• このエントリーをはてなブックマークに追加

今なら、継続入会で月額会員費が1ヶ月分無料!

記事 4件
  • 「小説家になろう」作品は努力を描いていないからダメだ、という批判にどう答えるか。

    2017-12-03 07:00  
    51pt
     ども。いま、世間ではニコニコ動画の危機が叫ばれていますが、それとはまったく関係なくぼくは元気です! もう、ほぼほぼ絶好調なので、ついつい更新しすぎてしまう。
     ええ、まあ、スパムブロガーと呼んでください。1日3通ずつメールが届くとか、それ、ほんとうにスパムだよな。
     今後ともこのペースを続けていく予定なのですが、当然、あまりに届きすぎて読み切れないという方もいらっしゃるでしょう。そういう人は記事タイトルで判断していただいて、てきとーに選んで読んでいただければ。
     べつに全部読む必要はまったくありません。たまに関連する話が出てくるけれど、そういうのは例外ですから。
     しかし、最近、同じ文体でずっと書いていて、文体改善の努力をしていないなあ。うーむ、このままでは成長しないけれど、まあいいか。
     ほんとうは常に自分に負荷をかけつづけていかないといけないのだけれど、ぼくはもう堕落したので楽ちんな
  • 『暗殺教室』と多重レイヤー構造。少年漫画は「天才漫画」を過ぎ、弱者戦略の時代に突入している。

    2016-04-24 12:02  
    51pt

     『ひらめき教室 「弱者」のための仕事論』を読みました。
     漫画家の松井優征さんとデザイナーの佐藤オオキさんの対談集です。
     この場合の「弱者」とは、特別な才能に恵まれていない人の意味。
     圧倒的な才能を持つ「天才」たちがごろごろしている漫画業界やデザイン業界で、「弱者」がいかにして活躍するか、その方法論が語られています。
     松井優征さんにしろ、佐藤オオキさんにしろ、結果だけを見れば抜きんでた能力を持つ「天才」に見えるかもしれません。
     『魔人探偵脳噛ネウロ』、『暗殺教室』と二作続けて『ジャンプ』でヒット作を完結させた松井優征、400もの仕事をパラレルに展開するという佐藤オオキ、いずれも凡人とは思えません。
     しかし、かれらは自分の主観においてははっきりと「弱者」なのであり、「弱者である自分がどう戦うか」を考えに考え抜いてそれぞれの戦場で生き抜いてきたのだといいます。
     ちょっと本文から引用してみましょう。

    佐藤 まさに弱者戦略ですね。僕も絵を描くのが下手なんですよ。
    松井 そうなんですか?
    佐藤 デザインって、たぶん右脳型、左脳型タイプがいて、感性やセンスで戦える人がいるんです。ヨーロッパに行くと、ペンを手にした瞬間、魔法のように美しい曲線を描いちゃうような天才がゴロゴロいる。僕はそれを見て、「あ、自分にはできない。これは敵わないな」と最初に思ってしまった。じゃあ自分に何ができるのか考えたとき、曲線美や激しい色使いなどではなくて、本当に些細なアイデアを膨らませていくことで勝負できないかなと考えました。そこがスタート地点ですね。そういう意味では、早めに自分が絵がへたであると実感できたのは、貴重な経験でした。
    松井 自分の才能のなさ、弱点を一回認めた人は本当に強いですよ。
    (中略)
    佐藤 そういえば『暗殺教室』も、「弱者戦略」が大きなテーマになっていません?
    松井 そうなんです。暗殺も、弱い者が強い者を倒すための戦略なんですよね。

