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タグ “ソードアート・オンライン” を含む記事 10件

冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。

 5月に入って、そろそろ新作アニメの視聴も絞らないといけない時期に入っていますね。  ぼくは『Re:ゼロから始める異世界生活』、『マクロスΔ』、『くまみこ』、『少年メイド』、『SUPER LOVERS』、『甲鉄城のカバネリ』あたりを中心に追いかけています。  過去作で消化していないものもたくさんあるので、それも並行して見ないといけないと思うと、なかなか忙しい。  ぼくの場合、アニメを見ることは「趣味」であるのと同時に「お仕事」でもあるので、あまりサボるわけにはいかないのです。  まあ、そうはいっても長い間サボっていたわけですが。それでもね。  さて、そういうわけでいまは『灰と幻想のグリムガル』の続きを見ています。  まだ見終わっていなかったのかよ、といわれるかもしれませんが、そうなんですよ。もっと早く見ないとな、とは思うのですが……。  『灰と幻想のグリムガル』、まだ見終わっていない段階でいうのもなんですが、今年を代表する傑作だと思います。  ちょっとライトノベル原作とは思えないくらい(偏見か?)渋い雰囲気の作品ですが、ちゃんとそこそこ売れているようでひと安心。  こういう作品がまったく評価されないようだと辛いですから。  それでは、どこがそんなに面白いのか? 色々ありますが、やはりゴブリン一匹倒すのにも苦労する未熟な新米冒険者パーティにフォーカスして、その非日常的な日常を描き出した点が大きいでしょう。  普通のアニメだったら(たとえば『ソードアート・オンライン』だったら)、あっというまに駆け抜けていくであろう冴えないポイントを執拗に描きだす面白さ。  必然的に地味な展開にはなるんだけれど、そのぶん、弱者の冴えない青春にもある素晴らしい瞬間を描きだすことに成功している。  世界が輝いて見えるような、そんな時。  ぼくはこの作品はあきらかに最近の青春映画の文脈で語るべきものだと思っています。  ここ最近の青春映画、『ちはやふる』、『バクマン。』、『くちびるに歌を』、『心が叫びたがってるんだ。』、『響け!ユーフォニアム』などは、いずれもスケールがごく小さかったり、最後に挫折が待っていたりするという共通点があります。  『青春100キロ』もこの系譜に入れてもいいかもしれないけれど、あれはちょっと違う気がする。もっと古典的。  それは置いておくとして、ここに挙げた作品はどの映画もどちらかというと「冴えない青春」であって、「全国大会優勝!」といった話にはならないのです。  まあ、『ちはやふる』をちはやの物語と捉えると、いずれは全国大会優勝したりするかもしれないけれど、映画版はあきらかに太一が主人公だと思います。  「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。  しかし、 

冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。

 どもです。  あまり根を詰めて記事を書いているとだんだん生産性が落ちてきますねー。30分で書けた記事が1時間かかるようになったりする。  効率が良くないので、適度に休んだりする必要があるのだと悟りました。じっさいに疲れ切るところまでいかないと悟れないあたり、オレ、マジどうしようもないな。  そういうわけで人生に疲れ果てたからアニメでも見るかということで、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を見ています。  あー、これ、ほんと見やすい。異常に楽。心にストレスが一切かからない素晴らしいアニメだな。  『灰と幻想のグリムガル』とか『甲鉄城のカバネリ』みたいなきびしい話もそれはそれでいいけれど、この種の願望充足萌えファンタジーも人類には必要だよなあ。  これと『くまみこ』があればしばらく生きていける気がするよ。  ただ、そういうふうに気楽に見れるには違いないのだけれど、リアルに考えるとけっこう切実な話だよなあとは思う。  リアルに適応できない、ネトゲのなかでしか生きられないような人間はどうすればいいか?  物語のなかでは亜子は仲間を見いだし、旦那まで見つけてそこそこ幸せそうに暮らしているわけだけれど、これが現実だったらひきこもり一直線でしょうねえ。  そう考えるとかなり辛いものがある。「リアルはしんどいです」は非リアの魂の叫びだよなあ。よくわかるよ、ぼくもしんどいもん。  アニメ見て漫画読んでゲームやるだけの暮らしをしたい――って、既にもうそういう生活をしているか。  まあ、そうはいっても一切リアルとの交流を断つわけにはいかないので、それなりに色々あるのですよ。  こういう限りなく楽な生活を送っているぼくですら辛いと思うのだから、真面目に学生とか社会人とかやっている非リアの人はほんとうに辛いだろうな、と思う。  それはひきこもりも増えるわ。リアルは無理ゲーだもん。どう考えても。あんなもん。まともにプレイできる奴らのほうがおかしい。どっか狂っているに違いない(偏見)。  「坑道のカナリア」ではありませんが、神経が繊細な人間はこの社会の異常さをだれよりも早く感じ取って苦しむものだと思うのです。  もちろん、狂っていない社会など存在しないのかもしれないし、どうあがいてもそこから脱出することなどできるはずもないんですけれどね……。  リアルに絶望した人間が、ネットゲームのなかに希望を見いだす話というと、『ソードアート・オンライン』もそうですよね。  まったく違うように見えるけれど、ある意味では共通点があるお話ということになる。  ただ、『ソードアート・オンライン』の世界まで行ってしまうと、学業とか仕事もネトゲのなかでこなせばいいような気がする(笑)。  あの仮想現実の世界はゲームをはるかに超えているよね。  いまの時代、それもプレイステーションVRとかでなかば現実になりかけているあたりが恐ろしい。  これから実現するであろうヴァーチャルリアリティ・ネットゲームの依存度の高さはいままでのネトゲの比じゃないでしょうね。  じっさいのところ、何かしらの対策を練らないとまずいんじゃないでしょうか。  萌え萌えっていうレベルじゃねえぞ。出生率さらに下がるかもしれないぞ。  まあ、『ヲタクに恋は難しい』がミリオンセラーを記録したりするところを見てもわかるように、我らオタク・トライブのイメージもだいぶ明るいものにはなりましたが、それでもリアルに適応できない人は一定数いるわけなのですよ。  さらに進歩を続けるゲームの世界はそういう人にとって救いになりえるかもしれない。  でも、そうやってゲームに耽溺すればするほどリアルがさらに耐えがたくなっていくという矛盾があるわけで、それはどうしようもないのかもしれないなあ、とも思います。  あるいは、 

