• このエントリーをはてなブックマークに追加

今なら、継続入会で月額会員費が1ヶ月分無料!

記事 19件
  • 連休には『ゲーム・オブ・スローンズ』を観よう!

    2017-01-06 14:13  
    50pt
     あけましておめでとうございます――という時期でも既にないですね。あいかわらず更新が遅れていて申し訳ありません。
     この正月、ぼくは何をしていたかというと、一心に小説を書き進めるほか、欧米を初め世界で大人気、既刊5作で7500万部突破!という超人気タイトル『氷と炎の歌』のテレビドラマ版『ゲーム・オブ・スローンズ』を借りて来ては見ないで返却したりしていました。
     ええ、ぼくはいままで延滞金で数万円は使ってきた男です。これからはダウンロードオンリーにしようかな。それはそれでお金かかるけれど……。
     まあ、観ずに返却しておいていうのも何ですが、『ゲーム・オブ・スローンズ』は原作もドラマも傑作の評判も高く、じっさい異様に面白い作品です。
     最近、やたらにレベルが上がっているという噂のアメリカのテレビドラマのなかでも、頂点に君臨する作品だといいます。
     いったいどこがそんなに面白いのか? ひと言でいうと、超が付くほど重厚なんですね。この作品に、『進撃の巨人』などと同じく「壁」が登場するのですが、ちょっと世界の分厚さが桁違いという気がします。
     もちろん、『進撃の巨人』も傑作なのだけれど、『ゲーム・オブ・スローンズ』のそれは、ほとんど世界が「そこにある」という感じで、ほかのファンタジーの追随を許しません。
     ちょっと一読しただけでは憶えきれないほどの膨大な登場人物が錯綜し、殺し合ったり、貶め合ったり、それはもう大変なドラマを繰りひろげています。
     一応、ファンタジーには違いないのですが、むしろ架空戦国絵巻という色合いのほうが強く、特に序盤では魔法とかドラゴンといった存在はほとんど出てきません。
     そのあとは徐々に幻想色が強まっていきますが、それにしても『指輪物語』みたいな作品とは一線を画す印象です。いわゆるダークファンタジーの理想的結実といえるかもしれませんが、ひと口にダークといっても、その「世界の色あい」の多様性は半端ではない印象。
     とうてい善悪では割り切れない、途方もなく複雑な個性をもった登場人物たちの活躍やら暗躍やら没落には、強く惹き付けられるものがあります。
     作者のジョージ・R・R・マーティンは、いわゆる「天才」というべき才能ではないかもしれませんが、なまじの天才ではとても追いつけない技量に到達していると思えます。化け物め……。
     まあ、あまりにも世界を拡大しすぎた結果、新刊がなかなか出ないというよくある現象が例によって発生し、遅々として出ない続刊を待つ読者たちが焦れに焦れるという事態になったりしているようですが、それも大長編ものの宿命といえるでしょう。
     作者の寿命から考えて未完に終わる可能性も高いという洒落にならない事実もあるのですが……。あと2作で終わる予定なんだけれど、果たしてほんとうに完結を迎えるものなのか、神々のみぞ知るというところ。
     しかしまあ、とにかく、克明きわまりない描写の積み上げによって生み出されたそのリアリティは半端じゃないものがあります。
     『銀河英雄伝説』とか『グイン・サーガ』、『ベルセルク』といった大河群像劇が好きな向きは必ず嵌まると思われるので、ぜひ読んでみてください。マジパネェっすよ。
     とはいえ、この作品、いったいどういうわけなのか日本での知名度はあまり高くないようです。Googleで検索してもあまり多くの記事が見つかりません。
     どうしてなのかと考えてみてのですが、そもそも翻訳ファンタジーというジャンルの需要があまり高くないのだと思い至りました。このライトノベルが百花繚乱のご時世に、翻訳ファンタジーなんて読んでいる人はマニアだよね……。
     まあ、先述した通り、『ゲーム・オブ・スローンズ』はシンプルにファンタジーとはいい切れない作品ではあるのですが、そこら辺は読んでみないとわからないわけで、一緒くたにされて敬遠されているのでしょう。可哀想な子!
     何といってもあまりに長いし、一冊は分厚いし、登場人物は記憶力の限界に挑戦する数である上に同名の人物がたくさん出て来るし、何かととっつきづらい作品であることは間違いありません。
     しかし、一旦はまったら最後、ちょっと抜け出せない程の深みがあることはぼくが保証します。おそらく、世界中のあらゆる長篇ファンタジー小説のなかでも最高の一作です。厚みが違うんだよ、厚みが。
     とはいえ、先に述べた通り、未完のままなかなか続刊が出ないこともたしかで、いまとなっては何とドラマ版が原作の展開を追い抜いてしまうという奇妙なことになってしまいました。
     そう、原作ではまだ未刊の第六シリーズ「冬の狂風」がドラマでは既にリリースされているのですね。このままだとほぼ確実にドラマのほうが先に完結することになるでしょう。何てこったい。
     まあ、このまま原作が未完に終わったらドラマを見ればいいということかもしれないけれど、でも、そんな訳にいくか。何とかしてよ、マーティン! と思いつつ、ぼくは小説を書くのでした。いや、ほんと、未完の大長編ロマンって罪だよね……。 
  • なぜ人がイチローになってから打席に立とうとするのか、『シン・ゴジラ』で説明するよ。

    2016-08-14 09:56  
    50pt

     公開から数週間、そろそろ良いだろうということで『シン・ゴジラ』ネタバレ記事である。
     えー、以下の内容は『シン・ゴジラ』に対する致命的なネタバレを複数含んでいます。未見の方は決して読まないようにお願いします。
     さて、この話は一見、『シン・ゴジラ』とは無関係に見えるに違いないひとつの興味深い記事を引用するところから始まる。「イチローになってから打席に立とうとする人が多すぎる」と題された文章だ。