     「弱者戦略」。
     面白い言葉が飛び出してきました。
     弱者戦略とは、つまり、生まれつきの素質に恵まれていないものがそれでもどう戦うか? あるいは勝つか? そのための「戦略」だと考えられます。
     ぼくは、いまの少年漫画はこの「弱者戦略」の時代に突入していると思う。
     かつて、『少年ジャンプ』は「努力・友情・勝利」というテーマを掲げていました。
     しかし、時代の変遷によって、「努力すれば必ず勝利できる」というコンセプトが説得力を失ってきた。
     そこで「天才」を描く漫画が生まれた。
     少年漫画全体を眺めてみても、『H2』とか『SLAM DUNK』とか、いわゆる「天才漫画」が流行った時期がたしかにありました。
     それらは比類ない「天才」がその才能でぐんぐん成長していく姿を描く実に痛快な物語でした。
     しかし、同時に「天才漫画」は「それでは、才能がない者はどうしようもないのか?」というある種の絶望を呼び起こします。
     そうかといって、ひたすら努力すればいい、というアンサーも説得力がない。
     何しろ、半端な努力などとうてい通用しないような天才の圧倒的な実力を既に見てしまっているのですから。
     そこで生まれてきたのが「弱者戦略漫画」なのではないでしょうか。
     先駆けは『HUNTER×HUNTER』だと思う。

     『HUNTER×HUNTER』は「天才漫画」でもあるけれど、「弱者戦略漫画」を切り拓いた作品でもある。
     『HUNTER×HUNTER』が少年漫画に持ち込んだのは、「肉体的な意味での強さ」というひとつのレイヤーでのみ勝負が決まるわけではなく、ほかにもいくつものレイヤーが存在し、それぞれのレイヤーで勝負が存在するという「多重レイヤー的世界観」でした。
     ペトロニウスさんはこんなふうに書いています。

     さて強さの話に戻ると、『HUNTER×HUNTER』のもう一つの凄さは、前作の『幽☆遊☆白書』でもエピソードとして出てきていてこのテーマを追求する片鱗を感じさせるのですが、ゲームのルールを書き換えることが、最終的な勝利につながるということを、強く意識した設計がなされていることです。いや、このいいかたよりも、この現実世界には、いくつものレイヤーがあって、どのようなルールに支配されているレイヤーに生きているのか?ということを意識しないと、簡単に殺されてしまうという恐怖と悲しみが、彼の作品の大きなテーマにあります。これが2つ目です。
     ようは、チャンピオンを決めるランキング・トーナメント方式のバトルに、どのようなルール(=基礎構造)の変更をしたのかといえば、
    1)強さを一律の基準で決められない多様性をもちこみ、知恵と工夫で勝ったほうが勝つ、
    2)自分がいるレイヤーのルールを壊すか、新しくルールを作りだすことができたものが勝つ、
     という条件が設定されたんですね。ちなみに、2)は、凄い複雑で、
    3)自分がいるレイヤーから、異なるレイヤーに移ることができた場合、そのメタルールをどう利用するか?
     というような背景も隠れています。
     これって、物凄い発見ですが、、、、この物語類型を十全に使いこなせている物語は『HUNTER×HUNTER』ぐらいしかありません。日本のエンターテイメント、、、いや人類のエンターテイメント史に残る傑作だと思います。これ。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140526/p1

     シンプルに「強さ」の数的な大小(戦闘力530000とか)で勝負が決する『ドラゴンボール』のような古典的な少年漫画と比べて、『HUNTER×HUNTER』の勝敗論理ははるかに複雑です。
     ある人物が「肉体的な強さ」のレイヤーで劣っていたとしても、必ずしもそれで勝負は決まらない。
     たとえば「知性」や「特殊能力」のレイヤーに勝負を持ち込むことができれば、それで勝敗が逆転することが十分にありえる。
     『HUNTER×HUNTER』が生み出したのは、そういう世界観でした。
     これは非常に画期的なことだったと思います。
     もちろん、先例としてたとえば『ジョジョの奇妙な冒険』があり、また『ドラゴンボール』以前のさらにクラシックな少年漫画があることはたしかですが、『HUNTER×HUNTER』のバトルはそれらと比べても複雑な上に意識的です。
     『HUNTER×HUNTER』の登場をもって少年漫画は新たなステージに突入したといっていいと思います。
     ちなみに「多重レイヤー」意識の採用はおそらく 
  • 「生ける屍」がたどり着いたところ。『黒子のバスケ』脅迫事件犯人の独白がちょっと面白い。

