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平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。
2015-11-18 17:5151pt
きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。
現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。
いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。
この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。
紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。
各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。
だから、関係性はどんどん変化していく。
しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。
ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。
いや、このいい方は誤解を招くかな。
もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。
いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。
ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。
ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。
でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。
そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。
平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。
はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。
この作品にはぜひヒットしてほしいですね。
それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。
その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。
同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。
平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。
しかし -
ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。
2015-07-20 01:1151pt
敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。
読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは
https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113
ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw
https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232
……時代とシンクロしていやがるなー。
えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。
ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。
思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。
でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。
それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。
昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。
そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。
ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。
それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。
このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。
広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。
ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。
いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。
まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。
普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。
ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。
それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。
まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。
それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。
そういえば、 -
そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。
2015-04-03 12:4651pt
いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。
平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。
というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。
すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。
しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。
したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。
それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。
さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。
『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。
世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。
いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。
これは大人の小説なのです。
前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。
そう、面白い物語には必ず「落差」があります。
王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。
しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。
『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。
いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。
なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。
それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。
悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。
「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。
あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。
伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。
ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。
したがって、 -
『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?
2015-03-21 19:5351pt
平坂読の最新作『妹さえいればいい。』をくり返し読み返している。
面白いなー。面白いなー。
一般文芸とはまったく異なるライトノベル特有の世界なのだけれど、ぼくとしては非常にしっくり来る。
作中では主人公がAmazonレビューを罵倒していたりもするのだが、じっさい、この小説のAmazonレビューを見ると「まあ、罵倒したくもなる気持ちもわかるよな」と思えて来る。
もちろん、普通に読んで評価している人もいるのだけれど、★ひとつ付けているレビュアーとか、あきらかに本編を読んでいないものなあ。
まさに「アマゾンレビューは貴様の日記帳ではない!」といいたいところ。
一方で「小ネタの連続ばかりでストーリー性が薄すぎる。その割には変な商売っ気だけはやたらと豊富」という★★の評価もあって、これは非常によく理解できる。
普段からライトノベルを読みなれていない人が読むとこういうふうに思うだろうな、と。
ただ、ある程度この手の小説に慣れている人間から見ると、やはりいくらか筋違いに思えるのもたしか。
「普通の小説であれば、おそらく必要不可欠の要素である一冊の本を通してのストーリーと言うべき物が全く無いのである」ということなのだが、すいません、平坂読の作品は「普通の小説」ではないのです。
『妹さえいればいい。』をあえてジャンル分けするなら、いわゆる「日常もの」にあたるだろう。
この作品に「一冊の本を通してのストーリー」がないという指摘は正しいが、そういう物語は既に膨大な数が出ており、しかも読者に受け入れられているのだ。
『ゆゆ式』にも狭い意味での「ストーリー」らしきものはほとんどないが、いまさらそれを問題視する人はほとんどいないと思う。
たとえば『To Heart』あたりから数えるとすれば、オタク文化はもう既に20年くらい日常ものを描いている。
『あずまんが大王』から数えると15、6年かな。
一般的な意味での「ストーリー」がほとんど存在しないように見えるプロットは、ラノベ慣れしていない人にはさぞ奇妙に見えるだろうが、実はそれなりの歴史と伝統を背負っているのである。
また、作中にオタクネタをやたらと散りばめるのも、既に何年も前に確立された方法論だ。
そのストーリー性の薄さの代わりにやたらと詰め込まれていたのがラノベネタである
ラノベ作家を主役にした作品なのだから当然だろうという方もいるだろうけど、ここで言う「ラノベネタ」というのが現実に出版されたラノベなのだから仰天させられた
とあるのだけれど、これはべつに『妹さえいればいい。』の独創ではなく、いまのライトノベルにおいてはむしろスタンダードな方法論であるわけなのだ。
そしてそういうやり方が採用されているのは「商売っ気」というより、単純に読者が喜ぶからだろう。
じっさい、ぼくは217ページ5行目のネタで死ぬほど笑った。
この種のジャンル自己言及はジャンルを狭いターゲットに向けて閉じていくから良くないという評価もあるとは思う。
しかし、それをいいだしたらSFとかミステリが自己言及を重ねながら進歩していった歴史も否定されなければならないことになる。
新本格ミステリなんて全部ダメになるんじゃないですかね?
