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記事 16件
  • 『爽年』。しずかに優しく奏でられる生と性のムジーク。

    2018-04-27 03:57  
    51pt
     石田衣良の『爽年』を読んだ。前回で紹介した『娼年』の続編で、この連作の完結編だ。
     主人公リョウの人間としての成長と、物語のドラマツルギーはほぼ前作までで終わってしまっているので、今回はささやかな後日譚、あるいは黄金のハッピーエンドへつづく長いエピローグといいたいような一冊にしあがっている。
     何とも芳醇かつ流麗、しかもすこぶる技巧的な小説で、読み進めることの幸せを目いっぱい味わえる。
     作家はだれもが、その技巧の巧拙はともかく、それぞれの文体をもっている。石田衣良のスタイルは、シャープでありながら鋭すぎることなく、古い時代の宮廷音楽さながらの柔らかさを備えていて、やたらに心地よい。美しい川のせせらぎを聴くような静穏な幸福感。
     テーマはあくまでセックスだが、この巻ではついにリョウは「性の不可能性」の領域へと足を踏みいれる。
     それは、たとえば幼年期に虐待を受けた拒食症の女性の姿を取って
  • 松坂桃李主演の映画『娼年』は清冽なエロティシズムただよう佳編だ。

    2018-04-23 22:02  
     最近、Bluetoothのワイヤレスイヤフォンを購入したので、iPhoneに繋ぎ、音楽を聴くかたわら、石田衣良のポッドキャストを聴いている。
     定番の人生相談なのだけれど、回答の冴えがさすがに素晴らしく、聴いていてとても楽しい。
     まったくキャラクターは違うものの、平気で「その男はクズだから、別れたほうがいいよ」などとアドバイスする突き放した距離感がふしぎとちょっとペトロニウスさんを連想させる。意外と毒舌なのである。
     それにしても、ほんとうによくバランスの取れた人だ。ただクールでセンスが良いだけの人物なら他にもいるだろうが、この人は優しさと冷ややかさのバランスが絶妙である。さすがに20年もベストセラー作家を続けている人はちがうとしかいいようがない。
     相談内容は多岐にわかっているものの、当然というべきか、恋愛とセックスの話が多く、他人の恋愛話を聞いたり読んだりすることが好きでならないぼ
  • 24&25。

    2016-10-09 22:43  
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     (電子出版サイトBCCKSを利用して出した1冊を含めて)24冊目の電子書籍『石田衣良作品書評集「cut」』と25冊目の『海燕映画批評集(1)初めてのキスは、抗がん剤の味がした』を出版しました。

     ついに当初の目標100冊の4分の1にまで到達したわけです。もちろん、まだまだ大量にログは残っているので、これからも出版しつづけることになります。
     この調子だと過去ログの再編集本だけで150冊、いや200冊は出せるかなあ。さすがにそこまでは行かないか? まあ、とりあえず出せる限り出していきたいと思っています。とりあえず、この先、十数冊は企画が決まっているので、それは出るでしょう。
     最近、電子書籍の宣伝ばかりでこのブログつまらないなと思っている方もたくさんいらっしゃるでしょうが、どうか、どうかひとつもう少しだけお赦しを。ぼくも一応、頑張ってはいるのです。ぺこぺこ。
     でわ。
  • たとえ運命に選ばれなかったとしても。

