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『ダンまち』外伝漫画と「シェアード・ワールド・ノベル」の話。
2016-04-26 20:3951pt
大森藤ノ&矢樹貴『ダンジョンに出逢いを求めるのは間違っているだろうか外伝 ソード・オラトリア(1)』読みあげました。
アニメ化もされた『ダンまち』の番外編第1巻ですね。
アニメはシンプルかつストレートなシナリオでとても面白かったのですが、この外伝漫画のほうはどうか? うん、なかなか面白く仕上がっています。
外伝の主役は本編のほうで主人公ベルくんの想い人として登場した最強の美少女アイズ・ヴァレンシュタイン。
この世界でも指折りの冒険者パーティ「ロキ・ファミリア」の中心人物である彼女が、「絶対的な強さ」を追い求め、さまざまなモンスターたちと死闘をくり返していく様子が丹念に綴られます。
ストーリーの背景は本編と同じ時系列なのですが、視点がアイズに移ることによって、まったく違う物語が展開します。
ベルくんがひとりで冒険し、成長している間にアイズと「ロキ・ファミリア」は何をしていたのか? その物語が綴られるのです。
ちなみに、この外伝もアニメ化されるようですね。おそらく本編が好評だったのでしょう。良いことです。
本編よりこの外伝のほうが面白いという人もいるので、新作アニメにも期待したいところ。
ちなみに、この『ダンまち』の場合は、ひとりの作家さんが本編と外伝の両方を手がけてるわけですが、複数の作家が同じ世界を舞台に作品を書く場合を「シェアード・ワールド」スタイルといいます。分割された世界、ですね。
アメリカには『Thieve's World(盗賊世界)』というタイトルの作品があって、これがシェアード・ワールドものの皮切りなのだそうです。
ときに1979年といいますから、いまから40年近く前のことですね。
中心となった作家はロバート・アスプリン。日本でも『銀河おさわがせ中隊』シリーズなどで知られている人です(ちなみにこのシリーズ、第2巻までは文句なしに面白いので読んでみてもいいかも。ほぼライトノベルです)。
『盗賊世界』も翻訳されるという話があったようですが、なんだかんでいまのところ邦訳は出ていません。
また、超能力者たちの戦いを連作短編のスタイルで描く『ワイルドカード』というシリーズも(アメリカでは)有名なようです。
これは -
『ダンまち』にリアリティはあるか。
2015-07-04 03:3951pt
テレビアニメが続々と最終回を迎える季節です。
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』を最終話まで観終えました。
「例の紐」絡みで、今季、ひときわ話題になった作品ですが、そこらへんのわりとどうでもいい事情を除いても、十分以上に面白い作品でした。
やっぱり成長物語はいいなあ。
少年の成長物語はいつの時代も通用する普遍的な物語パターンですが、『エヴァ』の挫折とかいろいろあってしばらく屈折を余儀なくされていた印象があります。
しかし、本質的には廃れることがないパターンであるわけで、『ダンまち』は非常に素直な展開をたどっているといえるでしょう。
主人公であるベルくんの前にはつぎつぎと試練が襲いかかってくるわけなのですが、かれは間一髪でその危機をくぐり抜けつづけます。
現実にはこううまくは行かないだろうと思うところですが、一本のお話として見ている限り、非常に面白い。
こういう、主人公の成長に合わせるかのように敵や試練もスケールアップしていくパターンのことを、「階梯的な物語構造」と呼びます。
お話の展開が階段になっているわけですね。
一方、そうではない、主人公の成長度合いを無視して試練が襲ってくるパターンの物語を「新世界の物語」と呼んでいます。
『進撃の巨人』のヒットなどを見ると、時代は「新世界の物語」を求めているのかな、と見えたこともありました。
しかし、あたりまえといえばあたりまえのことですが、主人公の成長を無視して試練が課されてしまう「新世界の物語」では、まともな物語展開は望めません。
常に一歩先に「死」が待っているかもしれないのが「新世界の物語」であるわけです。
そこで「壁」が関わってくるという話をしていたわけなのですが、それにしても「新世界の物語」を本気で突き詰めるとシャレにならないことになってしまいます。
それはリアルではあるかもしれませんが、物語として面白いものではありづらいでしょう。
つまり、「新世界の物語」とは行き止まりの物語構造でしかありえないのです。
それでは、どうすればいいのか?となったときに、ひとつの選択肢として「ふたたび階梯状の物語を描く」というものがある。
それは「新世界の物語」ほどリアルでもシリアスでもありえないかもしれないけれど、やはり魅力的な物語パターンであることには違いないわけですから。
ここで大切なのは「リアル」とは何かという話だと思うのですね。
冒険物語におけるリアルを突き詰めていくと、ありえないほど過酷な状況が突然に襲いかかってくる「突然死」の描写こそがリアルだという結論に至りかねない。
だけれど、 -
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』と狂気の世界。
2015-06-13 04:0251pt
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』を第8話まで見ました。
最新話に追いつくまでもうすぐ。いや、面白いです。
「ヘスティアさまの紐」が話題になっていることだけは知っていたものの、特に興味ももたずここまで放置していたのですが、これはたしかに素晴らしいですね。
ただのおっぱいアニメに留まっていないものがある。
お話の構造としては非常に普遍的な王道の力強さを感じさせます。
無力な少年が力を望み、成長していくストーリー。
元々は「小説家になろう」の投稿作品だったらしいのですが、たしかになろう的でありながら独自の設定と物語で魅せてくれます。
特別にオリジナリティを感じさせるわけではないのですが、オーソドックスであることの強みがうまく作用しているように感じられますね。
ヘスティアさまを初めとして女の子たちもみんなきれいで可愛いし、これはいいアニメだなあ。
まあ、それだけといえばそれだけといえなくもないので、わずかに物足りなさを感じさせもするのもほんとう。
しかし、この先、おそらくは力を求めて変わっていくであろう少年の物語には、先を期待させるものがあります。
古来、少年はより強くあろうともがくものです。
少年漫画がしばしば「バトル・トーナメント」の形式に収斂していくことでもわかるように、「強さ」こそは少年が追い求める最高の夢。
ですが、純粋に「力」を追い求めていく過程で、ひとは変わっていかざるを得ません。
だれより強くあるということは、操り切れない凶器を抱えて生きるに等しいからです。
その「力への欲望」の物語は、いままでも金庸の『秘曲笑傲江湖』、あるいは山田風太郎の『魔界転生』といった大傑作によって綴られてきたところです。
ひとは初め、守るべき何かのために強くなろうとする。
ところが、しだいにその強さへのあこがれは暴走し、やがては強さのために強さを求めるようになる。
だれより強くありたい――そのためには何を犠牲にしてもかまわないとさえ思うようになる。
それは少年の物語の果てにある領域。人倫を失った強さの先にあるものは、狂気ともいえる世界です。
いまとなってはプレイ経験のある人は少ないでしょうが、このアニメを見ていると
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