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記事 11件
  • セカイ系/新世界系年表。

    2020-11-19 02:42  
    50pt
     簡単な「セカイ系/新世界系年表」を作ってみました。

    1995年 『新世紀エヴァンゲリオン』
    1997年 『ONE PIECE』
    1998年 『HUNTER×HUNTER』
    2000年 『最終兵器彼女』
    2001年 『イリヤの空、UFOの夏』
    2002年 『ほしのこえ』
    2006年 『マブラヴオルタネイティヴ』
    2007年 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』
    2008年 『トリコ』
    2009年 『進撃の巨人』
    2010年 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』
    2011年 『魔法少女まどか☆マギカ』
    2013年 『メイドインアビス』『灰と幻想のグリムガル』『ワールドトリガー』
    2015年 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』『艦隊これくしょん』
    2016年 『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』『ファイアパンチ』
    2017年 『けものフレンズ』
    2018年 『呪術廻戦』
    2019年 『天気の子』『ケムリク
  • セカイ系と初期、前期、後期新世界系の関係はこうなっている。

    2020-11-18 13:39  
    50pt
     うに。あいかわらず「新世界系」について考えています。もうその記事は飽きたよ!と思われるかもしれませんが、まだまだこの話は続くのでどうかお付き合いください。
     LDさんがラジオでちょっと話していたけれど、まだ新世界系の歴史は始まったばかりで、むしろこれからほんとうに始まるのかもしれません。
     で、まずは用語の確認から。このあいだ、ぼくは「初期新世界系」と「後期新世界系」というネーミングを使いましたが、ペトロニウスさんが「前期新世界系」という言葉を使っているようなので、ぼくもそれに倣おうと思います。
     そして「初期新世界系」と呼ぶ場合、「壁」が登場する最も初期の作品である『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』のみを指すことにしましょう。
     そのうえで「前期新世界系」は『進撃の巨人』以降の新世界系を指し、「後期新世界系」は「壁」がなくなった『鬼滅の刃』などの作品を示
  • 「壁」が存在しない「後期新世界系」はどのような物語になっていくのか?

    2020-11-15 22:19  
    50pt
     以前の記事で「後期新世界系」という言葉を使いましたが、いま、そのことについて色々と考えています。
     そこで今日は、新世界系が登場してから10年ちょっと、その内実も少しずつ変わってきているよね、という話をしたいと思います。
     まあ、いままで考えて来たことを整理するだけですが、かなり面白い内容になるはず。綺麗に整理したら後はペトロニウスさんやLDさんが思索を進めてくれるでしょう。きっと。
     さて、わかりやすくいうと、いままでの新世界系の定義とは以下のようなものでした。

    ・平和だが欺瞞に満ちた社会と過酷で残酷な世界を隔てる「壁」が存在する物語。

     この「壁」とはあくまで比喩であって、それは作品によって「海」の形だったり(『HUNTER×HUNTER』)、あるいは「崖」だったりするのですが(『約束のネバーランド』)、つまり平和な社会と残酷な世界を隔てる「境界」が存在することが重要であるわけで
  • 『鬼滅の刃』のヒットに至る歴史的経緯とその斬新さについて。

    2020-11-02 14:54  
    50pt
     映画『鬼滅の刃』の驚異的な快進撃が続いていますね。じつに1000万人を越える人数が鑑賞して、しかもただのひとつもクラスター感染を出していないということは、世界に誇るに足る偉業なのではないでしょうか。
     世界的に映画産業がシュリンクするなか、この数字は日本から世界の映画業界へ「映画館は安全だ」というメッセージを伝えることになるとも思います。暗いご時世のなかでめずらしい明るいニュースでしょう。
     ぼくは『鬼滅』をよく「新世界系」と絡めて話しますが、純粋な意味では『鬼滅』は新世界系ではないと思います。『チェンソーマン』もそうですが、作中に「壁」が出て来ないですからね。
     ジャンプ漫画だとむしろ『約束のネバーランド』や『ワールドトリガー』のほうが新世界系の定義に合っているでしょう。『鬼滅』はLDさん、そしてアズキアライアカデミアの言葉でいえば正統な「竜(ドラゴン)退治」の物語ということになります
  • 電子書籍『新世界系の風景(仮)』を出したい。(再送)

    2020-10-15 17:05  
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     ブロマガの不具合で記事のメールが送れていないようなので、再送します。 以前からちょこちょこ書いている通り、新たに電子書籍を出したいと思っていて、テーマを見つくろっています。
     で、本を一冊しあげるとなるとそれなりの内実が必要になるわけで、まあ、やっぱり「新世界系」の話をまとめるのが良いのかなーといまは考えております。
     『進撃の巨人』が結末に近づき、『約束のネバーランド』や『鬼滅の刃』が完結したことで、新世界系はだいぶ見晴らしが良くなったというか、「結局、こういうことだったんだよね」と見えて来た感がある。
     ペトロニウスさんあたりはだいぶ前から「新世界系はもう終わった概念だよね」といっていますね。
     一方で、「ポスト新世界系」ともいうべき『チェンソーマン』みたいなマンガも出て来ていて、ここら辺で一度、「新世界系とは何だったのか?」とまとめておく必要性を感じます。
     内容はこんなものを考え
  • 電子書籍『新世界系の風景(仮)』を出したい。

    2020-10-14 19:02  
    50pt
     以前からちょこちょこ書いている通り、新たに電子書籍を出したいと思っていて、テーマを見つくろっています。
     で、本を一冊しあげるとなるとそれなりの内実が必要になるわけで、まあ、やっぱり「新世界系」の話をまとめるのが良いのかなーといまは考えております。
     『進撃の巨人』が結末に近づき、『約束のネバーランド』や『鬼滅の刃』が完結したことで、新世界系はだいぶ見晴らしが良くなったというか、「結局、こういうことだったんだよね」と見えて来た感がある。
     ペトロニウスさんあたりはだいぶ前から「新世界系はもう終わった概念だよね」といっていますね。
     一方で、「ポスト新世界系」ともいうべき『チェンソーマン』みたいなマンガも出て来ていて、ここら辺で一度、「新世界系とは何だったのか?」とまとめておく必要性を感じます。
     内容はこんなものを考えているところ。もちろん、いまはまだまったく手を付けてはいませんが……。
  • セカイ系と新世界系(シン・セカイ系?)の長い物語。

