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記事 4件
  • 正義は血を求める。

    2015-08-24 22:42  
    50pt

     安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。
     長年、ヘイトスピーチ問題に取り組んでいる著者が「ネットを利用した個人情報晒し」について語った一冊である。
     テーマはズバリ、「インターネットの暴走する正義」。
     最初から最後まで延々と暗鬱な話が続く。読んでいてどうしようもなく気が重くなる本だ。
     本書には、見ず知らずの人間を罵倒し、揶揄し、攻撃してやまない人間が多数登場する。
     そういった人物たちの正体は何者か。ぼくやあなたの隣にいる「普通の人たち」なのである。これで気が滅入らずにいられるだろうか。
     しかし、すべてはわかっていたことだ。
     「普通の人たち」こそ最も怖い。最もおぞましい。
     そして、ぼくやあなたにしてからが、そういう「邪悪な凡人」にならないとは限らないということ。
     人間の底知れない醜さと邪さを思い知らされ、しかも他人ごととして処理することを許されないという意味で、ほんとうに重たい一冊だった。ぐったり。
     それにしても、人はなぜ、ネットを利用して「悪」を狩ろうとするのだろうか。素直に司法に任せておくことはできないのか。
     できないのだ。なぜなら、司法による裁きは何千年にも及ぶ検討の末にできあがったもので、苛烈な制裁を望む者にしてみれば甘いのである。手ぬるく感じられるのだ。
     また、司法はすでに腐敗していて、正義を行うのに十分ではないという疑いもある。
     見なれた退屈な陰謀論ではあるが、その種の意見が「正義」を求める。一点のしみもない酷烈きわまりない「正義」を。
     それは見方を変えればきわめて悪質かつ醜悪な「私刑」にほかならないが、その種の「私刑」を実行しようとする者にとってはその残酷さは必然である。
     なぜなら、少しでも妥協してしまったなら、その「正義」は意味を失うからだ。
     どこまでも濁りのない純色の「正義」こそが求められている。
     そして、その「正義」の執行においては、法的に定められている手順はスローに感じられる。
     たとえば「性犯罪者は全員死刑にしてしまえ!」といった極端な主張を展開する際、「いや、性犯罪者にも人権があって……」といった主張はいかにもまだるっこしく感じられるに違いない。
     だから、手順はすっ飛ばされることになる。手順を踏むのは面倒くさいのだ。
     ほんとうはその省かれた部分こそが致命的なものであるのかもしれないのだが、「正義」に酔いしれている人々はそのことに気づかないし、気づきたいとも思わない。
     こうして、「炎上」事件が起こる。やり玉に挙がるのは、特定の犯罪者やその家族、共謀者、とされる人たちだ。
     火のないところに煙は立たないはず 
  • 「生まれたあと自分で選択していて、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃だって差別だよ。

