシンプルな「弱者/強者」、「マイノリティ/マジョリティ」という図式を固定的に考えることは無理があるのだと思います。
     あるひとりの人のことを単純に「あいつは弱者だ」とか、「こいつはマジョリティだ」などと決めつけることはできないのです。
     なぜなら、ひとりの人間には複数の「属性」があり、見方によっていくらでも「マイノリティ」とか「マジョリティ」といった位置づけは逆転するから。
     たとえば「黒人」の「レズビアン」の「女性」はいつも「被害者」で「被差別者」かといえば、かならずしもそうではない、世界はそんなに単純に出来ていないのです。
     しかし、だからといって、そこに「差別」なんてものはないのだと開き直ることもまた間違えている。「差別」は厳然としてあるし、それは認めなければならない。ただ、だれが「加害者」でだれが「被害者」なのかは、かならずしも自明ではないのです。
     これ、あきらかにテン年代のライトノベルが「非リア(オタク)」対「リア充」という硬直した図式を壊していったプロセスと重なる話ですよね。ペトロニウスさんがこのように書いている通りです。 
  • 「次」は、こっちだ! ポスト脱ルサンチマンラブコメライトノベルの時代が来る。

    2017-12-01 02:40  
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     そういうわけで、「ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。」の続きです。
     「リア充」と「オタク」という対立構造をなくしたラブコメに残る問題点とは何か?ということなのですが、その前にちょっと整理しましょう。
     ぼくはここ数年のラブコメライトノベルを「リア充へのルサンチマン」という視点から見ています。もちろん、それでは整理し切れない作品はあるでしょうが、まあ、べつに万能の理論を作ろうとしているわけでもないからそれはそれでいい。
     この「リア充へのルサンチマン」が「リア充」と「オタク」ないし「ぼっち」という対立軸を生み出し、その対立軸を基準にして物語を展開していったのが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』といった作品でした。
     漫画やアニメでも同種の作品が色々ありますね。で、そのリア充を敵視するプロセスのなかで、しだいに「自分たち自身が最高のリア
  • ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。

    2017-11-30 07:00  
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     うん、きょう(11月29日)のラジオは短いながらも面白かった。例によって「リア充」がひとつのテーマとなっているのですが、今回はいままでと扱い方が違うような気がします。
     いままでは多少なりと「リア充ばくはつしろー」な気分があったけれど、今回はもう、何というか「リア充の皆さんご自愛ください」くらいの優しい心境(笑)。
     こう書くといかにも上から目線のようだけれどそうじゃなくて、自分が幸せいっぱいだから他人を下に見る必要性はないのです。何かを下に見てそれに比べて自分は上だ、と悦に入るのはしょせんエセリア充に過ぎません。
     ほんとうのリア充は決して驕らないし、高ぶらない。ぼくもだいぶそこに近く――なっていないかな? まあでも、少しは近づいたと思います。ええ、まあ、ただの虫けらですけれど。
     先日開いた富士山麓の合宿は、ぼく(たち)の長いイベント開催の歴史のなかでも特筆すべきものだったと思います
  • 萌え日常系ラノベに「リア充主人公」が登場する日は来るか?

    2016-12-22 20:21  
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     平坂読『妹さえいればいい。』最新刊を読み上げました。前巻で一気にストーリーが進んだのでこの巻ではどうなるかと思っていたのですが、物語は停滞することなく先へ進み、ひとつのターニングポイントへたどり着きます。
     同じ作者の前作『僕は友達が少ない』では、物語は主人公が決断を避けることによって徹底的にひきのばされたのですが、この作品では正反対の方法論が採用されているように思えます。
     主人公はあっさりと決断を下しつづけ、物語はどんどん進んでいくのです。こうも真逆の方法論を続けざまに使いこなす平坂読の実力には驚かされます。すごいや。
     ネットで平坂さんの作品を取りあげてラノベ批判を行っている人たちのばかばかしさがよくわかります。どうして平坂読の次代を読む力量がわからないかな、と思うのですが、わからないんだろうなあ。
     もちろん、作品の評価は人それぞれではありますが、あまりにも議論のポイントがずれて
  • 「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

    2016-06-02 17:36  
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     こんな記事を読みました。

     もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。
     スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。
     私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。
    http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000

     うーむ、どうなんでしょうね。
     たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。
     まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。
     でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。
     SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。
     ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。
     もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。
     ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。
     何より、読書とはそもそも孤独な行為です。
     電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。
     その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。
     それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。
     でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。
     本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。
     ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。
     本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。
     SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。
     しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。
     ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。
     それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。
     というか、 
  • ハーレムラブコメのパラドキシカルな構造・基礎編。

    2016-01-30 12:03  
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     今月ももう終わりですね。
     つい最近、正月を迎えたばかりという気がしますが、いったいそのあいだ何があったのでしょうか。
     少なくともぼくは何もしていない気がします。どうなっているんだ。
     ところで、先日、人間ドックを受けたのですが、予想通りコレステロールが高すぎて食事を改善しないといけない模様です。
     さて、そうすると何を楽しみにしたらいいのか――本を読むのか、映画を見るのか、いずれにしろ趣味を充実させていきたいですね。寝ているだけでも時間は過ぎていくので。
     そういうわけで、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読み返したりしていました。
     ここで新作に挑めないあたりがいまのぼくの現状を示している気もしますが、まあ、読まないよりは読んだほうがいいかと。
     『俺妹』はいわずと知れたラブコメライトノベルの名作です。
     いろいろな意味で画期的な作品だったのですが、結末だけ賛否両論が分かれて
  • 平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

    2015-11-18 17:51  
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     きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。
     現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。
     いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。
     この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。
     紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。
     各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。
     だから、関係性はどんどん変化していく。
     しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。
     ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。
     いや、このいい方は誤解を招くかな。
     もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。
     いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。
     ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。
     ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。
     でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。
     そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。
     平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。
     はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。
     この作品にはぜひヒットしてほしいですね。
     それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。
     その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。
     同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。
     平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。
     しかし 
  • 一億分の一であるという素晴らしさ。

    2015-10-12 05:52  
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     ペトロニウスさんの最新記事を読みました。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2
     ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。
     そして、きわめつけにタイムリー。
     これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。
     この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。
     つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。
     これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。
     くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。
     「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。
     ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。
     そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。
     『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。
     この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。
     最初から最後までかれは「残念」であるわけです。
     これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。
     しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。
     というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。
     だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。
     ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。
     さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。
     この物語にはこういう記述があります。

     才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
     誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
     一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。

     ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。
     そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。
     べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。
     それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。
     かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。
     ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。
     むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。
     より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。
     そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。
     かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。
     それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。
     しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。
     もちろん、 
  • オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

    2015-10-10 23:52  
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     一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。
     この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。
     結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。
     だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。
     一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。
     ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。
     その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。
     オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。
     『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。
     今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。
     たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。
     しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。
     第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。
     じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。
     オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。
     だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。
     この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。
     もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。
     そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。
     『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。
     アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。
     もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。
     ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。
     時代は変わったんだなあ、ということですね。
     で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。
     カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。
     もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。
     ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。
     もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。
     時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。
     ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。
     同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。
     それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。

     ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。
     そこまで状況は変わって来ているのですね。
     そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。
     結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。
     この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。
     本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。
     ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。
     まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。
     これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。
     それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。
     特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。

     当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。

     そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。

    ・変わり者が多い
    ・Twitterではやたらとテンション高い
    ・男性声優のツイートをリツイート
    ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう
    ・ゴスロリ系と思しき服装
    ・一人称が「ボク」な子もいる
    ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装
    ・普段の外出は母のおさがりの婦人服
    ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ
    ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ
    ・薄い本(BL同人誌)大量購入
    ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし

     こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。
     しかし、 
  • 『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?

