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『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

 伏見つかささんの人気ライトノベル『エロマンガ先生』がアニメ化決定したようです。  ぼくは第1巻が発売された頃から「この作品はアニメ化する」といってきたので、予想があたったことになります。  べつに自分の先見の明を誇るつもりはありませんが(普通に読めばだれだって予想できるでしょう)、「ああ、やっぱり」とは思いますね。  伏見さんにとっては『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続くアニメ化になるわけで、二作続けてきちんとあてて来るあたり、さすがだなあ、とも感じます。すごいすごい。  ただ、この作品に関しては微妙に絶賛しきれないものを感じるのもたしかではある。  文章やキャラクター造形力やバランス感覚はものすごいレベルに達しているのだけれど、そのぶん、新しいチャレンジがないと感じてしまうのですね。  もちろん、堅実に作品を作りこんでいくのはひとつの手ではあるのだけれど、どこか保守的になってしまっているのではないか、という懸念を覚えます。  いったんディフェンスに入ってしまったら、いくら才能と実力を兼ね備える作家といえども新しい読者を獲得していくことはむずかしいでしょう。  まあ、ぼくがそう思うだけではあるのですが、はっきりいってしまうなら、『エロマンガ先生』は『俺妹』から、批判を受けそうな要素をすべて取り除いた作品であるように感じられるのです。  『俺妹』における「毒」の部分は薄くなり、実の兄妹のラブストーリーという物議をかもすテーマも義理の兄妹という設定になった。  おかげで、この作品に特に批判するべきところはないように思われます。でも、なんだろう、この隔靴掻痒な感じは?  たしかにずば抜けて完成度の高い、素晴らしい作品ではある。  しかし、あまりにもチャレンジとサスペンスがないように思えてならない。  ぼくの言葉を使うなら「置きに行っている」ということになりますが、勝率の高い安全圏で勝負しているという印象が強いのです。  まあ、それの何が悪いのだといわれたらそうなのだけれど、もう少し挑戦してくれてもいいのになあと思ってしまう。  『俺妹』の最終巻が賛否両論の内容だっただけに、今回は批判を受けないように調整して来たのかもしれませんが、ぼくにはそういう態度はあまり好ましくないように思われます。  いや、ほんとうにものすごくよくできたお話ではあるのですよ。  第6巻にしてアニメ化が決まるくらいの人気もうなずける、最高に洗練されたライトノベルだといっていいでしょう。  「エロマンガ先生」なんていうタイトル自体、前作に続いてうまいところ突いて来るなあと思うし、各キャラクターの活き活きとした描写は素晴らしいのひと言です。  文字のなかの存在であるにすぎないのに、あたかもそこに生きて動いているかのような躍動感。  これはほんとうに優れた作家だけが生み出すことができる「生きた」キャラクターの存在感です。  そういう意味ではほんとうに文句を付けるのが申し訳なくなるくらい、非常に素晴らしい作品であることは間違いない。  ただ、 

