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記事 5件
  • 『ガッチャマンクラウズ』第一の見どころは一の瀬はじめちゃんの巨乳。

    2013-09-02 11:22  
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     ども。この頃、ブロマガでも『ガッチャマンクラウズ』に関する記事をたくさん見かけるようになって嬉しいです。
     ここ数年のアニメのなかでも最高の傑作になりえる作品かもしれないと思っていますので、未視聴の方にはぜひ観てほしいです。
     視聴手段が関東圏以外では日テレオンデマンドで900円払うことくらいしかないというのが残念ですが……。
     900円くらい払う価値は十分にあると思うので、ぜひ、追いかけてみてください。
     しかし、この『クラウズ』、ほんとうに傑作なのか?ということはまだわかりません。
     というのも、爆発的に人気が出てグッズがたくさん、同人誌がたくさん、Pixivに画像がたくさん、という状況にはなっていないからです。
     アニメブロガーを初めとするマニアックな視聴者の間では話題騒然ではあるものの、そこまで人気が出てはいないのではないかと思います。
     たぶん、この作品、エンターテインメントとしてはあまりに知的で難解すぎる。
     きちんと文脈を押さえて観ていかないと何を云っているのかわからないようなところがある。
     「ヒーローの孤立」の問題を扱っていることはわかるひとには一目瞭然なのだけれど、でもそこに至るコンテクストを知らないと何が面白いのかさっぱりという一面もあるよね、と。
     ただ、それにもかかわらずそこそこは人気が出ているように見えるのは、今回はキャラクターと演出が冴えているからでしょう。
     『C』もちょっと観てみたんだけれど、こちらはやっぱり演出がいまひとつの「理」の話なんですよね。
     エンターテインメントは「理」だけではダメなんですよ。どこかで視聴者の感情を揺らさなければ……。
     エンターテインメント的にははじめちゃんっておっぱい大きくて可愛いよねとか、そういうところが大切。
     そもそもLDさんが云うところの「脱英雄譚」には 
  • 『ガッチャマンクラウズ』はゼロ年代以降のヒーロー論を総決算し「その先」へ向かう先端的作品だ。

    2013-08-29 13:44  
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     次の日曜日、『ガッチャマンクラウズ』のニコ生を放送しようと思います。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv150656748 この傑作(になりえる作品)が、いまだ「知るひとぞ知る」ポジションに収まっていることはいかにも惜しい! 微力ながら宣伝と拡散に力を尽くす所存です。
     こういう時、いつもぼくにもっと多くのひとに伝える力があればいいのと思いますね。
     まあこのブログも、アクセスだけは月間80万PVとか行っているのですが、そのほとんどが一見さんでしかないので、ほんとうの意味での人気ブログということははばかられます。
     ぼくにもっとひとの興味を惹きつける力があったら、マイナーな名作をマイナーには終わらせないのに、と思うのです。
     18禁ゲームの『らくえん』とか『SWAN SONG』に対しては特にそういうことを考えました。
     しかしまあ、現実にはぼくは無名の一ブロガーであるに過ぎないので、できることといえばこういう記事を書く程度です。
     それでもこの作品がより広い層に広まっていけばいいな、という祈りを込めて放送完結まで見守っていきたいところです。
     それでは、『ガッチャマンクラウズ』のどこがそんなに凄いのか? それについてはこれまでの記事でも書いてきました。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar325498
     で、この作品がどうしてぼくのような古参のマニアックな視聴者を魅了するかといえば、それは時代の文脈をものすごい勢いで駆け抜けているように見えるからです。
     第2話にしてはじめちゃんが共存不可能とも見える異星生命体MESSとコミュニケーションを果たしてしまった時に唖然としたマニアは多いはず。
     それはいままでの物語では最終回あたりに届くかどうか?という射程だったからです。
     「悪にしか見えないコミュニケーション不可能の「他者」を倒すのではなく、かれと和解する」という方法論は、ほんの数年前の最先端なんですね。
     しかし、はじめちゃんはあっというまにそれを成し遂げてしまう。
     そして登場するGARAX! この「大衆の善意を組み上げ直列につなげるシステム」は、これも何年か年前の作品が「結論」として提示していたアイディアです。
     しかし、これも第4話あたりでもうその限界が見えてきてしまう!
      おいおい、いったいどこへ行くつもりだよ? どこまで行っちゃうつもりなんだよ? いままでの文脈をきっちり押さえているひとほどそう思うはず。
     だって、それ自体、当時、最先端の作品であったはずの『東のエデン』や『サマーウォーズ』の「結論」をあたりまえのものとして「前提」にして、「その先」を目指していることがあきらかにわかるのです。これが興奮せずにいられるでしょうか。
     作中、爾乃美家累が生み出したGARAXのシステムが『まおゆう』のメイド姉のテーマをさらに洗練させたものであることはすでに書いた通りです。
     『ガッチャマンクラウズ』では従来のヒーローの限界が提示されるとともに(「暴力大好きですやん!」)、「その解決策の限界」まで示されてしまう。
     これはね、すごすぎる。もちろん、 
  • 『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんはゼロ年代ヒーローを超克する「正しい」主人公。(2351文字)

