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  • 「ディオのオンラインサロン」か? 「涼宮ハルヒのパラドックス」か?

    2021-06-19 02:51  
    300pt
    鍵アカに閉じこもるイケダハヤト。
     イケダハヤト氏がTwitterを閉じた。
     ひと口に「閉じる」といっても色々あるわけだが、この場合は「自分のアカウントに鍵をかけ、外からは見れない状態にする」ことを意味している。
     一時期は日本でも指折りに著名なブロガー、あるいは「インフルエンサー」として一世を風靡し、ブログで何千万円儲けただのといった景気の良い話をしてきたわけだが、巨額の仮想通貨がわずかな期間で無価値に落ちる暴落事件によって、事実上、命脈を絶たれた模様である。
     いままでどれほどの非難と嘲笑を浴びせられようとも平気で通しているように見えた人物だけに、その零落はきわめて印象的だ。
     が、この記事はべつだんイケダ氏を批判する性質のものではない。そうではなく、かれのようなインフルエンサービジネスがなぜ成立するのかというところから話を始めたいのだ。
     この場合、「インフルエンサー」とはネットで巨大な影響力を持つ人材一般を指す。多くの場合、かれらはネットで活動する有象無象たちのあこがれと尊敬と嫉妬と敵意の対象であり、じっさいにそのひと言で人生を変えられてしまう人もいる。
     たとえばイケダ氏の場合は「額に汗して働く」地味な生き方を嘲り、ネットなら簡単に巨万の富が作れるようなことを語る傾向があり、その言葉に動かされてかれのオンラインサロンに入った人もいるようである。
     しかし、よくよく考えてみるなら、インフルエンサーとはほんとうは「何者」なのかさっぱりわからない人たちだ。とにかく「何者か」であることはたしかなのだろうが、それでは具体的に何を生み出したのかというと、さっぱりわからない。
     どうやらかれらの存在意義は情報を右から左へ動かすことにあって、いくらか例外はあるにしろ、自分で何らかの作品を創り出すといった性質の仕事をしているわけではないらしい。
     そういうインフルエンサーたちがある種、「時代の寵児」として扱われるのも、いかにもインターネット時代らしいことかもしれない。
    オンラインサロンと「何者問題」。
     ただ、ぼくはべつだん、インフルエンサーが悪いとは思わない。ぼく自身、有料ブログを運営しているわけであり、「ホリエモン」やイケダハヤト氏のオンラインサロンビジネスも、ともかくも合法である限り、あえて非難するほどのものでもないだろうと思っている。
     ただ、そこに吸い寄せられた人が幸せになれるかというと、否定的にならざるを得ないこともほんとうだ。
     インフルエンサーと呼ばれる人たちは一般に、そのよしあしはともかくとして自分の力で「成り上がった」のであって、だれかのオンラインサロンに入ったから自分もインフルエンサーになれた、といった話は聞かない。
     つまり、高額のお金を払ってインフルエンサーの友達とか、インフルエンサーの知り合いになれたとしても、それはあくまでそこまでのことであって、自分自身がそれで「何者か」になれるわけではないのである。
     あたりまえといえばあたりまえのことだが、このごく当然とも思える道理が、案外と通じない人もいる。そういう人たちは「何者か」が運営するオンラインサロンに入りさえすれば、自分もまた「何者か」になるのではないかと素朴に考えているようだ。
     もちろん、決してわからない心理ではないし、上からの視点でそういう人を見下そうとは思わない。
     「何者かになりたい」、無名の、凡庸な自分で終わりたくない。そういった想いは、ときとして人をつよく突き動かし、まさに「何者か」にのし上がるためのモチベーションを生み出すこともあるだろう。
     ただ、それがあまりに簡単に、一定の努力や時間を費やすことなく「結果だけ」を求めることとなると、そういう人は容易にだれかの目的のために利用され、搾取されることになる。
     精神科医の熊代亨氏は、そういった「何者かになりたい」という感情が政治やビジネスに活用される事態のことを、「何者問題」と呼んでいる。なかなか卓抜なネーミングなのではないだろうか。
    ・シロクマ先生いわく。
     熊代氏は書く。

    もともと、「何者かになりたい」願いや「何者にもなれない」悩みは、若者がアイデンティティを獲得しながら技能や地位を獲得していくための有効なモチベーション源だった。現在でも若者の少なくない割合が、こうした願いや悩みをモチベーション源として巧みに活用し、アチーブメントへと結びつけてはいるだろう。
    だが強力なモチベーション源は、ある種の弱点として狙いやすくもあり、ここまで述べてきたように、ビジネスにハックされたり政治に動員されたりする際のフックとして利用されてもいる。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84045

