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記事 5件
  • これが「バカ」漫画だ! 真剣さというリスクを冒す人々。

    2019-01-08 23:28  
    50pt
     ども。2018年もあっというまに一週間以上が過ぎ去りましたね。光陰矢の如し。少年老い易く学成り難し。時が経つのはあっというまだと実感します。
     そういうわけできょうも更新しようと思うのですが、何を書いたら良いかなあ。バカ漫画の話でもしましょうか。
     この場合の「バカ」とはあまりにも荒唐無稽だとか、ばかばかしいということではなくて、徹底して真剣であること。そして、人に笑われることを怖れないことを意味しています。
     おおよそフィクションとは何らかの価値観を示すものであるわけですが、その価値観を明確に提示することをまるでためらわない。そういう態度をぼくは「バカ」と呼んでいます。
     ぼくが大好きな高河ゆんさんの漫画『恋愛』は究極のバカ恋愛漫画です。
     この漫画の主人公はある絶世の美青年なのですが、かれはあるとき、ブラウン管のなかのアイドルの少女に恋をし、彼女を手に入れるべく自らもアイドルになって
  • シンデレラの魔法が解けないように。滑稽なまでの真剣さだけがひとの心を打つ。

    2015-09-09 00:08  
    50pt

     高河ゆん『REN-AI』の文庫版が発売されました。
     否、しばらく前に発売されていたことにいまようやく気づきました。
     愚かにもいままで気づかなかったということですね。
     ともかくなんとか気づいたので即座に購入しました。
     ぼくはこの漫画が好きで好きで好きで――ほかのどの漫画よりも好きだといっても過言ではないくらいです。
     単に高河ゆん全盛期の最高傑作のひとつというだけではなく、個人的にものすごく相性がいい作品なのですね。
     あえて順位を付けることにどれほどの意味があるかはわかりませんが、もしランキングするならぼくの漫画人生における堂々の首位ということになります。
     それほどまでにぼくはこの作品を高く評価しているわけです。
     ところが、どこがそんなに良いのか? 面白いのか? というと、これがよくわからない。
     じっさい、ぼくがこの漫画を薦めた人たちは大抵、微妙そうな態度を見せます。
     それほど面白いと感じないらしいのですね。
     とはいえ、ぼくは直感的に「これはすごい」と感じましたし、自分の感覚には確信があります。
     ぼくがすごいと思った以上、すごい漫画であるはずなのです。
     しかし、初めて読んでから十数年経って、最近ようやくこの作品のすごさを言語化できるようになって来ました。
     『REN-AI』という作品の魅力、それは一にも二にもその「圧倒的な真剣さ」にあるのだと。
     この漫画の物語は主人公の少年があるアイドルの少女に恋をするところから始まります。
     それも、どこかで偶然出逢って恋をするとかではない。テレビ画面のなかの彼女を見て、それだけで熱烈な恋に落ちてしまうのですね。
     そして、かれは彼女の心を射止めるために自分もひとりのアイドルとして芸能界に入っていきます。ほんとうは芸能界にもアイドルにもなんの興味もないのに。
     常識で考えたらありえないというか、異常な展開ですよね。
     もちろん、テレビ画面のなかのアイドルに恋をする男はいまも昔も大勢いるけれど、だからといって本気でアイドルと恋愛できるなどと考える奴はいない。
     もしいたとしたら「痛い奴」でしょう。
     しかし、この主人公、田島久美は不可能な恋を実らせるためにあくまで真剣に行動するのです。
     フィクションの筋書きとはいえ、あまりにあまりの話といえばそうなのですが、これが面白い。
     なぜ面白いのか。結局、「本人が真剣だから」としかいいようがありません。そしてきわめて大切なことに、作家も真剣なのです。
     ぼくはそういう真剣な話が好きです。というか、真剣な話しか読みたくない。
     どれだけばかばかしく見えようとも、真剣な作品にはすごみがあります。
     もちろん、的を外していればただ滑稽でしかないのですが……。
     そう、真剣な作品を書くということはある種のリスクを引き受けることでもある。
     真剣な作品を書くとき、ひとは「言い訳が利かない」のですね。
     わかってもらえるでしょうか。「こんな恥ずかしい作品をあえて書いてみました」という逃げの態度を取るなら、そこにはいくらでも「言い訳の余地がある」わけです。
     たとえほんとうに失敗したのだとしても、「わざとそういうふうに見えるようやったのだ」といいこしらえることが可能なわけですね。
     ですが、何もかも真剣な作品ではそういうわけにはいきません。
     「こんなのが恰好いいと思っているのかよ」といわれたら、作家は「そうだよ。これを格好いいと真剣に思っているよ」と答えることしかできないでしょう。
     真剣な作品を書くとは、揶揄や嘲弄や、そういったものに晒されたときも、真剣に受け止めなければならないということなのです。
     それを避けるためには、ほんの小さじいっぱい、知的な素振りを入れてみせればいい。
     「わかっているよ」、「ほんとうは何もかも自覚していて、その欠点も恥ずかしさも了解していて、その上でやっているのだよ」というインテリジェントな批評性を作品に盛り込めばいい。
     ただそれだけで、その作品の「防御力」は各段に上がることでしょう。
     いつの頃からか、そういう作品がとても増えたように思います。 
  • 性欲より恋を。少年漫画の描くべきロマンとは何か。