    2016-04-12 00:05  
    51pt

     石田衣良『オネスティ』を読んだ。
     石田の得意とする恋愛小説なのだが、普通の恋愛ものとは一風変わっている。
     幼い頃、運命的に出逢い、一生をともにする間柄となったカイとミノリふたりを描く物語。
     そこまでは普通なのだが、このふたり、決して肉体関係に進まないことを誓い合うのだ。
     恋人にはならない。結婚して夫婦になることも決してない。そう決意した上で、かれらは一切の秘密のない関係を築いていく。
     親友のようでもあり愛人のようでもあり、そのいずれともいくらか異なる間柄。
     石田は繊細な描写で、ふたりだけにしか理解できないそのオネスティ(誠実さ)にもとづく絆をていねいに描きだす。
     きわめて美しい物語だ。感動的といってもいいかもしれない。
     しかし、ここでぼくが注目したいのは、その物語のなかで脚光を浴びる主人公たちではない。
     カイの妻となるミキという女性のことだ。
     彼女はカイを愛し、かれと結婚するのだが、カイの心にいつもミノリがいて、自分は代役に過ぎないことを知っている。
     そして、その想いはやがて彼女を狂おしく責め立てていくのだ。
     ミキは、この物語で主人公としてフォーカスされた人物ではない。
     カイとミノリのオネスティの物語の単なる「わき役」である。
     だが、彼女を見ていると思わずにはいられない。
     物語に選ばれていないこと、「わき役」であるとは、なんと切ないことなのだろうと。
     いままでも、いくつもの物語を読む過程で、何度も思うことがあった。
     「主人公」と「わき役」で、なぜこうまで区別されなければならないのだろうかと。
     本来、この世に「主役」も「わき役」もいない。すべては平等であるはずである。
     けれど、物語は必ずだれかひとりなり数人を「主人公」として選び出し、注目する。
     そのとき、スポットライトがあたらない人間たちはみな「わき役」ということになる。
     『オネスティ』でいうのなら、ミキがどんなに悩んでも、苦しんでも、それは「主人公の悩み、苦しみ」ではありえないのだ。
     スポットライトが照らし出すのはどこまでいってもカイとミノリ。ミキの懊悩に光はあたらない。
     もちろん、それは小説という構造があるからこその嘘ではある。
     これが現実なら、ミキは自分を中心として、つまり主人公だと思って悩み、苦しむことだろう。
     物語というシステムがあるからこそ、主役とわき役が選抜されて見えるのであって、現実にはそんな区分はないのだ――いや、しかし、ほんとうに?
     ぼくには現実世界にも「選ばれて主人公である人」と「わき役でしかありえない人」はいるようにも感じられる。
     少なくともそういうふうに感じ、考える人は必ずいることだろう。
     自分にスポットライトがあたることはついにない、一生、自分は光の差さない暗がりのなかで生きていくしかない、そういうふうに思っている人は相当数にのぼるはずだ。
     そしてそれは、必ずしも思い込みとばかりはいえないだろう。
     この世は一面で平等ではあるが、しかし真実は決してそうではない。
     「運命に選ばれて主人公のように生きる人」と「そうではない人」の格差は凄まじいものがある。
     もちろん、主役には主役の苦悩がある。それはわき役でしかない人には想像できないものではあるだろう。
     とはいえ、単なるわき役から見れば、その悩みすら、苦しみすらうらやましいものに思えるのではないか。
     わき役にはわき役の悩みがあり、苦しみがあるにもかかわらず、それらは世界に無視されて終わるのだから。
     だからこそ、ぼくたちの多くは選ばれたがる。
     「あなたは選ばれました」という言葉は、詐欺師の常とう手段だ。
     あまりにもありふれていて陳腐と化した言葉だが、それでもそのなかには何かひとの心を狂わせる蠱惑がひそんでいる。
     あなたは選ばれました――神に、世界に、運命に選ばれたのです。
     そういわれてほの暗い喜びを感じない人は少ないだろう。たとえ、そこに欺瞞の彩りがひそんでいると気づいたとしても。
     それほどまでに「何者かに選ばれる」ということはひとの心を強く魅了する。
     「愛されたい」という想いも、ひっきょう、「だれかに選ばれたい」という意味ではないだろうか。
     しかし、「わき役」はだれにも愛されないし、選ばれない。そのちっぽけな存在に注目する人はいない。
     『オネスティ』のミキはとても可哀想な女性だ。
     彼女は真摯に愛しながら、愛されない。
     カイとの間にオネスティな関係を築くことができない。
     カイの財産をもらうことはできるが、それがなんだろう。
     彼女が求めたものは、たったひとつ、かれの愛情だけしかなかったというのに。
     だが、その孤独、その絶望すら、あくまでも「わき役」のそれでしかなく、彼女の悲恋に光があたりはしない。
     それが物語というものではある。とはいえ、それはなんと残酷なことなのだろう。
     そして、自分は主人公になれないと感じながら生きていくということは、なんと辛いことなのだろう。
     わき役はどこまでもわき役。主人公にはかなわないのだ。
     いや、しかし、この世にはそんな「わき役」の美しさを描く物語もある。
     たとえば先日読み上げた中田永一(乙一)の傑作短編「少年ジャンパー」はそういう話だった。
     これはほんとうに傑作だと思う。
     中田はいままでも無数の傑作短編を書いているが、そのなかでも新境地をひらく一作といえるのではないだろうか。
     この物語の主人公は人並み外れて醜い容姿の少年である。
     だれからも愛されていないし、最後まで愛されることもない。
     かれはあるとき「ジャンプ」という超能力に目覚める。
     一度行ったことがある場所なら、世界中どこへでも一瞬で「ジャンプ」できるという素晴らしい能力だ。
     しかし、そんな超能力を持ってしても、かれが「世界にとってのわき役」であり「キモメン」であるという事実は変わらない。
     かれはいかなる意味でも世界にも運命にも物語にも選ばれていないのだ。
     よくネットには「おれはキモメンだから異性から差別されてきた!」と書く人がいるが、まさにそういう境遇の少年である。
     あるとき、かれは偶然から異性に恋心を抱くようになる。
     かれがほんとうに「主人公」なら、どんなに醜い顔をしているとしてもその恋は実り、幸福な結末を迎えることだろう。
     あるいは少なくとも悲劇的に美しいクライマックスが待っているに違いない。
     ところが、 
  • ハッピーエンド小説×100作リスト制作中。