    もちろん準備は重要だが、打席に立つチャンスがあるのに立たない理由はない。
    どんなに頭が良くてどんなに情報をインプットしても、やってみなきゃわからない。
    バッターボックスの外からどんなに雄弁に分析できても、実際バッターボックスに入って見える風景は別世界だ。
    バッターボックスに入って体験する「カーブってこんな曲がるの!?!?!?」という衝撃は、相手がどのタイミングでカーブを投げてくるかより圧倒的に重要な情報なのだ。
    空振りしまくって、ボール球に手を出してしまって、三振して、そういう中で経験を詰んではじめてイチローになる可能性が出てくる。
    技術力が足りない、創業メンバーがいない、メンターがいない、競合がいる、全部バッターボックスの外から言っててもかっこ悪いだけだ。ダサすぎる。
    バッターボックスに立つチャンスがあるなら立てばいい。ストライクが来なくても死なないし、空振りしても死なない。むしろ、ボールの数だけストライクの可能性が高まるし、空振りの数だけヒットの可能性が高まる。
    http://hanaken.hatenablog.com/entry/2016/06/16/184421

     個人的に、なかなか面白いことをいっていると思う。正論といえば、正論である。しかし、同時に、この正論を理屈通りに実践できる人ばかりではないだろうとも思う。
     やはりどういいつくろったところで、失敗することは怖いし、三振することは格好悪いように思えるものなのだ。なぜなら、三振するということは、三振したことを非難されるということだからだ。
     なんであれ失敗すれば必ずだれかから批判される。嘲られるかもしれないし口汚くののしられるかもしれない。見下され、バカにされ、踏みにじられるかもしれない。
     それがまったく怖くないという人は少ないだろう。なんであれ行動する人間は、その恐怖と躊躇を乗り越えて行動している。
     イチローにしてもおそらくそうなのだろうと思う。イチローの生涯打率は、正確には知らないが、おそらく三割をいくらか超える程度だろう。
     ということは、世界最高峰の打者であるイチローですら、成功より遥かに多くの失敗を経験しているわけである。何千回もの失敗の山の上に初めて、イチローの偉業は屹立している。
     何もひとりイチローに限った話ではない。どれほど優れたトップアスリートであれ、生涯無敗という人はほとんどいないだろう。つまり、どんな分野であっても、あるいはどれほどの天才であってもなお、挑戦する人間は必ず失敗も経験するのである。
     それはアクションにともなう普遍的真理というべきことで、どうしたって避けることはできない。ひとは光り輝くサクセスにのみスポットライトをあて注目するが、その陰には必ず白鳥のもがきに似たトライアル&エラーの積み重ねがある。何十、何百、何千という屈辱的なエラーを経てようやく栄光のサクセスにたどり着けるものなのだ。
     それなら、もしそのエラーを犯すことがいやなら、どうすればいいか。ふつうに考えれば、エラーを犯さずに生きることはできないはずだが、ひとつだけ一切エラーしない方法がある。
     つまり、何もしないことだ。何も行動しなければ、ミスすることもない。挑戦しなければ、絶対に失敗しない。発言しなければ決して間違えないし、選択しなければ、無垢な絶対正義のままでいられる。
     そしてその無邪気な正義を振りかざし、必ず何らかの欠点を抱えている行動する者を好きなように批判し、叱責し、誹謗し、嘲笑することができる。何もしなければ、なんの責任を取らされることもない理屈である。
     ここでは、自分の行為の責任を引き受け、他者から攻撃されるリスクを背負った上で行動することを選んだ人間と、あくまで責任とリスクを回避し行動しないことを選んだ人間を、元々の正確な定義とは異なるかもしれないが、「インサイダー(責任当事者)」と「アウトサイダー(責任回避者)」と呼ぶことにしよう。
     あくまで、この場で利用するために考え出した概念に過ぎないので、本来の意味と違うことは気にしないでほしい。
     さて、この言葉の使い方に従うなら、イチローはあきらかにインサイダーである。イチローは常に責任から逃げない。リスクを避けることもしない。
     上記したように彼もいつも成功してきたわけではなく、それこそ何千回と打ち損ねてきたはずだが、それでもインサイダーであることを貫いてきた。
     一方、イチローを批判するアウトサイダーは数多い。彼らは自分でバッターボックスに立つことはしない。ただ、その外からイチローを批評し、ときに批判するだけである。
     「イチローなんてたいしたことないよ。だって、長距離安打は少ないわけだしさ。イチローを過剰評価しているのは日本人だけだよね」といった言説はその典型である。
     こういった言説を自由に語れることはアウトサイダーの特性といっていいだろう。どうしようもなく失敗と敗北を含む現実に直面せざるを得ないインサイダーに対し、アウトサイダーはどこまでも万能で無敵のポジションなのだ。
     また、しばしばその責任の重さに背骨をへし折られてしまうインサイダーと比べ、アウトサイダーは気楽だ。彼らは現実には何ひとつ行動に移さないが、まさにそうだからこそおれだってこれくらいやればできるという幻想にひたっていることができる。
     じっさいに野球をやっている人間は否応なくイチローの偉大さと、イチローと自分の格差を実感せざるを得ないだろう。プロの野球人ならなおさらである。
     しかし、じっさいに責任を引き受けて行動することがないアウトサイダーは一切その種の実感を抱くことはない。だから、アウトサイダーはどこまでも無責任に他人を批評し断罪することができるのだ。
     その意味で、アウトサイダーは自由である。その代わり、アウトサイダーは必然的に一生何ひとつ成し遂げることなく終わる。
     何かを成し遂げるのは常にインサイダーだ。ときに失敗し、ときに挫折し、ときに批判され、ときにくじけそうになりながらも、そして結果が不完全であっても、何らかの業績を達成するのはインサイダーだけである。
     この世に完全な成功は空想のなかにしかない。イチローの業績にしても、「ホームラン王を取ったわけではない」とか「日米通算で安打数をカウントするのはおかしい」といった瑕疵を見つけることはできる。
     しかし、そういった現実を生きる者の宿命を理解した上で、それでも現実を選ぶ人間こそがインサイダーなのである。
     アウトサイダーは空想的な理想のなかを生き、インサイダーは不完全な現実を生きる。
     さて、ここでようやく『シン・ゴジラ』の話に移る。「ニッポン対ゴジラ」というキャッチコピーからもあきらかであるように、『シン・ゴジラ』は日本という国をテーマに据えた映画である。
     ゴジラという天災めいた怪獣を通して、日本社会の現状を描く。アプローチとしては、それほど新しくはない。むしろ、ごく王道の正統的なやり方だといえるだろう。
     それでも日本をテーマにした物語作品として、『シン・ゴジラ』が革命的に新しいのは、これが徹底してインサイダーの物語であることだ。
     その数が数百名に及ぶというこの映画の登場人物たちは、そのほとんどが何かしらの責任を背負って「ゴジラ災害」に立ち向かう者たちばかりである。
     よく民間人やゴジラの被害者がほとんど出て来ないという批判を目にするが、それはこの映画のコンセプトがそこにはないからだとしかいいようがない。
     この映画は「いかに災害の当事者たちが山積する問題に立ち向かい、克服するか」に焦点をあてた作品であり、そこ以外は非情にカットされて当然なのだ。
     そして、まさにそのコンセプトこそが、『シン・ゴジラ』の斬新さである。
     いままで、アウトサイダーの立場から日本の現状を批判し、告発する物語はたくさんあった。その一方で、インサイダーの立場から日本を称賛し、熱烈に支持する物語も大量にあった。
     前者を左翼的といい、後者を右翼的ということも許されるかもしれないが、いずれにしろ、『シン・ゴジラ』はそのどちらの類型にも収まり切らない。
     この映画は日本の現状とその社会構造の根本的欠陥をフェアでフラットな視点で描写した上で、未来に希望を託している。
     「希望」。それこそ、『シン・ゴジラ』が描き出すことに成功したものだ。このレベルで現代日本に希望を見いだした作品というと、ちょっと思いつかない。
     もちろん、過去にも希望を見つけ出そうとした作品は多くあった。たとえば『踊る大走査線』は警察を舞台にした日本型組織の欠陥を告発する物語だったが、このシリーズの最終作は「新たなる希望」と題されている。

