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「フェミニズム対オタク」を不毛の構図にするな。
2017-12-16 15:1651ptどうもミスが続いて申し訳ありません。このようなことがないよう、書きあがっていない記事の予約更新については見直すことにしたいと思います。
さて、きょうの話。まずはこの記事をご覧ください。
「フェミニスト」であり、最近PAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)の理事となった北原みのり氏と、反差別運動にのめり込んで、別の方向に対する差別発言をくりかえし問題になってきた香山リカ氏の対談本が、その事実誤認の酷さや差別的な発言のオンパレードで、問題になり始めてるのです。
これ、非常に困った話で、さんざん指摘されてる中では「反差別や人権を主張してる人達が、自分たちの都合で『敵』を決め、罵詈雑言や差別に満ちた言葉をぶつけるだけでなく、隙きあらば法制度の形でその差別を合法化しようとしてる」ということに対して、そのスケープゴートに長年上げられることが多かった、主に男性の「オタク」が苦言を呈したり怒りを表明するのに対して、更に逆ギレしたり、自分たちの差別的な部分を正当化することをくりかえして揉めてる。ということの一エピソードなんですよね。
http://rebuild.hateblo.jp/entry/2017/11/20/143227
そうなんです。揉めているんです。と、他人ごとのように書きましたが、わざわざ発売日にその本を買ってTwitterに引用し、この問題に火をつけたのは、何を隠そうこのわたくし。なので、まったく他人事ではありません。
あえてこんないかにもアレそうな本を買うオタクが少ない以上、ぼくが指摘しなければ、たぶんそのままスルーされていた問題でしょうからね。
この記事、昨今、フェミニストを名のる人たちが起こしているさまざまな問題と、これも最近問題になっている「フェミニスト」対「(主に男性の)オタク」という対立の構図の背景にあるものを指摘していて面白いです。
まとめると、このような本が出てくる背景には「フェミニズム」の運動としての頽廃が背景にあるのではないか、ということです。
もちろん、世の中にはまっとうなフェミニストもたくさんいる。そういう人たちはまじめに活動を続けている。しかし、その一方でミサンドリー(男性嫌悪)やそれにもとづく差別発言、歴史修正主義に傾く「フェミニスト」が大勢いて、むしろそれが「フェミニズム」の主流であるようにすら見える。
そして、そのなかで「フェミニズム」を見放して「ネオリブ」を名のる人たちが出て来ている。これはやはりフェミニズムの危機なのではないかと思うのですね。
で、この記事の著者さんは、くだんの北原さんと香山さんの本はそのような状況に対応しての「内部のひき締め」を狙ったものだと見るわけです。
たしかに、そのような側面はあるのではないか、とぼくも思います。ただ、これはTwitterで議論したのですが、はたしてほんとうに「フェミニズム」全体が頽廃しているのか、という議論はあっていいと思います。
「フェミニズム」は多様で多彩な運動であり、ひと言で「フェミニズム」といって済ませられないくらいのバリエーションがある。それなら、一部の勢力が暴走しているからといって、「フェミニズム」全体に問題があるとはいえないのではないか。
こういう反論があっても当然でしょう。たしかに一理ある。しかし、ぼくはやはり事を「フェミニズム」全体の問題として捉えたい。少なくとも日本の「フェミニズム」の歴史においては、以下のような思想を十分に批判してきたとはいえないのではないかと思うからです。
最近の、日本で主流派と主張するフェミニズム運動の人たちは、長年、「男性は男性であるだけで性暴力の加害者である」「わたしたち女が性暴力と思うものは、絵や写真であっても性暴力だ」と言う世界認識を深めていったと同時に、「女性とは唯一の性暴力の被害者であり、男性と違う弱者なんだ」と言う論理を、一緒に深めてきた訳です。
これ、これ。フェミの思想的リーダーたちのほとんどは、このような思想を肯定はしないまでも、黙認してきたのではないか。
その結果として、「フェミニズム」はたしかにこのような「世界認識」と「論理」を深め、広めたのではないか。それは「フェミニズム」全体の問題だといっていいのではないか。そう思うわけです。
いや、このような思想に対しては内部からこのような批判があるよ、という事例があったら教えてほしいと思いますが、ぼくの認識では、そういう批判はないわけではないにしても非常に少ないのではないか、と見ています。
海外にはあるんですよ。有名なのはアメリカ自由人権協会の会長を務めたナディーン・ストロッセンによる批判ですが、はたしてこれに相当するものが日本にあるかというと――うーん、あるのかな。あったら教えてほしいですね。なくはないと思うけれど。
こういった「フェミニズムの頽廃」に対する批判は、単に「バックラッシュ」といって済ませていいものではないと、ぼくは思います。
ただ、むずかしいのは、じっさいにバックラッシュとしかいいようがない性差別的な人たちもたくさんいて、そういう人たちが「フェミニズムの頽廃」を口実に女性の人権を攻撃しているという事実です。