    2020-06-25 16:44  
    50pt
     人づてに某かわんごさん(で、いいのかな?)が「新世界系」のことを記事にしてくれていると聞いて、読みに行ったので、いまさらですがお返事を書きたいと思います。おひさしぶりです。またお逢いしてお話したいですね。
    http://kawango.hatenablog.com/entry/2020/06/01/233919
     個人的な見解としては、セカイ系の時代の作品と新世界系の時代の作品には共通する部分と明確に異なっている部分があるように思います。
     ただ、上記記事にある通り、そこに一定の共通項が見られることはたしかで、その意味でたしかに新世界系を「シン・セカイ系」と呼ぶことは可能かもしれない。何かかっこいいし。
     それでは、まずはなつかしいセカイ系ジャンルを振り返ってみることにしましょう。「セカイ系」とは、往年のウェブサイト「ぷるにえブックマーク」で、当時流行していた西尾維新などの作品に対して、揶揄的に使用されたのが最初だといわれています。
     つまりは、西洋絵画における「印象派」などと同じく、初めは批判的な表現に過ぎなかったわけです。そこから哲学者、批評家、SF作家の東浩紀や、作家にして批評家の笠井潔らによる引用と展開を経て「セカイ系」概念はかぎりなく拡散しました。
     ゼロ年代からテン年代初頭にかけてのサブカルチャー批評はこの概念を中心に動いていたといっても良いかもしれません。その証拠にタイトルにこの言葉を冠した本が色々出ています。
     とはいえ、セカイ系は、その射程を最大に見積もるとしても、その時代のエンターテインメント作品全体を覆いつくすほどの巨大なムーヴメントだったとはいいがたいでしょう。
     たとえば、それこそ世界的にヒットした『ONE PIECE』も『NARUTO』もセカイ系にはあたらないわけです。サブカルチャーないしエンターテインメントの広漠たる世界をあくまで冷静に一望するのなら、それはあくまで傍流の一マイナージャンルに過ぎないのです。
     それなら、そうにもかかわらず、セカイ系がサブカルチャー批評界隈においてあれほど取り沙汰されたのはなぜか。あえていうなら、そこに「批評難度の低さ」があったことは否めません。
     セカイ系がどうこう、シャカイがどうこうといっているだけで、いかにも何か深遠な意味を内包しているように感じられる。その一方で、たとえば累計発行部数1000万部を超えるようなベストセラー・ライトノベルはほとんど無視されたのです。
     ここではそのサブカルチャー批評の構造的問題をあえて語ることはしませんが、ぼくはそういった批評の偏りをいささか懸念するものではあります。
     ただが、そうはいってもやはり「セカイ系の時代」はあったのでしょう。ようは、ある種、90年代後半から2010年代までの「時代の空気」を象徴する概念が、セカイ系だったわけです。
     セカイ系という概念は、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』といった作品が代表的であるとされています。その定義を考えると一般的なSF小説はほとんどがセカイ系になってしまうといった指摘もあるようですが、ぼくにはセカイ系とクラシックなSF作品のあいだにはやはり落差があるように思われます。
     つまり、『最終兵器彼女』にしろ、『ほしのこえ』にしろ、サイエンス・フィクション的なリアリティは明確に、そしておそらくは意図的に、無視されているのです。
     『最終兵器彼女』においてはなぜ平凡な女子高生だったヒロインが世界最強の最終兵器に改造されてしまったのかは説明されないし、『ほしにこえ』においてもどうして宇宙の彼方にまで携帯電話のメールが届くのかはわからない。
     いや、説明のしようがないといったほうが正しいでしょう。そこで問題になっているものはまさに世界ではなくセカイなのです。
     ここで思い出されるのが、『ほしのこえ』の新海誠監督のウルトラヒット作『君の名は。』に対し、隕石の軌道が科学的に不自然であるという批判があったことです。
     思うに、おそらくその点は新海誠にとってそれほど重要ではなかったのでしょう。それはたしかにSF的な視点から見れば明確な瑕疵ですが、セカイ系的な視点ではそうでもないのです。
     これは、先行する時代の代表作にあたる庵野秀明監督の『トップをねらえ!』がSF的な設定にこだわり抜いていたことと比較するとわかりやすい。
     セカイ系とはSF的な遠近法が狂った世界だということもできるかもしれません。逆にいうのなら、セカイ系を批判した人々にとって、その遠近法は自明のものであったわけです。
     で、上記で引用したかわんごさんの記事でも記されていますが、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』が「セカイ系の時代」を代表し、あるいは産出した道標的傑作であることは論を俟ちません。
     いわゆるセカイ系の作品すべてが『エヴァ』を意識していたわけではないにしろ、セカイ系一般が『エヴァ』の隠然たる影響下にあることは間違いないと思えます。
     その『エヴァ』がマクロなハードSF的の側面とミクロな関係性の物語という両面性を持っていたことを考えると、セカイ系が矛盾した性格を持つに至っていることも当然に思われます。
     おそらく、『エヴァ』が最初に構想されたとき、そこでめざされていたのはまさに『トップをねらえ!』のようなハードSFであったのでしょう。
     しかし、じっさいには『エヴァ』はそのハードSF構想を完遂するどころか、主人公・碇シンジ個人の「補完」という、きわめてミクロな終着点としての「人類補完計画」を描くことに着地したのです。
     これを作劇の失敗として揶揄することはできるし、しょせんその程度の作品だったと評価することも可能ではあると思います。
     ですが、『エヴァ』の放送からじつに四半世紀が経ったいまあらためて思うのは、そのときはたしかにハードSF的に壮大な物語より、ミクロの『中学生日記』が優先されるだけの理由があったのだということです。
     「セカイ系」は時代のあだ花でした。けれど、この時代にはまだ社会にある程度の「余裕」があった。故に、碇シンジは思い悩みながらも行動をストップさせることができたのです。
     そして、その「余裕」が致命的になくなっていった頃、「新世界系」が登場する。いままでにもくり返し説明していますが、新世界系という概念は、『少年ジャンプ』で連載されているいくつかの漫画を観察するなかで出て来たものです。
     つまり、ある時期の『ジャンプ』で、「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれるような「新しい領域」の話が同時多発的に出て来た。これは何なのか?というところから話がスタートしている。
     もちろん、それは連載が長期化するなかで、物語の新たなフィールドが要請されたというだけのことではあるでしょう。いい換えるなら、「パワーのインフレ」ならぬ「舞台のインフレ」と見ることはできる。
     いままでの舞台よりもっと凄い、もっと恐ろしい舞台があるんだぞ、というわけですね。しかし、ただそれだけにしてはそこには何かしら過剰なものがあった。
     特に『HUNTER×HUNTER』などは、あきらかにいままでの物語の前提が通用しない、途方もない場所として「新世界」を描写するわけです。まあ、もっとも、それから数年経って連載は未だに新世界にまでたどり着いていないんですけれどね……。
     これらはいったい何なのか? そう、つまり、いままで物語の都合によって巧妙に隠蔽されていた「現実世界」なのではないか、とLDさんやぼくたち〈アズキアライアカデミア〉の面々は考えました(ちなみに、サークル〈アズキアライアカデミア〉は四人で構成されるグループです。ラジオに登場するのはほぼ三人だけですが)。
     「現実世界」とはどういうことかというと、つまり何が起こるかわからないような世界ということです。ぼくたちの生きているこの世界は本来、そういう場所ですよね?
     次の瞬間、何が起こるかはだれにもわからない。地面が割れて呑み込まれるかもしれないし、空から隕石が降ってくるかもしれない。人はつねに死の危険にさらされていて、偶然にそれを避けているに過ぎないわけです。
     しかし、こういったあまりにも身も蓋もない認識はぼくたち人間には耐えられない。次に踏み出す一歩もまた、必ず地面を捉えるはずだという確信がなければただ歩くことすらできないわけです。そこで、「物語」が生まれる。
     物語とは、無限に複雑な世界を人間に理解できるよう単純化して語ったものです。たとえば、「努力したので、成功した」というのは典型的な物語だといえるでしょう。
     ジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書『時間とテクノロジー』のなかで、このような種類の物語を「因果の物語」と呼んでいます。「××した。故に〇〇になった」という因果関係を説明する物語ですね。人間はあらゆるところにこの因果の物語を見る。
     ところが、このような物語というものはしょせんは虚構、フィクションに過ぎないわけです。というか、限りなく複雑な現実を人間にわかる形で切り取っているだけであって、ほんとうは「××」をしても、結果が「〇〇」になるとは限らない。
     努力すれば必ず成功するとは限らないんですよね。ただ、後から考えるといかにもそのような因果が存在したかのように感じられることもたしかで、事後的に振り返ってこのような「因果の物語」を信じ込むことを「生存者バイアス」といいます。生存者バイアスに捕らわれると老害真っ逆さまですね。
     まあ、それは余談なのですが、とにかく「因果の物語」は基本的にウソなのであって、あまり信用できない。しかし、我々は「因果の物語」なしには生きていけない。そういうことがいえます。