    2015-04-30 22:35  
    51pt
     ハッピーエンド評論家として活動を開始するべくとりあえず「ハッピーエンド小説×100作リスト」を作ってみました。
     名前の頭に×が付けているのは未読ないし結末の記憶があいまいでほんとうにハッピーエンドなのかどうかわからない作品です。つまり、このリストは未完成ということ。
     これがほんとうにハッピーエンドか?という作品もあるでしょう。そこらへんの定義についてはおいおい詰めていく予定です。
     『たったひとつの冴えたやりかた』とか、表題作は悲劇的内容ですが、全体の構成としてはハッピーエンドだと判断して入れました。
     今後、未読の作品をすべて読んだ上で全作品を書評し、まとめて電子書籍として出版するつもり。
     「ハッピーエンド映画×100作リスト」と「ハッピーエンド漫画×100作リスト」は現在作成中ですね。
     まあ、ハッピーエンド評論家を名乗るなら、このくらいが最低限の仕事ですかね。頑張ります。 
  • 書き出しが良いとそれだけで傑作に思える症候群。

    2015-04-15 01:27  
    51pt
     ども。
     なんかめちゃくちゃ長い記事を書いてしまったので、すぐには内容のある記事を書く気になれません。
     あの長さの記事をだれが読むのかという気がしますが、何人かには読んでいただけたようで幸いです。
     我ながらひきこもりの身の上でよくこれだけ書けるものだと思いますにょろ。だれも褒めてくれないから自分で褒めておこう。
     まあとにかくやる気が湧き出てこないので、ひとつコピペだけで安直な記事でも作ろうかと思います。
     ちょうどTwitterで「印象にのこる小説の書き出し」に関するツイートが流れてきたので、これに便乗することにしましょう。
     ぼくが、個人的に印象に残っている小説の書き出しです。
     まずは、そう、

     九歳で、夏だった。

     乙一ですね。
     「夏と花火と私の死体」。

     極限まで簡潔な――というかほとんど極限を超えて文法的におかしいのではないか、と思われる一文が印象的です。
     16歳でこれが書けてしまうということは、やはりただ者ではない。天才の片鱗は既にここに表れています。
     続いては、

     申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

     太宰治の「駈込み訴え」。

     この疾走的なリズム感。こういう小説を書かせると太宰は日本文学最強の書き手ですね。「生かして置けねえ」と崩れるところの迫力が凄い。
     ちなみにこの小説は青空文庫で読めます。かなり泣かせる傑作短編なので、オススメ。
     香気馥郁たる美文、ということでは、やはり連城三紀彦の文章が印象深いものがあります。
     特にこれ、と挙げるのなら「花緋文字」でしょうか。「花葬」シリーズのなかでも凶悪ともいうべき一作ですが、その冒頭の美しいこと。

     石畳に水でも打ったように滲む茶屋の灯を小波だたせ、一陣の秋風が吹きぬけるなか、三津が、私の呼び停めた声につと高下駄の音をとめてふり返り、
    「――兄さん」
     思わずそう呟いたものの、まだ誰か思い出せぬように、首を傾げて立ち竦んでいたのを、今でもはっきりと憶えております。


     また、個人的に気に入っているところでは、石田衣良『波のうえの魔術師』があります。
     石田衣良の全作品のなかでも、この作品の書き出しはスペシャルに格好いいと思う。凡手が真似できない匠の切れ味。

     灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
     波のうえの魔術師だ。

     秀抜な文章もさることながらイメージそのものが美しい。
     「灰色のデジタルの波」、「細かな数字の飛沫」、そして「波のうえの魔術師」。
     こういう繊細なイメージを味わえるのが小説の醍醐味ですね。
     石田衣良は格好つけるとほんとうに格好いい。天才的です。
     さて、ここらへんで有名どころをひとつ押さえておきましょう。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』。