     しかし、どうだろう、『踊る大走査線』はほんとうに未来に希望を感じさせる作品だっただろうか。ぼくにはむしろ、シリーズを重ねるごとに「いくら個人が偉くなっても組織は変えられない」という絶望感だけがつのっていったように思える。
     たしかに「いつの日かは警察組織も変わる日が来るかもしれない」という意味での「希望」は示されているだろうが、じっさいに「その日」が描かれることはない。
     結局のところ、『踊る大走査線』はテーマを完遂することができなかったように思う。なぜだろうか。それは結局、「現場」を偏重しすぎたためだろう。
     『踊る大走査線』の映画のなかで、主人公である青島刑事は「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」と叫ぶ。
     そこにあるものは「現場」と「会議室」を対置し、あくまでも現場を重視する思想だ。しかし、現場とはつまり、巨大な人的システムの末端を意味するわけであり、巨大な問題に対してはトップが決断と命令を下して初めて機能する場合がありえる。
     一定以上のマクロ的な判断は現場ではなくトップが下すしかないのだ。もちろん、そのトップが『踊る大走査線』で繰り返し描かれていたように無能で無策なら、組織は腐敗する。
     しかし、現実にはトップもまたさまざまな意図や思惑をもって行動しているわけなのであり、「無能」のひと言で切り捨てることはできない。
     その意味では「事件は会議室でも起きている」。より正確にいうなら「事件は会議室と現場で同時に起きている」のである。
     『踊る大走査線』は現場を偏重するあまり、この「会議室で起きている事件」を魅力的に描き出すことができなかった。それを成し遂げたのが『シン・ゴジラ』である。『シン・ゴジラ』においてはまさに事件は会議室と現場で並行して起こっている。
     『踊る大走査線』のほかにも「日本告発型」の物語は少なくない。具体的には押井守監督の『劇場版機動警察パトレイバー2』がすぐに思い浮かぶ。これもまた、トップの無能と迷走を「現場」が独走して解決するというシナリオだった。

     この映画の主役である後藤や特車二課の面々は、それぞれが責任をもって行動している人間であり、ここでいうところのアウトサイダーでは決してないが、しかしこの作品では無策を晒すトップの実像は描かれない。
     それはあたかも「顔のないシステム」のようなものとして描写され、後藤たちはひたすらにそのシステムに怒りといら立ちを募らせる筋立てになっている。
     とにかくこの政治への不信、もっというなら政治への絶望が、これ一作のみならず『機動警察パトレイバー』シリーズの最大のテーマであるように思う。
     現場はみな頑張っている。しかし、上はダメだ。そういう決めつけがあるといってはいいすぎだろうか。
     『パトレイバー』よりさらにアウトサイダー的な視点から日本を告発した作品もある。たとえば、一色登喜彦『日本沈没』である。

     この作品は『シン・ゴジラ』と比べるとはるかにアウトサイダー的な視点から日本型組織の構造的欠陥を告発している。特に『日本沈没』ではどこまでも批判的に、もっというなら侮蔑的に日本のシステムを否定している。
     この作品によれば、日本は世界でもまれに見る幼稚な国であり、世界の「大人の国」に仲間入りするためには大きな犠牲を払わなければならないということのようだ。
     『日本沈没』の作中にははっきり「絶望の国」という表現が出てくる。これは『シン・ゴジラ』が「希望」を描こうとしたことと、はっきり対照的である。
     『日本沈没』では日本列島のすべて沈没し切るというフィクションが、じっさいにそうしてしまうわけにはいかないというリアルと対置して描写されていた。
     この漫画の最終章では、登場人物のひとりが主人公に対してこんなふうに語る場面がある(ちなみに夢オチである)。

    「現実のこの国は、沈まない故に… 絶望的にどうしようもない数多くの事を、チャラにすらできない… まさに… 役の台詞で君が言っていたように こんな国、こんな現実、本当は一度滅んで亡くなった方が、はるかに希望的な再スタートが切れるんじゃないか?」