    佐々木:そうですね。去年の暮れに、『時間とテクノロジー』という本を出しました。これは何を書いているかというと、「我々は物語によって生きているよね」と。Aが起きたからBが起きている。大学受験をがんばったからいい大学に入れて、いい大学に入ったからいい会社に入れたみたいな因果関係で生きている。
    でも、因果関係なんて、実際にはほとんど嘘っぱちだよね。後付けでしかなくて、だいたいの出来事は理由もなく唐突に起きるわけです。まさに今のコロナがそうだし、3.11もそうだったし、すべては唐突に起きてしまう。
    唐突に起きてしまうことは、我々にとっては許しがたいわけです。許しがたいから「そこになにか因果関係があるんだよね」と思いたがるのが、人間の性なわけですよね。
    でも、そういう因果関係的なものさえも意味がなくなってきて、それこそAI、人工知能が出てきて、今の機械学習、深層学習のメカニズムは、人間には到底理解できないような、ある種のロジックをそこに見つけてしまったりするわけです。
    そうすると、我々にとってはなぜそれがいい結果を招くのかわからないんだけど、AIが「それをやるといいはずだ」と言い、そのとおりにやると確かにいい結果が起きる、ということが起きてしまうわけ。
    そうすると、もはや自分たちがロジックやメカニズムを理解できなくても、この世界が動いているんだと認識せざるを得ないし、そのほうが実は我々がチープな因果関係で考えているよりもずっといい社会ができる可能性があることが、わかりつつあるんじゃないかと。それだけ社会が複雑になっているということなんですよね。
    中世とか古代のシンプルな時代であれば、我々が想像する程度のメカニズムで世の中が動いていたと思うんだけど、これだけさまざまな要因が無数にあって、その要因の力学によっていろんなことがどんどん起きてくるようになると、もはや我々の認識能力では世の中が動いている理由なんて実際理解できないよねと。
    https://logmi.jp/business/articles/323004

