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どうすればレアキャラ女子と出逢えるのか?
2016-09-21 05:3851ptコメント欄でこんな質問をいただきました。
海燕さんの本連載、傑作だとおもいます。
ぼくは、FF8のスコールとキスティス、リノアの関係で理解しました。
スコールはすべてをATフィールドで遮断します。ナルシシズムの塊です。
一方、リノアはエロティシズム。
リノアは「気持ち悪い」「うざい」のがオタクからの評判ですが、
リノアと対話をするとナルシシズムの中に閉じこもっていられないからで、さもありなん、なのですね。自分の認知のゆがみを見る羽目になる。
エロティシズムでスコールに接し、ついにはスコールを「コミュニケーション」と「共感」の世界にいざなっていきます。
一方、キスティス先生は、スコールのことが好きだけれど、
教員としてどうしたとか、若くてキャリアがどうとか、
色々な「比較級」の自意識にさいなまれて、
ATフィールドをまとったまま近づいてきますね。
「壁にでも話してろよ」と言ってもやっても -
「地獄」から「天国」へたどり着くためのルートとは。
2016-09-20 17:0551pt
恋愛工学の話は終わったと書きましたが、どうにも書きたいことが湧いて出てくるので番外編をひとつ。いや、まだ続くかもしれないので「番外編1」としておきましょうか。
この話、いつまでも延々と続くような気もする。いいかげんいやになっている人もいるでしょうが、ぼくは書きたいことを書きたいように書くのだ!
すいません、『麒麟館グラフィティー』の話も必ず書きます。赦してください。平身低頭。
さて、ネットでおそらく最も手きびしく恋愛工学を批判した記事に以下があり、このように書かれています。
僕は恋愛工学の信奉者を、特別にミソジニーだとか下卑た人間だとは思わない。頭悪いんだなとは思う。ナンパブログにも言えることだが、恋愛工学徒が書いたりしてるものを見て思うところがあるのは、「とにかくやりまくりたい!」とかじゃなくて「ただ普通に女の子と仲良くなりたいだけなんだ…」という人が少なくないことだ。その -
ほんとうに人にモテるコツとは何か。
2016-09-20 01:0751ptども。なんとなく恋愛工学の話から「ナルシシズム/エロティシズム」の話へと話題が移ってきましたね。
ぼくとしてはかなり面白いことを書いているつもりなのだけれど、どうなのだろう、読んでおられる方たちに通じているのだろうか? ちょっと自信がないのですが、通じていると信じて書きます。
まあ、ぼくがいうところの「ナルシシズム」とは、つまり『エヴァ』でいうところのATフィールドの内側にひきこもった状態のことなのですね。外からの干渉をシャットアウトして、変化することを拒んでいる。
もちろん、そういうナルシシズムの人も知的に劣っているわけではないから、「情報」はちゃんと受け止めている。ただ、「心」を閉じているのですね。
知性と心性の違いといえばわかってもらえるでしょうか? 「状態」と「心」は違うということを認識し、「心」に寄り添うことはセラピーの基本だそうです。
最近読んだ本に書いてあったこと -
ナルシシストの天才たちと日本一「スケベ」な男。
2016-09-19 06:0651pt
まだしつこく恋愛工学のことを考えています。というか、恋愛工学に始まった思考をさらに進めている。
先日は恋愛工学とはナルシシズムの理論なのだ、というところまで書きました。ここでいうナルシシズムとは自分以外の「他者」を持たない自己完結した心理のことです。
それに対し、他人のなかに自分にコントロール不可能な「他者」を想定し、その「他者」と出逢うことで得られる快楽を求めることを、ここではエロティシズムと名付けましょう。
人間は「他者」との交流によって快楽を感じ取ることができる生き物です。会話が楽しいのはそこに「他者」がいるからです。セックスが気持ちいいのはそこに「他者」との摩擦があるからです。
「他者」とは自分とは異なる「内面」をもった永遠に理解不能でコントロール不能な存在であり、「決して支配されないもの」でもあります。支配できてしまったらそれは「他者」ではありません。
「他者」と出 -
恋愛工学はニヒリズムへと人を導く。
2016-09-17 18:1351pt
あいかわらず恋愛工学のことを考えています。じっさい、調べれば調べるほど面白い。このネタをまとめて電子書籍を出したいなあと思っているのですけれど、はたして実現するでしょうか。うーん。
ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。
たとえば藤沢さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。
「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入ります -
なぜコミュ障は地獄なのか。
2015-06-08 21:1751ptTwitterでこんなツイートを呟いてみた。
「絵が描ける」とか「歌が歌える」とか「文章が書ける」ということは、その分野における自分の技術と折り合いがつけられているということだ。ほんとうはやるだけならだれにでもやれるのだ。ただ自分のあまりの下手さに耐えられないから「できない」と思っているだけで。
そうしたら、てす(@a1rou59)さんから次のようなリプライをいただいた。
@kaien そのうちで良いので、この「折り合い」の付かない感じ・自分の下手さに耐えられない感じをブロマガでkwsk。解決しなくて良いのですが、本当にこの感じに困ってしまって・・・
それでは、さっそくその件について書くことにしよう(あまり長く放置すると忘れ去ってしまう可能性が高い)。
上記のツイートで書いたように、ひとは、なんらかの物理的には可能な行為を、心理的な理由で「できない」と思っていることがある。
たとえば、高所恐怖症の人にとって、スカイダイビングやバンジージャンプ、フリーフォールのような行為は、物理的には可能だが、心理的には不可能なものである。
あまりにも心理的障壁が高いため、かれらはそれを物理的に不可能な行為であるかのように表現することがある。
「わたしにはどう足掻いてもとてもできない」、「あまりにも危険すぎる」とか。
しかし、それはやはり嘘なのであって、問題は99%まで心理的なものだ。
たしかに、1%以下の危険性がないでもないことは事実だ。
何かが狂って、予想外のトラブルが起こるかもしれない。パラシュートの金具が(入念にチェックされているはずにもかかわらず)壊れているとか。
だが、そういった確率は、たとえば日常生活のなかで殺人犯と遭遇する確率と比べてもそう高くないだろう。
冷静に客観的に考えれば、スカイダイビングやバンジージャンプに物理的な危険が伴うことはほとんどないということはわかるはずだ。
もし大きな危険があるならすぐに問題になって中止されているだろう。
もちろん、だからといってこういった行為が恐ろしくないことにはならない。
物理的な障壁は一切なくても、心理的な障壁は残る。
高所恐怖症の人はいうだろう、「そうはいっても、怖いものは怖い」と。
それはまったく納得のいく話である。ひとは理性だけで生きているわけではないからだ。
理性的に考えれば不条理な恐怖感であっても、並大抵では克服できないということはありえる。
だから、ひとはしばしばいい訳することになる。「スカイダイビングなんて、ばかみたい」、「まともな人間はそんな危険な真似をしたりしないよ」などなど。
この場合は、まだ身体的な危険がゼロではないぶん、そのいい訳も理解しやすい。
ところが、人間はほぼ99・99%身体的な危険がない場合でも、行動を尻込みすることがありえる。
つまり、歌を歌ったり、絵を描いたり、文章を綴ったりするという「自己表現」に関わる行為を避ける場合である。
ひとはときに -
運命を受け入れて生きるということ。
2015-02-20 22:2651ptえー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
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牢獄から、外へ。
2015-02-17 14:2751pt寒い日が続いていますね。きょうも関東では雪がちらついているとか。ただ、このところ数日にわたって更新が停止していたのは、当然、それが原因ではなく、べつの事情があります。ある問題に悩んでどうしても記事を書く気分になれなかったのです。
そういうわけで、きょうはもう一日休むことに換えて、ぼく自身の話をしたいと思います。しかし、どこから話し始めたら良いものか? 昨晩、考えに考えて、自分の人生についてあるひとつの結論が出たので、それをひとに話したいのですけれど、どういうふうに語れば理解してもらえるか、ちょっとわかりません。
なので、思いつくところから順々に話していくことにしましょう。さて、きのうはぼくにとって記念すべき発見の日でした。
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