     この漫画では、くり返しくり返し「絶望」という言葉が登場し、日本がいま置かれている状況がいかに絶望的か告発しつづけている。
     その結果、日本はすべて沈没してしまうわけだが、最後の最後になって「沈んだ方がましだったかもしれない」と提示されるわけだ。作者の一色がいかに現代日本という国を嫌い、呪っているのかわかるような描写である。
     それにしても、ここには誘惑がある。「絶望的にどうしようもない数多くの事」を「チャラ」にしてしまうことで絶望的状況に希望を見いだせるなら、そうしたほうがいいのではないかという誘惑。
     『シン・ゴジラ』の脚本にしても、アメリカに原爆を落とさせてしまうという選択肢もありえたのではないだろうか。「それでもゴジラは死ななかった」とした上で、凝固剤注入に踏み込んだほうがシナリオ的には盛り上がったかもしれない。
     原爆によって東京、ひいては日本が「チャラ」になってしまったという結末のほうがスカっとする人も大勢いるだろう。いかにも庵野秀明らしい残酷さだし。しかし、『シン・ゴジラ』は最終的に原爆によって問題を「チャラ」にしてしまう道を選ばなかった。
     ゴジラは最終的に日本の科学技術によって凍結され、ものいわぬ死のオブジェのように東京の真ん中に立ち尽くしつづける。いつの日か核のカウントダウンは再開されるかもしれない。
     そんな、あるいはエンターテインメントとしては中途半端にも思えるかもしれない結末をあえて選択したのだ。これはあきらかにいつふたたび惨禍をもたらすかもしれない原発と共存する現代日本を連想させるリアルな結末である。
     はっきりとしたカタルシスには欠けるかもしれない。だが、ついに現実世界に対し絶望しか見せることができなかった『日本沈没』に対し、『シン・ゴジラ』は本物の希望を見せてくれる。
     それは未来が素晴らしいものになるに違いないというばら色の保証ではない。日本の前途は依然としてきびしい。しかし、それでもなお、まさに絶望的な事態を収拾しようとした努力した人々がおり、現実に収拾に成功した。その事実が希望なのである。
     人間の愚かさが生み出した問題は人間によって解決できるということ。それが『シン・ゴジラ』が示す希望だ。その希望は、この巨大な群像劇の登場人物ひとりひとりが表している。
     『シン・ゴジラ』の登場人物は、だれもが自分の責任を引き受けて、逃げない。その判断が正しかったのかどうか、だれにもわからない。否、おそらく間違えた判断も多々あったことだろう。
     初めから自衛隊を投入して攻撃していれば惨禍は未然に防げたかもしれない。しかし、この物語にはそういったことを無責任な立場から告発するアウトサイダーは登場しない。
     登場するのは、完璧ではなくてもなんとか事態を解決しようと試みつづけるインサイダーたちばかりである。
     そしてまた、ここには特権的ヒーローとしての碇シンジはいない。したがって、ひとりヒーローだけが巨大すぎる責任に押しつぶされることもない。
     『シン・ゴジラ』にヒーローの居場所はないのだ。そこにいるのはただ純然たるプロフェッショナルだけである。彼らはほとんど不可能とも思える作業をあくまで「仕事」として淡々と遂行していく。
     作中で語られているとおり、感動的な場面ではある。ただ、だからといって、そこに「国に殉ずる」といったヒロイズムはない。
     そもそも彼らを動かしているのは国家というシステムに対する忠誠心という意味での愛国心ではないように見える。彼らはただゴジラから地域や共同体を守ろうとしているだけなのだ。
     いまから20年ほど前、庵野秀明が監督した『新世紀エヴァンゲリオン』は「ゼーレ」と呼ばれるなぞの組織が世界を支配しているというある種、陰謀論的な物語だった。
     その物語は「社会」を飛ばして「個人」と「世界」を直結させた作品を意味するセカイ系という言葉を生んだ。しかし、いま、ぼくたちの目の前にある映画はセカイ系とはあまりに遠い、むしろ、その対極にある物語である。
     この映画でテーマとなっているものは、だれがどう見ても政治であり、軍事である。『シン・ゴジラ』のひとつのエポックは、日本人特有の政治に対する不信と、軍事に対する拒否感を乗り越えた点にある。
     ここでは政治家にはちゃんと「顔」がある。彼らは特別に有能ではないかもしれないが、ちゃんと自分なりの責任をもって行動しているのだということが端的に示されている。
     そして、ほかの権力中枢の人物たちにも「顔」はある。だから、この映画には「顔のないシステム」としての政治を批判し告発するという側面はない。
     それが良くないのだ、という人はいるだろう。政治とは悪なのであって、常に批判され告発されつづけなければならない存在なのだ。間違えても格好よく描かれたりしてはいけないのだ。それは幻想に過ぎないのだから、と。
     だが、そのように政治を単純化して考えることは不毛としかいいようがない。『シン・ゴジラ』で描かれている政治とは、きわめて複雑な人間の権力関係から成り立つ力学の問題である。
     それがどこまで現実に沿っているかはともかく、シンプルに「悪い奴」、「無能な奴」で済ませてしまえるほど、現実の政治も簡単ではないはずだとはいえるだろう。
     また、『シン・ゴジラ』ではだれもが責任当事者として自分の仕事を果たしていく。だから、映画を見ている我々も、自然、「自分がこの場にいたら、当事者として何ができるだろう?」と考えずにはいられない。
     かつての『新世紀エヴァンゲリオン』は「あなたならエヴァに乗りますか?」と問いかける作品だったが、『シン・ゴジラ』は「あなたならこの状況で何をしますか?」と問うてくる物語なのである。
     ともかく、『シン・ゴジラ』はきわめて地味とも思える結末を選んだ。その地味さをエンターテインメントとして消化してのけた手際はさすが庵野秀明としかいいようがないが(無人在来線爆弾!)、東京に原爆を落とさなかった以上、問題はまったく「チャラ」にはなっていないわけである。
     したがって、この道を選んだ以上、「絶望的にどうしようもない数多くの事」を解決するための方法は、そのひとつひとつを丁寧に議論の訴状に挙げ、膨大な時間をかけて地道な努力によって成し遂げていくことしかない。
     面倒な方法だ。うんざりするような迂遠さだ。しかし、その面倒と迂遠を避けるなら、そこに「希望」は生まれない。『日本沈没』がそうだったように、あとには「絶望」しか残らないだろう。
     庵野秀明総監督本人もまた、一貫してインサイダーとして仕事をしてきた人物である。
     20年前、『エヴァ』のあたりではそんな庵野秀明に対する評価は賛否両論といったところだったと思う。その頃は、アウトサイダー的な姿勢がいまより格好よく見えていた気がする。
     なんといっても、アウトサイダーは無謬なのに対し、インサイダーは不完全で傷だらけなのだから、当然といえば当然だ。
