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物語には各ポイントでクリアするべき課題がある。
2016-11-27 13:5751pt先週の『少年ジャンプ』で『デモンズプラン』という新連載が始まりました。何となく一読してみたのですが、うーん、と悩んでしまいました。
というのも、ちょっと読んだだけでも展開が凝っていて、非常によく考え抜かれていることがわかるわけです。そう、非常に考えられていて、話の密度も濃くて、しかも、あまりうまくいっていない。そこが何とも見ていて歯がゆいというか、辛い気持ちになる作品でした。
漫画技術というより、ストーリーテリングの技術があまりうまくない。そこが、未熟も未熟ながら、一応、悩みながら話を作っている側に属しているぼくとしては妙に辛かった。ああ、頑張っているんだろうけれどなあ、というね。
もちろん、お話をゼロから作り上げることと後知恵でああだこうだいうことはまったく次元が違う行為ですが、いまのぼくには少しだけこの作品に残された「努力の爪痕」が見える気がします。
いうまでもなくぼくなんか -
『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。
2016-04-27 12:0551pt
『HUNTER×HUNTER』が連載再開してしばらく経ちます。
いまさらいうことではないかもしれませんが、めちゃくちゃ面白いですね!
今週号はなつかしの「天空闘技場」を舞台とした、ヒソカとクロロの死闘。
最初に「どちらかが死ぬまでやる」と宣言され、いったいふたりのうちどちらが勝者となり、敗者となるのか、目が離せません。
普通に考えれば、両者とも物語にとっての重要人物であるわけで、ゴンやクラピカと無関係のところであっさり死んでしまうはずはないと思えるのですが、そこは『HUNTER×HUNTER』、予断を許しません。
おそらく、この戦いが終わったとき、どちらか片方は闘技場に斃れることになるのでしょう。あるいは、両者ともが闘技場の土となる運命化も。
この、先の予想をまったく許さない展開こそが『HUNTER×HUNTER』の本領です。
ああ、戻ってきたのだな、という気がしますね。おかえりなさい。
ただ、クロロにしろ、ヒソカにしろ、いままでの物語のなかでは最強の存在であった「キメラアントの王」メルエムと比べれば、実力的には劣るはずです。
いかに「念能力に強弱という概念はない」とはいっても、メルエムはあまりに強すぎた。
だから、いまさらクロロ対ヒソカ戦をやってみたところで、盛り上がりに欠けることになる――はずなのですが、じっさいにはそうはなっていません。
この上なく緊張感のある死闘がくり広げられています。
結局のところ、「もっと強く、もっともっと強く」という方向性だけが面白いわけではない、ということなのですね。
たしかに、読者は一般に「もっと強いやつ」を求める傾向がある。
しかし、その読者の声に応えつづけていると、はてしなく強さは数的に上がっていくことになってしまう。
その「強さのインフレ」をまさに極限までやったのが『ドラゴンボール』であるわけですが、そこには「同一パターンのくり返し」でしかないという問題点があった。
で、『ドラゴンボール』以降の漫画はそこから何かしら学んで、同じことをくり返さないようにしているわけです。
その端的な例が『HUNTER×HUNTER』ということになる。
この世界では、いったん極限まで行った強さの表現が、ふたたび下のレベルに戻ることがありえるのです。
これについては、ペトロニウスさんが昔、『BASTARD!!』を例に「強さのデフレ」という言葉で説明していました。
「強さのインフレ」ならよく聞きますが、「強さのデフレ」とはなんでしょうか?
こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの第2部が、とても好きで、、、第2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェスネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第2部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第1部では雑魚キャラレベルだったはずです。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです、要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
世界は、絶対的強者だけで成り立っているわけではないということ。
「頂点」の戦いがすべてで、そのほかの戦いには価値がないというわけではないということです。
「底辺」は「底辺」で、きわめて熱いバトルをくりひろげているわけで、その「底辺」を描き出すこと(=強さをデフレさせること)は、「世界の豊饒さ」を描き出すという一点において、大きな意味を持ちます。
つまり、ひたすら「強い奴」にフォーカスしている世界より、強い奴もいる、弱い奴もいる、それぞれがそれぞれのレベルで懸命に生きているということがわかる世界のほうが、より豊かに感じられるということだと思います。
『HUNTER×HUNTER』の場合、ヒソカにしろクロロにしろ、「底辺」には程遠い最強の一角を争うひとりであるわけですが、メルエムのレベルには及ばないであろうことは間違いありません。
しかし、そのふたりが、これほどの実力を持っているのだ、ということを示すことによって、世界はあらためて豊饒さを取り戻すのです。
ところで、「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれないリアルな世界」のことを、ぼくたちはLDさんに倣って「新世界系」と呼んでいました。