『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

 伏見つかさ『エロマンガ先生』の最新刊を読みました。  ベストセラーになった代表作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続く新シリーズであるわけですが、前作に負けず劣らず面白いです。  始まったときは「ちょっと守りに入っているんじゃないの?」などと思っていたのですが、なかなかどうして、ここまで堅実に続けられると降参するしかない。  圧倒的な完成度に全面降伏です。  『エロマンガ先生』の主人公は高校生ライトノベル作家。  そこそこ才能があり面白いものを書いてはいるものの、あまりヒット作には恵まれていないという状況。  かれには義理の妹がひとりいるのだけれど、自室にひきこもって出てこない。  ある日、ささいな偶然から、その妹が自作に絵を付けてくれているイラストレーター「エロマンガ先生」であることがあきらかとなるのだが――と話は進みます。  人気作家やらイラストレーターがことごとく中高生であるあたり、荒唐無稽といえばそうですが、ライトノベルとしては十分に「あり」な設定でしょう。  偶然にも、というか必然なのかもしれませんが、平坂読が同時期にやはりライトノベル作家を主人公にした『妹さえいればいい』を書いています。  ぼくはどちらも好きなのですが、じっさい読み比べてみるとかなり作家性の違いを感じます。  ネタがかぶったりしているから非常にわかりやすい。  あえていうのなら、『妹さえいればいい』はわりに現実的な年齢の作家を主役に据え、徹底的にディティールに凝って見せているのに対し、『エロマンガ先生』は完全にファンタジーに走っている印象がある。  いや、もちろん『妹さえいればいい』も非現実的な話ではあるのだけれど、そこにはひとさじの「毒」が垂らしてあって、奇妙にリアルに思えてくるのです。  まあ、『エロマンガ先生』に毒がないわけでもないけれど、その毒は慎重に量が測られていて、決して一定のレベルは超えないよう調整されている、という感じを受ける。  根本的に世界がひとに優しいというか、あまりひどいことが起こらないよう守られている世界なのだと思うのです。  いや、物語の始まる前には交通事故で主人公の義母が亡くなっているので、何もかも幸福な世界、というわけではない。  それなりに一定のリアリティに配慮が行われているのはたしかなのだけれど、それでも登場人物がみないい人で、深刻な裏切りがないという意味で、牧歌的な世界ということができると思います。  それを指して、甘ったるいファンタジーに過ぎないという人はいるかもしれません。  しかし、作者はこのファンタジーを成立させるためにどれほど繊細な努力をしていることか。  それはなんというか、ほとんどジャック・フィニィあたりのファンタジー小説を思い起こさせるほどなのです。  いや、ぼくもみんなが幸せで、みんなが互いに思い合っていて――というのは、やはりウソであるとは思うんですよね。  でも、 

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

 七月です。今年ももう半分終わってしまいましたね。  この半年、いろいろありましたが、厭なことは忘れてゼロからスタートしたいと思います。よろしくお願いします。  さて、当然、厭なこともあれば良かったこともあるわけで、上半期はたくさんの面白い作品と出逢えました。  そのなかでも個人的に高い評価を与えたい作品といえば、平坂読『妹さえいればいい。』がまず挙がります。  一見するとライトノベル作家の他愛ない日常を綴っただけの作品とも見えかねないものの、じっさいには壮絶に計算されつくした一作とぼくは見ました。  日常系ライトノベルもここまで来たのかと感嘆せずにはいられないという意味で、今年のベスト候補です。  もちろん、シンプルに一本のラブコメディとして読んでもめちゃくちゃ面白い。  ただ、これをぼくのようなすれっからしの読者ではない、いまの若い層が読んで面白いと思うかというと、それはよくわからない。  Amazonなどでくり返し指摘されている通り、「一本の小説としての起承転結が構成されていない」作品だからです。  物語はなんとなく始まりなんとなく終わっているように見えます。  おそらくじっさいには見た目に反して精密な計算があるものと思われますが、それにしても一貫したストーリーは存在しないといってもいいくらい極端な構成に仕上がっている。  一般的な意味での「物語」がないのです。  そのかわり、くり出されるネタの「手数」で勝負している印象。  いわば一撃入魂の必殺パンチではなく、計算ずくのコンビネーション・ブローで戦っている作品といえるかと思います。  それでは、なぜ極端に「物語らしさ」を欠いたプロットになっているのか?  もちろん、 

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

 いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。  平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。  というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。  すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。  しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。  したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。  それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。  さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。  『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。  世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。  いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。  これは大人の小説なのです。  前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。  そう、面白い物語には必ず「落差」があります。  王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。  しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。  『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。  いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。  なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。  それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。  悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。  「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。  あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。  伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。  ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。  したがって、 

