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  • なぜぼくはクリスマスでもひとりぼっちで救われずブログなんて更新しているのか?

    2014-12-25 01:49  
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     いよいよというべきなのかどうか、今年もクリスマスがやって来ました。
     クリスマスといえば現代日本では一年に一度のラブ・イベント。愛の配当からもれた人たちが「クリスマス中止」を叫んでイベントを起こしたりするのもいまとなっては年中行事という感じで、それはそれで楽しそうです。
     ぼくはといえば、今年は家族といっしょにこの日を迎えることもできず、ひとり寂しく聖夜を過ごすことになりそう。
     ひとが歓びに湧いていればいるほどわが身の孤独を感じずにはいられないわけですが、そういう意味ではクリスマスは一年でいちばん寂しい日ということになりそうですね。
     まあじっさいにはネットがあるからそう孤独感が募ることもないのだけれど、それでも何となくひとり身の切なさは感じます。
     ぼくと同じ歳だったら、もう結婚して子供がいる人のほうが多いくらいなんだよなあ。特に自分の人生を後悔するわけではありませんが、自由な非モテライフは孤独感とうらはらだとあらためて感じますね。
     まあ、非モテの自由なんて、呪い放題とか憎しみ放題とか、その程度のものですが……。
     こうしてひとり身の不遇をかこっていると、世間の狂騒もあまりにも遠く、恋愛とは何なのだろうとあらためて考えずにはいられません。
     ぼくの解釈によれば、それは「人間関係の不条理さが極限化して表れる関係性」ということになります。
     そもそも人間関係とは不条理なものだと思うのです。そこでは、倫理的な善悪は通用しません。「博愛」とか「平等」といったきれい事もじっさいにはほとんどまったく役に立たない。
     そこでは、愛される者はひたすらに愛され、愛されない者は一瞥さえ与えられないというとほうもない理不尽が当然のようにまかり通っているのです。
     その「関係性の不条理」が最も前衛化するのが即ち恋愛です。恋愛においては、いかなる意味での「正しい理屈」も意味をなしません。
     恋愛とは、ある意味でひとの差別心そのものです。だからこそ、モテと非モテが生まれ、そこからまた歓びや恨み、憎しみが生まれて来るわけです。
     恋愛の不条理さという話だと、ぼくはいつも村山由佳の『すべての雲は銀の…』という小説を思い出します。
     この作品のなかで、実の兄に恋人を寝とられた主人公は、友人から「合理的」な説教を受けます。「恋愛に善悪なんてないし、恋人はモノじゃないんだから、自分の所有物のように独占していることはできない」と。
     ある意味で実に「正しい」理屈だと思うのですが、まさにそうであるからこそ不条理そのものです。もし彼女がほかの男と浮気することが自由なのだとすれば(浮気というか、こちらのほうが本気なのだけれど)、そんな彼女を恨みつづけるのも自由であるはずではないですか?
     「そもそも正しさなど存在しない」はずの恋愛という関係において述べられる「正論」のむなしさがそこにはあります。一見して正しい理屈であればあるほど、それは恋愛の実相から隔たっているのですから。
     恋愛関係は、ある意味で権力関係を内包しています。愛されている者は時にその愛をかさに着て暴虐を働くでしょう。愛さずにいられない者は、その愛ゆえに下手に出ることを余儀なくされるかもしれません。
     「好きになったほうが負け」、「より魅力的な者がすべてのチップを持っていく」、恋愛とはそういう偏ったルールのゲームなのだと思います。
     そこには善悪も倫理もない。結婚となるとまた話は別ですが、少なくとも恋愛の次元においては、浮気をしようがふたまたをかけようが、あるいは相手の権利を侵害しようが、べつだん、法律で咎められることはない。
     そしてそういうひどいことをやる人間がモテないかといえばそうではないわけで、やはり恋の実相はどこまでも不条理そのものです。善人に善果がないのが恋愛です。
     ひとは好きではない人間には、どんなひどいことでもできるもの。ですから、ぼくのように「愛される魅力」に欠けた人間は恋愛においてどこまでも弱者です。
     その反対に「愛される魅力」を備えたより多く人間は絶対強者であり、自然、そのように振る舞います。それは必ずしも容姿の美醜であるとも限らない。とにかく魅力がある人はモテて、すべてを独占するのです。
     それがこのゲームのルール。「ひとを差別してはならない」という一般的なモラルから限りなく隔たっていますが、本来、私的な場面においては差別はまったく悪ではないのです。
     むしろ差別せずには生きていけないのが人間であるとすれば、恋愛はひとが最も自然でありえる状況ということができるでしょう。
     好きな人は好き。嫌いな人は嫌い。あまりにもあたりまえなことではないでしょうか? そしてそれは何と残酷なことなのでしょう。ここでは人間らしい努力だとか研鑽だとかは、あまり意味を持たないように思えます。
     じっさいにはそうでもないのかもしれませんが、持っている者は何もかも持っているし、持たない者は何ひとつ持たない、そのように、見える。
    (ここまで2038文字/ここから2207文字) 
  • あなたの才能のなさは才能である。凡庸を突き詰めて天才へ至る道。(2202文字)

