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女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。
2017-04-17 04:0151pt前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。
まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。
世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。
いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。
フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。
ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。
女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。
じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。
脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。
ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。
「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。
で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。
その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。
最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。
さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。
先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。
それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。
ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。
ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。
そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。
それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。
しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。
つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。
というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。
たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。
いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。
これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。
つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。
そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。
まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。
ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。
少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。
じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。
「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。
平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。
とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。
このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。
いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。
それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。
仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。
それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。
そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。
そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。
ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。
現実は、きびしい。 -
萌え日常系ラノベに「リア充主人公」が登場する日は来るか?
2016-12-22 20:2151pt平坂読『妹さえいればいい。』最新刊を読み上げました。前巻で一気にストーリーが進んだのでこの巻ではどうなるかと思っていたのですが、物語は停滞することなく先へ進み、ひとつのターニングポイントへたどり着きます。
同じ作者の前作『僕は友達が少ない』では、物語は主人公が決断を避けることによって徹底的にひきのばされたのですが、この作品では正反対の方法論が採用されているように思えます。
主人公はあっさりと決断を下しつづけ、物語はどんどん進んでいくのです。こうも真逆の方法論を続けざまに使いこなす平坂読の実力には驚かされます。すごいや。
ネットで平坂さんの作品を取りあげてラノベ批判を行っている人たちのばかばかしさがよくわかります。どうして平坂読の次代を読む力量がわからないかな、と思うのですが、わからないんだろうなあ。
もちろん、作品の評価は人それぞれではありますが、あまりにも議論のポイントがずれて -
日常系四コマは百合エロ漫画の夢を見るか?
2016-05-04 12:0851pt
タチさんの百合四コマ漫画『桜Trick』を読んでいます。
最近、我ながら良く読むなーと思うくらい色々と漫画を読んでいるのですが、当然、そのなかには傑作もあり、凡作もあります。
で、この『桜Trick』はその中間くらい、悪くいえばそこそこ、良くいえばなかなかの作品だと思います。
いや、ほんと、あまりたくさん読みすぎるのも一作への真摯さが欠けてくるのでどうかとは思うのだけれど、まあ、読まないとブログのネタがなくなるからね……。
で、『桜Trick』。これはいわゆる無菌系四コマ(ほとんど一切男性が出てこない、女の子だけの楽園を描く四コマ漫画)とジャンル百合漫画の中間くらいにある作品ですね。
無菌系のようでもあり、ピュアな百合漫画のようでもあるという、折衷的な一作といっていいかと思います。
あるいは無菌系から百合に至るプロセスを象徴する作品であるのかもしれない。
無菌系とは「男子を見たくない!」、「恋愛のライバルになる存在を物語に出してほしくない!」というところから生まれ、流行した作品群だと思います。
ただ、そうやって男の子を物語から追放したその結果、女の子同士で恋愛することになってしまい(笑)、最近の無菌系ではわりと百合百合している作品が多いようです(最初期の『あずまんが大王』ですでにその傾向はありましたが)。
ほかの男に女の子を奪われることは耐えられなくても、女の子同士で恋愛しているところは耐えられる、むしろ歓迎する、というところでしょうか。かってなものですね……。
いずれにしろ、無菌系は男性の存在とともに、生々しい「性」の匂いを排除した作品たちでした。
まあ、無菌系の女の子たちは同人誌ではそれはそれはえろえろな目に遭っているわけですが、それはあくまでアンダーグラウンドの話。
表面的には無菌系はあくまでも無菌の清潔状態を保っていたはずなのです。
ところが、『桜Trick』は思い切り「性」の匂いをただよわせています。
女の子同士でキスするわ、するわ。ほとんど毎日エッチしている新婚夫婦か何かのよう(笑)。
いやー、エッチいなあ。ここには、無菌系から追放されたはずの「肉体」があるんですよね。
ただし、女の子同士での関係しか許されないことは何も変わってはいないわけですが。
ちなみにペトロニウスさんとLDさんは、「日常-無菌系の果てに現れた微エロ作品」というふうにこの作品を定義しているようです。
ちょっと「物語三昧」から引用してみましょう。
あんまり、仕事が忙しくて、せっぱつまっているので、LDさんに苦しいよーーーって愚痴を言っていたら、『桜Trick』は癒されます(断言)といわれたので、見てみたら、、、、、びっくりです。
・・・・・・・これエロっ、、、って。
いやぁーーーすっごいスイッチはいちゃいますよ、これ。。。。って、、、見ていたら、いや、なんか癒されるのと違くないか?って思ってしまって、、、、もちろん癒されるけど・・・・。
これ日常系とか無菌系じゃないんじゃないか?