    2014-10-10 13:26  
    51pt


     ジュンク堂の店頭に並んでいたので、手に取って読んでみた。「『黒子のバスケ』脅迫事件」と呼ばれている「あの事件」の犯人による独白録である。
     事件に至るまでどうやって生きて来たか、事件の動機は何なのか、どう思っているのかなどについて、詳細に記されている。
     以前、この人物の供述について、「凡庸だ」と切って捨てたことがあるが、まあ、今回も特別感動するほどの内容ではない。プロが書いた文章ではないから読みにくく退屈な箇所もある。
     ただ、一方でなかなかに読ませるところもあり、示唆に富むとすらいえる部分すら存在している。犯罪者心理について知りたい人にとってはわりと良い本なのではないかと思う。
     結論としては「さっぱり理解できん」というところに落ち着くかもしれないけれどね。少なくともぼくはそうだった。いやー、さっぱり理解できん。
     まあ、著者自身が「きっと理解できないだろう」という意味のことを書いているから、ぼくが特別理解力がないわけではないのだろう。やはり相当に屈折した心理なのだと思われる。いろんな人がいるものです。
     個人的な感想をいわせてもらうなら、全般的には良くある恨み節の域を出ていないとは思うが、まあたしかにそりゃ周りを恨みたくもなるよな、と思えるような人生なのでこれは仕方ないだろう。
     特異な才能を感じさせるというほではないにしろ、たしかに平均以上のインテリジェンスを感じさせる文章ではある。ぼくの場合、主張していることの七割か八割くらいは納得がいく。
     納得が行かない二割とか三割はだいたい著者の社会システム批判の部分である。ぼくは現行の社会システムはおおむね問題なく作動していると考えているのだ(だからこそこの著者が捕まったわけだ)。
     たしかに何も持たないが故に犯罪を犯す心理的な障壁が低い「無敵の人」に対する対策は必要かもしれないが、現状でそれほど大きな問題にはなっていないし、将来的にもそこまでにはならないのではないか、と考えている。楽観的すぎるだろうか……。
     著者は事件の背景に幼少期からの虐待があり、事件に至るまでその影響によって認知の歪みを起こしていたと主張している。そしてそれはどうやら事実らしい。
     これに関しては、ちょっと同情しないこともない。運が悪かったねえ、と肩でもぽんと叩いてやりたいような気がする。
     もちろん、ぼくは幸運に恵まれ幸福に育った側の人間なので何もいう資格はないかもしれないが。いや、当然、ぼくの主観としてはいろいろな苦労もあり、辛い出来事も多かったわけだが、客観的に見てこの著者ほど壮絶な苦しみは負って来ていないと思う。
     ぼくと著者との間にある差は何かといえば、これはもう「運」としかいいようがないわけで、「ほんとに運が悪かったね。気の毒に」くらいのことはいってあげたくなるわけだ。
     しかし、著者はその手の安っぽい同情を求めているわけではないだろうから、ぼくはこの時点で特にいうべきことがなくなってしまう。
     いえるとしたら、まあ、恨み節が多少きついところはあるがわりと読ませる本なので、ちょっと読んでみてもいいかもしれませんよ、というくらいだ。
     著者は出所後に自殺することを希望しているという。絵に描いたような悲惨な人生を生きて最後は自殺で幕をとじるのかと思えば、実に気の毒に思えるが、本人がそうしたいなら仕方がない。死後の冥福を祈りたいところではある。
     というわけで、特に感想らしい感想も浮かばないという、わりとめずらしい本なのであった。しかしまあ、こういう本を読むと、つくづく自分は恵まれた人間だと思いますね。
     主観的には相当辛いこともあったのだけれど、あらためて外から自分を見てみると、もう、幸せの見本のような人生かもしれない。いやー、いやな奴です。
     まず、オタクになれたという時点で幸福だ(この著者は典型的なオタクになることに挫折した人物である)。友人がたくさんいるという点も幸せ。家族も、まあ、おおむね仲は良い。もちろん虐待など受けていない。経済的にもそこまで困ってはいない。というか、最近、仕事が増えてそこそこ裕福である。
     いやー、何だ、幸せのストレートフラッシュくらいは作れそうじゃないですか? まあ、不幸でもフラッシュくらいは作れるような手札もあるのだが、それについては書いても仕方ないので割愛する。
     あと、これで愛する恋人がいればロイヤルストレートフラッシュも狙えるかもしれないんだけれどなあ。まあ、贅沢いっちゃいけないか。これからは幸せの伝道師海燕を名のることにしよう。
     そういうわけで、幸運と幸福とに恵まれてしまったぼくとしては特に感想らしいものも浮かばない本ではある。
     ただ、解説で斎藤環が語っていることがなかなか面白くて、現代の若者の七割くらいはLINEなどのツールで接続されることによって、貧しくはあってもそこそこの幸せは手に入れているというのである。
     そして、ただし、そこから排除された三割の若者は、これはもうかつてないくらい不幸だというのだ。どうも、七割ですいません、といいたくなるような話なのだが、これはけっこう的確な数字かもしれないな、と直感的に思う。
     もちろん、 
  • ポジティヴに絶望しろ。