    2013-10-02 07:00  
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    【早朝更新】
     さて、そういうわけで、きょうから午前7時しばりの更新を心がけてみたいと思います。
     いやまあ、べつに午前6時ごろに起きて眠い目をこすりながら文章を書くわけではなく、前日に書いた文章をこの時刻にアップロードするだけだから、何の苦労もないんですけれどね。
     眠いなか必死に書いています、と云ったほうが好感度は高いでしょうか。
     ともかく、午後7時更新しばりの1本目の記事は、「常識」の話です。小飼弾さんの↓の記事を読んで感心したことが契機になっています。
    http://ch.nicovideo.jp/dankogai/blomaga/ar356749
     まあひとのブロマガの記事の内容をかいつまんで説明することもはばかられるのでくわしく書くことはやめておきますが、「創作においては常識が大切だ」ということが書かれています。
     これはまったく膝を打つ意見で、ぼくがまともな小説を書けないのは、世間知らずで常識がないからという一面もあると思う(それ以前に才能も適性もないんだけれど)。
     多くのひとは「才能」というと、「ひととは違うところ」を考えます。余人には想像もつかないようなアイディアを、ひょいと頭から取り出してのけるような並外れた独創性、それが才能だ、と。
     たしかにそれも才能であることは間違いありません。しかし、そういうオリジナリティの高さだけが「ギフテッド」なのかというと、決してそんなことはない。
     あたりまえの常識人である、ということも十分に才能なのです。

    【ひととつながれる能力】
     ぼくが好きな村山由佳の小説『すべての雲は銀の…』で、フラワーデザインの仕事をめざす女の子が、自分の才能のなさについて長く場面があります。
     しかし、 
  • それは少女と愛馬の物語。村山由佳の最新長編『天翔る』に深く充実した読後感をおぼえる。(2086文字)

    2013-05-26 18:14  
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     舞台は北海道。少女と馬の物語。と、こう書いたならもう、ははあ、とうなずかれる方もいらっしゃるかもしれない。村山由佳は過去にも広漠たる大自然を背景にした小説をいくつか書いているからだ。またあの手の作品か、と早合点する向きはあるだろう。
     しかし、小説はすべて、ひとつひとつが独立した生命体である。同じ作家から生まれた作品は、たしかに兄弟のようによく似ているものもあるが、しかしなお「兄弟のように別人」なのだ。ぼくたちは初めて出逢うひとを見る想いで新作を読まなければならない。
     じっさい、これはいままでの村山の作品とは似て非なる物語だ。『天翔る』。印象的な表題を付けられたこの物語は、少女とある馬の出逢いから始まる。
     そして少女は幾匹、幾人もの馬や人間との出逢いを通じてしだいに成長してゆく。成長。この言葉は何を意味しているのだろう。少しずつ人格が陶冶されていくことだろうか。
     そうかもしれない。ただ、ぼくは思うのだ。成長とは、単にパーソナリティがまろやかになるということではなく、ひとが「高み」へと駆け上がることを意味しているのではないか、と。
     そう、ぼくは時に思わずにはいられない。人間とは何と醜怪な生き物だろうと。ひとは妬み、怨み、憎しみ、ひとの足をひっぱり、ひとを蹴落とそうとし、意地悪をしては自分は悪くないと考える。
     そうかと思えば自分だけが正しいと思い込み、ひとを足蹴にし、ののしり、踏みにじり、殺しさ謁する。人間はどこまでも愚かしくも罪深い。何も他人のことではない。皆、ぼく自身が抱える醜さだ。
     だが一方ではそれだけがひとの本質ではない。ひとはそういった自分自身の弱さ、愚かさ、醜さを超越し、「高み」を目ざす存在でもある。
     「高み」。「天翔る」というタイトルからもわかるように、この小説の主人公もまた、その場所を目ざすひとりである。彼女は馬に乗ることによって、その天性を高めてゆく。
     実に100キロ以上の距離を走破するエンデュランスと呼ばれる競技が彼女の前に表れる。そして始まる刻苦の日々。少しでも自分の資質を開花させるためには、きびしい修行がなければならない。少女の貴重な天稟は、試練に晒されることなしに花ひらきはしないのだ。
     それと並行していくつもの哀しい出来事が彼女を襲う。世界はなんと非情で残酷な場所なのだろう。彼女はひとりだ。だれもその孤独を分かちあうことはできない。
     しかし、その哀しみが深ければ深いほど、待ち受ける歓びもまた大きい。過酷な競技を通し、少女は真の充実を覚えていく。
     
  • 【有料記事】『天使の梯子』。(1283文字)

    2012-09-23 07:10  
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    村山由佳『天使の梯子』の書評です。この小説が出たのはすでに数年前、また前作『天使の卵』が出たのはさらに10年前になります。時が経つのは本当に早いものですね。『天使の卵』は村山にとって最大のベストセラーであるわけですが、小説としての完成度という意味では続編のほうが凄みを増していると思います。サムネイル画像は諸事情でドラマ版を使用しています。