     何者かになろうとすることそのものはかならずしも悪いことではない、だが、若者たちのそのような未熟な衝動は、しばしば「悪い大人たち」にハックされ、かれらの利益になるよう誘導されることとなる、ということだろう。
     この社会には、人々の欲望を煽り、それを自分の利益になるよう巧妙に導いていくような「悪い大人たち」がたくさんいる。
     かれらはときとしてこの腐敗し切った社会にうんざりしている若者たちにとってヒーローのように見えるわけだが、その実、じっさいには己の利益のことしか考えていない。
     そういった人たちにハマってしまうと、多額の金銭を吸い取られることになることもめずらしくないだろう。
     いや、単に金銭だけで済むのならまだマシなほうかもしれない。いったん悪質なカルト的集団にハマってしまったら最後、人生そのものを吸い取られてしまうことも十分にありえる。
     そこら辺は漫画『テロール教授の怪しい授業』に描かれている通りである。この社会には至るところに落とし穴がある。
    ・「安心するため」に「何者か」になりたい?
     しかし、それでは、そもそもなぜ人は「何者か」になりたいと思うのだろう? なぜ素顔の自分自身では満足できないのだろうか? 有名になりたいのか? だれかにちやほやされたいのか?
     これは、はっきりわかるようでいて、微妙にわからないところが残る問題だ。
     「何者かになりたい」という衝動には、必ずしも欲得とはマッチしない一面がある。より一般的な「幸せ」を得るためだけなら、ただひたすら平凡に、地道に暮らしていっても良いはずだ。凡庸だが幸福に見える人間はいくらでもいる。それなのに、なぜ――。
     と、LINEで話していたら、友人の哲学さんが、かの『ジョジョの奇妙な冒険』の一節を引き合いに出して説明してくれた。作中の「悪の帝王」ディオ・ブランドーが正義のために戦うアブドゥルやポルナレフといった人物を自分の配下ににしようと誘惑する場面だ。
     ディオは語る。人間は「安心」を得るために生きている。自分に忠誠を誓えば永遠の安心感を与えてやるぞ、と。

     アブドゥルもポルナレフもこの誘惑を敢然と拒絶してあくまで正義の戦いを続けるわけだが、しかし、かれらほどの人間ですらいっとき、この甘い誘惑に魅力を感じることを止められない。人にとって「安心」とはそれほどまでに価値があるものなのだ。
     哲学さんによると、多くの人がインフルエンサーのオンラインサロンに惹きつけられるのも同じ理由だという。つまり、何らかの意味での「安心」を求めているのだと。
     なるほど、説得力がある。たしかに人は「安心」を求める生き物だ。特に「アイデンティティのゆらぎ」に悩む若者は、「確固たる自分」を求めてやまない。そのためには「他人からの承認」がどうしても必要になるということなのだろう。
     「ディオのオンラインサロン」に入会した者は、かれの「優しい言葉」ひとつを受け取るためなら何でもするようになる。「有名人からのお褒めの言葉」には、それだけの値打ちがある。
    ・だれかに自分を承認してもらいたいという切なる願い。
     ぼくなりの言葉に置き換えるならこうだ。「人は自分で自分自身を肯定できないから、他人に肯定してもらえる立場になりたがる」。つまり、その立場こそが「何者か」である。「何者か」とは、無条件に人から肯定してもらえる立場のことをいうのだ。
     「何者でもない」ことがなぜ辛いのか。あえてきわめて端的にいってしまうのなら、だれも褒めてくれないからである。だれも承認してくれないからなのだ。
     それはあまりにつまらないことに思えるかもしれないが、じつはこの「だれからも認めてもらえない」ということは、人間の精神をズタズタにひき裂くほど辛いことなのだ。それが、それだけが原因で自殺してしまう人だって少なくない。
     人は、自分自身ではなかなか自分の価値を決めることができない。だから、他人から認めてもらいたがる。ネットでは時々、「バカッター」などと呼ばれる愚かな目立ちたがり屋たちが話題になるが、かれらにしてみればどれほど愚かしいことであっても、目立つことに意味があるのだ。
     目立たなければ、そして凡庸な群衆のなかに埋没してしまえば、だれからも注目されず、当然、褒められることもない。それでは、自分の価値を発見してもらうこともできない。
     その苦痛に比べれば、ほかのあらゆる道理が意味をなさないくらい、かれらの「何者問題」は深刻だと考えるべきである。
     人はだれかに愛してほしい、認めてほしい、肯定してほしいと思う。それはきわめて普遍的な心理であり、たまたまいまの時代に「何者問題」として噴出しているに過ぎないのかもしれない。
     しかし、一定以上の時間や労力を費やすことなくインスタントに「何者か」になろうとすることは、「ディオのオンライサロン」のような、あるいはオウム真理教のような悪辣なカルトに利用される危険を秘めている。
     「自分に従えば何者かにしてやるぞ」という「何者か」の誘惑ほど危険なものはない。それでも、その言葉はどこまでも甘く、優しげだ。
    涼宮ハルヒの矛盾と碇シンジの成熟。
     京都アニメーションが映像化して、ライトノベル史上屈指の大ヒット作となった『涼宮ハルヒの憂鬱』は、自分の世界の凡庸さに耐え切れない少女の物語だ。