    2013-10-29 07:00  
    53pt

    【あきらめたらおしまいか】
     「あきらめたらそこで試合終了だよ」とは、傑作漫画『SLAM DUNK』の登場人物、安西先生の名言である。
     「あきらめないこと」のすばらしさを示すひと言として、『SLAM DUNK』でも最も有名なセリフだろう。しかし、「あきらめないこと」はいつも正しいのだろうか。ときには「あきらめること」も必要なのではないか。
     もちろん、簡単に投げ出すことが良いとは思わない。過酷な状況でもあきらめないことは大切である。
     ただ、それならあきらめなければ必ず結果が出るのかと云えば、そうではない。場合によっては目の前の出来事をあきらめ、先へ進むこともまた重要であるはずだ。
     「あきらめたらそこで試合終了だよ」が間違えていると云っているのではない。
     ただ、その真意を読み違えると、ひたすら「あきらめないこと」を賛美する一方、「あきらめること」の価値を見失う結果になりかねない。「ひたすらあきらめずに努力しつづければ、必ず結果が出る」という「努力神話」は有害なのである。
     元プロアスリートの為末大さんはTwitterで書いている。

    努力についての発言はいつも世の中の反応が多いように思う。努力すれば成功できるのかどうか。これはある意味で取引の社会では根幹を成す重要な事で、アメリカで感じたのはあの国はアメリカンドリームがあるのではなく、あると仮定しないと不満が爆発してしまうという事だった。
    https://twitter.com/daijapan/status/394597841655455745


    成功をある程度成功率が高いものにおくのであれば、努力すれば夢は叶うと思う。でも五輪選手になるとか、かなり少ない席の話であれば誰でもできるわけではなくて、才能と、環境がまず重要だと思う。そのスポーツをやる環境に生まれた事が、努力よりも先にくる。
    https://twitter.com/daijapan/status/394598620093095936


    努力には三つある。何を、どうやって、どのくらい。努力を怠らないと言っている人が、どのくらいだけを話している事が多い。自分で選んだ道でもなく気がついたら歩いていた道でただ耐えて積み重ねる事は努力を怠っているともいえる。選ぶ努力は結構辛い。
    https://twitter.com/daijapan/status/394599506588622848