って、思ったんですよね。ってでもよく考えてみれば、そもそも定義がしっかりしていないので、これが日常系や無菌系じゃないっていう理由もないんですよね。4コマによる時間の停止や、日常フレームアップ、関係性特化型、男性視点の主観欠如などなど、どう考えても、これまでの日常-無菌系の系列です。けど、この系統の『けいおん』とか『あずまんが大王』、『ゆゆ式』(ちなみに『ゆゆ式』、この系統の頂点の作品だと思っていますので、アニメを見ましょう!!)とか思いだしても、これを見ながら、Hなことって思いいたったことが全くないんですよね。あっ、Hな同人誌は、死ぬほど出てるけどねーこれらの作品。でも関係性特化型は、当然その延長線上を考えるので、そういう妄想が広がるのは当然だと思うんですよね。でも、オリジナルの部分で、そういうの感じたり考えて見てたってことなかったので、『桜Trick』あまりのエロさに、びっくりしてしまったのです(笑)。←初心です。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141015/p2
まあ、そうなのです。『桜Trick』が日常系の枠内に入るかどうかは、じっさい微妙なところだと思う。
もちろん、従来の日常系の文脈を満たしてはいるのだけれど、そこに「性」と「肉体」の要素が入ることによって、何か別物に見えてきているのもたしかなのです。
とはいえ、これは必然的に出てくるべき作品ではあったでしょう。
「性」の要素はほんとうは物語内から追放されたというより隠蔽されていただけなので(だから同人誌では18禁ネタにされる)、いつかは浮上してくるのが当然といえば当然。
いまのところ、女の子同士の関係という限定された形でしか浮上していないけれど、理論的には男性×女性の微エロ日常系作品というものもありえるはず。
ただ、男子が絡んじゃうと、どう考えてもキスだけじゃ終わらなくなってしまい、「平和な日常」が崩壊しかねない上に、「ネトラレのタブー」にひっかかっちゃうので、なかなかむずかしくはあるんだろうけれど。
でも、 -
無菌系にハーレム系、「男女比が極端なアニメ」主流化にいびつさを感じる。
2016-04-19 04:5051pt
問題。以下の今期アニメの特徴を述べよ。
・『三者三葉』
・『ばくおん‼』
・『あんはぴ♪』
うーん、これは答えるまでもないかな?
いや、あたりまえすぎてかえって思い浮かばないところかもしれませんが、正解は「ほぼ女性(女の子)しか出て来ない作品であること」です。
いやー、ほんとうに増えましたねえ、この手のアニメ。
LDさんはこういう女子しか出て来ない作品を「無菌系」と呼んでいるようですが、この場合の「菌」とは当然、男性のことです。
「男性キャラクターが登場しない無菌の楽園での物語」といった意味かと思われます。
この系統は歴史をさかのぼるというまでもなく『あずまんが大王』にたどり着くわけですが、最近では一期に一作品以上はこの手の無菌系アニメが放送されるようになって来ました。
よほど男性が出て来る作品を見たくないという人が大勢いるのでしょう。
世も末という気もしなくはありませんが、まあ、視聴者の需要に応えているという意味では悪いことではないのでしょう。
じっさい、『三者三葉』も『ばくおん‼』も『あんはぴ♪』もそれなりに面白いし。
『ばくおん‼』は微妙にキャラクターが可愛くない気もするし、『あんはぴ♪』はさすがに不条理すぎるネタな気もしますけれど、まあ、そこらへんは大同小異の癒やしアニメ。大した問題ではありません。
そういうわけで、今後も女の子しか出て来ない無菌系萌えアニメは繁栄しつづけることでしょう。おしまい。
――いや待て待て待て待て。話はここからなのです。
べつに無菌系萌えアニメに思うところはないぼくですが、その一方でやっぱり男の子が出て来るアニメも見たいなあ、とも思うのですよ。
もちろん、主人公が男性のラブコメアニメはさすがの現代といえどもたくさんあります。
今期でいうと、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』あたりがそれに相当するでしょう。
けれど、この手の作品は主人公ひとりのほかはほぼ男性キャラクターが出て来ないのがお約束です。
いや、友達キャラにライバル(あて馬)キャラくらいは出てくることもあるけれど、いずれにしろ主人公と対等かそれ以上の魅力を持つキャラクターはほとんど登場させないのが普通になっている。
ぼくはそれでは不満なのです。
もっと魅力的な男性キャラクターが複数出て来て、なおかつ女性キャラクターも複数登場するアニメが見たい!