    2015-04-04 14:14  
    50pt

     ども。  一応、きょうでブロマガ強化週間は終わりということになります。
     自分の限界を見きわめようと思って最大限の質と量の記事を書こう!と考えた一週間だったのですが、いやー、予想以上に書けなかったですねー。
     ある程度のクオリティを保って継続的に書きつづけようと思うと、1日10000文字くらいが限界になるらしい。
     西尾維新は1日20000文字をアベレージで上げてくるという話なので、その半分。
     まあ、量だけ比較してもしかたありませんが、さすがトップに立つひとは凄いよなあ、と思います。
     ぼくも1日2日なら20000文字書けると思うけれど、続かないわ。
     さて、きょうは恋愛漫画の話。
     少年漫画であれ少女漫画であれ、恋愛ものには夢を見せてほしいよなあ、という話題です。
     青年漫画とかレディースコミックなら現実だけでもいいかもしれないけれど。
     きっかけはてれびんが「戦場感覚LINE」で今週の『iショウジョ』はアウトじゃね?といいだしたこと。
     何が?と思ったのですが、さっそく読んでみたところ、理解できました。
     うん、これはたしかにアウトかもw おっぱい丸出しの女子中学生相手にディープキスしちゃダメだろ。少年漫画として。
     いや、『マガジン』だったらわからなくもないんだけれど、『ジャンプ』系列だからなあ。
     ちなみに↓から読めるので、興味がある方は読んでみてください。最新二話が該当するエピソードです。
    http://plus.shonenjump.com/rensai_detail.html?item_cd=SHSA_JP01PLUS00000062_57
     普段は好きな男に相手にされない年下の女の子が魔法のアイテムで大人に変身してかれの前に現れる、というよくある話なのですが、結末が性欲に堕しているようにしか見えなくて、これはきついなあ、と。
     ぼくはやっぱり恋愛漫画には夢を、ロマンを見せてほしいんですよ。精神は肉体にまさる、というファンタジーを通してほしい。
     でも、これは肉体の欲望が精神を圧殺しているようにしか見えないよね、と。
     そういうわけで、ちょっと残念なエピソードだったのでした。
     いや、もちろん、現実は肉欲が精神にまさるかもしれません。やっぱりおっぱいは大きいほうがいいよな、とかそういうことになるかも。
     でも、やっぱり少年漫画はそれじゃ良くないと思うんですよね。そこでファンタジーが見せられないなら、あえて漫画を読む意味がないじゃん、とぼくなどは思ってしまう。
     お色気を描くな、といいたいわけじゃなくて、そこに夢がないとダメだろう、と。
     『高嶺と花』という少女漫画があります。

     これもてれびんが教えてくれた作品なのですが、やっぱり女の子が年少の歳の差恋愛ものなんですね。
     ここではちゃんとロマンが成立していると思うんですよ。
     高校生の女の子が 
  • いちばん恥ずかしいところを晒せ! 真夜中のポエムをひとに読ませるべきたったひとつの理由。