綾辻行人のクリスティネタとか有栖川有栖のクイーンネタは良くて、平坂読の『Fate』ネタ、『ソードアート・オンライン』はネタは良くない、という理由もないだろう。
まあ、そんなことばかりやっていたから本格ミステリは商業的に衰退したんだ!といわれると一理ある気はしますが……。
ここらへんはもうちょっと深堀りしないといけないテーマかもしれない。
そういうわけで、このレビューの批判的な「読み」は、何をいいたいかは非常によくわかるのだけれど、あまりにもいまさらな指摘に思える。
ラノベを読みなれていない人がそういうふうに感じることは非常に無理がない話ではあるのだが、現在のラノベではこの程度のことは善かれ悪しかれ常識なのである。
つくづく思うけれど、ライトノベルを読むためにはライトノベル特有のリテラシーが必要なんだよなあ。
「タイムパラドックスって何?」という人がSFには向かないように、「密室殺人ってどういうこと?」という人がミステリには適さないように、ライトノベルを読むためにはそれなりの知識と感性が必要になるということなのだろう。
まあ、それが良いことなのかどうかということは、先述したようにたしかに議論の余地があるだろうけれど……。
しかし、一方で『妹さえいればいい。』は非常に間口が広い作品でもあると思う。
たしかにラノベ特有の異色の方法論を用いて入るのだが、見方を変えればほんとうにただの青春小説だからだ。
オタク版『ハチミツとクローバー』だよなあ、と思うくらい。
たしかに -
そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。
2015-03-20 11:0251pt
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというけれど、しかし現実には人間は平等なんかじゃないよね――と一万円札のおっさんは言った。 そのとおりだなーと京は思う。 人間は平等なんかじゃない。 可児那由多は、あたしよりも価値がある。
平坂読といえばベストセラーシリーズ『僕は友達が少ない』(通称「はがない」)で知られているライトノベル作家だが、先日、その平坂の最新作が出た。
「妹さえいればいい。」というわかりやすいタイトルに「日常ラブコメの到達点」というコピーが付いている。 『はがない』がわりと好きなぼくは「またまたまたまた」と思いつつ、読んでみた。
――素晴らしい。
ぼくはブロガーとして、小説や漫画や映画についての意見を文章にまとめあげることを仕事にしていて、どんな作品のことであれ一応は饒舌に語り上げるテクニックは身につけているつもりだ。 だが、ほんとうに凄い作品と出逢ったときは「やばい」しか言葉が出ず、「やばいやばいやばいやばい」と書いては消し去る作業をくり返すことになる。
『妹さえいればいい。』はまさにそんなやばい一作。 読み進めるほどに幸福感がつのり、「これはすごいのでは……?」という思いが「すげえ!」に変わっていった。
いやあ、これはほんとすげえっすよ。 「やばい」とか「すげえ」とか抽象的な言葉ばかり使って内容がない書評はろくなものではないが、ついついそういう表現をしてしまうくらい面白い。
2015年で接したすべての創作作品のなかで暫定1位。 べつだん、ぼくはライトノベルの栄枯盛衰自体はどうでもいいのだけれど、こういうものを読むと「ラノベ、まだまだいけるじゃん」と伊坂幸太郎作品のコピーみたいなことを思う。
そういうわけなので、このブログの読者の皆さん及びどこからかリンクで飛んで来た方々はぜひ読んでみてください。とってもオススメです。
あ、ライトノベルそのものに特に興味のない方はけっこう。 あらゆる意味でライトノベルでしかありえない表現をまとめあげた特濃の一作なので、ラノベ初心者は内容のクレイジーさに付いていけない危険がある。
というか、そういう人は冒頭2ページくらいで読むのをやめると思う。ためしにそのあたりをちょっと引用してみよう。
「お兄ちゃん起っきっき~」
そんな声が聞こえて目を開けると、俺の目の前に全裸のアリスが立っていた。
アリスというのは今年14歳になる俺の妹で、さらさらの金髪にルビーのような真紅の瞳が印象的な、文句のつけようのない美少女だ。
「ん……おはようアリス」
頭がぼんやりしたまま俺が挨拶をすると、アリスはくすっと笑って、
「眠そうだにゃーお兄ちゃん。そんなねぼすけなお兄ちゃんには――」
アリスの顔が俺に急接近してきて、そのまま――チュッ。
「……!」
アリスの柔らかい唇が俺の唇に押し当てられ、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「目が覚めっちんぐ? お兄ちゃん」
唇を離し、アリスは悪戯っぽく微笑む。その頬は少し赤い。
「今日の朝ご飯はアリスの手作りだりゃば。冷めないうちに早く来てにゃろ」
うん、頭おかしいですね。 大成功を収めたシリーズものの次の作品を、「お兄ちゃん起っきっき~」で始める平坂先生のアグレッシヴさにはマジで尊敬を覚える。
ほんとうはこの先にさらなる狂気の世界がひろがっているのだが、それはゲンブツで確認してほしい。
もちろん、すべてはあくまでネタであり、上記は主人公が書いた小説の一節という設定なので、この一節を見て「やっぱり読むのやめておこうかな」と思った人もどうか読んでやってください。
いや、この種のギャグをまったく受け付けないという人は無理をしなくていいけれど、たぶんこれがこの小説における最初にして最大の障壁なので、ここで挫折してしまうのはもったいない。 繰り返すが、ぼく的には年間ベストを争う傑作なのだ。
どこがそんなに面白いのか? 色々あるけれど、ようするにこの小説、才能と実力を兼ね備えたリア充連中がキャッキャウフフしている描写がひたすら続くリア充小説なのだ。そこがいちばん凄くて面白い。
主人公は妹萌えが狂気の域に達しているライトノベル作家・羽島伊月。 かれとかれのまわりに集まってくるライトノベル業界の残念な奴らがたまに仕事をしながらひたすら遊んでいるという、それだけといえばそれだけの内容である。
しかし、これが面白い。ほんとうに面白い。 ライトノベルの主人公をライトノベル作家にするのも、有名無名の実在作品を取り上げて作中に散りばめるのも、過去に作例があり、特に新しくはないのだが、この衒いのないリア充感は確実に新境地をひらいている。
この小説のテーマはそのまま「メインテーマ」と題された一章に記されている。
才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。
この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。
ここには「容姿」や「才能」や「金」に恵まれた人間が特別で、そうでない人間は不遇だという価値観がない。 「リア充」対「非リア」といったわかりやすい対立軸がさりげなく、しかし明確に解体されている。
これはリア充を仮想敵にした上で、その実、かぎりなくリア充的な日常を描いていた『はがない』から確実に一歩を踏み出しているといっていいだろう。 もはや
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