     ハルヒは自己存在の卑小さに悩んでいる。彼女はあるとき、何万人もの人が集まった場所へ行って、その膨大な人間のなかで特別ではないワン・オブ・ゼムであるに過ぎない自分に気付いてしまったのである。
     世の中には何十億という人間がいる。その膨大な集団のなかで、とくべつ目立ちもせず、また肯定もされない自分、その矮小さをハルヒは発見したのだ。
     それは「もしかしたら自分などいなくなってしまったとしても、だれにも気づかれないのではないか」という存在不安との遭遇だったともいえるだろう。
     じつは彼女はこの世界そのものを創り出した造物主であり、かぎりなく特別な存在なのだが、彼女自身がその事実を知ることはない。そのためにハルヒはいつもいらだっていて、少しでも何か特別なことを求めているのである。
     「じっさいには神のように特別で万能なのに、いつも特別になりたいといらだつしかない」。この涼宮ハルヒのパラドックスは、じっさいにどれほど特別であっても、そのことを自覚できないかぎり、なんの意味もないことを示している。
     ようするに、人が「安心」を得るためには、じっさいに特別なのかどうかが問題なのではなく、自分をどう認識するかが重要なのだ。
     だから、「何者問題」を解決する最も成熟した方法は、どうにかしてインスタントに「何者か」に成り上がることではなく、「まったく何者でもない」自分を認め、許し、愛し、肯定することなのである。
     『嫌われる勇気』で話題になったアドラー心理学でいわれるように、だれからも肯定されなくても自分を肯定できるように生きること。つまり、大人になることである。
     そういえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、「世界の中心」としてのヒーローという幼児的な万能感を満たす立場から、「何者でもない」ひとりの大人になったのだった。
     いかにも逆説的だが、「何者でもない」、平凡な存在としての自分を自ら愛しみ、無限に肯定することができるのなら、あなたはその意味でもはや「何者か」であり、ディオのオンラインサロンも涼宮ハルヒのパラドックスも知ったことではないだろう。
     とはいえ、それはなんとむずかしいことだろうか。それでも、「何者かになりたい」子供でいるかぎり、その欲望を見透かしただれかに搾取されつづける。
     その意味では、平凡な自分を楽しみ尽くす自在なライフスタイルこそ、オンラインサロンのインフルエンサーたちが教えてくれない、理想の大人のあり方なのかもしれない。ぼくもそういうふうに生きていきたいものだ。 
  • オタクとヤンキーが融け合う日。

    2014-11-08 23:43  
    51pt


     熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』読了。ここ最近、何となく読書意欲があって、1日2冊か3冊くらいのペースで読んでいっているのですが、そのなかでもこの本は良かった。色々なことが非常に明快になりました。
     もちろん、いままでもマイルドヤンキーとかライトオタクといった言葉は知っていて、その意味するところについても考えていたのだけれど、「それらは同じひとつの現象の別の側面なのだ」という発想はなかった。
     熊代氏には感謝したいところ――って、シロクマ先生じゃん! シロクマ先生、良いこと書くなあ。いやはや。それでは、まずはその著者のウェブログから本書に関する記述を引用してみましょう。

     近年は、オタクが死んだ・サブカルは終わった・ヤンキーがマイルドになったと言われていますし、実際、地方の国道沿いや郊外では、オタクともサブカルともヤンキーともつかない若者を多数みかけます。そうした現状を、オタク論・サブカル論・ヤンキー論それぞれ単体で論じるのは難しく、どこか不自然ではないかと私は思い続けていました。
     