    2013-08-26 10:45  
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     いま話題の中心にして人気沸騰中の『ガッチャマンクラウズ』が日テレオンデマンドにて無料配信されています。
    http://vod.ntv.co.jp/program/GATCHAMAN_Crowds/
     どこが話題で人気なんだというひともいるでしょうが、少なくともぼくのまわりでは絶賛の嵐、マストの作品として認識されていますね。
     なんとあの敷居さんまで冬眠から目覚めて記事を書くという異常事態(http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20130825/p1)。
     ひさびさにまわりのほぼ全員でひとつの作品をリアルタイムに追いかけてああでもないこうでもないと語りあう喜びを満喫しています。作品完結の前に気づいて良かった!
     この作品の文脈についてくわしいことは以下に以前に書いたのでそちらを読んでください(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009)。
     この記事を書いたあと、最新の第7話を見たのですが、やっぱり凄いとしか云いようがない。
     なかでも印象的だったのはやっぱり主人公のはじめちゃんの行動。
     特にあっさりケータイを切ってしまうところは「おお、こうやって大衆からの無限責任追及を回避するのか!」と感動してしまいました。これについてはまた別立てで記事にしたいと思います。
     しかし、この一の瀬はじめというキャラクターのおもしろさはやはり文脈を押さえていないとわかりづらいところがあるかもしれない。
     一部ではアホの子扱いされていたくらいですからね。さすがに物語がここまで来た時点では彼女の凄さに気づいていないひとはいないと思うけれど――いるのかなあ。
     少し前にLDさんのブログで、いま、「間違えた道のまま突っ走っている」キャラクターが流行っているという話がありました。

     『Fate/Zero』の衛宮切嗣や『めだかボックス』の球磨川禊、そして『コードギアス』のルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。かれらは一様に不可能とも思える高い理想をかかげ、それに向かって邁進していくも、望んだ結果を得られません。
    さて、その彼らの共通項ですが……僕なりの言葉で語ると「何か理屈倒れになっちゃっている所?」みたいな話になってくるのですが、もう少し違う角度で詰めると……「自己主張を貫くために、気がつくと“世界全部”を敵に回して、勝ち目が極めて薄い戦いに追い込まれている」とでも言いましょうか?
    もう一つは「弱い自分を護り隠すために、極めて強いペルソナ(心的仮面)をかぶっているが、けっこう要所々で、その弱い自分が、やや、ダダモレになっている」所ですね。おそらく、このキャラ毎にある、ある種の二面性というか、そのギャップの部分にしびれて人気が出ているんじゃないかと想像します。
    http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/2a6a975e995c8d8e63a56b484f9ed001

     はじめちゃんはこういった「間違えた方向に全力疾走」系の主人公と対極にある「正しい」女の子なのです!
     LDさんはその種の「正しい」キャラクターを「王」と名づけているらしい。少々長くなりますが、その部分についても上記記事から引用させてもらいましょう。
     