新世界系の物語は、「突然、異常に強い敵が現れるかもしれない物語」であるわけですが、いい換えるなら、「強い敵と弱い敵があらわれる可能性がランダムに設定されている物語」ということもできそうです。
つまり、そこではひたすら「もっと強く、もっともっと強く」という方向には物語は進まない。
「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれない」ともいえる一方で、その逆、「レベル99のときにレベル1の敵が現れるかもしれない」ということもできるわけです。
これは、一見するとつまらないようにも思える。レベル99のときにはレベル1の敵なんて相手になるはずがありませんからね。
しかし、「強さのデフレが豊饒な世界をもたらす」という視点で見ると、意味があることであるように思えてきます。
ようするに、新世界の物語とは、強さが単純にインフレしたり、デフレしたりするのではなく、その時々で乱高下する「強さのランダムウォーク」の物語であるということです。
『HUNTER×HUNTER』はだんだん -
特別な1%だけではなく、凡庸な99%が愛おしくてたまらないオタクの心理。
2016-04-09 11:5251pt1%と99%。
いいえ、べつに「ウォール街を占拠せよ」といいだしたいわけではありません。
この数字は社会における富裕層とそれ以外の割合ではなく、創作における大傑作とそれ以外の割合を指しています。
つまり、どんなジャンルであれ、真の傑作と呼ぶべき作品は全体の1%あればいいほうだということ。
基本的にアマチュアが多くを占めるウェブ小説や同人漫画では、もっと少ないかもしれません。
しかし、数は少ないとはいえ、その1%こそがジャンルを代表するものであり、残りの99%を合わせた以上に大きなバリューを秘めた存在なのです――と、ぼくのような人間は考えがちであるわけですが、ほんとうにそうなのでしょうか。
99%の作品の価値は全部合わせても1%に及ばないものなのでしょうか。
そう考えていくと、どうやら必ずしもそうではないという結論が出そうです。
たしかに、99%に属する作品はかがやかしい天才による1%ほどの圧倒的存在感を示しているわけではないかもしれない。
それらはどこかしら平凡であったり、ありふれていたりするでしょう。
ですが、それでも、なお、ジャンルの大多数を占めているのはそういった作品のほうなのです。
そして、ジャンルフィクションのファンというものは、大方、そういう99%の作品をこよなく愛しているものなのです。
シオドア・スタージョンはぼくの敬愛する天才作家ですが、「どんなものも90%はクズである」といういわゆる「スタージョンの法則」を残したとされています(じっさいにはちょっとニュアンスが違うらしいですが、まあ、こういうふうに伝わっている)。
スタージョン自身は1%に属する作家であったにもかかわらず、99%の作家と作品を擁護したのです。
スタージョンの法則は、さまざまな局面にあてはまります。
たとえば、エロゲの代表作というと、ぼくなどは『SWAN SONG』みたいな奇跡的傑作を挙げたくなりますが、その一方でぼくは『To Heart』とか『Piaキャロットへようこそ!』とか『夜が来る!』なんかも大好きなんですよね。
それらは天才的想像力の産物とはいえないかもしれないけれど、穏やかに心を癒やす作品です。
やっぱりそういう作品も必要だと思うのですよ。
SFとかミステリといったジャンルフィクションでも、99%の作品群には愛着があります。
ロケットと美少女と宇宙海賊! レムやイーガンの傑作だけではなく、そういうありふれたガジェットの小説にも心惹かれるわけです。
そういうものが好きだということが意外にジャンルフィクションを愛好するということの本質を成している気がします。
もちろん、1%と99%は明確に分かれているわけではなく、99%の作品のなかでもさまざまなグラデーションが存在しているということもほんとうです。
しかし、 -
ドラマ版『DEATH NOTE』の改変が「あり」か「なし」かとは別次元で面白い。
2015-07-02 23:4651ptドラマ版『DEATH NOTE』のあらすじが公開されて話題を呼んでいるそうです。
夜神月(窪田正孝)は、警視庁捜査一課に勤務する父・総一郎(松重豊)と妹・粧裕(藤原令子)と暮らすどこにでもいるような大学生。弥海砂(佐野ひなこ)が所属する「イチゴBERRY」のライブに行く以外は、学業とアルバイトに精を出す日々だ。
http://www.ntv.co.jp/drama-deathnote/story/index.html
「どこにでもいるような大学生」。
うん、うん……。あらすじの段階からいきなり不安を煽りますね。
まあ、でも、ドラマがオリジナルの展開をたどることに文句はありません。
いまさら原作のストーリーをなぞったところで連載時のサスペンスはもうないし、「原作を改変するな!」とはまったく思わないのですが、このレベルで変えちゃうなら「夜神月」とか「ニア」といった名前を使用することもない気はする。
オリジナルの名前を使えばいいじゃんね。
ところで、メロは存在そのものを抹消されてしまったのだろうか……。
まあ、たぶん普通にありふれた失敗作として終わるでしょうが、一発逆転で原作読者をも驚かせる意外な展開が続く可能性もなくはない、かな? 期待せずに放送を待ちたいと思います。
それにしても、このドラマ版の設定を見ると、原作がヒットした理由が逆によくわかりますね。
『DEATH NOTE』の根幹にある「名前を書くとそのひとが死ぬノート」というアイディア自体は、実はそこまで秀でたものではないと思うのです。
いや、ひとつの秀抜なアイディアではあるにせよ、いってしまえばそれだけのことでしかない。
『DEATH NOTE』が傑作になっているのは、そのアイディアを物語レベルに昇華する段階での手際が飛び抜けているからでしょう。
まず、
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