     で、この「因果の物語」が通用しない、いつ何が起こるかわからないということが、ぼく(たち)のいう「現実」です。都合の良いフィクションでごまかされていない真のリアルといっても良いかもしれません。
     そして、その「現実」を象徴的に表したものが「新世界」なのではないか、と考えたのです。それまでの『少年ジャンプ』の作品は、基本的に「弱いやつから順番に襲いかかってきて、そのあいだに主人公が成長する」ようにできていました。
     『ドラゴンボール』あたりがわかりやすいですが、つねに主人公より少し強い強敵が目の前に立ちふさがるようにできているわけですね。その敵は主人公と比べると圧倒的に強くはあるんだけれど、まったく勝ち目がないほどではない。そういうスタイル。
     このような物語の形式のことを、ぼくたちは「階梯的ビルドゥングス・ロマン」と呼んでいます。まるで階段を登るように主人公たちの成長を促す物語ということですね。
     まあ、ほんとうなら「しかし奴は四天王のなかでは最弱」とかいっていないで最強からいきなりかかって来れば良いと思うわけなのですが、それでは主人公たちが成長している余裕がない。だから、あくまで敵は段階を踏んで出て来るわけです。
     それが、いままでの物語のあたりまえだった。なぜなら、あまりにも実力差がある相手が最初から出て来ると、その時点で主人公は死んでしまい、物語は終わるからですね。
     この「突然死」の概念は新世界系を語るとき、きわめて重要です。「主人公の突然死がありえる場所」、それが新世界なのです。
     いい換えるなら、ほとんど一切の物語が成立しない場所ともいえる。次の瞬間に何が起こるか予想できないのですから、まともなストーリーが成立しないことは当然です。
     その意味で、原理的に新世界はエンターテインメントとして描けないことになる。あるいはカフカやカミュのような不条理文学として発表すれば高い評価を得るかもしれませんが、大衆向けの娯楽作品にはなりえないでしょう。
     そこで、かどうかはわかりませんが、新世界と旧世界?(因果の物語が通用する世界)のあいだは、何らかの「壁」で隔てられることになりました。
     「過酷で残酷な新世界とより安全で階梯的な世界を何らかの「壁」でさえぎったうえで語られる物語」、これが新世界系だといっても良いと思います。
     時系列的には前後することになりますが、この方法論を端的に完成させて大成功したのが、いわずと知れた傑作『進撃の巨人』です。
     『進撃の巨人』の、特に序盤においては、「壁」でさえぎられた平和な都市と、その周囲の、人食いの巨人が徘徊する「新世界」が舞台となっています。
     非常にわかりやすい形で「平和だが欺瞞に満ちた社会」と「悪夢のように過酷で残酷な現実世界」をパラレルに描きだすことに成功したわけです。まさに最も典型的にして最も成功した新世界系作品です。
     『進撃の巨人』について語りたいことはたくさんありますが、あまり寄り道ばかりしていると際限なく記事が長くなるのでカットすることにしましょう。
     とにかく、2009年に『進撃の巨人』の連載は始まり、直後に話題になって大ヒットを遂げます。この時点では、「欺瞞に満ちた平和にまどろんでいた人々が突然の災厄に恐怖する」という演出はきわめて効果的だったのです。
     ですが、いま、2020年、この種の新世界系の演出は、すでに過去になったと考えています。つまり、新世界系はもう終わった、あるいはいままさに終わろうとしているわけです。
     ほんとうならいまごろ、『進撃の巨人』の最終回や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末によって終止符が打たれていたかもしれないのですが、新型コロナウィルスの蔓延というまさに突然の事態によってとりあえずそれが延期されているのが現状といえるでしょう。
     この記事は、その新世界系は終わったという認識を踏まえたうえで、「それは結局、何だったのか?」をまとめるために書かれています。
     さて、『進撃の巨人』以降、あるいは『少年ジャンプ』の『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』の三作品以降も、いくつか上記の「新世界系の演出」を使った作品はあらわれてきています。
     たとえば、その後の『少年ジャンプ』で連載された『約束のネバーランド』での「孤児院を取り囲む崖」、『ワールドトリガー』における「世界の境」も「壁」の一種と見ることはできるでしょう。
     いずれも、その外には「壁の中」に比べてより過酷な、そして広大な別の世界がひろがっていることが共通しています。
     『ワールドトリガー』においては一貫して「壁の中」で物語が進むわけで、この作品を新世界系と呼ぶことはむずかしいでしょうが、いずれにしろ新世界系の見立てで語ることは可能です。
     ただ、もちろん、ぼく(たち)は何もこの批評的な見解がこの時代のあらゆる作品を説明するための唯一の方策であると主張するつもりはありません。念のため。
     新世界の血塗られた系譜は、2010年代後半にひとつの秀抜な作品を生みます。いうまでもなく『鬼滅の刃』のことです。
     もっとも、『鬼滅の刃』の設定においては、「壁」らしきものは見あたらないので、これは新世界系というよりは「さらに次の時代の作品」と見ることが正しいかもしれない。あるいは、「新世界系とジャンプ漫画のハイブリッド」というのが正解でしょうか。
     いずれにしても、この作品がきわめてきびしい環境を描いていることはたしかで、したがって主人公は平穏な日常からあっさりと人が死ぬ「狂った世界」に突然に放り出されることとなってしまいます。
     平和で幸福な生活を送っていた主人公の家族が突然そろって殺害されてしまう展開の『鬼滅の刃』アニメ第一話のタイトルは、あまりにも象徴的なことに「残酷」です。
     もうご理解いただけることと思いますが、この「突然」というところがキーポイントなのであって、つまり、この作品もまた「次に何が起こるかわからない」新世界系的な世界を背景としているわけです。
     また、この作品が荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の大きな影響のもとに描かれていると思しいこともよく納得できる。『ジョジョ』もまた、ときにはシビアな「突然死」を描いてきた作品でした。
     『鬼滅の刃』は、『ジョジョ』と同じく、シビアで残酷な世界を舞台にどう生きるべきか? 人間らしさとは何か? その問いを突き詰めています。
     そう、「この狂った世界でどう生きるべきか?」、それが新世界系のグランド・テーマであり、『進撃の巨人』にせよ、『魔法少女まどか☆マギカ』にせよ、あるいは『鬼滅の刃』にせよ、このアポリアともいうべきビッグ・クエスチョンに対し何らかのアンサーを提示したために大ヒットしたように見えます。
     事実、『まどマギ』の後、同じように少女を残酷な環境に叩き込んだ作品がいくつも作られましたが、『まどマギ』ほど大きく話題になることはありませんでした。
     これは、『まどマギ』の魅力が、女の子を酷烈な環境(新世界)に投げ込んでサディスティックに嬲ることそのもの「ではなく」、「そのような環境でどう生きれば良いのか?」に答えたところにあるということを証明しているように思います。
     まさに時代の要請でしょう。「狂った世界」。しかし、それはこの世界の本来の姿である。人間の目で見るから狂っているように思えるだけなのであって、世界の側から見れば、それはごく当然の自然な形なのです。
     とはいえ、それはあまりにも残酷で過酷で、耐えがたい。いうなれば、人類はこの「狂った世界」に産み落とされた寄る辺なき孤児です。
     かれはこの酷烈な世界を生き抜くため、そのなかにより快適で生存に適した「社会」というシェルターを作り出し、それを整備し、拡大していくことによって世界の理不尽なまでの残酷さを緩和しました。
     そのことによって不条理な(人間には不条理と感じられる)もろもろの出来事、たとえば「突然死」といった事態は限りなく遠くなりました。
     もちろん、原理的にいってどれほど社会が整備されようとも世界が内在する本質的な残酷さが消え去ることはなく、我々はときにそのことを突然に思い出させられて愕然とするわけですが、それにしても普段はそのことを忘却していられるわけです。
     その結果、現代社会は一面でハックスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』めいたものとなっている。だから、いくらか視点を変えるなら、新世界系は、新世界におけるむき出しの「生」にある種の可能性を見ていると捉えることもできます。
     我々は新世界のような環境ではなかなか生きられない。よって、新世界ではあたりまえの「突然の不条理な死」を遠ざけるために「社会」を必要とし、そのなかで「権利」とか「平等」といったフィクションを整備していったわけですが、その「社会」にはどうしようもなく欺瞞が付きまとう。
     社会とは、世界に直面する苦痛から人を守る保護膜のようなものですから、そのなかで生きている限り、「世界(新世界)」のことを直接に感じ取れないのです。そこでは、「生きていることそのものの歓び」はかき消えていくことになる。
     そうだとしたら、「新世界」には、ほんとうの「生のよろこび」があるのかもしれない。『灰と幻想のグリムガル』のような作品はそのことをかなりわかりやすく描いています。
     あるいは、この矛盾を、「身体の欲望」と「生のよろこび」というタームで説明した『無痛文明論』という本もあります。
     無痛文明とは何か。それは、あらゆるやり方でさまざまな苦痛を徹底して排除する社会構造のことです。「新世界」が「世界」の本質を極限的な形で伝えるものだとすれば、「無痛文明」は「社会」のありようを極限化した状態といえるかもしれません。
     この本の筆者は、無痛文明を批判的に語ります。「身体の欲望」にのっとって苦痛を避けつづける無痛文明については、「生のよろこび」はなくなってしまうというのです。
     この本を読むと、「新世界」も「無痛文明」もぼくたちが生きていくべき場所としてふさわしくないことがあらためてわかります。
     つまり、過酷な「世界」と安楽な「社会」のいずれもそれぞれべつの意味で過剰なのであって、そのあいだのどこかに、あるべきバランスポイントは存在するのでしょう。もっとも、そのバランスを維持することは限りなく困難なことでしょうが。
     そう、人にとって世界、あるいは他者とはそもそも不快な存在です。他者の存在が明確に認識されるのは、その他者とのあいだに何らかの摩擦が生じたときなのですから、当然のことでしょう。
     この「他者の本質的な不快さ」を極限的な形で描写したアニメーションが即ち『新世紀エヴァンゲリオン』であったことはいまさら指摘するまでもありません。
     その事実は劇場版『THE END OF EVANGELION』において閉幕を飾った「気持ち悪い」というひと言に端的に表れています。どうしようもなく避けがたい、他者の、そして、世界の不快さ。
     そしてまた、そこには「それでもなお、その残酷なる環境を生き抜け」という鮮烈なメッセージもありました。他者は不快であり世界は残酷である。しかし、その不快で残酷な場所を生き抜くことがどうしても必要なのだ、と。
     とはいえ、このメッセージは間違いなくポジティヴなものではあるものの、同時に、限りなく厳酷でもあります。『エヴァ』の「気持ち悪い」という言葉を受けて、そのような世界をそれでもなお積極的に生きようと思える人はまれでしょう。
     じっさい、その後のアニメーションの主流は『けいおん!』や『らき☆すた』に代表されるいわゆる「空気系」を中心とする「萌え系」作品に流れていきました。
     この時代のアニメーションファンは『エヴァ』が描出した「狂った世界」の過酷さに耐えられなかったのだともいえるかもしれません。それはまさに麻酔的な描写、無痛文明的な世界であったということもできるでしょう。
     そういった「萌え」作品を逃避的なものと見て批判する書き手は数知れませんが、ようはそれほどまでに視聴者層が疲労していたのだということもできると思います。
     また、人間にとって物理法則を初めとする「世界」のグランド・ルールは変更不可能ですが、「社会」のルールは変更可能です。したがって、「社会」をより良く改善していくべきだという考え方は基本的に正しい。
     評論家の杉田俊介氏の述べるところの「シャカイ系の想像力」とはそういうものでしょう。ですが、同時に、「シャカイ系」概念の現代における求心力の弱さは、その本質的な楽天性に由来しています。
     なるほど、環境問題などの大きな問題も含めたもろもろの問題の多くが、人間には決して変更不可能な「セカイ」ではなく、改善可能な「シャカイ」に属していることはたしかです。ぼくはそのことを認めます。
     しかし、それは「シャカイ」が容易に変えられるところであることを意味しません。現代において、きわめて複雑で不透明な「シャカイ」を解決していくことは非常にむずかしいことです。
     何もかもアベが悪いとか、そういった物語にわかりやすい話にフォーカスするのならべつですが、その種の論理は若い世代には説得力を持たないと思います。
     ぼくは安倍政権の政策に問題がないといっているのではありません。ただ、きわめて複雑な社会問題をひとりの絶対悪としての個人に象徴させることはそれ自体がひとつの単純すぎる物語、フィクションだといっているのです。
     しかし、それでは我々は社会の変革をあきらめるべきなのか? 種々の問題を「しょせん個人の手のとどかない領域」とみなして放棄してしまうべきなのでしょうか? 答えはもちろん否でしょう。
     我々はこれからも社会のあらゆる問題を積極的に改革し、改善していくべきだし、それはじっさいに可能であると考えるべきです。当然のことでしょう。
     ただ、重要なのは、そういった複雑な問題を、あくまで民主的で漸進的なプロセスを経て解決しようとしていく限り、その「解決」は致命的に間に合わないかもしれないということです。
     いわゆる地球環境問題はその典型的なものです。それは人類全体が影響を受けるグローバルな規模の問題なのであって、いますぐ簡単に解決する方法はない。
     その認識は、新世界系を受容する消費者たちのあいだで所与の前提となっていると思います。だからこそ、『進撃の巨人』や『天気の子』が熱狂的に受け入れられたのです。
     もちろん、『進撃の巨人』のまえにも「狂った世界でのサバイバル」を主眼にした作品は存在しました。最も典型的なのは三浦健太郎『ベルセルク』でしょう。
     『ベルセルク』が「新世界系のグランド・テーマ」の答えとして提示したものは一種の狂気であった。ただひたすらに狂い切ったものこそがこの新世界を生き抜けるのだと。
     また、現代においては『ブルーロック』や『アオアシ』といったスポーツ漫画も、サバイバル漫画の一面を見せます。
     『少年ジャンプ』のそれを初めとするスポーツ漫画の内容的な変遷についてはいずれまた書きたいと思いますが、『H2』、『SLAM DUNK』といった「天才マンガ」の後には『黒子のバスケ』、『ベイビーステップ』といった「自分の個性を最大限に活かして天才に対抗する漫画」があらわれています。
     それら「ポスト天才漫画」はある意味で「バトル・ロイヤル」の物語です。まあ、それらまでを新世界系であるとはいいませんが、ともかくも新世界系を生んだ時代の所産であることはたしかであり、同様の背景を共有しているといえるでしょう。
     で、ここまで長々と書いて来た結論として何がいいたいかというと、「セカイ系」と「新世界系」は裏表であり、ある意味では同じものだともいえるし、べつのある意味ではまったく対照的だと見て取ることもできるということです。
     『ヱヴァ』の新劇場版が、旧作と決定的に異なっているのは、かつては「世界の中心」に否応なく据えられていた碇シンジがその黄金の玉座から追放されていることだと思います。
     往時の『エヴァ』の問題といえば、つまり「主人公であることの苦しみ」でした。しかし、『ヱヴァ』においてはシンジはもはや世界を救うために必要とされてはいません。
     新劇場版の特に『Q』において、シンジは「壊れてしまった世界」を修復するべく行動しますが、物語はそれすらも父・ゲンドウの策略の一部であり、シンジの熱意はむなしく空回りするに留まるところを非情に描きだします。
     それでは、『破』であれほど視聴者を感動させたシンジの成長は、熱情は、単なる幻想に過ぎなかったのでしょうか。そうではないでしょう。
     しかし、単に「熱く生きろ!」というだけでは、新世界を生き抜くためのアンサーにはなりえないということなのだと思います。もはや、ただ熱くなって相手を打ち破るだけでは世界を救うことはできないということは歴然としているのです。
     その「因果の物語」は信頼できない。そういう時代になった。もちろん、『少年ジャンプ』的な「努力、友情、勝利」のテーマ、「因果の物語」が高度経済成長からバブル期にかけて勃興し絶頂を見、そして零落していったことも偶然ではありません。
     そのとき、アンケートから導き出されたという因果の幻想は、経済成長によるリソースの拡大に支えられていたものなのです。その時代を照らした大いなる蜃気楼、それ「努力を続け、友情を育めば、必ず勝利できる」というファンタジーなのでしょう。
     換言するならその時代には「努力」+「友情」=「勝利」というシンプルな「勝利のための方程式」が成立して見えていたということ。
     それに対して、現代のたとえば「小説家になろう」の小説群、いわゆる「なろう系」の作品はしばしば「努力が足りない」と揶揄されます。しかし、もうそのような「因果の物語」は信じられないのです。
     新世界系と「なろう系」の作品はまったく逆にも見えますが、じつは同じ時代という母胎が産み落とした兄弟のような関係にあります。
     つまり、両者ともに上述の『少年ジャンプ』方程式が決して成り立たない理不尽なシチュエーション(狂った世界!)を描いているわけです。
     狂った世界。壊れた世界。しかし、ほんとうは世界は決して狂いもしなければ壊れもしません。世界の厳粛なグランド・ルールは人間のいかなる思想とも観念とも無関係につねに不変であり、壊れたり狂ったりするのは、ただ世界に内在する人間社会だけです。
     そして、社会が崩壊し狂乱するとき、人は素裸で世界に放り出される。しかし、それは世界をダイレクトに感じ取ることができる体験でもある。世界は酷烈ではあるが、しかし、同時にかぎりなく美しい。その美とは、世界の残酷さと一体のものなのです。
     その「美」と「残酷」を求めるときに「新世界」が生まれ、「欺瞞」と「平穏」と追及していくと「無痛文明」に至る。ぼくたちはそのどこにあるべき状況を見い出せば良いのでしょうね? というところで、このいくらか長い記事を終わります。
     「新世界系」については、ここに書いたようなことをグローバリズムがどうこう、ネオリベラリズムがどうこうという社会分析とともにていねいにまとめて、「新世界論」という8万字~10万字くらいの電子書籍を出したいと思います。無料にする予定です。
     これ、もういってもいいと思うけれど、何年か前にドワンゴから本を出しませんかという依頼があったんですよね。 それは口約束のつねで、いつのまにか消えてしまったんだけれど(まあ、ブロマガの数字が減っているからしかたないかな?)、自分のいいたいことを一冊の本にまとめたいという気持ちはずっとあって、有料の電子書籍はとにかく読まれないから、この際、無料で出しちゃえということです。
     このわりと乱雑な記事よりずっとわかりやすい一冊になると思います。いつ出るかわからないけれど、良ければ読んでみてください。でわ、でわ。 
  • 恐怖と絶望が支配する「新世界系」の裏面には何が存在するのか?