  • ナウシカの凝視、一の瀬はじめの多動、視線が物語るキャラクターの個性とは。(2314文字)

    2013-08-22 23:09  
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     きょうもきょうとて『ガッチャマンクラウズ』を布教しますよ!
     これ、時代を代表する一本になる可能性があると思うので、悪いことは云わないから押さえておくと吉。
     『まおゆう』がまさにそうであったように、文脈にそって物語を展開しながら、議論を一歩先へ進ませる革新的傑作と云えるかもしれません。
     くわしくは前の記事に書きましたが、ここまででまだ話は半分なんだよね。のこりの6話でどういう結論を下してくれるのか、楽しみすぎます。
     さて、作品のバックグラウンドのコンテクストについてはすでに書いたので、今回は萌え萌えなキャラクター語りでもしましょう。
     いまのところ、この作品には、実質的にふたりの主人公がいるように思えます。
     ひとりはガッチャマンの新人隊員にして女子高生の一の瀬はじめ。
     もうひとりは二億人の会員を持つソーシャルネットワークサービス「GALAX」を運営する天才少年、爾乃美家累。
     かれらはそれぞれヒーロー(個人)とクラウズ(群衆)を代表するキャラクターであるとも云えます。
     で、性格的にも正反対。どこまでもシリアスに思いつめる累に対して、はじめちゃんはおおらかでいいかげんです。
     いわば累がシリアスキャラクターだとしたら、はじめちゃんはコメディキャラクター。そういうふうに見える。
     しかもふたりとも文脈的に最先端を行っている。どちらが主人公かと云えばはじめちゃんなんでしょうが、役割的には彼女のひきたて役とも云える累にしてからが、異星人ベルク・カッツェから与えられた超能力「クラウズ」をなるべく使わないようにしているという賢さ。
     つまりは「チート能力では世界を救えない!」とわかっているわけです。
     仮にかれにデスノートやギアスを与えたとしてもそれを使わずに世界をアップデートしようとするでしょう。
     ここらへん、文脈的にゼロ年代の『DEATH NOTE』や『コードギアス』から確実に一歩進んでいます。
     でも、それすら「正解」ではない。ここらへんが『ガッチャマンクラウズ』の凄まじいところなんだけれど、すでにその気高い理想の限界まではっきりと認識されているんですね。
     ヒーローだけでは限界があるけれど、同様にクラウズ(群衆)による「アップデート」にも無理があるということ。
     ここは確実にテーマが先へ先へと進んでいることがわかって興味深いです。
     ところで、『ガッチャマンクラウズ』の感想を見ていたら某所ではじめちゃんが巨乳のアホの子呼ばわりされていて愕然。
     そうか、そういうふうに見えるのか……。いや、はじめちゃん、めちゃくちゃ頭いいと思うんですが。
     純粋な思考計算速度なら天才少年の累のほうが上なんだろうけれど、はじめちゃんは直感的に正解にたどり着ける別種の天才なんですよ。
     ただその思考のプロセスが他者には認識できないくらい速い上に言語化されないから、その場の思いつきで行動しているように見えるだけ。
     「非言語的思考直感タイプ」の天才ですね。
     しかもはじめちゃん、累とは対照的に、性格が全然真面目じゃない!
     あまり先のことは考えていない。しかし、その場その場で一瞬で「正解」にたどり着くだけのインテリジェンスを持っているからそれで問題ないのです。
     ある大事故に遭遇したとき、ほかのひとがケータイにつないで「答え」を求めようとしているなか、彼女だけが一瞬で行動に移っている場面は象徴的です。
     「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。」(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar314125)でも書きましたが、真面目人間には自ずから限界があります。
     もちろん真面目な性格にも良い所はあるんだけれど、欠点も付きまとうものなんですね。
     その上、きわだって頭が良いともう非常に苦しいことになる。
     累を見ていればわかるように、「いま、ここ」から遠い袋小路まで思考を重ねてたどり着いてかってに絶望してしまうのです。
     これが真面目人間の病理です。ほんとうにメンタルが強ければその限界すら突破できるだろうけれど、累きゅん、あんまり心が強くないみたいですよね……。
     一方、はじめちゃんはあまり先のことは考えず、常に「いま、ここ」に立ち戻ってアクションします。
     たぶん一般的な意味では累のほうが頭がいいんだろうけれど、はじめちゃんのほうが地に足がついている。だから彼女は常に正解にたどり着ける。
     この文脈ではいままでほとんど出てこなかったタイプのキャラクターですね。
     人間に過剰な期待を持たないから絶望もしない。そうかといって冷めているわけでもなく、やるべきことを淡々とこなしていく。非常にバランスがとれた主人公。
     でも不真面目(笑)。だからこそ素晴らしい。
     たとえばナウシカを初めとする宮崎駿キャラクターの、あの印象的な「まっすぐ前を見つめる視線」は、真面目キャラクターの特徴です。
     じっと相手を見つめる観察の視線! それに対し、はじめちゃんは常に興味の対象が変わりつづけているので、ほとんどまっすぐ相手を見ません。
     しょっちゅうきょろきょろとしているわけですね。でも、どっちの視野が広いかと云えば、これははじめちゃんのほうなんじゃないかと思うんですよ。
     