    2015-03-21 19:53  
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     平坂読の最新作『妹さえいればいい。』をくり返し読み返している。
     面白いなー。面白いなー。
     一般文芸とはまったく異なるライトノベル特有の世界なのだけれど、ぼくとしては非常にしっくり来る。
     作中では主人公がAmazonレビューを罵倒していたりもするのだが、じっさい、この小説のAmazonレビューを見ると「まあ、罵倒したくもなる気持ちもわかるよな」と思えて来る。
     もちろん、普通に読んで評価している人もいるのだけれど、★ひとつ付けているレビュアーとか、あきらかに本編を読んでいないものなあ。
     まさに「アマゾンレビューは貴様の日記帳ではない!」といいたいところ。
     一方で「小ネタの連続ばかりでストーリー性が薄すぎる。その割には変な商売っ気だけはやたらと豊富」という★★の評価もあって、これは非常によく理解できる。
     普段からライトノベルを読みなれていない人が読むとこういうふうに思うだろうな、と。
     ただ、ある程度この手の小説に慣れている人間から見ると、やはりいくらか筋違いに思えるのもたしか。
     「普通の小説であれば、おそらく必要不可欠の要素である一冊の本を通してのストーリーと言うべき物が全く無いのである」ということなのだが、すいません、平坂読の作品は「普通の小説」ではないのです。
     『妹さえいればいい。』をあえてジャンル分けするなら、いわゆる「日常もの」にあたるだろう。
     この作品に「一冊の本を通してのストーリー」がないという指摘は正しいが、そういう物語は既に膨大な数が出ており、しかも読者に受け入れられているのだ。
     『ゆゆ式』にも狭い意味での「ストーリー」らしきものはほとんどないが、いまさらそれを問題視する人はほとんどいないと思う。
     たとえば『To Heart』あたりから数えるとすれば、オタク文化はもう既に20年くらい日常ものを描いている。
     『あずまんが大王』から数えると15、6年かな。
     一般的な意味での「ストーリー」がほとんど存在しないように見えるプロットは、ラノベ慣れしていない人にはさぞ奇妙に見えるだろうが、実はそれなりの歴史と伝統を背負っているのである。
     また、作中にオタクネタをやたらと散りばめるのも、既に何年も前に確立された方法論だ。

    そのストーリー性の薄さの代わりにやたらと詰め込まれていたのがラノベネタである
    ラノベ作家を主役にした作品なのだから当然だろうという方もいるだろうけど、ここで言う「ラノベネタ」というのが現実に出版されたラノベなのだから仰天させられた

     とあるのだけれど、これはべつに『妹さえいればいい。』の独創ではなく、いまのライトノベルにおいてはむしろスタンダードな方法論であるわけなのだ。
     そしてそういうやり方が採用されているのは「商売っ気」というより、単純に読者が喜ぶからだろう。
     じっさい、ぼくは217ページ5行目のネタで死ぬほど笑った。
     この種のジャンル自己言及はジャンルを狭いターゲットに向けて閉じていくから良くないという評価もあるとは思う。
     しかし、それをいいだしたらSFとかミステリが自己言及を重ねながら進歩していった歴史も否定されなければならないことになる。
     新本格ミステリなんて全部ダメになるんじゃないですかね?
     綾辻行人のクリスティネタとか有栖川有栖のクイーンネタは良くて、平坂読の『Fate』ネタ、『ソードアート・オンライン』はネタは良くない、という理由もないだろう。
     まあ、そんなことばかりやっていたから本格ミステリは商業的に衰退したんだ!といわれると一理ある気はしますが……。
     ここらへんはもうちょっと深堀りしないといけないテーマかもしれない。
     そういうわけで、このレビューの批判的な「読み」は、何をいいたいかは非常によくわかるのだけれど、あまりにもいまさらな指摘に思える。
     ラノベを読みなれていない人がそういうふうに感じることは非常に無理がない話ではあるのだが、現在のラノベではこの程度のことは善かれ悪しかれ常識なのである。
     つくづく思うけれど、ライトノベルを読むためにはライトノベル特有のリテラシーが必要なんだよなあ。
     「タイムパラドックスって何?」という人がSFには向かないように、「密室殺人ってどういうこと?」という人がミステリには適さないように、ライトノベルを読むためにはそれなりの知識と感性が必要になるということなのだろう。
     まあ、それが良いことなのかどうかということは、先述したようにたしかに議論の余地があるだろうけれど……。
     しかし、一方で『妹さえいればいい。』は非常に間口が広い作品でもあると思う。
     たしかにラノベ特有の異色の方法論を用いて入るのだが、見方を変えればほんとうにただの青春小説だからだ。
     オタク版『ハチミツとクローバー』だよなあ、と思うくらい。
     たしかに