今期でいうと、やはり『灰と幻想のグリムガル』みたいな作品が理想ですね。
主人公以外にも男性キャラが複数登場して、主人公と対等なレベルで恋愛したり冒険したりする物語がもっとあってもいいと思うのですが、少ないですよね。
本来、現実世界ではほぼ同数の男性と女性が生まれて来るのだから、男女がほぼ同数出て来る物語が大半を占めることが普通だと思うのですが、どういうわけか現在のアニメではそうなっていない。
女性キャラのほうが数的に多い作品が多数を占めているように思えます。
いや、どういうわけかと書いたけれど、ほんとうはその理由はわかっている。
作品の視聴者が男性だからです。
かれらのなかには、一部、物語に男性キャラが登場することを拒否する人たちがいます。
ほぼ一切の男性キャラの登場を認めない最右翼から、感情移入の対象である主人公だけは男性であってもかまわないとする人、いくらか男性が出て来てもかまわないとする穏健派まで、グラデーションはありますが、基本的には男性キャラが物語に登場することを登場することを好ましく思わないということは共通しています。
かれらに配慮した結果、昨今のアニメは女性しか登場しないものか(無菌系ないし百合)、さもなければ主人公が複数の女性の愛情を独占するもの(ハーレム系)がやたらに増えたように思います。
これが、ぼくにはどうにもいびつに思えてならないのです。
もっと男女が同数くらい出て来るアニメが増えても良いのではないでしょうか?
もっとも、そうならない理由もわかっています。
主人公に匹敵するくらい魅力的な男性キャラが出て来ると、視聴者が嫉妬するからです。
ましてそういうキャラクターがヒロインのひとりと結ばれたりすると、視聴者は「自分の恋人を寝取られた」かのように感じます。狂乱する人も少なくないでしょう。炎上まっしぐらです。
だから、男性向けアニメはどんどん「女子過剰」の方向へ進んで行く。
しかし、無菌系ばかりではどうにも世界が狭く感じられてしまいますし、ハーレム系には倫理的な問題が付きまといます。
ほんとうならこれらの作品ばかりが流行することはやはりいびつであるはずです。
そうなのですが、「ネトラレのタブー」はとてつもなく強烈で、いまのところ、男性向けアニメの女子の数が過剰になる傾向は変わりそうにありません。
いや、 -
萌えアニメは心のマッサージ。シリアスアニメは心の活力剤。
2016-04-18 17:4751pt
今期はいままであまり見なかった日常系萌えアニメをいくつか見ています。
原作が4コマ専門誌掲載だったりすることが多いアニメ。
『三者三葉』、『ばくおん!!』、『あんはぴ♪』、『くまみこ』、あと『ふらいんぐうぃっち』あたりですね。
『少年メイド』もまあここに入らないこともないかも。
『SUPER LOVERS』は――うん、あれは違うものですね。ショタBLだからな!