  • 西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。(6885文字)

    2013-08-22 02:46  
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     はろー。という時刻でもないですが、時間が余ったので更新しておきます。
     いやー、いいですね、『ガッチャマンクラウズ』!
     今季の穴馬作品ですが、これは完結したらメルクマール的な作品になるかもしれない。期待は高まるばかりです。
     露骨に時代のコンテクストを読みまくった上でそれを超克しに来ている気がしてなりません。
     はたしてほんとうに乗り越えられるのかどうかは最終回を見るまでわかりませんが、ひさしぶりに夢中になってアニメを見ることになりそうです。
     『恋愛ラボ』とかもそれはそれでおもしろいんだけれど、やっぱり原作既読である以上、「次はどうなるんだろう?」というワクワクドキドキはないわけで、時代のカッティングエッジをリアルタイムで追いかけられる感動と興奮はひさしぶり。
     ちなみに、

    『ガッチャマンクラウズ』って作品、ご存知ですか? ここ最近アニメブロガーで著名な人たちが次々にこの作品の絶賛レビューを書いていて、この作品の何が人々の語りを誘発するのか気になりますね~。いわば『クラウズ論壇』()とでも呼ぶべきものが発生しております。
    http://dokaisan.hatenablog.com/entry/2013/08/05/222651

     ということで、著名なアニメ系ブロガーがたくさんこの作品を見て絶賛感想をアップしているらしいのですが、それも当然でしょう。
     ちょっと見ただけでもこの作品が過去のさまざまな作品を参照しつつ乗り越えようとしていることはあきらかだからです。
     個人的には「『東のエデン』2.0」と呼びたいくらい神山健治監督の作品とテーマ、ガジェット的な共通項がありますね。
     24日からに日テレオンデマンドで無料放送するらしいので、みんな見るのだ!
     いま云ったように『東のエデン』が好きなひとには文句なしにオススメです!
     以下、いくらかネタバレしながらこの作品について語っていきますが、できれば作品のほうを先に見てほしい。いや、じっさいこれはとんでもない傑作かもしれませんよ?
     まあ、このブログとかペトロニウスさんの「物語三昧」、LDさんの「漫研」あたりを常習的に読んでいるひとなら、一発で文脈を読み取っておもしろがれるのではないでしょうか。
     もちろん何も考えずに見ていても十分以上におもしろい作品だと思いますけれどね。
     『ガッチャマンクラウズ』は、ひとことで云うなら「新しい」アニメです。
     べつに映像と演出と音楽のオサレ感だけを見てそう云っているのではなく、文脈的に2013年の最先鋭を行っていると思う。
     現在、1クールの物語はまだ中盤ですが、それでも、ゼロ年代から(もっと前から)脈々と続いている「ヒーローの孤立」の問題を扱いながら、その解答として示された「クラウズ(群衆)による解決」という回答の問題点をも把握し、おそらくは前代未聞の「第三の解決策」を提示しようとしているところなど、震えるほどスリリングです。
     こう書いたのでは何が何だかわからないかもしれません。簡単にぼくが考えるこの作品の背景を説明しておきましょう。
     さて、戦後のエンターテインメントの最大のテーマとは何でしょう。
     いろいろな答えがあると思いますが、ぼくなりの答えは「どうやって正義を貫くか?」です。「いかにして世界を救うか?」といい換えても良い。
     これは太平洋戦争以後、日本のエンターテインメント業界に脈々と受け継がれてきたテーマなのだと考えています。