     しかし、どうだろう、いま、時代は変わったといっていいのではないだろうか。もちろん、いまなお、相変わらずアウトサイダーの立場から庵野や『シン・ゴジラ』を批判する層は存在する。また、すべては「ブラック・ジョーク」に過ぎないといってのける人もいる。
    http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyayukiko/20160814-00061097/
     しかし、そうはいっても、いま、インサイダーとして『シン・ゴジラ』を生みだしてのけた庵野や樋口やスタッフに対するまっとうなリスペクトは、『エヴァ』のときと比べ、各段に増しているように思う。
     そして、アウトサイダーの立場から『シン・ゴジラ』を冷笑する人はもうあまり格好よくは見えない。これは個人的な感想に過ぎないが、ネットを見わたしているとそういうふうに思える。
     完璧で無謬ではあるものの、責任を背負おうとしないアウトサイダーの「ダサさ」がいまになってようやくはっきりと見えてきたのではないだろうか(もちろん、見えている人にはずっと見えていたわけだが)。
     アウトサイダーは、アウトサイダーである限り、一生、いや何度生まれ変わっても永遠にイチローになることはありえない。もちろん庵野秀明になることもない。なんらかの業績を残すこともなければ、作品を作り出すこともありえない。
     それは実践者と批評家の差「ではない」。批評家もまたまっとうな人物なら責任とリスクを引き受けて発言するものだからだ。アウトサイダーとは批評家ではないのだ。彼らはつまり無責任にヤジを飛ばす群衆であるに過ぎない。
     イチローは百万もの称賛を受けてきた天才バッターだ。しかし、それと同じくらい、あるいはそれ以上の非難を受けてもいる。イチローですらそうなのだ。
     そして、大半のインサイダーはイチローほどの圧倒的成功を達成できない。また、イチローにしても、初めから成功を約束されていたわけではない。彼はただ自分の人生をコインにして賭けに出て、その上で勝利しただけである。敗北する可能性もあったし、現実に局所的には敗北している。庵野秀明でも同じだろう。
     それに比べ、アウトサイダーは自由で万能で無敵で完璧だ。しかし、それでもぼくは不自由で傷だらけのインサイダーであることを選びたい。それはぼくがイチローや庵野秀明のような生き方をリスペクトするからだ。
     インサイダーは決して無傷ではない。成功の保証も何もない。その上、どこまでいってもアウトサイダーからの揶揄や面罵や嘲弄は飛んでくる。
     そしてまた、ほとんどのインサイダーは3000本安打を達成することもなければ、『シン・ゴジラ』を監督することもない。生涯無名のまま、特にだれからも褒められることもなく職責を終える。
     その意味でインサイダーとはあまりにも損な生き方である。責任を放棄してアウトサイダーであることを選んだほうがよほど気楽だし、安全でもある。しかし、それでも――そう、「それでも」なのだ。
     『シン・ゴジラ』のなかで首相が、閣僚が、矢口が、泉が、巨災対の面々が、自衛隊の人々がその責任から逃げなかったように、ぼくもそのようにして行きたいと思う。
     彼らは『エヴァンゲリオン』ふうにいうなら、「エヴァに乗ること」を選んだ者たちである。しかも、彼らは自分の仕事として、あたりまえに「エヴァに乗ること」を選択している。
     碇シンジのように逃げちゃダメだ、と呟くことすらない。彼らには長い人生のなかで見つけ出してきた守るべきものがあるのだろう。だから、逃げることはありえないのだ。
     それはまさに日本が見失ってきた大人の姿である。課せられた責任から逃れてアウトサイドに立つことはたやすいし、楽だし、安全でもある。
     しかし、「それでも」大人たちはインサイダーであることを選ぶ。彼らが完全な人間だからではない。彼らは彼らなりに、欠点もあるし間違うこともある。また、組織と政治とに縛られていて、必ずしも迅速に行動することはできない。
     その意味で彼らはヒーローになることができない。ただ、有能なプロフェッショナルに徹することはできる。それはどこまでいっても組織と歯車になることでしかありえないのかもしれない。だが、「それでも」職責を全うするべく懸命に活動する人々の姿は見る者の胸を打つ。
     ヒーローのいない物語。この独創的なイマジネーションは、あきらかに碇シンジをヒーローの座から追放した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の延長線上にある。
     だからこそ、『シン・エヴァンゲリオン』もこの路線を踏襲した作品になる可能性が高い。個人的には『シン・エヴァ』は碇シンジがほんとうの意味で大人へと成長する物語になることを期待したい。
     何しろ庵野秀明のことだからひと筋縄ではいかないことは間違いないが、いつか『シン・エヴァ』を見れる日が来ることを祈りたいものだ。
     『シン・ゴジラ』も、ほかのあらゆる名作と同様に、完璧ではないだろう。ただそれらの欠点を批判するだけで済ませ、あるいはすべては皮肉なのだ、ブラックジョークに過ぎないのだ、とシニカルに冷笑してみせるのなら、たしかに「どうにもならない現実をよくわかっている冷静な自分」をアピールすることができるかもしれない。
     しかし、そんなアウトサイダー的態度では永遠に現実は動かない。たしかに現実はあまりにシビアであり、人の手ではいかにも動かしがたいように見える。だが、現実が可変的なものであり、人の力でどうにかしていけるものであると認識することなくして、どうして未来に希望を抱けるだろうか。
     『シン・ゴジラ』は希望の物語だ。それは決してヒロイックな活躍を礼賛してはいない。プロフェッショナルな行動を恬淡と描写しているだけである。
     そして『エヴァ』を見てそこに「「お前ら全員バーカ」みたいなノリ」を見て取ってしまう人には伝わらないだろうが、庵野秀明の作品はそのすべてが一貫して真剣であり、希望を模索していた。
     たしかにその模索の末に絶望的な現実と直面してしまうこともあったが、それはその模索が真摯なものであったことを示している。ぼくはその模索を支持する。そしてついに『シン・ゴジラ』においてここまでの希望を見いだせたことに感嘆する。
     それは庵野秀明その人がインサイダーでありつづけたからこそ可能になったことだ。なるほど、三振することは格好悪い。イチローになってから打席に入ったほうが、つまりイチローになるまではアウトサイダーでいたほうが、はるかに格好いいには違いない。
     しかし、庵野秀明の、格好悪いところまでもすべてさらけ出して格闘する泥くさい姿を見ていると、そういうやり方が卑怯なものに思えてきてしまう。
     だから、まずはバッターボックスに立とう。三振するにせよ、見事ヒットを打つにせよ、話はそれからだ。
     責任を背負って行動する者だけが現実を変えることができる。それは、まさにあなた自身のことなのかもしれないのだ。 
  • 雷句誠、驚異の新作! 『VECTOR BALL』は少年漫画の新次元を切り拓く。