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

傑作? 凡作? 伏見つかさ最新作は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を超えられるか。

 さて――このところアニメの話ばかり続けたので、きょうはライトノベルのことを書くことにしよう。  ここに取り出したるは伏見つかさの最新シリーズ『エロマンガ先生』! その最新刊! きのう発売されたばかりのぴっかぴかの一冊。これをいまから罵倒の限りを尽くして口汚く貶してやろうと――うわっ、何する、何だお前ら、やめ(以下略)。  というのはイッツジョーク(寒い)、ただ、昨日発売の『エロマンガ先生』最新刊を購入したことはほんとう。「本物のエロマンガ先生」を名のるなぞの人物登場というクリフハンガーで終わった前巻も良かったが、この巻も面白い。  エロマンガ先生と正体不明のイラストレーター「エロマンガ先生G(グレート)」の間でイラスト勝負の火蓋が切って落とされるという燃える展開!  はたしてエロマンガ先生Gとは何者なのか? 必殺の「エロマンガ閃光(フラッシュ)」は炸裂するのか? 某大手動画サイト(どこだろ?)を舞台にくり広げられる勝負の行方は萌えイラストの神のみぞ知る!  というわけで、きょうは期待と興奮の『エロマンガ先生』第4巻の話。そもそも『エロマンガ先生』を知らないという不勉強な読者のために一応は解説しておくと、この作品は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で大ヒットを飛ばした伏見つかさが『俺妹』に続いて電撃文庫から送り出したライトノベル。  前作に続いて妹もの、イラストレーターも前作と同じかんざきひろということで、発売前には多くの読者に「どうなんだろ?」と思われていたであろう作品なのだけれど、現実に発売されたものを読んでみると、これがまあ良くできている。  リーダビリティ抜群の文章といい、紙面狭しと躍動するキャラクターたちといい、あいかわらず可愛らしいイラストレーションといい、文句なしに出色の出来なのであった。  じっさい、挑発的とも見えるタイトルに反し、お話の内容はすこぶる堅実。ライトノベルの書き方教室があったら教科書に採用したいくらいのクオリティ。  中高生のベストセラー作家や天才イラストレーターが次々と出て来る設定にリアリティがないという批判もあるようだけれど、そもそもライトノベルで設定の現実性を問うことじたい意味がない。  べつに現代文学の潮流に棹さす一作を目指しているわけではなく、あくまで一本のライトノベルとして面白いものを志しているだけなのだから、特に現実的な設定を採用する意味はないだろう。  いや、ほんと、よく出来た少年読者向けエンターテインメントなのですよ。秀作。  ――というところで終われれば良いのだけれど、残念ながらもう少し付言せざるを得ない。というのもこのシリーズ、きわめて完成度が高いことは論をまたないことながら、じっさい読んでみると、もうひとつ、ふたつ、物足りない印象が強いのだ。  これはぼくの個人的な感想に過ぎないから、「めちゃくちゃ面白い!」と感じているひともいるだろうけれど、ぼくは高い完成度のわりにいまひとつ物足りないと思っている。  間違いなく考え抜かれた作品ではあるんだけれど、何というか、「無難」だよなあ、と。『俺妹』の熱心な読者だったぼくとしてはどうしても『俺妹』と比較してしょんぼりしてしまうのである。  いや、『エロマンガ先生』、あるいは作品のクオリティとしては『俺妹』よりさらに高いかもしれない。  『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は作者としては計算外の要素が入った作品だったはずだ。純粋に構成だけを見れば『俺妹』の展開はわりとめちゃくちゃである。  行き当たりばったりとはいわないまでも、勢いまかせなところがある。最終的にほとんどの伏線を拾ったことはたしかだが、ネットを見る限り、最終巻は賛否両論の内容だった。  それに対し、『エロマンガ先生』は十分に計算して作品世界を構築している印象が強い。主人公とメインヒロインが血の繋がらない兄妹であることはあらかじめ示されているし、各キャラクターとも嫌味なく描かれている。  萌え耐性がない一般読者はともかく、ライトノベルをそこそこ読み慣れている人間なら、この小説を読んでいやな気持ちになるひとは少ないだろう。  何より、文章がでたらめに読みやすい。いったん物語のなかに入ったら、あっというまにラストまで連れて行かれるようなスピーディーな快感がそこにはある。  読者にとって読みやすい文章を書くためには作者は恐ろしく苦労しなければならないわけで、伏見つかさが懸命な努力の末にこの作品を組み立てたことをぼくは疑わない。  しかし――そう、しかし。それでもなお、ぼくはこの小説を読むとき、一抹の物足りなさというか、歯ごたえのなさを感じずにはいられないのである。もう少しで傑作にたどり着けるだけの出来ではあるのだけれど、どうにも「置きに行っている」印象が強いな、と。  「置きに行く」とはもともと野球用語で、投手がフォアボールを恐れてストライクゾーンにボールを「置きに行っている」かのような配球を行うことを指している。  そして、それが転じてお笑いなどで無難なネタで勝負することを意味するようにもなった。ここでぼくが「『エロマンガ先生』は置きに行っている」というのは、つまりはこの作品がいかにも無難なネタで勝負しているという意味である。  そう、『エロマンガ先生』に読んでいてヘイトが溜まるような仕掛けはほとんどない。どこまで行っても、平和で、明朗で、穏やかな笑いが続いていて、晴れた日にひなたぼっこをしているような気分になれる一作なのである。  作品のどこを切り取っても、文句を付けるようなポイントはないのだ。それはまあ、現実感に乏しいことはたしかだが、先述したようにそこはライトノベルにとって欠点にならない。とはいえ、それでもやはり物足りなさを感じることは事実。どこかに何か足りないものがあるのだ。何だろう? 