     LDさんによれば、戦後すぐのエンターテインメントでは、ヒーローも「世界を救う」といった大きな仕事を背負っていたわけではなく、せいぜい犯罪者を取り締まるといった程度のことをやっていたのだと云います。
     そういう牧歌的な善と悪の対決を、絶対善と絶対悪の黙示録的対立にまで先鋭化させていったのは、石ノ森章太郎『サイボーグ009』や『仮面ライダー』あたりらしい。
     とくに『サイボーグ009』は「悪とは何か?」という問いを突き詰めまくったあげく、ついに「人間こそ悪なのだ」という「人間悪」の問題を発見してしまいます。
     で、このテーマをさらにとことんまで突き詰めた結果、全人類絶滅まで持って行ってしまったのが永井豪のあの名作『デビルマン』です。
     まあ、この漫画はすごかった。『サイボーグ009』は、その抽象的思考と表現のレベルの高さに驚かされる一方、エンターテインメントとしてはわりと淡々としているのですが、『デビルマン』終盤の狂騒の凄まじさは云うまでもありません。
     そこでは人間同士が自分に内在する悪によって殺しあい、ついには滅びていくまでが圧倒的な速度感で描かれていました。
     「人間こそ悪」! これはある意味では「悪とは何か?」というテーマを極限まで突き詰めていると云ってもいいかもしれません。
     しかし、この究極的回答は同時にテーマ的な行き止まり、袋小路でもあります。
     人間のなかに救いようがない悪を見てしまった物語は、最終的には人類を滅亡させるしか解決のしようがないんですね。
     何しろ、ひとりでも人間が生きていればそこに悪があるわけですから、ひとりやふたり、悪のラスボスを倒したところでどうにもならない。
     これはきわめて本質的な、解決困難な問題であったらしく、現に永井豪は『デビルマン』を描いた後、その前へ進んでいくことはできず、『バイオレンスジャック』や『デビルマンレディー』で同じテーマをくり返すしかありませんでした。
     LDさんの見たところ、この問題は90年代中盤、ふたつの歴史的傑作を見るまで解決することがありません。
     そのふたつの作品とは何か? それは岩明均『寄生獣』であり、宮崎駿『風の谷のナウシカ』です。
     この二作品がどのようにこの問題を解決したのかは、LDさんの以下の記事を読んでもらうのが早いでしょう。
    http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1
    http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9
     「人間そのものが悪である」という問題は、かように根深かったのです。
     しかし、ぼくたちは、まさに『寄生獣』や『ナウシカ』の結末のように、世界を滅ぼしたりするのではなく、灰色の日常を人間の悪とともに生きていく決断をして21世紀を迎えた。
     この時点で「世界が滅亡して終わる物語」は前世代のものになった印象がぼくにはあります。
     ですが、当然、悪がなくなったわけではありません。むしろそれはぼくたちの身近に存在するようになったとすら云える。
     そしてそのような悪に対向するため、より強いヒーローが求められます。
     しかし、残念ながらヒーローもまた、ひとつの袋小路に突入していくのです。
     LDさんが生み出した「脱英雄譚」というキーワードをご存知でしょうか?
     ぼくの理解では「英雄(ヒーロー)なくしていかに世界を救うかの物語」です。
     いままで、ヒーローたちはたったひとりで(あるいはわずか数人で)世界を背負っていました。
     当然、その責務はあまりにも重い。けれど、島村ジョーにしろ、歴代の仮面ライダーたちにしろ、決してその重荷を捨て去ろうとはしなかったのです。