    2015-03-07 10:10  
    50pt



     きょうは「羞恥心」について話をしたい。一般にひとが備えている恥ずかしいと感じる気持ちのことだ。一説によるとアダムとイヴが知恵の果実を齧った時に生まれたというが、国家も宗教も超えて存在する人間の最も人間らしい想いのひとつである。
     たとえば洋服の下の裸を見られたとき、ひとは恥ずかしいと感じる。あるいは、秘密の日記を見られたとき、さもなければ、本棚の奥に隠していた秘密のエロ本コレクションを見つかったときなど、多くの人は羞恥心を感じ、叫び出したいような気分になる。その気持ちをまったく理解できないというひとはほとんどいないはずだ。
     しかし、これはひとが生まれつき備えている感情ではない。現実に赤子は裸でいても恥ずかしいとは思わないし、人前でも平気で排泄する。あたりまえといえばあたりまえのことだが、羞恥心とは人間が作り出した文化に由来する感情に過ぎないのである。
     それでは、人間にとって最も恥ずかしいこととは何か? いろいろな答えが考えられるだろうが、ぼくはそれは心を覗かれることだと思う。
     心の奥底のだれもが抱える秘密の部分、そこに必死に隠しているものを見られることほど恥ずかしいことはないのではないか。それに比べれば肉体的欠陥を見られることなど、どうということはないとすらいえる。
     自分がほんとうは何を好きで何を嫌いなのか、何を美しいと感じ、何に怒りを覚えるのか、その、きれいごとではないほんとうのところを晒すことは途方もなく恥ずかしい。なぜならそれは、いかなる虚構でも守られていない裸のその人自身だからだ。
     人前で裸になることもたしかに恥ずかしいが、精神的に裸になることはそれ以上に恥ずかしい。心のストリップは肉体のストリップ以上の屈辱を伴うのである。
     何年か前に『サトラレ』という漫画が流行ったことがあった。この作品の主人公たちは、自分の心のなかを無意識に周囲に漏らしてしまう人々、「サトラレ」たちだった。
     物語のなかではかれらは自分がサトラレであることを気づかないよう守られている。なぜなら、自分の心の中をそのまま覗かされていることを知ってしまったならば、羞恥心で自殺しかねないからだ。心こそは人にとって究極のプライバシーエリアなのである。
     しかし――人が人と交流するということは、そのプライバシーをある程度開陳するということである。自分のことを一切知らせないで相手のことを知ろうとすることには無理がある。だれかと語り合うためには、どこかで、自分はこういう人間なのだと知らせなければならない。
     まして、何か作品を創造し、人の心を揺さぶろうなどと考えた時には、自分をオープンにせざるを得ない。アートとは心のストリップショーなのだ。
     何か作品を創造し、それを発表したならば、その人の人生、教養、価値観、偏見、感情、自負、傲慢、それらすべてがつまびらかにならざるを得ない。また、そうでなければ決して人の心を打つものは作れない。
     だからこそ、アーティストという名のストリッパーには自分の本心を晒す勇気が必要となってくる。
     自分の高潔さ、偉大さ、賢さ、自己犠牲の精神などだけ晒せるならいいが、じっさいにはそうは行かない。そういったプラスの側面を晒す時には、無知、卑小さ、愚劣さ、エゴイズムといったマイナスの側面をも晒さなければならないのである。
     なぜか? それはつまり、心のストリップショーにおいて大切なのは、最後の一枚まですべての衣服を脱ぎ捨てることだからだ。一枚でも身につけている限り、魅力的なショーとはなり得ないのだ。
     その人の最も秘められ隠されたグロテスクな陰部をこそ観客は見たがる。そこを隠していてはショーは成立しないのである。
     しかし――それは何と恥ずかしい、痛々しい、格好悪いことなのだろう。自分の最も隠したい、醜い場所をこそ晒さなければならないとは、何という拷問だろう。
     人はそのさまを見て笑うに違いない。何と無知な人間だ、愚かな精神だ、虫けらにも劣る恥ずかしい奴なのだ、と。それはまさに衆人の視線のなかで全裸となるに等しい行為だ。
     おそらく賢い人間はそんな真似をしないに違いない。賢い人間は、自分は衣服をまとったままで、他人の裸を笑うのである。そうすれば、自分の陰部は隠したままで、他人の陰部の形を嘲ることができる。パーフェクトに安全で、絶対に傷つかない賢いやり方である。
     こういう人のあり方を、ぼくは「利口」と呼ぶ。一方、自分のすべてをさらけ出す行為は、これはもう「バカ」としかいいようがない。必然的に傷だらけになり、最後にはズタボロになってしまうスタイルといえる。
     人はどのように生きるべきなのか、「利口」が良いか、それとも「バカ」を尊ぶべきか、それは人それぞれであることだろう。しかし、ぼくは断然、「バカ」を選ぶ。
     自分も「バカ」でありたいと思うし、「バカ」を晒している人をこそ尊敬する。「利口」なあり方は、賢いとは思うが、リスペクトには値しないと考える。
     あるいはそれは偏見かもしれない。「バカ」のほうがより偉いという下らない思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、それでもぼくは「利口」より「バカ」を取る。なぜなら、いままでじっさいにぼくを感動させた創作作品は、いずれもすさまじく「バカ」な代物だったからだ。
     自分の欠点を晒し、汚点を見せつけ、偏見を隠さず、傲慢を示した人々の作品だけが、ぼくの心を鋭く射抜いたのである。