    2014-12-20 10:57  
    50pt
     まあ、タイトル通りの内容です。タイトルを見て「あたりまえじゃないか……」とため息を吐いた人は読まなくてもかまいません。
     ぼくもあたりまえだと思うのですが、広い世の中にはそう考えない人もいるらしいので書いておきます。
     さて、「差別」という概念はしばしば「生まれつきその人に備わっていて、容易に変えることができない属性への不当かつ一方的な攻撃」として定義されます。
     つまり、この定義を正しいとするなら、「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃は差別ではないということになります。
     したがって、まさにそのような属性であるオタクなどはいくら攻撃しようが、中傷しようが、それは差別にはあたらない、という理屈になるわけですね。
     それでは、この定義に問題はないでしょうか? あきらかにあるだろう、というのがぼくの立場です。
     「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃だって、悪質であれば差別に決まっています。それが差別でないというのは恣意的な定義に過ぎません。
     なぜなら、たとえ「容易に変えられる」属性であるとしても、なぜ変えなければならないのかわからないからです。
     「容易に変えられる属性への攻撃は問題ない」という考え方は、「攻撃されたら変えればいいのだから、その攻撃は差別にはあたらない」という意味でしょう。
     しかし、この理屈は「そもそもなぜその属性を変えなければならないのか?」という問いに答えてはくれません。
     「自分にとって大切なことを変えることを強要される」ということもまた、ひとつの被害です。そのような被害を生む行為は、差別以外の何ものでもないと考えます。
     たとえば普段、何かしらの民族衣装を着ている人が「その衣装、キモっ」、「ここは日本だからそういう格好はやめろ」といわれたとします。
     その場合、「民族衣装なんて着なければいい」、「自分で選んだ格好なんだから差別被害にはあたらない」といえるでしょうか?
     いえるわけがないですよね。その人には民族衣装を着て生活する権利があり、その権利を攻撃されたなら、それは立派な差別被害であるわけです。
     あるいは仮に何らかの理由で差別にはあたらないとしましょうか。そうだとしても、被害者が権利侵害を受けていることは間違いありません。
     重要なのは「その状況が差別被害の定義にあてはまっているかどうか」ではなく、「その人物が不当に人権を侵害されているかどうか」ですから、やはりこれは問題がある事態です。
     もしかしたら「いや、民族衣装のような生まれつきのアイデンティティを象徴するものに対する攻撃は差別だが、そうでないものに対する攻撃は差別ではない」という人もいるかもしれません。
     しかし、何がその人のアイデンティティを象徴しているのか、だれに決められるでしょうか? たとえばパンクファッションの男の子や、ロリータ服の女の子にとって、その服装はきわめて重要な意味を持っているかもしれません。それを不当に攻撃されることはやはり差別にあたるとぼくは思います。
     ですが、あえてくり返すなら、重要なのは「差別なのか、否か」ではありません。そもそも差別なら問題で差別でないなら問題なしという話ではないのです。
     そうではなく、あくまで不当な権利の侵害があるかどうかで問題のあるなしを見極めるべきでしょう。
     したがって、たとえ「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」であるとしても、それを不当に攻撃されたなら怒っていいとぼくは思います。それは立派な差別被害以外の何ものでもありません。
     いわゆるオタク的な趣味もまたそのような後天的かつ変化可能の属性であるわけですが、だからいくら攻撃してもかまわない、ということにはなりません。
     もちろん、きちんとしたまっとうな根拠のある批判ならかまわないでしょうが、オタク趣味ないし文化に対して暴言や中傷を浴びせかけるのはやはり差別であり、なおかつ問題行動です。
     当然、何が正当なのか不当なのかを見極めることは必ずしも容易ではないでしょう。しかし、少なくとも「バカ」とか「死ね」といった罵言は、端的に問題があるといっていいでしょうし、そのような言葉を使って特定の文化を排撃する人間に理があるとは思えません。
     これはべつだんオタク趣味のみがどうこうという話ではなく、ほかの趣味、嗜好でも同じことです。
     先天的かつ変更不能な属性に対する不当な攻撃は問題だが、後天的かつ変更可能な属性に対する攻撃は問題ない、などということはありません。両方とも問題です。
     ほんとうに差別やヘイトスピーチに反対するなら、前者は問題だが後者はかまわない、などという態度を選べるはずがありません。
     もしそのような態度を取る人が実在するとすれば(実在するのかどうかは知りません)、その人物は実は差別の「悪」の本質を理解していない可能性が高いといえるでしょう。ぼくは、そう思います。 
  • 「反レイシズム」の本末転倒。

    2014-12-19 10:41  
    50pt
     ヘイトスピーチ関連の記事が面白くて、いろいろ読んでまわっています。これとかですね。
    http://togetter.com/li/758954
     このまとめの中身を解説すると、

    自民党がオタクを取り込んで戦略的に成功したのだとしたら(というかそれクラックが先に言ってたことなわけですが)、オタクはすごいから俺らも重視しようとやってきたのが00年代のリベラル。全部失敗。オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば、というのが新しいリベラル。
    https://twitter.com/cracjpn/status/543811738726981632