     これらの発言を、ネガティヴなものと受け止めるひともいるかもしれない。いくら努力しても才能には及ばないのだからあきらめろ、と云っているのだと。
     そうではない。ただ、努力が必ずしも成功に結びつかないという冷厳な現実を直視するべきだと主張しているに過ぎない。
     あるいはそれは過酷な事実かもしれない。「頑張れば何とかなる」という幻想の、なんと甘いことか。
     しかし、それは「自己責任」にすべてを帰す思想でもある。すべては本人の努力しだいなのだと考えるなら、成功できなかったひとは努力が足りなかったのだという結論になる。それはそれで、問題含みの考え方なのだ。
     じっさいには、成功不成功には、環境や、運や、才能が大きく左右する。即ち、自分ではどうすることもできない状況によって変わってしまう一面があるのである。
     良し悪しの問題ではない。現実としてそうなのだ。まずはこのリアルを受け入れなければならない。
     「努力は才能を凌駕する」という教えは尊い。場合によってはそうかもしれない。しかし、一定の才能を持って生まれなかった人間は参入することすらできない世界はたしかに存在する。
     生得で大方が決まってしまうことは、じっさいにありえるのだ。絶望的な事実だろうか。そうかもしれない。
     しかし、その事実から目を背け、「努力すれば夢は叶う」という幻想に逃げ込むなら、待ち受けるものはさらに苦い挫折だろう。現実はご都合主義にはできていない。
     それなら、特別な才能に恵まれなかった凡人はすべてを投げ出すよりほかないのか。
     そうとは限らない。為末さんの言葉を思い出してみよう。「努力には三つある」とかれは云う。「何を」と「どうやって」と「どのくらい」だ。
     一般には「どのくらい」だけが努力の尺度とされるが、じっさいには「何を」と「どうやって」を真剣に考えることが必要である。
     そのことはようやく周知されるようになって来ている。これは漫画の世界にも反映されていて、「どのくらい」だけでなく、「どうやって」を重視する作品が増えてきている。
    【ポジティヴに絶望する物語】
     たとえば、最近、初版100万部突破で勢いがある『黒子のバスケ』だ。この作品は、ある意味、「あきらめること」から始まっている。
     主人公である黒子には肉体的な意味でのバスケの才能はない。かれの身体能力は凡人以下なのだ。まして「キセキの世代」と呼ばれる天才たちと比べると、比較にならないレベルでしかない。
     ところが、それでもなお、黒子はバスケを続ける。それもひたすらしゃにむに努力を続けるということではない。
     自分のウィークポイントとストロングポイントがどこにあるのか、それをはっきりと自覚し、長所をのばしていくことでかれは天才に対向する。
     『SLAM DUNK』と比べるとはるかに非現実的な設定の物語ではあるが、とても現代的な思想に貫かれている。自分にどんな才能がどの程度あるのか、冷酷なまでにはっきりと認識し、その上で戦略を組み立てていくこと。
     これをぼくは「ポジティヴな絶望」と呼びたい。自分の能力の限界にしっかりと絶望しておくこと。その上で自暴自棄にならず、自分にできる努力を続けていくこと。それがいま必要とされる方法論ではないだろうか。
     これは『ベイビーステップ』や『BE BLUES! ~青になれ~』などの現代スポーツ漫画の傑作を読んでいても思うことだ。
     『ベビステ』の主人公は高校デビューのハンディを恨まず、嘆かず、自分の肉体能力の範疇で可能な限りの努力を続けるし、『BE BLUES!』の主人公はいちど事故によって歩けない躰にまで落ちながら再起をかけ立ち上がる。
     かれらは紛れもなく努力の人ではあるが、その努力はかつての漫画とは質的に違っている。努力の内容を考えることに努力する、いわば「メタ努力」が絡んでいるのだ。そこには強烈な同時代性がある。
     為末さんのツイートを受けて、