     ぼくはそれらの作家と作品を尊敬し、自分もまた「バカ」であろうと試みて来た。その成果が即ちこのブログとその前のブログ「Something Orange」である。
     しかし、自分がほんとうに「バカ」になれたかどうかといえば、これは微妙なところだろう。どこかで自分のほんとうに恥ずかしい部分は隠そうとしてしまっているかもしれない。
     何かの作品をひとに奨めるとき、ぼくはほんとうにいつも本気だっただろうか。時には「仕事だから」とか「読む人のためを思って」といったいい訳を用意して自分をごまかしていたのではないか。そう思うと、忸怩たるものがある。
     しかし、プロフェッショナルなクリエイターにとってすら、自分のすべてをさらけ出すことは簡単なことではない。しかし、ぼくはその自己開示に成功した「バカ系」の作品をこそ好きなのだ。
     たとえば、高河ゆんに『恋愛 REN-AI』という長編がある。ぼくがいままで読んだあらゆる漫画のなかで、最も好きな作品のひとつである。
     しかし、ぼくは長い間、自分がなぜこの作品を好きなのか、説明することができなかった。いまならできる。『恋愛』は極端なまでに「バカ」な漫画だからだ。作者が一切照れることも衒うことも恥ずかしがることもなく自分の価値観をオープンにしている作品だからなのである。
     この物語の主人公は、たぐいまれな美少年、田島久美(ひさよし)。しかし、かれは現実の女性ではなく、テレビのなかのアイドルに恋をしている。やがて、かれはその恋を叶えるため、自分自身もアイドルとして芸能界に乗り込んでいく。
     あるとき、女友達から「恋愛はいつか終わるのだから、終わり方こそが大切だ」といわれた久美は、こう応える。「関係ないね、ぼくの恋愛は終わらないよ」。
     ああ、何て「バカ」で、恥ずかしいセリフなのだろう! ここには「成熟した恋愛感情」とか「大人の恋心」といいたいようなものはかけらも見あたらない。ひたすらに、少女漫画を読み過ぎた男のような思い込みの激しさが見られるだけである。
     あたりまえの漫画家なら、だれか第三者の視点を用意して、このセリフを茶化してみせ、自分を弁護することだろう。つまり、「これはあくまで作中のキャラクターのセリフであって、作者自身はこんな青くさいことは思っていないよ」というポーズを取り、裸の自分を守るわけである。
     しかし、高河ゆんはここで完全なる確信を込めてこのセリフを書いている。一片の弁解も、自己弁護も、ここには介在しない。ぼくにはそのように思われる。
     この漫画では、ほかにもとんでもない「恥ずかしい」セリフや行動が頻出する。そもそも一介の少年がアイドルの少女に恋をし、彼女を恋人にするため芸能人になる、というストーリーそのものが限りなく青くさく恥ずかしいし、痛々しい。
     しかし、ぼくはいいたい。だからこそこの漫画はすばらしいのだ、と。『恋愛』という作品の魅力はまさにその確信の強さにある。高河ゆんはこの主人公の行動や言動を本気で格好いいと思っていて、そのように描いているのだと信じられる。そこがこの漫画の魅力だ。
     しかし――そのしばらく後に描かれた姉妹編の『恋愛 CROWN』では、もうその確信は消えている。象徴的なことに、この漫画のあとがきでは、作者自身が久美に対し「恥ずかしい」と語りかけるシーンが存在する。
     これはぼくにはある種の「いい訳」と受け取られてしまう。そして、その種の「いい訳」を挟んだ途端に、あれほど輝かしかった『恋愛』という漫画は、ただのありふれた恋愛漫画のひとつまで落ちるのだ。ぼくは『恋愛』は大好きだが、『恋愛 CROWN』はさほど評価しない。
     『恋愛』だけではなく、ぼくの好きな作品は、どれも決定的に「バカ」である。自分の自意識を守っていない。たとえば、永野護の『ファイブスター物語』。
     『恋愛』とはまったくベクトルの違う作品だが、これも作者が「自分が本気で格好いいと思うもの」だけを描いているという点が共通している。
     永野護は、自分が生み出したナイト・オブ・ゴールドやツァラトゥストラ・アプターブリンガーといったロボットを、あるいはエストやクローソーといった美少女たちを、本気で美しいと考えていると思う。
     たとえ、人から見ていかにもその姿が異形に見えるとしても、かれにとっては関係ないのだ。たとえ世界が「こんなもの格好悪い」といっても、かれは自分の生み出したものの格好良さを信じるに違いない。
     何というナルシシズムであり、恥ずかしさだろう。しかし、まさにそうだからこそ、ぼくは永野護の漫画を好きなのだ。
     あるいは、栗本薫でも、田中芳樹でも、司馬遼太郎でもそうである。栗本薫はアルド・ナリスを世界一美しいキャラクターだと本気で信じていただろうし、田中芳樹もオスカー・フォン・ロイエンタールほど格好いい男はいないと信じているだろう。
     司馬遼太郎も土方歳三や高杉晋作をこの上なく理想的な男子のあるべき姿、と確信していたに違いないとぼくは信じることができる。ぼくはそういう「確信」が好きなのだ。
     客観的に見れば、ほんとうに美しいか、格好いいか、理想的かどうかなど、測りようもないことである。だから、それらの価値観はあくまで作者の思い込みということになる。自分で生み出したものを、自分で美しいとか、格好いいと思いこむとは、何と恥ずかしいことなのだろう。
    (ここまで4429文字/ここから4297文字) 
  • 高河ゆんの若き天才時代。