     反差別団体C.R.A.Cの公式アカウントのこの発言に対し、それはオタク差別ではないか、と異論が提示されたところから始まって、いろいろとよくわからないことになっている話です。
     よくわからないのですが、C.R.A.Cの言い分をぼくなりに推測するなら、「オタクを批判することは差別ではない。なぜなら、オタクであることは「変えられない属性」ではないから、「変えられない属性を誹謗中傷すること」という差別の定義には含まれない」ということになるのではないかと思います。
     ぼくは「差別」の定義を「変えられない属性を誹謗中傷すること」とすること自体に反対ですが(本人の意志で選んだ属性を誹謗中傷することだって立派な差別でしょ)、まあこの理屈はわからなくもない。
     「オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば」という発言自体は、差別とまではいえないかな、とぼくも思います。
     しかし、問題は「ヘイトスピーチ」を社会から排除しようとしているはずの団体のメンバーが、Twitterなどの場で口汚く論敵を攻撃していることです。
     これは「ヘイトスピーチ」にはあたらないのでしょうか? かれらの理屈によると、どうもあたらないらしい。
     なぜなら、「ヘイトスピーチ」とは「社会的強者(マジョリティ)が社会的弱者(マイノリティ)に対して投げかけるもの」であり、たとえその言葉が一字一句同じであったとしても、相手がマイノリティでなければ「ヘイトスピーチ」にはならないからです。
     たとえば、ぼくがだれかに対して「このバカ野朗!」といったとする。この発言がヘイトスピーチに当たるかどうかは、その発言内容だけでは判断できません。あくまで、相手の属性(マイノリティかどうか)によって決定されるのです。
     だから、C.R.A.Cのような団体のメンバーが、しばしば論敵を罵倒していたとしても、相手がマイノリティではない以上、それは「ヘイトスピーチ」ではなく問題ないということになります。
     いま、「いや、ならないよね?」と思ったあなた、鋭いです(いや、普通かも)。ぼくもそういうことにはならないと思うんですね。
     なぜなら、たとえその罵倒が「ヘイトスピーチ」ではないとしても、「罵倒、誹謗、中傷」、つまり「暴言」であることは間違いないからです。
     「ヘイトスピーチ」に反対する団体のメンバーが「暴言」をくり返すことは問題ではないのか? ぼくは問題だと思うのです。なぜなら、「暴言」も「ヘイトスピーチ」と同じく「ひとの尊厳を傷つける行為」だからです。
     そもそも「差別」とか「ヘイトスピーチ」はなぜ悪いことなのでしょうか? それは「差別だから悪いに決まっている」、「ヘイトスピーチはひどいことに決まっている」といったレベルで決定されていることではありません。
     そうではなく、ひとの尊厳を傷つけ、名誉を毀損し、権利を破壊するからこそ悪いことであるわけです。とすれば、「ヘイトスピーチ」がその意味で「悪」なのだとすれば、「暴言」もまた「悪」でしょう。
     もちろん、「ヘイトスピーチ」は相手が弱者であることに付け込んでいるので、よりタチの悪い「悪」であるかもしれない。
     しかし、ごく当然のことに、だから「ヘイトスピーチ」は問題ありで、「暴言」は問題なしだということにはならない。「ヘイトスピーチ」も「暴言」もどちらもひとの尊厳を傷つける問題がある行為であるわけです。
     「ヘイトスピーチ」に反対するとはどういうことか。それはただ「ヘイトスピーチ」だけを問題にするのではない。そうではなく、「ヘイトスピーチ」の根幹にある悪、つまり言葉でもってひとの心を傷つけ、その名誉を侮辱することそのものに反対していくことでしょう。
     そうであるとすれば、「ヘイトスピーチ」は問題だが「暴言」は特に問題はない、ということになどなるはずがない。
     いや、自分たちはあくまで「ヘイトスピーチ」そのものだけを問題にしているのであって、実はその「悪」はどうでもいいのだ、というのなら矛盾はないかもしれませんが、それなら、いったい何を思って何のために「ヘイトスピーチ」に反対しているのか? そこが疑わしく思えて来ます。
     「差別はとにかく悪いことだからダメ」、「ヘイトスピーチは世界的に悪いこととなっているからダメ」と単純に考えて、その「悪」の本質自体は放置しているのではないか、という疑念を免れません。
     「差別」は「差別」だからいけないわけではないのです。そうではなくて、「悪いこと」を内包しているからいけないのです。ここのところがどうも理解されていないのではないかと思えてならない。
    (ここまで2182文字/ここから1964文字) 
  • 何が正義なのか? ヘイトスピーチと反ヘイトを考える。

    2014-11-30 01:04  
    50pt
     ども。『3月のライオン』最新刊が面白いので人生が幸せな海燕です。きょうは趣向を変えてヘイトスピーチの話など取り上げようかと思います。この記事ですね。
    http://lite-ra.com/2014/09/post-431.html
     「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!」というタイトルですが、ようするに「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)なる集団のリーダーへのインタビューです。
     これがなかなか面白かったので、ぼくの感想を書こうかと思ったわけ。
     何が面白いのか。ひとつには、野間さんが、ポストモダン的な相対主義を批判しているところ。このインタビューではその体現としてのマスコミが槍玉に上がっています。

    「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうにも問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、ということに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもなんでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」

     ふむ?
     しかし、「ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らか」ではないかという問いに対して、野田さんはこう語っています。

    「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」

     うーん。面白いですね。「大きな物語」が失われたポストモダンの相対主義地獄において、「何が正しいのか」という価値判断が困難になり、ひとは立ちすくむしかなくなる。
     そしてそこで「ひたすら立ちすくんでいても埒が明かない」とばかりに「決断」して何らかの行為にコミットする人間が出て来るという流れを、ぼくなどはゼロ年代批評のなかで見て来たわけですが、そういう意味では野間さんは決断主義者で、ただ立ち尽くすばかりの大マスコミに怒りを感じている、というところなのかもしれないですね。
     野田さんはさらに語ります。