    2016-07-19 04:40  
    50pt

     えー、特に前置きもなくいきなり本題に入りますが、雷句誠さんの漫画『VECTOR BALL』が面白いです。
     このあいだのLDさんとのラジオでも話したんだけれど、いやー、この漫画、まだ第1巻しか出ていないいまの段階ですでにド傑作の匂いがします。
     少し前までは「この漫画、ほんとうに面白いのだろうか???」とクエスチョンマークが三つも付いている状態だったのだけれど、物語に進展に合わせてひとつ消えふたつ消え、代わりに「面白い!!!」とエクスクラメーションマークが三つ付く状態になりました。
     この先、まだ増えるかもしれません。「面白い!!!!!!!!!」くらいまで行くかも。それくらい先が楽しみな作品です。
     この作品の物語は――と、普段はここであらすじを説明するのだけれど、この漫画の場合、シナリオを開設することにそれほどの意味があるとは思われない。
     というか、ない。お話だけ取ればわりとありが
  • 『ROOKIES』より面白い! 不良スポーツ漫画の名作『ANGEL VOICE』の秘密とは?

    2016-07-18 22:56  
    50pt

     ども。『ポケモンGO』配信が待ちきれない海燕です。
     ぼくはiPhone使いなのだけれど、iOS版もAndroid版と同時に出るかなあ。出たら夏休みに遊びに来る甥っ子といっしょに遊ぶ予定。
     さて、きょうはいまひとつ知名度がないサッカー漫画の名作『ANGEL VOICE』の話。
     あまり知っている人は多くないかと思いますが、『チャンピオン』で全40巻も続いた作品です。
     で、これが面白い。1話1話はそこまでのインパクトはないかもしれないけれど、40巻を通読するともうめちゃくちゃ面白いのです。
     やめられない止まらないテイストの漫画は数あれど、そのなかでもかなり上位に入るのではないかという一作です。
     内容をわかりやすくいうと、サッカー漫画版『ROOKIES』というのが適切だと思う。
     何かと力を持て余した不良たちが集まってサッカー部を再生させるという話なのですが、そこにひとひねりがして
  • 『ズートピア』は美しくもきびしい理想主義を謳いあげるディズニーの傑作映画である。

    2016-04-28 11:04  
    50pt

    (メキシコ移民について)
     メキシコは、ベストではない人々、問題があり、麻薬や犯罪を持ち込む人々を送り込んでくる。彼らは強姦魔だ、中には善良な人もいるかもしれないが。
    「ドナルド・トランプの発言・暴言・名言まとめ:米大統領選2016」

     物語の話をしよう。力強い物語の話を。
     いまこそ、その需要がある。世界を憎悪が覆い、都市を反目が支配するとき、そのときまさに物語の力が必要になるのだ。
     想像力を巡らせよう。気高い理想を語り、怒りと差別心を封じ込めよう。
     ぼくたちにはそれができるはずだ。なぜなら、ぼくたちは偉大な夢を見るよう生まれついているのだから。
     ディズニーの新作映画『ズートピア』はある崇高な理想の物語、そして、ときにその理想が挫折し、打ち砕かれる現実についての寓話だ。
     主人公は新米警官のジュディ。ある田舎町に生まれた彼女は、保守的な両親の反対を振り切って警察学校を首席で卒業し、ウサギ初めての警官として動物たちの理想都市ズートピアに着任する。
     しかし、あこがれのズートピアでジュディを待っていたもの、それはウサギでしかも女性の警官などだれも認めはしないというきびしい現実だった。
     それでもくじけない彼女は、必死に努力し、48時間以内にひとりの行方不明者を探し出すという約束を署長と交わす。
     もしそれができなければ警官を辞めるという条件だった。
     ジュディは偶然に知りあったキツネで詐欺師のニックとともに捜査を開始するが、やがて彼女はズートピア全体を揺るがす大陰謀に遭遇してしまう――。
     主人公が動物たちということで、一見すると子供っぽくも見える映画である。大人の視聴者にとっては、それほど面白そうには見えないかもしれない。
     しかし、これは、今年を代表する大傑作だ。
     シンプルでコミカルなシナリオが見ていて面白いというだけではなく、非常に深く考えさせられるテーマを持った作品である。
     すみすみまで練られた脚本はただ完成度が高いという次元を超えて、観客に強く訴えかける力を持っている。つまり、「あなたならどうする?」と。
     だれが見てもわかるように、無数の種類の動物たちが集うズートピアはアメリカ合衆国の暗喩だ。
     つまり、この映画のテーマは「アメリカ合衆国の理想と現実」ということになる。
     「だれでもなりたいものになれる」というズートピアの理想はまさにアメリカン・ドリームのことであり、そして、ズートピアが抱える問題はじっさいにアメリカが抱え込んでいる問題そのものである。
     そういう意味で本作はきわめて政治性の高い映画であり、保守的にも見えるディズニーが、その実、決して単純ではないことがよくわかる。
     ただ、「差別」という重いテーマを扱っていながら、この映画が決して重たいだけのものになっていないこともたしかだ。
     基本的には痛快無比なエンターテインメントであり、ちょこまかと動きまわる動物たちのアクションを見ているだけでも楽しい。
     ただ、大人の観客はその向こうに深い問いかけを感じるというだけのことだ。
     そう、本作のテーマは差別問題である。優秀な成績で警官になったジュディはまず性差別に直面し、彼女の相棒ニックは「キツネは嘘つきで信用できない」という人種差別に苦しんだ挙句、その偏見をなぞるように詐欺師になってしまっている。
     しかし、ジュディは決してあきらめないし、ニックもひょうひょうとした態度の裏に優しい素顔を持っている。
     差別と反目が支配的なズートピア社会において、どこまでも理想を信じるジュディはさんざんに傷つき、痛めつけられる。それでも彼女は前進しようとする。その姿勢には胸が熱くなるものがある。
     この映画が9・11以降のアメリカに伝えようとしているものはあきらかだろう。
     そして、ドナルド・トランプが圧勝を続け、気高い自由と平等の理想が地に堕ちようとしているかに見えるいま、この映画は強く訴えかけてくる。
     『ズートピア』はつまり「アメリカの理想を守ろう」といっているのだ。
     そういう意味できわめて純度の高い理想主義の映画である。
     ただ、さらにすばらしいことに、『ズートピア』は単なる理想主義の映画に終わらない。
     まさに作中の言葉にあるように「人生はミュージカルではない」。
     ジュディは 
  • いまさらだけれど『ガルパン劇場版』に心の底から感動する。