    2020-03-08 00:37  
    50pt
     うに。コロナウイルスの猛威がはびこるなか、今年ももう3月になってしまったわけですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはとりあえず部屋にこもってアニメを見ています。
     おまえ、いつもそれだな!とわれるかもしれませんが、じっさい、うちのすぐ近くでもコロナの罹患者が出ているので、あまり積極的に外に出て行く気にはなれません。せっかくヘッドマウントディスプレイを購入したので、これでアニメとか映画とかゲームとかを楽しんで行きたいところ。
     さて、今季のアニメはとりあえず『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』あたりを見ています。
     「小説家になろう」発の、最近ではすっかりすたれたと見られるヴァーチャル・リアリティMMORPGもので、あるオンラインゲームでたまたまステータスを「防御力に全振り」したたまに異様に強くなってしまった少女の冒険? 日常? が描かれています。
     まあそこは普通なのだけれど、なかなか画期的なのではないかと思うことに、これ、デスゲームじゃないんですね。ほんとにただのネトゲなの。
     このジャンルの嚆矢はやはりみんな大好き『ソードアート・オンライン』だと思うのですが、いうまでもなく『SAO』は作中の死が現実の死に直結するデスゲームものでした。
     だからこそ『SAO』はゲームでありながらリアルな冒険を描くことができたし、まさにそこがウケたのだと思いますが、それから十数年、『防振り』はもうまったく感覚が違う。
     『SAO』の強烈な魅力であったダークでシビアな世界観と、それとうらはらの「生の輝き」がここにはまったくない。ペトロニウスさんが『転生したらスライムだった件』と並べてこの作品を語っていますが、なるほど、という感じです。