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。

ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

 ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1  長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。  ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。  つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。  そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。  この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。  ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。  オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。  最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。  これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。  こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。  しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。  ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。  また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。  さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。  その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。  つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。  ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。  あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。  いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。  ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。  古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。  人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。  ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。  もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。  神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。  具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。  まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。  こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。  こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。  ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。  その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。  オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。  いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。  なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。  いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。  たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。  しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。  その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。  シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。  偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。  ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。  ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。  完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。  ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。  それでは、その「オリジナルさ」とは何か。  これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。  『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。  その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。  しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。  さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。  これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。  神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。  普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。  しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。  この話はきわめて示唆的です。  つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。  むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。  これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。  ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。  美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。  ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。  むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。  これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。  しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 

ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

 ども。 何となくテレビゲームをプレイしたい気分になったので、『アサシンクリード』シリーズのナンバリングタイトル第四弾『ブラックフラッグ』を購入して来ました。  新しいゲームを始めるときはいつもそうであるように、はてしなくひろがる世界に心踊ります。  ただ、ヴィジュアル面では、やはりPS3の映像処理能力の限界は如何ともしがたい感じ。  これがPS4だったらはるかにきれいなのだろうし、まだ見ぬ未来のゲームマシンではさらに美しい世界を仮想現実で体験できるのでしょうね。  まさに『ソードアート・オンライン』。  『SAO』の世界はもう既に夢物語ではなくなりつつあるのかもしれません。  とりあえずSONYの「プロジェクト・モーフィアス」には期待したいところ。  さて、『SAO』は現在、セールス1000万部を超え、ライトノベルの歴史上でも記録的な数字を叩き出しつづけているようです。  ファンタジー世界を模した仮想現実空間で死の冒険を繰りひろげるというアイディアそのものはいまとなってはむしろ凡庸であるにもかかわらず、なぜ『SAO』はこれほど読者を惹きつけるのでしょうか?  ――いやあ、これが正直、よくわからない。  もちろん、『SAO』がでたらめに面白いことは論をまたないのだけれど、それにしてもいまどきめずらしいくらいのストレートな冒険小説であるわけで、「いまさらこういうのはちょっと……」という反応になっていてもおかしくなかったはず。  じっさい、同種のアイディアを使用した作品はそこまであたっていないのだから、いったい『SAO』の何がそこまで特別なのか? はっきり言葉にすることは意外に簡単ではないようです。  ひとつ考えられるのは、おそらく「いまどきめずらしいくらいストレートなヒーローものの冒険小説」であることが、かえってプラスに働いているんだろうな、ということです。  『SAO』の最大の魅力が、主人公を務めるキリトという少年にあることは間違いないでしょう。  長大な『SAO』のほぼ全作品に登場して無双しつづけるこの「黒の剣士」は、ほとんど孫悟空とかダルタニアンあたりに比肩する伝説的な存在感を有しています。  ただ、どこか少女めいた容姿に、不世出の剣の腕前、などとその個性を並べあげると、むしろ凡庸なキャラクターに思える。  なぜキリト少年だけがこうもスペシャルに読者を冒険へ誘うのでしょうか?  いろいろと理屈は考えられるのですが、正直、やっぱりよくわかりません。  すべては結局は『SAO』が「王道」の物語であること、そして「王道」はいつも最高に面白いのだということを示しているように思われます。  しかし、その「王道」が限りなく通じにくくなっているのが現代なのであり、だからこそ何かしら「王道」をひねった作品が出現しているはずだったのではないでしょうか?   いったい『SAO』やキリトをほかの凡庸な「王道」的な物語と区別しているものは何なのでしょう。  これはいまもってぼくの宿題で、はっきりした解答を示すことができていません。  まあ、ひとつの決定的な答えがあるわけではなく、作家としての総合的な実力が抜きん出ていた結果なのかもしれませんが。  じっさい、川原礫はその驚異的な執筆速度も含めて、現代最高のライトノベル作家といってもいいでしょう。  特に物語がグレッグ・イーガンめいたオーバードライブを見せる第四部「アリシゼーション」の魅力は別格です。  この「アリシゼーション」、電撃文庫版ではいまだに完結を見ていないのですが、ぼくはライトノベル史上最高のエンターテインメントだと思っています。 