まあ、そうしてあらためて見てみると、こういうアニメも面白いものですね。
ただ、いったん放送を逃すとあとから見なおす気にはなれない。
あくまで生活に組み込まれた形で見るべき作品なのだと思います。
というのも、面白いことは面白いのだけれど、どれも内容的に大差はない。
いってしまえば互換可能な作品性を持っているからでしょう。
こう書くとすぐに「個性がない」という話になりそうですが、必ずしもそういうわけではない、それぞれに違いはある。
ただ、その個性が一定の範疇に収まっているということなのですね。
それはもちろんこれらの作品が「癒やし」と「慰め」という社会的役割を持っているからだと思います。
見てみて癒やされるようでなければこれらの作品に意味はない。
「努力」と「成長」を至上視するマッチョな価値観からすれば、こういうアニメを見て癒やされるなんてことはくだらないことに違いありません。
もっと自分のためになるアニメを見るべきだ、ということになるでしょう。
ためになるアニメとは意味不明ですが、甘くない現実を思い知らせてくれる作品、ということでしょうか。
そうやって常にままならない現実と向き合い、辛くしんどいことを噛みしめ、その上で生きていくということが必要だとする価値観があるのです。
しかし、社会が斜陽化しているいま、そういった「現実を見ろ」、「もっと努力しろ」という意見は説得力を失いつつある。
ひたすらまったりした日常を見て癒やされているほうが幸福に近づく近道に思えてもおかしくないでしょう。
そういうわけで、一度見逃したらそれまでという作品ではあるのですが、ちゃんと録画して毎週見てみると、これが楽しいのです。
癒やされるということもそうなのだけれど、その「癒やし」の効果が生活に組み込まれることで生活そのものが一段階豊かになる感覚がある。
これがたぶん「エンターテインメントの日常化」ということでしょう。
エンターテインメントを生活の一部として受け止めることで、生活そのものをアップデートするということ。
ただし、 -
あきらめのその先に続く世界。相田裕『イチゴーイチハチ!』が日常系の新境地を切り開く。
2015-04-01 05:5051pt
相田裕の新作『イチゴーイチハチ!』を購入しました。
『GUNSLINGER GIRL』が完結して以来、ひさしぶりの商業作品ですが、『バーサスアンダースロー』のタイトルで同人誌で出版されていた作品のリメイクとなります。
第1巻でほぼ同人誌収録分を消化した感じですね。
これが素晴らしい内容で、非常に読ませます。今年の漫画ランキング暫定首位は間違いないところ。
それでは、この作品のどこがそれほど良いのか。
いろいろな評価が既に出ていますが、ぼくはこれは「挫折」と「諦念」の先の「キラキラした日常」を描こうとしているのだと判断しました。
運命に翻弄され、すべてを失い、夢をあきらめたその向こうにある「楽しさ」。それがこの作品のテーマなのではないかと。
『妹さえいればいい。』もそうなのですが、「日常系」と呼ばれたジャンルはここに来ていっそう深みを増している印象がありますね。
物語は、怪我によって野球の道を断念したひとりの少年が、その高校の生徒会に入って来るところから始まります。
かれはほんらいプロを目ざせるほど優れた資質のもち主だったのですが、いまとなってはその道は断念せざるを得ません。
その生徒会のほかの面々は、かれに「野球以外の楽しいこと」を教えようとするのですが――という話。
ぼくはここにある種の「諦念」の物語を見ます。
不条理な現実を受け入れ「あきらめること」の物語といってもいい。
普通、「あきらめ」はネガティヴな文脈で使われる言葉です。しかし、ひとはあきらめることなしには先へ進めない局面がある。
どんなに頑張っても自分の意志が世界に通じないという現実を受け止め、受け入れ、その上で前へ進むとき、「あきらめ」にはポジティヴな意味が宿るのではないでしょうか。
高河ゆんの『源氏』に、平清盛に仕える嵯峨空也がその清盛に捨てられた白拍子の少女を祗王寺へと連れていくエピソードがあります。
そこでは、彼女自身かつて清盛の愛妾であった女性祗王が、かれの無事を祈願していました。
ただ一時愛された思い出だけでここまでできるものなのか、と問い質す空也に対し、祗王は平然と言ってのけます。
「仕方がありませんわ 英雄色を好むと申します 女は華でございます 咲いて散るものです それが運命です 華と生まれたことになんの不満があるでしょう」
そんな言葉を受け、空也は呟きます。
「……わたしは「仕方ない」という言葉が好きです あきらめよりも何か決意を感じさせます」