     ちなみに、最近、息子が大好きといって見ている『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』のアニメを今ある奴全部見たんですが、これが、『転生したらスライムだった件』と同じ感覚を受けるんですよ。ドラマトゥルギー的には、実際の起伏が全然ない。俺強ええや強くてニューゲームみたいな感じなのですが、なんというか、そういう「くさみ」すらもない。ただ平坦にいろんなことが起こるのを眺めているだけの感じがする。
     これは、仮に、成長物語=主人公がドラマのエピソードの連なりによって変化していくというものを物語の基本形に置くと仮定すると、非常に最低な、だめな、評価に値しない物語になります。だって、主人公の動機が駆動しないし、エピソードの連なりがカタルシス(LDさんのいう結晶点)がないものになってしまうので、「物語」の体をなさない。小説家になろうの昨今の作品に、これが多い。
     ただ「現実」を描いて、その「連なり」を、ロードムービーのように眺めているだけでは、なんの感情的起伏も生まないじゃないか、という評価です。ただこれを、どうも様々な感情的起伏、生きる動機の悩みの果てに、「世界自体は残酷だけど美しい」という強度を「眺めたい」という欲望の系譜で考えると、もしかして、だから今は受けるのかな?という気がします。この文脈で考えると、物語のカタルシス的には、ほとんど起伏を感じない『転生したらスライムだった件』が、でも、良いのはなぜだろう?と不思議に思ったときの上記のラジオの分析がつながってくる気がします。
    http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/03/07/031439