    2016-04-15 21:04  
    50pt

     『ガールズ&パンツァー劇場版』、いまさらですが4DXで見て来ました。
     いやー、素晴らしかった。めちゃくちゃ面白かった。
     たしかにこれは何度も見に行く人の気持ちもわかる。
     全編どこまでも楽しく、面白く紡がれる娯楽映画の王道。
     荒唐無稽きわまりないお祭り映画ですが、その娯楽に徹したエンターテインメント性の高さはほとんど感動的ですらある。
     全国に「ガルパンはいいぞ」しかいえなくなってしまったガルパンおじさんが出現するのもむべなるかな。
     あまりに素晴らしいものに触れるとひとは言葉を失うのですね。
     ぼくはテレビ版を序盤で投げ出してしまった『ガルパン』初心者なのだけれど、劇場版はまったく問題なく楽しめました。
     もしテレビ版を見ていないために見に行くことをためらっている人がいたらぜひ見てみてほしいですね。
     テレビシリーズに関する知識はゼロでも苦労なく見れる映画ですよ。
     まあ、いまでも上映している映画館は限られるだろうけれど……。
     あまりに面白かったので続けてもう一回見ようかと思ったくらいなのですが、4DXは入場料が1000円高いのでやめました。
     でも、ブルーレイで必ずまた見よう。うむ。
     それにしても語りやすいようでいて意外にどう話したものかと迷う作品です。
     ものすごくシンプルなストーリーで、はっきりいってしまえばそんなに大した話ではないのだけれど、それにもかかわらず深く心に訴えかけてくるものがあるのは、初めから終わりまでエンターテインメントに徹しているから。
     いや、じっさい、これくらいの高い純度で娯楽を貫いた映画はめったにないのではないか。
     全編どこにも面白くないところがない。隅から隅までパーフェクトに面白いのです。
     ここまで純粋に面白いと、映画には小むずかしいテーマなんていらないのだな、とあらためて得心させられました。
     たしかに「高尚な」映画ではないかもしれません。何もかもみなオタクの幻想でできあがった作品です。
     ですが、そうはいったってここまでの高密度の娯楽性を見せられると、大抵の人は沈黙するのではないか。 冒頭からいきなりアクション、アクション、アクション、まったく退屈しない展開が続く。
     それもアニメーションでしか表現できないであろう種類のアクションで、想像力の冒険とでも呼びたいような意外性のある描写になっています。
     戦車ってこんなふうに動くのですねー。
     って、いやいやいやいや、 
  • 歴史に残る無名の傑作『ヴァンパイア十字界』を読もう!

    2016-01-13 09:36  
    50pt

     最近、わりと生活が昼夜逆転気味になって来ているんですけれど、夜中に読むのがふさわしい作品ということで、城平京&木村有里『ヴァンパイア十字界』を読み返してみました。
     いままで何度となく読んで来た作品ですが、いまあらためて読み返してみても、歴史的大傑作という評価は揺らぎません。
     親しい人には「とにかく読め!」といって押しつけたいレベルのマスターピース。
     いま単行本を新刊で入手する方法がないらしいことが残念ですが、Kindleでは買えるので、そちらで入手してもいいかも。
     古本で買うとまとめて数百円という値段でもありますしね。
     いや、しかし、これはほんとうに素晴らしい漫画です。
     同じ城平さん原作の『スパイラル 推理の絆』や『絶園のテンペスト』と比べても、ぼくは一段階高い評価を与えたい。
     まあ、アニメ化した『スパイラル』などと比べると知名度では遥かに劣っているのですが、内容の素晴らしさは凄まじいものがある。
     もっとも、絵柄を含めた作中の描写が原作の深みを表現しきれていないところがあって、完璧とはいいがたい作品でもあるのですが、シナリオの素晴らしさは絶品です。
     過去十年間で読んだ作品のなかでも最高といっていい。
     第1巻の1ページ目から最終巻のラストページに至るまで、すべてが緻密に組み立てられていて圧巻です。
     この漫画の最大の凄みは、現代では失われた「王」というものを正面から描こうとしている点にあります。
     本書で描かれる「至高の王」とはヴァンパイアたちの帝王ローズレッド・ストラウスその人。
     物語開始の時点ですでに国を失い、亡国の王となっているこの人物がいかなる意思で生きているのか、その謎がこの物語のすべてを貫いています。
     詳しくは語れませんが、このストラウスの動機という謎を巡って、物語は二転三転します。
     普通はまあ、二転三転といってもそう物語の根幹がころころ変わるはずがないのだけれど、この作品は違います。
     それはもう、ストーリーーの骨格の根底のところから完璧に逆転する。
     その昔、1000年前、その運命の日にいったい何が起こっていたのか、登場人物各人に異なる認識があり、なおかつそのほとんどが一面的でしかないという展開の妙にはほんとうに驚かされます。
     至高の王ローズレッド・ストラウス――すべての真実が明かされるとき、かれがいかに重いものを背負っていたのか、読者は戦慄とともに思い知るはずです。
     まさに孤高の英雄。凡庸な支配者とは格が違います。
     余談ですが、こういう「王」の姿を見せられると、「夜神月ってダメな奴だったんだなあ」と思いますね(笑)。統治者としての器量が違いすぎる。
     しかし、まさにそうであるからこそ、 
  • ゲーマーの心が折れるとき。