     港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
    「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど--」
     と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。
    「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
     《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壺(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。


     うん、一読して「は?」となった人もいるかもしれませんが、「空きチャンネルに合わせたTVの色」とは、つまり曇り空の灰色のことです。
     この小説の冒頭の舞台ははるか未来の「千葉市(チバ・シティ)」なのだけれど、いったいどこの千葉なのだろう……。
     個人的にあらゆる書き出しのなかでもベストに近いと思っているのが、 
  • ピンを打たれた蝶のように。石田衣良『水を抱く』に堕落の悦びと慄きを見た。

    2015-03-21 03:10  
    51pt


     ぼくは普段あまりアルコールをたしなまない。
     どうにも気分よく酔えない体質だし、特に美味いとも思わないのだ。
     しかし、時には琥珀色の洋酒でも流しこみながら読んでみたいと思う小説がある。
     石田衣良の性愛小説『水を抱く』はまさにそんな不埒な一作。くらりと視界が歪むような酩酊感がこの作品にはふさわしい。
     石田はいままでにも何作か性を主題に据えた作品を物している。
     幾人もの女たちに体を売る娼「夫」の若者を主人公にした『娼年』と『逝年』の二部作がそうだし、大人の恋を描いた『夜の桃』もその系譜に位置付けられるだろう。
     『sex』という直截的なタイトルの短篇集もあるくらい。
     しかし、『水を抱く』はそのいずれとも違う。それでいて実に秀抜な仕上がりである。
     かぎりなくなめらかでありながらどこかに心さわぐざらつきを秘めた読み心地は、高価で贅沢な革張りの椅子のよう。
     読み進めるほどに昏い頽廃の夜を巡る懶惰なひと時を味わえる。小説を読む歓びである。
     主人公は国内屈指の医療機器メーカーに務める青年、伊藤俊也。
     その名前と同じく平凡な若者で、最近、恋人に別れを告げられたばかり。
     だが、かれの平和で退屈な日常は、ネットで知り合った凪という女と出逢ったことから呆気なく歪み、崩れてゆく。
     その紛れもなく破滅の予感を秘めた、それでいて底しれず蠱惑的な日々がこの小説の読みどころである。
     ひとはなぜときに破滅に魅いられ、危険に陶酔するのだろう。
     俊也はその先に待つものが凄惨なまでの地獄であると知りながら、どうしようもなくエロティックな深淵に堕ちてゆく。
     あたかも少女に採取されピンを打たれた蝶のように、かれの心は凪に釘付けにされてしまったのだ。
     くり返す快楽と頽廃の日々。刺激的なプレイの数々に惑溺するうち、俊也の日常はしだいに狂ってゆく。
     やがてビジネスとプライヴェートの双方で試練が訪れる。
     そして、それにもかかわらず俊也はさらに深く凪に溺れてゆくのだった――。
     石田衣良の描く性愛小説は、どんなに倒錯的なプレイを描き出しても小説としての品格が失われないところに特徴がある。
     それでいて、そこで活写される淫らで妖しい世界は、ひとを捉えて離さない邪な魅惑を秘めている。
     性教育の教科書では捉えきれない性愛のダークでビターな一面。
     倒錯と変質だけがもたらす刺激もまたあるということ。
     俊也は凪と知り合うことで、初めてその深淵のほんとうの深さを知る。
     危険とうらはらの快楽。
     ただペニスとヴァギナでつながるだけではなく、心のいちばん深いところをさらけ出して触れあうことの途方もない悦び。
     それはただコミュニケーションというにはあまりにあやういスタイルかもしれない。
     しかし、それでいてかれがいままでに経験してきたどうにもぱっとしない恋愛とは桁外れに刺激的な悦楽の形だった。
     いままで俊也が経験してきたベッドを共にしたその瞬間から色褪せてゆく恋とは異なり、凪は深く掘れば掘るほどに新しく湧き出てくる清冽な泉なのだった。
     ところが、彼女には大きな秘密があって――と、物語は続く。
     ここら辺りのストーリーテリングの技巧はやはり卓抜なものがある。
     とはいえ、それ以上に印象深いのは、繊細な言葉遣いで綴られる性愛の描写だろう。
     快楽とは薄められた苦痛であるに過ぎないといったのは誰だったか。 
  • 恋愛ってほんとうに良いものなの? 石田衣良の小説を読んで思う疑問。