『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。

 ペトロニウスさんが最新記事でSEKAI NO OWARIを取り上げていますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150321/p1  SEKAI NO OWARIはたしか新潟にもツアーで来たりしているはずなので、たまに視界の端っこに入ったりするアーティストなんですけれど、なるほど、ゲームと仮想現実の文脈で見るのは面白いです。  たしかにSEKAI NO OWARIが歌う「ファンタジー」って、ゲーム世代のファンタジーだよなあ、という気は強くする。  べつだん熱烈なファンというわけじゃないし、何曲か聴いて感じただけの印象ですが、まあ、『ドラゴンクエスト』の世界ですよね。  ただ、『ドラクエ』的なイマジネーションというものは、いまではもうひとつ『ドラクエ』を超えて普遍化したものだと思うんですよ。  ぼくたち以降の世代は、仮に『ドラクエ』をプレイしたことがないとしても、その想像力を確実にシェアしているんじゃないか。  「小説家になろう」で広く見られるファンタジー作品などはその典型であるわけですけれど、年代的に必ずしも『ドラクエ』がメジャーでない若い世代にとっても、やっぱり『ドラクエ』的なファンタジーは親和性が高いものなのだろうと思うのです。  『ドラクエ』に始まり、一般化し、普遍化し、日本中に広がっていったひとつの「世界観」があるということですね。  その「世界観」はもはや膨大な数のファンタジー作品に影響を与えていて、若い世代にとっては「原風景」とすらいえるものとなっている気すらします。  どういえばいいのかな、何かきれいな風景や、神秘的な物体を見ると、ぼくなどはすぐに、ああ『ドラクエ』だ、『ファイナルファンタジー』だ、『ゼルダの伝説』だ、というふうに思う。  でも、それってほんとうは順序が転倒していることなんですよね。  ほんとうは現実に美しい景色や神秘なモノが存在していて、それを引用してゲーム的なイマジネーションが紡がれていったのだから。  ただ、いまのぼくたちにとっては現実の自然よりも虚構のゲームのほうがはるかに身近になってしまっていることは、良し悪しはともかくもう完全な事実ですよね。  たとえば「戦争」というと、まず『ガンダム』が思い出される、みたいな現象に近いかもしれません。  いまのぼくたちにとって、ゲームの世界が「もうひとつの現実」であり、「いつかそこにいたことがあったかもしれない世界」と感じられることは争えない事実でしょう。  たぶんですね、、、この作詞の感性って、『RPG』や『眠り姫』もそうなんですが、ゲームの世界をも一つの「現実」として前提として考えている感性なんだと僕は感じるんですよ。『眠り姫』とかも、僕らはたくさん冒険したよね!というフレーズは、僕には、ロールプレイングゲームやネットのゲームの世界で、異世界転生というか「もう一つの現実」を生きたことが、現実と等価かそれ以上の価値をもって世界を生きている人の感性が、自然にナチュラルに描かれているですよね。  そう――SEKAI NO OWARIの歌詞の感性は、いまやごく普遍的なものでしょう。  「ゲームでの冒険」は現実の冒険と等価である、と信じることができるセンスは、広く共有されていると思う。  もっとも、こう書いてみてあらためて「その感覚はほんとうだろうか?」と思うことも事実です。  これは『ログ・ホライズン』の記事で書いたことですが、現代で流通しているファンタジー的な想像力はそのほとんどが「コピーのコピーのコピー」であるに過ぎません。  その源流にまでたどっていけばたしかにオリジナルがあるにせよ、それと比べたらはるかに色褪せた想像力でしかありえないと思うのです。  これには異論もあることでしょう。  アニメやゲームのヴィジュアル的な解像度は増すばかりであり、迫真の作品が次々と出て来ている。  たとえそれが「コピー」であるとしても、圧倒的な薄力をもった作品もあるはずではないか、とか。  しかし、そうはいっても、ぼくたちはファンタジーゲームをあくまで「ゲーム」として、「フィクション」として割り切った上でプレイしている。  一方で、ぼくたちが単にファンタジーゲームのジョブのひとつとして扱っている「騎士」とか「魔法使い」とか「占星術師」とかが現実の存在だった時代があるのです(占い師は一応いまでもいますが)。  もっというなら、森の奥に妖精が住んでいるかもしれないと信じられる時代が現実にあったし、どこか遠くにドラゴンがひそんでいるかもしれないと考えられた時代もあったわけなんですよ。  そういう時代において、魔法使いや妖精やドラゴンや吸血鬼は紛れもない「実在」の存在であって、ファンタジーはただの遠い世界を描いた夢の話ではなくまさに「真実」の物語だった。  もちろん、あるいはその時代の人々もそれらはしょせん迷信の産物に過ぎないと考えていたかもしれない。  しかし、それにしたって、高度産業文明に守られて自然から切り離されたぼくたちとは「魔法」のリアリティが格段に違っていたはずなんですよね。  そこにはじっさいに自然があり、脅威があった。  森の奥には何がひそんでいるのかわからなかった。  海の向こうには何が生きていてもおかしくないと思えた。  そういう広い意味での「自然」に接した体験に由来するファンタジーを、ぼくは「本物」と呼びます。  そして、きょう流通しているファンタジーのほとんどは、ひとつの作品としてどんなに優れているとしても、そういう意味ではやはり「コピー」なのです。  現代人そのものが「コピー」に囲まれて人工の世界を生きている存在だといってもいい。  それが「生の不全感」へつながっていくこともある。  しかし――ここが重要なところなのですが、「コピー」が「本物」になりえる瞬間もまたあると思うのです。  ほんとうは「フェイカー」であるに過ぎない衛宮士郎が、本物の神話の英雄であるギルガメッシュを破ったように、といえば良いでしょうか。  なぜそんなことが起こるのか? それは、 