ぼくはこの場面と台詞が非常に好きです。初めて読んだとき以来、強く印象に残っています。
それではこのやり取りをどう解釈するべきでしょうか。
普通に読むぶんには「女は華でございます 咲いて散るのがさだめです」とは、やけに古風な女性観とも思えるし、男の心変わりを「仕方ない」と受け止める姿勢は後ろ向きとも思えます。
しかし、空也はその「仕方ない」を好きだといい、ただの「あきらめ」と区別して「何か決意を感じさせます」と語っています。
つまり、ここでは「仕方ない」にただの「あきらめ」以上の意味が見いだされているのです。
それはどんな意味でしょう。結論から書くと、ここで語られているものは「ポジティヴな諦念」というべきものであるように思えます。「建設的なあきらめ」といってもいいでしょう。
それはたしかに「あきらめ」には違いないのだけれど、決してネガティヴな意味での「あきらめ」ではない。あきらめることによって前へ進んでいこうとする、意思の力を秘めた諦念なのです。
『イチゴーイチハチ!』の「あきらめ」も、この「建設的なあきらめ」だといっていいと思う。
おかしなことをいっているように思えるでしょうか。
そうではありません。正しい「あきらめ」はその人自身の意思によってなされるものです。
そしてひとはその種のあきらめなしでは生きていけません。生きることとはあきらめつづけることである、ということもできるでしょう。
それでは、負の意味でのあきらめと正の意味でのあきらめをどう区別すればいいのでしょうか。
答えは単純ではないように思えます。たとえば、その道をあきらめることでほかの道を進めるようなあきらめ、ひとつあきらめることで最終的なゴールにより近づくようなあきらめ、そういうあきらめが「良いあきらめ」だ、ということはできるでしょう。
しかし、そのいかにも合理主義的な選択に、ぼくは小さな、しかし見過ごせない違和を抱きます。ほんとうにそんな合理主義的にだけ考えることが正しいのか。
為末大に『諦める力』という著書があります。まさにここでいう「ポジティヴな諦念」について書かれた本です。
しかし、やはりそこでの諦念は「合理主義的な諦念」の次元に留まっている。
ある道を行ってもどうせダメなのだとわかったらさっさとあきらめてほかの道へ行くべきだ、そちらの選択のほうが合理的だ、というような話なのです。
ぼくは、この話に何かとげが刺さったような違和を感じます。
『イチゴーイチハチ!』でいうなら、野球がダメだとわかった少年はべつの道で成功を目ざせばいい、野球にはもう見込みがないのだから、というような話になるでしょう。
ですが、ほんとうにそんなふうに簡単に割り切れるものでしょうか。
割り切るべきなのだ、という思想は正しいかもしれない。けれど、やはり割り切れない思いがある。
『イチゴーイチハチ!』はそんな「どうしても割り切れない思い」を描いています。
そして、「その先にあるもの」を描こうとしているように思います。
為末さんの発想は、ある「競争」で敗者になることを受け入れることによって、べつの「競争」で勝者になろう、というものです。
しかし、それでは、どんな合理的な手段を選んでもどの道でも勝利できない人間はどうすればいいのか。
たとえば、不治の病にかかって余命いくばくもなくなってしまったとき、ひとはやはり絶望するしかないのだろうか。
そうではない、そういうときにこそ「あきらめる力」が必要になってくるのではないか、というのがぼくの考えです。
「あきらめる力」とは「受け入れる力」であり、自分の意志ではどうしようもない現実を受け入れる強さのことだと思うのです。
どうにもままならない過酷な運命を受け入れて一歩一歩前進していこうとする意思――それをぼくの言葉で「戦場感覚」と呼びます。
「あきらめ」と「絶望」は同じものに見えるかもしれない。しかし、ぼくとしてはこういいたいところです。
絶望的な現実を前にしても絶望しないためにこそ、諦念が必要となるのだ、と。
「あきらめる力」とは、ただ単に競争における勝利を目ざすための方法論ではない、一切の勝利がありえない状況をも受け入れるそのための力なのではないか、と。
そして、『イチゴーイチハチ!』はそこから一歩進んで、「あきらめたその先」を描こうとします。ここがほんとうに凄い。
「いつどんな不条理なことが起こるかわからない現実世界」を「新世界」と呼ぶなら、『イチゴーイチハチ!』はその「新世界の楽しみ方」を描こうとしているように思います。
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