    2015-02-27 21:17  
    51pt
     石田衣良『スイングアウト・ブラザーズ』を読み終えた。どうもぼくは文体が合う作家ばかり続けて読んでしまう傾向があるのだけれど、石田衣良もそのひとり。軽快でリズミカルな文体に惹かれて、ほとんどの作品を読んでいる。
     石田の作品の第一の特徴はその驚異的なリーダビリティだろう。とにかく入りやすく読みやすい。一旦、読み始めたら物語の結末まであっというま。
     スリル満点な小説をジェットコースターに喩えることがあるが、石田の作品はさしずめラグジュアリーな高級車の乗り心地だ。
     たしかに、ただ読みやすいだけじゃないか、と悪口をいうことはできるだろうが、そういうことをいう人はただひたすらに読みやすい小説を書くだけのことがどれほど途方もない才能の産物であるかわかっていないのだろう。
     読み手が一切のノイズなく作品世界を駆け抜けられるとき、書き手のほうはおそろしく繊細に気を遣っているものなのである。たとえ、一見してそうは見えないとしても。
     さて、『スイングアウト・ブラザーズ』。物語は、大学時代から古い友人の中年男たち三人が、付き合っていた女性たちからほぼ同時に三下り半を突きつけられるところから始まる。
     まさにスイングアウトの三者連続三振。いったい自分たちに何が足りなかったのか? 思わず考えこんでしまう三人の前に、大学時代の先輩が現れる。
     彼女がいうには、モテない男たちを立派なモテ男に成長させるというビジネスを始めるつもりだという。ついては、三人には特待生として無料入学してほしいのだと。
     その願いを聞いて、半信半疑ながら彼女に付いていくつもりになった三人を待っているのは、モテ男に成長するためのさまざまな試練だった――というのが概要。
     三者三様に、髪が薄かったり、時代遅れの長髪だったり、体重が三桁近かったりと、モテには程遠い状況にいるスイングアウト・ブラザーズたちが、ファッションや教養やコミュニケーション・スキルを学びながら成長していくプロセスはなかなかに興味深い。
     この手の小説の面白さは「モテるための自分の磨き方」にほんとうに説得力があるかどうかで決まって来ると思うのだが、そこは「学生の頃から現在に至るまで、恋人がいない期間がほとんどなかった」と公言する石田衣良、さすがにうまい。
     特別、変わったことを提示するわけではないのだが、だからこそ王道の正しさがある。
     しかし、読めば読むほどに、「女性にウケるための努力って大変だなあ」とげんなりしてくるのも事実。読み進めるうちいつしか、なぜそこまでして恋愛しなければならないのか?という根源的な疑問が浮かんで来ることは止められない。 
  • シリーズ再開! 『池袋ウエストゲートパーク』がヘイトスピーチの闇を追う。