そのなかには「オタク」を自任する人もたくさん含まれています。だから最悪なのは、「フェミニストのなかの男性差別主義者」と「オタクのなかの女性差別主義者」が互いに正義を掲げ、フェミニストとオタクを代表する形で争い合うという構図でしょう。
これを避けるためには、少なくとも「オタク」のほうは「オタク」内部の女性差別的な言説を批判していく一方で、「フェミニスト」のなかにも男性差別的な言動への批判を求めていく必要があります。
北原みのりや香山リカのような人が批判されることは当然でもあり、どうしようもありません。ただ、それを「だからフェミニストはダメなんだ!」的に盛り上げていくと、単なる感情的ののしり合い以上の構図にはならないでしょう。
で、「オタク」の特に「萌え文化」に対してはかねてより「女性差別的である」という批判があるわけで、「オタク」としてはこれを検証しなければなりません。
ぼくはその検証のために本一冊分の原稿をほぼ書きあげているのですが、どこからも出すあてはありません(笑)。電子書籍にしても売れないだろうし、ブログに載せるには長文すぎるし、どうしようかな、これ。考えちうです。はい。 -
無視される「女性のオタク」たち。
2017-11-22 12:0151pt香山リカ&北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』についてはTwitterにくわしく書いたのですが、それらのツイートのなかでも以下のものはよく拡散されました。
香山リカ&北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』を読んでいて気づかされるのは、徹底して「女性のオタク」が不可視化されていることです。おそらく彼女たちの議論に都合が悪いからだと思いますが、ほとんど存在しないことにされている。これはやはり問題だと思うのですね。
書き込んだ後には気づいたのですが、この発言は完全に正確ではなく、一箇所、メイド喫茶に努める女性たちについて語った箇所があります。それを「女性のオタク」と解釈するなら、女性オタクについても触れられていることになるでしょう。
が、ぼくがいいたのは、いわゆる「萌え文化」が、男性のみならず女性によっても支えられているという事実であって、そのことを示 -
「萌え文化は宮崎勤がつくった?」北原みのりと香山リカの対談集がすごい。
2017-11-17 16:1951ptさっそく香山リカ&北原みのりの対談集『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』を買ってきて読んでおります。
ダメ左翼のダメフェミニストの代表格ともいえるお二人だけに、どのような大怪獣空中決戦が繰りひろげられているのかと思いましたが、あれ、そこまでひどくない? 普通にダメくらい? という気もしますね。
まあ、所々とんでもないことはいっているのですが。たとえば、幼女殺害事件の宮崎勤に関する箇所。宮崎が「空虚」な人間だったという話に続いて、このようなやり取りがあります。
北原 だけど、いろんなものを壊した。
香山 そう、家庭を壊し、精神医学を壊し、もちろん幼い子どもの命を奪い。
北原 壊しただけじゃなく、ある意味、いろんなものを生んだ側面もあるのですよね。
香山 そう、私をデビューさせ、みたいな(笑)。
北原 そう、オタクの市民権を獲得し、秋葉 -
フェミニストはオタクの敵ではないのです。
2016-07-22 02:2751ptども。海燕でゲス。
フェミニストとして高名な北原みのりさんが「萌えキャラ」を批判してこんなことを書いているでゲス。
ハッキリ言いますが、大人の女の多くは、少女ファンタジーにしがみつく大人の男を、キモイと思っています。萌えキャラがキモイ、というよりも、萌えキャラを重宝し濫用する男社会がキモイ。少女に向ける眼差しやファンタジーの過剰さに困惑し、どう身を置いていいかわからなくなるのです。なぜ男たちは、ここにいない少女たちを、執拗に求め続けるのか。その眼差しの空虚さに、恐怖するのです。
http://dot.asahi.com/wa/2016070600233.html
あー、はい。としかいいようがない意見でゲス。いまでもまだこんなことを書く人がいるんだなあ、とぐったりしますでゲス。
たとえば、この意見をこんなこんなふうに書き換えてみると、この意見のどこがどう問題なのかはっきりします -
「正しさ」に酔っぱらってしまわないように。
2014-07-20 15:2351pt
北原みのり&朴順梨『奥さまと愛国』読了。中年女性の作家(なのか、ライターというべきか)ふたりが「愛国に走る女性」たちを描き出した渾身のルポルタージュである。
非常に面白く読めた。フェミニストの視点から書かれた本という意味では、愛国女性を高らかに称揚している(らしい)佐波優子『女子と愛国』とある意味で対になっている一冊といえるのかもしれない。いずれ、『女子と愛国』にも目を通してみたい。
本書のなかで、北原たちは、「愛国女子」たちを観察し、彼女たちと対話し、ときにはいっしょに旗を振ったりする。そして、それにもかかわらず理解しきれない存在に留まる「愛国女子」たちを前に疲弊し、困惑する。