     それこそはまさに日本の誇る「偉大なるヒーローたちの系譜」であると云っていいでしょう。
     70年代末期の『機動戦士ガンダム』のアムロにまで至ると、だいぶヒーローとしてシニカルになっていましたが、それでも最後の最後には自分の責任を捨て去ることはなかった。
     ところが、以前にも書いたようにこの系譜は90年代中盤、ひとつの斬新な傑作によって途絶えます。
     云うまでもない、『新世紀エヴァンゲリオン』です。
     この物語のなかで碇シンジが「ヒーローであること」を放棄したのは歴史的な「快挙」でした。
     ここにまさに「ひとりのヒーロー」にすべてを背負わせる物語は臨界に達したのです。
     そして「脱ヒーロー」の物語が求められることになる。
     しかし、ヒーローなくしていかにして世界を救うのか? この問題に解決策が見あたらないまま、ヒーローの物語はあるいは前進しあるいは暴走していきます。
     ゼロ年代には碇シンジ的な態度を否定し、「悪」であることを自ら引きうけるようなキャラクターたちが登場してきます。
     しかし、それは『DEATH NOTE』の夜神月のように邪悪の魔王と化して裁かれたり、あるいは『コードギアス』のルルーシュのように自ら魔王を装って人々の敵愾心を一心に集めたあと殺されるという「デッドエンド」に至る道でした。
     夜神月はともかく、ルルーシュはある意味では世界を救ったと云えないこともないでしょう。
     ですが、ぼくが見るところ、あれは状況をごまかしただけで根本的問題は解決していません。
     しかもその代償として自分の命を捧げてしまっています。
     まあ、これこそ究極の自己犠牲ということはできますが、そのような凄惨な自己犠牲を必要とすること自体、何かがおかしいことは間違いないでしょう。
     この「ヒーローの孤立と苦悩」の問題を、ゼロ年代において描きつづけた作家をひとり挙げろと云われたなら、ぼくは何の躊躇もなく神山健治監督の名前を挙げるでしょう。
     かれは『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』から『東のエデン』、『009 Re:Cyborg』へと続いていく作品で延々と「ヒーローの苦悩」の問題を扱っています。
     特に『東のエデン』では、主人公滝沢朗は「自分が救うべき民衆」のあまりの愚かさ、身勝手さにしだいに絶望していきます。
     それでもかれは民衆を救おうと必死の努力を続けるのですが、その姿にはどうしようもなく痛々しさがただよう。
     このテーマは次の『009』ではさらに突き詰められ、ついに「答えていただきたい! 神よ!」と神に問いただすところまで行っています。
     ここまで来ると、やはりヒーローひとりにすべてをやってもらうという物語形式はむずかしくなる。
     そこで「脱英雄」が必要とされたわけです。
     LDさんによると、この問題にひとつの解決をもたらした作品が『まおゆう魔王勇者』であり、『魔法先生ネギま!』です。
     なかんずく『まおゆう』の解決の鋭さは素晴らしいものがあった。
     この物語のなかで、「メイド姉」と名付けられたキャラクターは「勇者の苦しみを共有したい」と云いだします。
     つまり、彼女はヒーローとしての勇者ひとりにすべての責任を課すシステムの限界を悟り、それを自分でも背負いたいと云い出したのです。
     ヒーロー(個人)からクラウズ(集団)へ。
     全員が少しずつ痛みと苦しみを背負うことで勇者がいらない世界を生み出す。これは画期的な「脱英雄」の物語でした。
     まさに傑作と云っていい。しかし、ここにもやはり限界があるのです。
     ペトロニウスさんはある雑誌のなかでこう書いています。