傑作? 凡作? 伏見つかさ最新作は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を超えられるか。

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とテキストの信頼性の話。

 いま、ちょっとLINEで『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の話をしていて、これがちょっと面白いので、ぼくの意見をメモしておきます。一応注釈しておくと、あくまでぼくの意見であって、ほかの人の意見は参考にしているに過ぎません。  で、この話、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で、主人公の京介が妹の桐乃に対して恋愛感情を抱いたことが納得いかない、というところから始まっています。  これが誰の意見なのかはともかくとして、非常にオーソドックスな感想だと思うのです。ぼくもそれはそうだと思う。京介が桐乃を恋愛感情として好きだという結論は、物語としてはともかく、リアルに考えた場合は納得が行きません。  何といっても、実の妹であるという大きなハンディがあるわけで、そこまで簡単に好きになるだろうとは思えないからです。これは近親相姦タブーに抵触するかというだけではなく、幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた妹を好きになったりするか?ということまで含めての話ですね。  もっとも、作品のなかではこの問題に対して一応の回答が示されていて、「京介は桐乃と絶好していた期間が長いから、桐野を異性として認識することができた」というものです。  これはこれで、物語レベルでの辻褄は合っているのだけれど、深層心理レベルでの納得は行かない。やっぱり無理があると云えば無理がある話だとは思うんですよ。  それでは、なぜ京介が桐野に対して恋愛感情を抱いたかというと、「タイトルで存在が出ているヒロインだから」としか云いようがない。タイトル、つまり物語の外側のレベルで既に「これは桐乃の物語である」と決定されているということ。  これがつまり「物語の圧力」なのだと思う。それでは、物語の圧力とは具体的には何かということは、いつかまた話すとして。今回、興味が湧いたのは、「それでは、京介の心情はどのようにして把握すれば良いか?」ということです。  それはもちろん、京介が一人称主体として記している本編のテキストから読み取るよりほかないんだけれど、しかし、「京介は物語に書かれていないところで桐乃に対し恋愛感情を募らせていたんだ!」と云われると、「な、なんだってー!」じゃないけれど、ちょっと驚いてしまう。それはないんじゃないの、と思うところはあるわけです。  しかし、これがなしかといえば、やっぱりありかもしれないとも思うんですよね。というのも、小説とはそういうものでしかありえないからです。  本来、どんな厳密な本格ミステリであろうが何だろうが、最後の一行で「いままでのすべては嘘でした」とひっくり返される可能性は、常に残っているんですよね。  「赤文字で書かれてあることは真実である」という『うみねこのなく頃に』の赤文字ルールにしても、そもそもそのルールそのものを保証する根拠が物語中に存在しないわけだから、無意味と云えば無意味です。  仮に、何らかの根拠によって赤文字の正当性が保証されたとしても、今度はその根拠の根拠が必要とされるわけで、これは基本的には無限退行していく種類のロジックなんですよね。  だから、極論するなら、「物語のなかで描かれているすべての事実は一切信用できない」と云えなくもない。それでは、なぜ本格ミステリなどで、読者が次の展開を推理していけるかといえば、 

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とテキストの信頼性の話。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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