• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 1件
  • ストーカーの気持ちはよくわかる。

    2014-12-11 07:00  
    51pt


     「NNNドキュメント 迷路の出口を探して ストーカーの心の奥底を覗く」という番組を見た。これがねえ、非常に怖かったのですよ。
     昨年初めて認知件数が2万件を超えたというストーカーについての番組なのだが、次々とあきらかにされるストーカーたちの実態は、それはもう、恐ろしいというかおぞましいというか。
     否――それ以前に大きいのは、ひとはここまで思い込みの世界に生きることができるのかという、その驚きだった。
     ストーカーたちは、決して報われない恋愛の世界に生きているわけだから、思い込みが強い性格なのだろう、くらいのことはぼくでも想像がつく。しかし、ここまでとは――。
     気になる人はGoogleで録画検索すると動画が出て来るので、見てみてほしい。ちょっとしたホラーを味わえますよ。
     このドキュメンタリーに登場するあるストーカー加害者男性は、このように語る。「昔風の考え方をしていた」、「男は押しの一手だとかそういう時代に育った人間」、「もう彼女はわたしを「許してあげたい」と思っている」、「プロポーズをさせていただいて、できることなら彼女と結婚をして、幸せな家庭を築きたい」――妄想としかいいようがない言葉を続けるのだ。
     語り口そのものはいたって冷静で正気に見えるだけに、その内容の違和感は強烈だ。
     また、あるストーカー女性は「その痴話喧嘩で彼氏に画面いっぱい「殺す殺す殺す」という字をだーっと入れたメールを送る子なんて普通にいるんですよね」といい、「彼を使える立場になりたい」、「どん底に落としたいんですよ、叩きのめしたいんですよ」と語る。
     そして、「それはストーカー加害者じゃないですか」と問いただされると、「意味がわからない」と答えるのである。まったく辻褄が合わない話を、延々とくり返す彼女を見ていると、ほんとうに空恐ろしくなってくる。狂気とは、こういうものか。
     番組によると、彼ら、彼女たちは「ストーカー病」なのだという。依存症などと同じく、脳がその状態で固定されてしまっているので、もう本人の意志ではどうしようもないらしいのである。
     たとえ本人が自分の行為をストーカーであると自覚しているとしても、だ。
     ネットでひとと対話していると、あきらかにこの人はおかしい、という人物と出逢うことがある。主張が理解できないというか、ロジックがまったく通っていないように思えるのだ。
     そういう時は「ああ、そういう人なんだな」と思うわけなのだが、じっさいにそういう人は何かしらの狂気を抱えているのかもしれない。
     「正気」と「狂気」の境目は限りなくあいまいだ。だれもが自分を正気だと思っているが、さて、ほんとうに正気の人間など、どれくらいいるものなのだろう。
     ストーカーの妄執と「恋の病」を明確に線引きできるものだろうか。実に考えさせられる恐怖と驚異の番組だった。
     しかし、ぼくはこうも思う。それでもなお、ストーカーの妄執とあたりまえの恋は違うものだと。それはべつに、その恋愛感情が成立するかしないかの差ではない。
     そうではなく、「自分にとって不都合な現実」を受け容れられるかどうかという差なのである。現実と向き合うということは、ひとにとってとても辛いことである。
     なぜなら、現実はひとの思い通りにならないからだ。どんなに愛したところで、愛されることはない。どんなに奉仕したところで、相手の心を得ることはできない。そういうことはよくある。
     それに対して「おかしいではないか」と思うことは、ある意味でまっとうなことだと思う。だから、ストーカーたちの語る言葉は、しばしば「論理的」である。
     つまり、こんなに深く愛したのだから、自分も愛されるべきだ、といったロジックがそこでは使われている。しかし、その論理は現実世界では通用しない。なぜなら、現実世界とは、ある意味で不条理な世界だからだ。
     そのどうしようもない不条理を受け入れることができて、初めてひとは現実世界を生きることができる。とはいえ、それは何と辛い作業なのだろう。その、ある意味では「正当な」怒りを手放さなければならないのだから。
     番組を観終わってからもストーカーに対する興味は消えず、AmazonのKindleストアで『「ストーカー」は何を考えているか』という本を買って、読んだ(夜中でも一瞬で手もとに本がやって来る電子書籍はほんとうにありがたい)。
     そこでは、まさにタイトル通りに数々のストーカーたちの心理が描写されていた。ある男性は、付き合っている女性に「あなたの長所は気前がいいところなの。お金を貸してくれないなら、いいとこなくなるね」などといわれて、数百万円も貸したあげく、彼女からストーカーとして警察に突き出された。
     かれはあふれだす怒りを制御できず、ストーカー的行動を続けた。これは社会的には許されない行為ではあるだろう。しかし、ぼくはあえていうが、その怒りは理解できる、と思うのだ。
     いや、それは腹も立つだろう。ストーカーの行動を認めることはできないが、しかし、その「怒り」そのものは十分に理解できる。
     それはある意味でこの世の不条理に対する「正義の怒り」だからだ。無理をして何百万円もお金を貸したのにある日、「はい、さよなら」といわれたのではたまったものではない、と思う人は少なくないだろう。 ストーカー行為は紛れもない犯罪であり、倫理的にも道徳的にも「悪」である。しかし、それはそれとして「その気持ちはわかる」という側面が、ぼくにはある。
    (ここまで2249文字/ここから1740文字)