     ただし、最後にひとつ指摘しておくと、メイド姉の解決方法には大きな問題点があります。それは、「すべての人が勇者になろうとすること」という解決方法は、基本的にエリート主義(=すべての人が英雄になる)の考え方であり、大衆化して数に埋もれた人間の醜さや個人の持つ深いルサンチマンの闇などを考えれば、そもそも、ほぼ不可能に近い選択肢だということです。それは、歴史が証明しています。なので、この次を描く作家は、作品は、どうなるのか楽しみです。

     つまりはここでも「人間悪」の問題が顔を見せるのです。
     人間そのもののなかにどうしようもなく悪が内在している以上、その人間を結集させ「直列につなげる」ことをもくろんだところで、だれかの悪意が足をひっぱって失敗に終わることは間違いない。
     「全員がヒーローになる」プロジェクトは、いかにも楽観的な、空論的な側面を持つことを否定できません。
     さて、ここでようやく『ガッチャマンクラウズ』に話はつながります。
     この作品のなかで一方の主人公とも云うべき存在感を示す爾乃美家累というキャラクターがいます。
     いままで語ってきた流れに従って語るなら、かれは「脱英雄」の物語のリーダーです。
     LORD(君主)ではなくLOAD(情報のロード)を名のる累は、この社会にヒーローは不要であると喝破し、人々の善意を集めるシステムとして「GARAX」というソーシャルネットワークサービスを生み出します。
     かれはこの仕組みによって世界そのものをアップデートすることを目指しているようです。
     そしてまさに『東のエデン』の亜東才蔵が12人の「セレソン」を選んだように、100人の「ハンドレッド」というエリートを選び出し、かれらに期待するのです。
     かれはその理屈からは当然のことに、ガッチャマンのひとりである主人公はじめに向かい、英雄としてのガッチャマンは不要である、と云い切ります。
     必要なのは人々の善意を連結し、だれもが自発的にこの世界を良くしていこうとする世界を作るためのシステムであり、ヒーローなどその障害になるものに過ぎないのだ、と。
     これはまさにメイド姉の理想であり、『サマーウォーズ』や『東のエデン』の、人々の善意が「直列につながれる」ことによって世界が救われた物語を連想させます。
     かれのこの理想の言葉はここまで長々と語ってきた戦後エンターテインメントがテン年代に至るまで脈々と伝えてきたテーマと合わせて考えると実に感慨深い。
     しかし、やはりかれの思想には『まおゆう』同様の理想主義的な一面が目立ちます。
     かれのやり方では、『東のエデン』同様、人間悪の問題をどうしても解決できないのです。
     救うべき大衆そのものが、最大の悪を抱えているという矛盾を解き明かせない。
     古来、この問題に直面したヒーローは、人類そのものが悪なのだから悪を滅すれば良いと云って世界を滅ぼしてしまうか、そうでなければ「それでも人間を信じる」と云って「未来に希望を託す」といった問題回避的な解決法しか採ることができませんでした。
     しかし、21世紀のいま、世界を滅ぼすことはできない。「未来に希望を託す」のではどこか逃げた印象がただよう。
     じっさい、『東のエデン』は後者に近い解決のされ方がなされているのですが、そのために完全な傑作になりそこねたところがあります。
     少なくともぼくにとっては『東のエデン』は、傑作ではあるのだろうけれどどこかパーフェクトではない、そんな作品です。
     とにかく、累の解決方法には難点があるということ。しかし、ガッチャマンが独力で解決してしまうというやり方にもやはり無理がある。さて、どうするのか?
     こういう文脈を踏まえてみていると、『ガッチャマンクラウズ』はいっそうおもしろいわけです。
     非常に興味深いのは、累から「ガッチャマンであることを辞めてほしい」と頼まれた主人公のはじめ(このキャラクターについてもいずれ記事にしたい)は、あっさり「いやっす」と答えるんですね。
     このひとことだけで、『ガッチャマンクラウズ』が「脱英雄譚」ではないということがわかる。おそらくはさらなる「その先」を展望しているのです。
     まさか古典的なヒーロー物語に戻るつもりでいるわけではないでしょうから。それなら、いったいこの先の展開はどうなるか?
     あと1ヶ月半が過ぎて作品が完結したあとには一笑されることを覚悟の上で、ぼくなりの展望を述べておきましょう。