     本書では、それぞれに尖っていたオタク/サブカル/ヤンキーが大衆化していくプロセスを振り返りながら、かつてサブカルチャーに求められていたものと現在サブカルチャーに求められているものの違い、一昔前の尖った趣味人の心理的ニーズと現在のハイブリッドな消費者の心理的ニーズの違いについて論じました。
     
     現在のファスト風土には、オタク的/サブカル的/ヤンキー的な意匠やコンテンツが溢れかえり、そういう意味では、オタクもサブカルもヤンキーも今が全盛期と言えそうです。しかし、魂としてのオタク・魂としてのサブカル・魂としてのヤンキーはどうでしょう?それぞれのジャンルが融合しながら普及していくうちに、スピリットが失われてしまったのではないでしょうか。控え目に言っても、薄められてしまったものがあるのではないでしょうか。
    http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140912/p1

     つまり、本書は「オタクが死んだ・サブカルは終わった・ヤンキーがマイルドになった」という現象を、ひとつながりの事態として捉え、分析しているわけです。
     これはねー、率直にいって慧眼だと思う。自分で気付けなかったことが悔しいくらい。ぼくは主にこのうちの「オタクが死んだ」という側面に注目して物事を見ていたわけですが、それだけでは真実は見えて来なかったんですね。
     いま考えるとライトオタクとマイルドヤンキーに共通項があることは自明にも思えますが、いままではそういう視点はなかった。ここらへんが具眼の士とただの凡人の落差というものなのかもしれません。
     さて、ぼくの目に「ライトオタク」という言葉が飛び込んできて、初めて「オタクが何だか変わり始めている」という文章を読んだのは2004年のことです。
     この記事(http://www2u.biglobe.ne.jp/~captain/sub1_241.htm)ですね。そこでは、岡田斗司夫さんの本に触れつつ、こんなふうに書かれています。

     読まれた方はわかっていると思いますが、未読の方も岡田氏の提示し定義した「知的エリートとしてのオタク」については機会があれば読まれることをお奨めします。(まだ文庫版は入手できますし。)
     「オタクというのは何か?」をきちんと語り説明し伝えたメディアとしてあの本しかなかったことから、肯定するにしろ否定するにしろ、その後の「オタク論」の起点になっています。
     そこで提示されていた「本来のカテゴライズでの“オタク”」ってのと、最近多い
    「アニメを見ているから僕もオタクです。」
    「ギャルゲーに萌えてるから僕もオタクです。」
    「フィギュアやグッズをいっぱい買っているから僕もオタクです。」
     …なんてのは全く違います。
     フィギュアに関してもそういう人たちが大量にいるというのは以前『食玩テキスト』で書いたとおりですが、その他のアニメなどのジャンルに関しても同じ。
     「オタク」なんてその程度で名乗れるものではないんですよ。
     正しい言い方するなら、それらはファンでありマニアでありコレクターです。
     明らかに視点がクロスしないため、こういう層を僕は最近「ライトオタク」層と呼んで分けています。
     あるいは「自称・オタク」層。

     はい、出ました、「ライトオタク」。ここで書き手ははっきりと侮蔑と敵意を込めて(といっていいでしょう)その「新しいオタクの層」を認識しています。
     個人的には岡田斗司夫さんが定義しようとした意味での「オタク」は、90年代中盤には挫折していると考えますが(オウム事件があったからです)、まあとにかくそういう「濃い」オタクの視点から見たら「新参者のぬるいオタクたち」なんて、軽蔑すべき対象以外の何ものでもなかったことはよくわかります。
     しかし、御存知の通り、それから10年、「ライトオタク」は増えつづけ、勢力を増しつづけ、いまや「オタク」という言葉が指す層の代表として認知されるに至っています。いやー、歴史って面白い。
     ここで起きているのは「オタク文化のカジュアル化」という現象です。それまで、オタク文化とは、ある程度「覚悟」を定めないと飛び込めないイヤ~ンな文化だったんですよ。
     何しろバカにされたりキモがられていたし、ちょっとやそっちの覚悟では「ぼくはオタクです」なんていえなかったわけです。ぼくもそれでどれだけ苦しんだことか……。
     まあ自分語りはいいとして、そういう「楽しむ者の覚悟を問われる文化」であったオタク文化が、このあたりから急速に「だれでも楽しめるカジュアルな文化」に変わり始める。
     象徴的なことに、2004年といえば『電車男』が出た年です。