    2014-07-13 12:32  
    51pt


     石田衣良『池袋ウエストゲートパーク(11) 憎悪のパレード』読了。3年半ぶりの『池袋ウエストゲートパーク』です。
     いや、良かった。全10巻でファースト・シーズンを終え、しばしの休眠に入っていたシリーズが帰ってきた! 一時の別れを挟んでいるとはいえ、マコトもタカシもあいかわらず。まったく違和感がありません。
     それはまあ、マンネリといえばマンネリなのだけれど、その時代、時代の最新のテーマを取り込んでいるから退屈さは感じない。安心、安定の一冊なのでした。
     知らないひとのために説明しておくと、このシリーズは池袋の果物屋にしてトラブルシューター、マコトを主人公にした一連の連作短編。既に始まったのは十数年前で、各時代の空気を切り取ったエピソードが用意されているあたりに特色があります。
     3年半前にファースト・シーズンが終わり、しばらく展開が休止していたのですが、今回、あたりまえのように再開しました。非常に面白いので、未読の方にはオススメです。古い時代の作品を読むと、当時の空気がわかって興味深いかも。
     このシリーズ最大の魅力はマコトが一人称でしゃべり倒すユーモラスでスタイリッシュな語り口。
     それぞれの時代で最先端のテーマを扱いながらも、マコトを時代時代の流行を追うようなキャラクターに設定しなかったあたりが天才的なバランス感覚で、マコトはあくまで時代の変遷をクールに眺めています。
     かれの趣味はバッハやモーツァルトといったクラシック音楽で、最も尊敬してしているのは何百年も前に亡くなった作曲家たち。だから、その時代、時代で流れ去って消えていくブームに興奮したりはしないのです。
     しかし、それでいて、マコトのもとには時代を象徴するような事件が転がり込んでくる。今回、マコトが相手にするのは合法ドラッグにパチンコ産業、コワーキングスペースにヘイトスピーチと、まさに現代のホットなテーマ。
     そのいちいちをシニカルに眺めながら、かれはスピーディに事件を解決していきます。クールなように見えて案外浪花節が入ってくるあたりもこのシリーズの面白さで、そこらへん、甘いといえば甘いのだけれど、ぼくは大好き。
     世間にあふれるあらゆる小説のなかでもいちばん気分よく読めるのはこのシリーズかも。
     まあ、途中からはマコトが歳を取らなくなっているので、ひりひりするようなリアリティは欠落してくるのですが、そのかわりキャラクター小説としての魅力が全景に出て来ます。
     マコトには池袋のストリートギャングのキング、タカシや、若くしてヤクザの幹部に出世したサルといった友人がいて、かれらのマコトのかけあいがいちいち面白い。
     異常なまでにソフィスティケーションされた独特の文体と相まって、とにかくリーダビリティ抜群。ライトノベルでも読むようにすらすらと読めてしまいます。
     はっきりいって事件なんて起きても起こらなくても大して変わらないんじゃないかと思うくらい。大半の読者はマコトの軽口を読みたくてこのシリーズを買っているのだと思う。
     ぼくにしても、プアなので普段はハードカバーの本はあまり買わないのだけれど、このシリーズはついつい買ってしまいます。
     毎回、一定の水準の話ばかりで、大傑作 
  • 石田衣良の花麗なる短編世界に酔いしれる。(2073文字)

    2013-08-16 02:42  
    53pt




     石田衣良の短篇集です。『ラブソファに、ひとり』、いいタイトルですね。ぼくは石田さんの本はほとんど読んでいるのですが、タイトルの響きだけだったらこれがベストかも。
     内容は、まあ、いつもの石田衣良の恋愛小説です。
     石田さんはこれで10冊目の短篇集と書いているんだけれど、『スローグッドバイ』、『1ポンドの悲しみ』、『愛がいない部屋』、『LAST』、『約束』、『再生』、『sex』、『ラブソファに、ひとり』で8冊ですよね。
     掌編小説集の『てのひらの迷路』を加えても9冊だし、なぜ10冊? ひょっとして連作短編集の『4TEEN』と『6TEEN』を加えているのかな。
     しかし、それなら『池袋ウエストゲートパーク』とか『夜を守る』とかも数えていい気もするし。謎。
     まあとにかく、短編を書きにくくなったと云われる現代日本でこれだけたくさん短篇集を出している作家は少数なのではないでしょうか。
     その作品には出来不出来はありますが、いずれも一定以上の水準をクリアしています。基本的に文章がうまいので、何を書いてもそれなりのものに見えて来るんですね。
     石田さんという作家は、本質的にストーリーテラーというよりはスタイリストなのだと思っています。
     美しい/格好良い/瀟洒な/スマートな/スタイリッシュな文体で甘い/切ない/ほろ苦い/泣ける/感動的な物語を紡ぐところに、かれの天才はある。
     石田衣良の小説はいつもどこか一抹の物足りなさを感じさせます。それはたぶん、かれの作品があまりにも綺麗すぎるからなのでしょう。
     いや、特段、きれい事に特化した作家というわけではない。世の中の表も裏も光も闇も等分に描いているはずなのですが、それでもなぜか綺麗すぎるものを見た印象がのこるのですね。
     それはたぶん、作家自身が暗い情念といったものと縁がないからなのだと思います。つまりはかれの小説世界はどことなく淡白に過ぎるのです。
     セックスを描いても、バイオレンスを描いても、ダークなエモーションを感じさせない。じっさいには感情の爆発を描いている場面でも、何だか綺麗なんですね。
     この作家において、エロスとタナトスとはあまりどろどろすることなく、淡いまま終わってしまうようです。たとえ、どれほど凄惨な場面を描いていても。
     つまりはいつも一定以上の水準を超えてくる作家ではあるけれど、文面から感情がほとばしるような作品はあまり書けない作家でもあるということ。
     ただ、それはもう、仕方ないというより、そういうものとして受け止めるべきことなのだと思います。
     これはもう表現の技術じゃなく、作家の魂、実存、存在そのものにかかわる問題だから、そう簡単によしあしは云えない。そもそも非常に高いレベルでの話ですしね。