    2015-11-26 02:31  
    50pt

     『ウィッチャー3』を続けています。
     現在、レベル7。相当プレイしたのにまだこれだけかという気もしますが、各所で時間を無駄にしているから仕方ないのかも。
     ちなみにこのゲーム、フィールドエネミーを斃してもほとんど経験値は入らず、主にクエストクリアでレベルアップしていくシステムになっています。
     そのクエストがまたけっこう歯ごたえがあるものだから、必然的にプレイ時間はかさむことになる。
     ぼくは見つけたサブクエストを片端からやっているけれど、ほんとうはそれらは適度に放置してメインクエストに集中するのが合理的なのかもしれません。
     まあ、ゲームに合理性を持ち込んでも意味がないけれど。
     ちなみにサブクエストは膨大な量があり、メインクエストにも蛇のように絡んできます。
     また、このゲームの特色として、なにげない選択のひとつひとつが重い意味を持って迫って来るということがあり、まったく気が抜けません。
     ちょっとあまりにも内容が詰まりすぎているので、長時間だらだらとプレイするのに向かない難はありますが、まあ、傑作ですね。
     恐ろしくよくできたシナリオぞろいといっていいと思う。
     もう少し気を抜いてプレイできるゲームをやりたいところですが――それは『ファイナルファンタジー13』を遊んでいればいいんだろうな。
     そういうことをやっているといつまで経っても進まないけれど。
     ゲームの難易度というのはじっさいむずかしい問題だと思います。
     あまりにやりごたえがなさすぎると退屈だし、ありすぎると辛くなる。
     この『ウィッチャー3』の場合は死亡時のロード時間が長いこともあって、あまり気軽にプレイヤーキャラクターを死なせることができません。
     そこがこの出色の傑作の欠点といえばいえるでしょう。
     じっさい、このゲームをクリアまで持っていけるかどうかは自信がないところですね。
     めちゃくちゃよくできた物語なのだけれど、いちいち内容が重たいのでちょっと疲れる。
     小説だったらこれでいいのかもしれませんが、ゲームだとプレイのむずかしさと相まって心が折れてしまうのですね。
     うーん、サブクエストは放っておいてメインクエストを進めようかなあ。それとも、地道にレベル上げを試みるか。
     経験値だけでなくお金もなかなか手に入らないゲームなので、各種アイテムをそろえるのも大変なのですが……。
     たしかに 
  • 平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

    2015-11-18 17:51  
    50pt

     きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。
     現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。
     いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。
     この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。
     紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。
     各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。
     だから、関係性はどんどん変化していく。
     しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。
     ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。
     いや、このいい方は誤解を招くかな。
     もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。
     いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。
     ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。
     ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。
     でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。
     そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。
     平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。
     はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。
     この作品にはぜひヒットしてほしいですね。
     それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。
     その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。
     同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。
     平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。
     しかし 
  • 山崎貴監督『寄生獣 完結編』はエクセレントな傑作映画。

    2015-11-12 00:48  
    50pt

     映画『寄生獣 完結編』を見ました。
     上映時はついつい見逃してしまい、いまになってブルーレイディスクで見ることになった作品ですが、いや、これが相当に完成度が高かった前作をあきらかに上回る傑作。
     いま、映画として往年の名作漫画『寄生獣』を復活させることの意味に満ち満ちた素晴らしい野心作でした。
     『寄生獣』が名作であることは論を待ちませんが、そうはいっても20年前の作品。
     いま、そのままに映像化したら古さは禁じえないはずなので、数々の映画としての脚色は秀逸だと思います。
     映画と原作では、根っこのところの設定から何から多くの部分が改変されて違っているわけですが、それらの改変は一点を除いておおむねうまく処理できていると感じました。
     その一点に関してはネタバレになるのでここでは話しません。
     ただ、ここらへん、あくまで「映画としての完成度」、「面白い映画であること」を最優先にした設定変更なので、原作優先の立場から見ると微妙だったりするかもしれません。
     しかし、個人的にはどれも秀逸な改変と感じました。
     原作から一切変えてはならないという原作至上主義の立場に立つなら別ですが、そういう人はそもそも映画なんて見なければいいわけで、それ以外の人にとっては望みうる限り最高の演出がなされていると感じたわけです。
     『寄生獣』を映画化するということは、『デビルマン』をそうするのと同じくらいむずかしいことだと思うのですが、その制作に果敢に挑み、結果として最高の成功を遂げた監督を初めとするスタッフには拍手を送りたいです。
     いや、ほんと、いいものを見せていただきました。
     映画では、『寄生獣』という単行本全10巻に及ぶ長大なストーリーを2時間×2本の尺にはめ込むために数々のキャラクターが切り捨てられています。
     そのなかで最大の存在は主人公である泉新一の父でしょう。
     また、新一にとって「仲間」といえそうな幾人かの人々の存在も切り捨てられている。
     結果として、『完結編』の新一は原作以上に孤独を抱えています。
     信じられるのは、自分の右手に宿ったミギーただひとり。
     映画の泉新一は一切の暖かな人間関係から切り離され、暗い目をした「どこまでも孤独なヒーロー」なのです。
     その孤独な新一が、「人間とは何か?」という問いに直面しながらも幾人もの寄生獣たちと戦いを続けるさまは胸を打ちます。
     今回も実に質の高い映画化でした。エクセレント。
     監督の山崎貴さんはネットではさんざん叩かれている人であるわけですが、今回の『寄生獣』、『寄生獣 完結編』を含むかれのフィルモグラフィーを虚心坦懐に見ていけば、じっさいには質の高い作品を作りつづけている一流の映像作家であることは瞭然としています。
     現実にそれは各作品の大ヒットという形で表れているわけで、一部のひねくれた映画ファンがなんといおうと、大衆がかれを支持しているわけです。
     もちろん、ヒットしていてもつまらない作品も多々あることでしょう。
     しかし、