一見して「普通のひと」、あるいは普通よりもっと上流の階級のひとであるようにしか見えない女性たちが、それにもかかわらずなぜ「愛国活動」に走るのか? それがわからない、と。
実は本書を最後まで読んでもその理由ははっきりしない。そういう意味で、この本は決して爽快なカタルシスをもたらしてはくれない。しかし、まさにその「もやもや感」こそがリアルであるという気がする。
そこには、「日本を愛していると語る女など異常だ」という一方的な決め付けはない。それどころか、著者たちは彼女たちを見つめるうちに、左派やフェミニズムの問題点にも気づかざるを得なくなってゆく。
愛国を語る人々にとって、国を愛することは「普通」であり、「自然」であり、「あたりまえ」であることが多い。しかし、この世にあたりまえのことなど何ひとつないのだ、とぼくは思う。
あたりまえとは、ようするにその人がそこで思考停止したことを意味しているに過ぎない。現実に、自然に国を愛したりしできないひと、あるいは愛そうとも思わないひとなどいくらでもいるではないか。
この場合の「あたりまえ」とは、そういった人種を排除した上でしか成り立たない理屈でしかない。もっとも、かれらにいわせればその手のひとは「真の日本人じゃない」のかもしれないが……。
結局、「国を愛することが普通」も、「国を批判するのが当然」も、同じコインの裏返しである。個人的には、「自分の頭で考えてみることが大切」と思うが、じっさいにそんな手間がかかることをこころみるひとは少ない。
たとえば南京事件や従軍慰安婦問題の真相を知るために、自分で史料を掘り返してみるひとなど、どれくらいいるものだろう。肯定派であれ否定派であれ、大半のひとは漠然とそれが真実だと考えているか、「ネットで真実を知って」盲信している可能性が高い。
それにしても、仮に「マスゴミ」や日教組が「ウソの歴史」を流しているとしても、それではネットで語られていることが「真実」である根拠はどこにあるのだろう?
表が間違えているから裏は正しいに違いない、とは幼稚な理論というしかない。結局、ひとは信じたいことを信じ、信じたくないことは「否認」するのだ。
日本人は悪いことなんてしているはずがない、と思いたいひとはそういうふうに考える。日本人はひどいことをしてきたから反省しなければならない、と考えるひとはそう信じる。
それは一部のアメリカ人が広島の原爆攻撃には必然性があった、と根拠もなく信じるのと同じ心理であり、人間普遍の心理といえることだろう。
いずれにしろ、そうやってある思想を信じ込んだひとたちは、新しい事実を突きつけられても、受け入れることはむずかしい。ただ、相手を嘲笑し揶揄し、「まったくこれだから」とため息をついてみせるだけである。
原発問題だろうがタバコ問題だろうが、まったく同じ構図がある。ようするにある主題を巡って、その双方が自分の「正しさ」にうっとりと酩酊してしまっている問題があるわけだ。
あるいは自分は正しいのだからいくら相手を揶揄しようが嘲弄しようがかってである、と思われるかもしれない。「1+1=2」という式の圧倒的な「正しさ」を理解できない人間を笑いたくなるのは当然ではないか?
しかし、その「正しさ」の成否はともかくとして、ある存在を嘲笑してしまったとき、そのひとは完全に思考停止することになる。
「真実を知っている賢い自分」と「呆れるほど愚かな対象」との位置関係を自明のものとし、それを半永久的に固定化して自省を忘れる。これは、堕落の始まりである。
相手がネトウヨであろうが疑似科学信徒であろうが同じことだ。いや、むしろ、思考停止して楽になりたいからこそ、ひとはだれかを笑うのかもしれない。
そうはいっても、たとえば歴史修正主義や疑似科学をもてあそぶような輩(あるいは低能のサヨクやばかげたフェミニスト)に対しては自然と笑いがこみ上げてくるではないか?といわれるかもしれない。
しかし、そこで重要なのは、そのこみあげてきた笑いを相対化し、自分自身の愚かさを直視する視点である。自分自身もまた、自分が笑おうとしている存在と大同小異であると認めることである。
これは非常にむずかしい。やはり、愚かなものは愚かではないか、と思わずにはいられない。しかし、たとえそうだとしても、自分自身に無限の正義がそなわっているわけではないということを認めない限り、その種の人々の同類に成り下がるだけだろう。
ぼくはいかなる「正しさ」もある種の相対化をまぬかれえないと考える。いや、物理法則のような科学的に導かれた「この宇宙の法則」は絶対の正しさを持っているのかもしれない。
しかし、人間社会における道徳や倫理はどこまで行っても「人間同士の約束事」であるに過ぎず、たとえば「殺人はいけない」、「戦争はいけない」といった理屈にしても、絶対確実な裏付けがあるわけではない(だから、現実に殺人も戦争もなくならない)。
そうかといって、「何もかも相対的なのだ」といって、悦に入っているわけにもいかない。ぼくたちはこの社会で生きる以上、何らかの「正しさ」にコミットする必要性がある場面に遭遇するだろう。
そういうとき、どのような態度が理性的だといえるだろうか? まず、
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