    「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです」

     なるほどねー。そういう話と繋がってくるわけか。
     ここでぼくはいくつかの感想を抱きます。第一に、在特会が「ポストモダンの失敗例」だとして、しばき隊はそうではないという根拠はどこにあるのか。同じようにののしり言葉を相手にぶつけているではないか?
     いや、もちろん野間さんの理屈によれば、「あいつらはヘイトのための言動で、自分たちは反ヘイトのために動いているんだからまったく違っている」ということになるのでしょう。
     しかし、そういう背景にある「文脈」を切り離して考えるなら、両者の言動はまさに似たり寄ったりであるように見える。この主張はいかにも危ういように思えます。
     もうひとつは、やはりしばき隊が自分たちを「正義」とみなすことの危険性です。仮にポストモダンな社会が相対主義の陥穽に陥っているとしても、それは理由がなくそうなっているわけではないわけです。
     やっぱり「暴走する正義」というものに底知れない恐ろしさがあるからこそ、そういうことになるんですね。そこらへんはどう考えているのだろう?
     もちろん、答えは書いてある。「レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きい」のだから、それに比べれば大した問題じゃない、ということなのでしょう。
     しかし、これはどうにも危険な論法であるように思えます。ようするに「いまはより大きな悪があるのだから、まずはそっちを批判しろよ」といういい方であるわけで、「いや、両方とも批判されるべきでわ?」としか思えないんだよね。
     野間さんはこのインタビューのなかで何度か「正常」とか「普通」という言葉を使っています。たぶん「人を差別して罵倒するような奴らが悪なのはあたりまえだろ。そしてそれに対向することは正義。そんなの当然じゃないか」といいたいのかもしれない。
     ですが、ぼくとしてはそこに「何が普通であり、正常であるか?」という深い思索が欠けているのではないかと懸念せざるを得ません。
     なぜなら、それはぼくのような人間が愛好する表現を規制するために利用されて来た言葉であり、価値観であるのだからです。
     端的にいって、ぼくは自分が「普通」だとは思わないので(もちろん、ある面では「普通」だが、べつの面ではそうではないと思うので)、このいい方には違和を感じます。
     というか、反レイシズムのリーダーが「正常」とか「普通」という言葉を無邪気に使うことは、やっぱり良くないと思う。それこそレイシズムとは、自らをその国における「正常」の代表とみなし、「異常」な「普通じゃない」人々を排斥しようとするものだからです。
     「普通」とか「正常」とか「あたり前」とか「自然」とかね、そういう言葉はつまりは思考停止ワードに過ぎないことが多いので、あまり使わない方がいいかと。
     以上のような疑問はあるのだけれど、もし、野間さんなり「しばき隊」が「レイシストの罵倒はむかつくから同じことをやり返す!」と考えているのなら、ぼくは特にそれを問題だとは思いません。
     やりたいだけやればいいのではないでしょうか? ただ、それが(あるいは「善意」ではあるかもしれないにせよ)「正義」だとは思わないけれど。
     さて、野間さんはそこからさらに反ヘイトスピーチの法制化の話に持っていきます。でも、そんな法律ができたら「しばき隊」のような集団こそ裁かれてしまうんじゃないの?と思うわけですが、どうもそういうことは想定していないらしい。

     野間は「ヘイトスピーチ規制法をどんなに権力の都合のいいものにしたとしても、しばき隊をパクるのは無理よ」と豪語する。カウンターの罵声は“人種差別的”ではないし、「権力者への抗議をヘイトスピーチとするような法律を成立させることはできない」のだ、と。
    「在特会の悪口として『死ね!アホ!ボケ!』って言ってるけど、それは社会で対等な立場にあるマジョリティ同士でのことだから、マイノリティへの差別煽動発言であるヘイトスピーチではない。『ニューズウィーク』の深田政彦はこの点全然わかってなかったけど、カウンターは罵詈雑言をガナってはいても差別的なことはほとんど言ってないですよ。日本はまだこのレベルでの議論をしなければいけない状況ですが、それでもそんな罵詈雑言をヘイトスピーチとして刑事罰の対象にするような法律をつくることは、いくらなんでも無理です。人種差別撤廃条約の条文をそのままヘイトスピーチ規制法にもってくると、マジョリティに対してもそれが適用できるという指摘はありますが、でもそれだって法律の運用やポリティカルな力関係で決まるものでしょう。マジョリティの差別に抵抗したマイノリティの方を規制してはならない、というレギュレーションは国際的にもう確立している。だから。法規制にむやみと反対するよりも、間違いが起きにくいように縛りをかけていくことのほうが重要でしょう」

     ただの罵倒はヘイトスピーチではない。それがマイノリティを差別する趣旨のものであった場合のみ、ヘイトスピーチということになるのだ、ということなのでしょう。
     ぼくは、その場合の「マイノリティ」とはどう定義されるのか、その正確なところを考えてみるべきではないかと思う。(ここまで3568文字/このあと1807文字)