     ただ、どうなのだろう? これ、「世界の残酷さと美しさ」を描く系譜に配置していいものなのでしょうかね。シンプルに考えて、もし、これらの作品が「世界は残酷だけれど美しい」という「ミカサのテーゼ」(笑)を描くところに魅力があるとすれば、やはり物語の設定はデスゲームのほうが良いように思うのですよ。
     だって、『転スラ』はまだしも『防振り』の世界は残酷でも何でもないですよね。ただひたすらにご都合主義というか、ほぼ運不運だけで決まっている感じ。
     タイトルでは「防御力に全振り」といいつつ、攻撃力も凄いことになっているわけで、ふつうに考えたら面白い物語にはなりません。でも、じっさい見てみると、『転スラ』同様、ちゃんと面白いんですよね。いったいどういうこと???
     この作品で何より印象に残るのはご都合主義の楽しさです。世界のすべてが主人公を愛しているというか、主人公に都合よく動いている感じ。理屈で考えればこんなことありえるはずもない展開の連続なんだけれど、その「おいおいおい」という感じが何とも楽しい。
     ご都合主義の総本山であるところの「なろう」でウケてアニメ化したことはよくわかる気がします。ほとんど物語的な起伏は何もないのだけれど、まさにそこがひとつの魅力になっている。
     愚考するに、これはたぶん、「世界の残酷さ」にフォーカスした「新世界系」と裏表の関係にある作品なのでしょう。「裏・新世界系」とでもいえばいいかな? つまり、世界は極度に不条理なものであるという認識は、逆にいえば極度の幸運として表れてもおかしくないということでもある、と。
     一見するとただの古くさい意味でのご都合主義展開の連続のように見えるかもしれないけれど、じつはそうでもない。なぜなら、「努力をすれば報われる」といった「因果の物語」が無効化していることに関しては、『転スラ』や『防振り』も「新世界系」と変わりないからです。
     「新世界系」ではどんなに努力しても無残に死が待っているけれど、「裏・新世界系?」では何ひとつ努力しなくても幸運が舞い込んでくる。両者はかけ離れているようだけれど、「すべては偶然。努力してもしなくても結果が変わるとは限らない」という世界認識が共通しているわけです。
     で、ぼくはここでかつて「小説家になろう」のトップ・オブ・トップの作品だった『無職転生』をひき合いに出す誘惑を禁じえません。『転スラ』や『防振り』に比べると、『無職』はやっぱりクラシカルな意味で「物語」だったと思うのですよ。
     ここでいう「物語」とは、「山あり谷あり」のドラマトゥルギーを指しています。ふつうに考えて、一般的な物語は主人公の状況が好転する「山」と、暗転する「谷」の両方があるからこそ面白いわけです。
     『王子と乞食』でも、『大いなる遺産』でも何でもいいですが、古典的な意味での物語はほぼ必ずといっていいほど主人公を「谷」の底まで追いつめておいて、そこから「山」へのし上げ、また「谷」にひきずり下ろすというドラマ展開になっている。
     その振幅の大きさこそがイコールで物語の面白さでもあるし、いかにして「山」と「谷」を作るかが作者の腕の見せ所であるともいえる。アレクサンドル・デュマとか、チャールズ・ディケンズとか、天才的な物語作家たちはいずれもこのドラマツルギーを巧みに駆使していました。
     ところが、「新世界系」なり「裏・新世界系」ではその「物語」が成り立たないわけです。「新世界系」においては従来の意味での物語が成り立たないことは、いままでも繰り返し述べて来ました。
     それ故にいままでの「新世界系」作品は「壁」でもって世界を区切る必要があったわけですが、「裏・新世界系」においてもやはり古典的な「物語」は成立しない。通常の意味で考えれば「山もなければ谷もない」からです。
     ペトロニウスさんはこれをして「常に最低な、だめな、評価に値しない物語にな」るといっているわけですが、もちろん、だからこんなものは見る価値はないということではないでしょう。
     まさにそれらの「物語不成立」にもかかわらず、じっさいに面白いということがこれらの「新世界系」なり「裏・新世界系」作品の新しさなのですから。
     いい換えるなら、「物語」とは「主人公のアクション」に対する「世界のリアクション」、「それに対する主人公の再度のアクション」といった連続を描くものであるともいえる。
     しかし、「新世界系」、「裏・新世界系」においてはそういう意味での「アクション」に対してあたりまえの「リアクション」が返って来ることがない。つまり、「アクション」と「リアクション」の因果関係が断絶している。
     それが絶望的な不運として表れた場合は「新世界系」と呼ばれるし、奇跡的な幸運として返ってきた場合はぼくが「裏・新世界系」と呼ぶ作品になるわけですが、とにかく旧来の「物語」とは異質なものがそこにはあるのです。新しいよね?
     もっとも、ご都合主義の連続で物語が成り立たないにもかかわらず人気が出る作品はいままでにもありました。たとえば「少年ジャンプ」のバトルマンガ、代表的なのは車田正美です。
     さて、それでは『リングにかけろ』や『聖闘士星矢』と「裏・新世界系」は同じものなのでしょうか? ちょっと考えてみたのですが、ぼくにはやはり車田作品は旧世代の物語であるように思えます。
     そこには「努力」や「根性」の因果的な結果としての「勝利」という方程式が明確に存在しているからです。まさにこの方程式が崩壊した地点から「新世界系」、「裏・新世界系」はスタートしているといっても良いでしょう。面白いですね。
     うん、きょうはめずらしくなかなか良いことを書いた気がする。この先は次のラジオあたりで煮詰めることにしましょうか。「裏・新世界系」、「因果の物語の不成立」といったあたりをぼくからのキーワードの提案として、ここに挙げておきたいと思います。 

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  • 『HUNTER×HUNTER』における新世界とは「物語破壊の装置」である。

    2016-06-03 15:07  
    51pt

     全読者待望の『HUNTER×HUNTER』最新刊が出ました。
     さっそく電子書籍で落として読む、読む。もちろん雑誌で追いかけてはいたけれど、あらためてまとめて読むとあらためて面白いですね。
     前巻で、長かった「キメラアント篇」に続く「会長選挙篇」が完全に終わって、この巻から「暗黒大陸篇」が始まります。
     いままでの物語世界全体が広大な「暗黒大陸」に取り囲まれていたことがあきらかとなり(な、なんだってー)、一気にスケールアップするわけなんだけれど、あまりに突然の展開に、当初は正直、「大丈夫なのか?」という思いもありました。
     しかし、その後の展開を追いかけていくと、どうやら大丈夫であるらしい。
     なんといっても一向に物語のテンションが落ちない。第33巻にしてこの情報量とハイテンションは驚異的です。
     もちろん、実質的に週刊連載のスタイルを捨てたからこその高密度ではあるんだろうけれど、そういうことは関係ないですからね。面白さが正義。
     いったいこの先、「暗黒大陸」を舞台にどのような冒険が繰り広げられるのか、ほとんど想像を絶していますが、だからこそ楽しみでなりません。
     さて、このブログを長いあいだ追いかけている人ならご存知かと思いますが、「暗黒大陸」や『進撃の巨人』の「城壁の外の世界」から発想して、LDさんは「新世界系」という概念を生み出しました。
     『ONE PIECE』の「新世界」から採った名称です。『HUNTER×HUNTER』でも「新世界」という呼称が使われていますね。
     「新世界系」とは何か? 説明するのが面倒なので自分の記事から引用すると、こんな感じです。