『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。

いま伝説が生まれる。奇跡の傑作『ソードアート・オンライン アリシゼーション』を読め!(2222文字)

 先日、『ソードアート・オンライン』の第12巻が発売されました。ぼくはウェブ版でひと足早く「アリシゼーション」編の結末まで読んでいるのだけれど、この小説はここらへんの話からいよいよ無類に面白くなってきます。未読の方は第2巻から第8巻までは飛ばしても問題ないので(おい)、ぜひ読んでください。  『ソードアート・オンライン』、特に第四部「アリシゼーション」は日本のテン年代のエンターテインメントを代表する大傑作です。これはライトノベルがどうこうという次元ではなく、日本のエンタメ小説全体を見わたしても傑出した出来の作品だと思う。  まあ、『十二国記』と違って大人の批評家たちはこの作品を高く評価したりしないでしょうが、でも、これほどめちゃくちゃ面白い小説はまずめったにあるものではありません。それだけは断言できる。  『ソードアート・オンライン』は「主人公たちがヴァーチャル・リアリィRPGの世界に閉じ込められ、生還を求めて冒険する」という、それじたいは平凡なアイディアから始まります。圧巻はアイディアではなく、作者のストーリーテリングにあるといっていいでしょう。  いまのライトノベルを見回してもちょっとこれだけ「語り」のうまい作家はほかに思いつきません。『ソードアート・オンライン』がほかのライトノベルを圧倒するセールスを誇っていることはあまりにも当然のことで、これほど魅力的に語られる小説はほかにないのです。  もちろん、その中身はいってしまえばチャンバラ小説で、何か特別に新しいところがあるわけではないかもしれない。しかし、その安定し洗練された「語り」は素材の新味のなさを補って余りあります。  美少年、美少女の主人公とヒロインを初めとする魅力的なキャラクターたち、いかにももっともらしく設定された舞台背景、そしてときにサスペンスを盛り上げ、ときにユーモアを満たして語り続けられる物語のおもしろさ、それらの要素が高い次元で合わさっているだけで十分に傑作に値するでしょう。  惜しむらくは第一章「ソードアート・オンライン」完結後に続くエピソードがマンネリ化しかけているところだけれど、それはもう、仕方ないこと。いくら優れた作家でもそうそう新しいアイディアなど思いつくものでもない。ぼくはそう思っていました。「アリシゼーション」が始まるまでは。  「アリシゼーション」はそのチャンバラ小説とセンス・オブ・ワンダーあふれるサイエンス・フィクション的アイディアを融合させた歴史的大傑作です。ぼくはライトノベル始まって以来の最高傑作だと断言します。  

いま伝説が生まれる。奇跡の傑作『ソードアート・オンライン アリシゼーション』を読め!(2222文字)
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海燕

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