    2014-03-28 11:03  
    52pt


     きょうから「ベーシックレビュー」と題した新コーナーを始めます。具体的にどういうものかというと、ただのあたりまえの作品紹介なのですが、このブログ、案外そういう普通の記事が欠けている気がするんですよね。
     よりディープに作品を深堀りしていくのも良いけれど、もっと浅くて読みやすい記事も必要なはず。あと、じっさい、ぼくは普段読んでいる本の大半をここに取り上げないので、それはもったいないよな、と。
     特に何かしらのコンテクストにのっとった作品じゃなくても、雑談ふうに語っていくことはできるし、それで十分記事になるんじゃないかと思ったしだい。まあ、これもペトロニウスさんの入れ知恵なんですけれどね。
     さて、そういうわけで、ベーシックレビュー、始めます。第一回は『佐藤くんと田中さん』。この漫画、以前にも取り上げた気もするけれど、まあいいや。
     永遠を生きるヴァンパイアの人生を、いまやベテラン作家となった高河ゆんがセンス抜群に描いた作品です。
     云うまでもなく古来、吸血鬼ものは枚挙にいとまがないくらいあるわけですが、さすがは高河ゆんというべきか、一風変わった作品に仕上げることに成功しているように思います。
     というのも、「永遠」を生きるヴァンパイアの佐藤くんの描写が非常にライトなんですよね。永劫を生きる者の者の孤独と哀切が、まったく描かれていないわけではないのだけれど、ごくあっさりと流されている印象。
     いかにも高河ゆんらしいセンスあふれる内容で、いやー、面白い。往年の高河ゆんの天才を忍ばせるものがありますね。けっこうオススメ。
     ちなみに、吸血鬼ものの長く続く歴史については、以下の記事を参考にしてください。まあほんとに参考程度にしかならない記事だけれど、過去ログの海から取り出してきました。
    http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110228/p2
     それにしても、高河ゆんさんって、あまり作品を完結させることができないタイプの作家さんなんですよね。いや、きちんと完結しているものもたくさんあるのだけれど、未完に終わった作品はそれ以上に多い。ぼくは、以前、「高河ゆんの未完伝説。」と題する記事を書きました。
    http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100328/p2
     高河ゆんの漫画で未完に終わったものがいかに多いかということを示した記事なのですが、どうもこの『佐藤くんと田中さん』も未完に終わるのではないかという気がする。そういう意味では、無責任な作家と云えなくもないかなあ。
     代表作である『アーシアン』がきちんと完結したことは喜ぶべきだけれど、もうひとつの代表作『源氏』が未完に終わったのは残念だよな。『源氏』、面白かったんだけれどね。
     個人的には、高河ゆんの作風は妊娠、出産、休養を経て、少年誌や青年誌に舞台を移したあたりからがらっと変わっている印象です。『妖精事件』以後の作品は何かが違う。
     それをまたいで描かれてる『恋愛』と『恋愛 CROWN』を読み比べてみると非常に違いがはっきりしている。まあ、ぼくしか感じない違いなのかもしれませんが、でもぼくはそう感じるのだ。
     ぼくはやっぱりそれ以前の作品が好きなんだけれど、まあ云っても詮なきことではあります。失われた過去は決して取り戻せはしないのだから。
     やはり