     さて、ここで『HUNTER×HUNTER』の話に繋がるのですが、最近、ペトロニウスさんとかLDさんが「新世界」、あるいは「外の世界」といわれるヴィジョンについて話しています。
     これは、『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』などの作品で、いままでの世界よりも遥かに大きい「新しい世界」が存在する、という展開が描かれているという話です。
     『ONE PIECE』ではまさに新世界、『HUNTER×HUNTER』では暗黒大陸などと呼ばれている場所のことですが――これが、「現実」を意味しているのではないか、という指摘をLDさんがしているのですね。
     非常に興味深い話だと思うのですが、ここでいう「現実」とは、「努力や成長が意味を持つ少年漫画的な原理」が通用しない世界のことだと思うのです。
     通常、少年漫画のような物語は、四天王キャラが最弱の者から順番に襲いかかってくるように、主人公の成長に合わせて少しずつ進展する傾向があります。
     『ドラクエ』でもレベル1のところにいきなりギガンテスがやって来るというようなことはないわけです。しかし、いま述べたように、現実はそうではない。
     そこでは、判断を誤れば待つものは死であるのみか、最も正しい判断をしてなお、死しか待っていないかもしれない。そういう原理があるわけです。まさに、日本代表が最善の努力をしたかもしれないにもかかわらず、無残な敗北を喫したように。
     努力が正しく報われる世界、正義が必ず勝つ世界、そういう少年漫画的な原理が通用する世界を「正しい」とするならば、この世は正しくできていないし、まさに「クソゲー」としかいいようがないシステムで動いています。
     でも、その不条理さを受け入れること、そういう世界を折り合いをつけることが、「大人になる」ということでもあると思うんですよね。「いかにして成熟するか」という問題がそこにあります。
     そして、成熟した上で、さらに過酷な現実に立ち向かう覚悟を維持することができるか? おそらくその強靭な精神を持った者のみに、絶望的な難易度のクソゲーであるところの「外の世界」は扉を開くのでしょう。
     そこは努力とか、成長とか、誠意とか、愛情といったものが何の役にも立たないかもしれない世界。かたくななナルシシズムなど一顧だにされない世界。人間中心主義(ヒューマニズム)がまったく通じない世界です。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar563640

     そう、「レベル1から敵が出て来るとは限らない、いきなりレベル99のラスボスが登場するかもしれない世界」、それが「新世界」です。
     こう書くとわかるかと思いますが、「新世界」においては通常の物語は成立しません。
     だって、 
  • 『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。

    2016-04-27 12:05  
    51pt

     『HUNTER×HUNTER』が連載再開してしばらく経ちます。
     いまさらいうことではないかもしれませんが、めちゃくちゃ面白いですね!
     今週号はなつかしの「天空闘技場」を舞台とした、ヒソカとクロロの死闘。
     最初に「どちらかが死ぬまでやる」と宣言され、いったいふたりのうちどちらが勝者となり、敗者となるのか、目が離せません。
     普通に考えれば、両者とも物語にとっての重要人物であるわけで、ゴンやクラピカと無関係のところであっさり死んでしまうはずはないと思えるのですが、そこは『HUNTER×HUNTER』、予断を許しません。
     おそらく、この戦いが終わったとき、どちらか片方は闘技場に斃れることになるのでしょう。あるいは、両者ともが闘技場の土となる運命化も。
     この、先の予想をまったく許さない展開こそが『HUNTER×HUNTER』の本領です。
     ああ、戻ってきたのだな、という気がしますね。おかえりなさい。
     ただ、クロロにしろ、ヒソカにしろ、いままでの物語のなかでは最強の存在であった「キメラアントの王」メルエムと比べれば、実力的には劣るはずです。
     いかに「念能力に強弱という概念はない」とはいっても、メルエムはあまりに強すぎた。
     だから、いまさらクロロ対ヒソカ戦をやってみたところで、盛り上がりに欠けることになる――はずなのですが、じっさいにはそうはなっていません。
     この上なく緊張感のある死闘がくり広げられています。
     結局のところ、「もっと強く、もっともっと強く」という方向性だけが面白いわけではない、ということなのですね。
     たしかに、読者は一般に「もっと強いやつ」を求める傾向がある。
     しかし、その読者の声に応えつづけていると、はてしなく強さは数的に上がっていくことになってしまう。
     その「強さのインフレ」をまさに極限までやったのが『ドラゴンボール』であるわけですが、そこには「同一パターンのくり返し」でしかないという問題点があった。
     で、『ドラゴンボール』以降の漫画はそこから何かしら学んで、同じことをくり返さないようにしているわけです。
     その端的な例が『HUNTER×HUNTER』ということになる。
     この世界では、いったん極限まで行った強さの表現が、ふたたび下のレベルに戻ることがありえるのです。
     これについては、ペトロニウスさんが昔、『BASTARD!!』を例に「強さのデフレ」という言葉で説明していました。

     「強さのインフレ」ならよく聞きますが、「強さのデフレ」とはなんでしょうか?

     こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの第2部が、とても好きで、、、第2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェスネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第2部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第1部では雑魚キャラレベルだったはずです。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
     強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
     これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです、要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2

     世界は、絶対的強者だけで成り立っているわけではないということ。
     「頂点」の戦いがすべてで、そのほかの戦いには価値がないというわけではないということです。
     「底辺」は「底辺」で、きわめて熱いバトルをくりひろげているわけで、その「底辺」を描き出すこと(=強さをデフレさせること)は、「世界の豊饒さ」を描き出すという一点において、大きな意味を持ちます。
     つまり、ひたすら「強い奴」にフォーカスしている世界より、強い奴もいる、弱い奴もいる、それぞれがそれぞれのレベルで懸命に生きているということがわかる世界のほうが、より豊かに感じられるということだと思います。
     『HUNTER×HUNTER』の場合、ヒソカにしろクロロにしろ、「底辺」には程遠い最強の一角を争うひとりであるわけですが、メルエムのレベルには及ばないであろうことは間違いありません。
     しかし、そのふたりが、これほどの実力を持っているのだ、ということを示すことによって、世界はあらためて豊饒さを取り戻すのです。
     ところで、「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれないリアルな世界」のことを、ぼくたちはLDさんに倣って「新世界系」と呼んでいました。
     新世界系の物語は、「突然、異常に強い敵が現れるかもしれない物語」であるわけですが、いい換えるなら、「強い敵と弱い敵があらわれる可能性がランダムに設定されている物語」ということもできそうです。
     つまり、そこではひたすら「もっと強く、もっともっと強く」という方向には物語は進まない。
     「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれない」ともいえる一方で、その逆、「レベル99のときにレベル1の敵が現れるかもしれない」ということもできるわけです。
     これは、一見するとつまらないようにも思える。レベル99のときにはレベル1の敵なんて相手になるはずがありませんからね。
     しかし、「強さのデフレが豊饒な世界をもたらす」という視点で見ると、意味があることであるように思えてきます。
     ようするに、新世界の物語とは、強さが単純にインフレしたり、デフレしたりするのではなく、その時々で乱高下する「強さのランダムウォーク」の物語であるということです。
     『HUNTER×HUNTER』はだんだん