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「次」は、こっちだ! ポスト脱ルサンチマンラブコメライトノベルの時代が来る。
2017-12-01 02:4051ptそういうわけで、「ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。」の続きです。
「リア充」と「オタク」という対立構造をなくしたラブコメに残る問題点とは何か?ということなのですが、その前にちょっと整理しましょう。
ぼくはここ数年のラブコメライトノベルを「リア充へのルサンチマン」という視点から見ています。もちろん、それでは整理し切れない作品はあるでしょうが、まあ、べつに万能の理論を作ろうとしているわけでもないからそれはそれでいい。
この「リア充へのルサンチマン」が「リア充」と「オタク」ないし「ぼっち」という対立軸を生み出し、その対立軸を基準にして物語を展開していったのが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』といった作品でした。
漫画やアニメでも同種の作品が色々ありますね。で、そのリア充を敵視するプロセスのなかで、しだいに「自分たち自身が最高のリア -
ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。
2017-11-30 07:0051ptうん、きょう(11月29日)のラジオは短いながらも面白かった。例によって「リア充」がひとつのテーマとなっているのですが、今回はいままでと扱い方が違うような気がします。
いままでは多少なりと「リア充ばくはつしろー」な気分があったけれど、今回はもう、何というか「リア充の皆さんご自愛ください」くらいの優しい心境(笑)。
こう書くといかにも上から目線のようだけれどそうじゃなくて、自分が幸せいっぱいだから他人を下に見る必要性はないのです。何かを下に見てそれに比べて自分は上だ、と悦に入るのはしょせんエセリア充に過ぎません。
ほんとうのリア充は決して驕らないし、高ぶらない。ぼくもだいぶそこに近く――なっていないかな? まあでも、少しは近づいたと思います。ええ、まあ、ただの虫けらですけれど。
先日開いた富士山麓の合宿は、ぼく(たち)の長いイベント開催の歴史のなかでも特筆すべきものだったと思います -
脱ルサンチマンの最新形にしてラブコメライトノベルの最前線、『14歳とイラストレーター』を読め!
2017-11-28 07:0051ptうに。一段と寒さもきびしくなりつつあるきょうこの頃、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはストーブの前から動けません。人類の肉体は冷気に耐えるよう作られていないのだ。
さて、むらさきゆきや『14歳とイラストレーター』という小説を読みました。これは、ある萌え系イラストレーターの青年と、ちょっとしたことからかれの生活の世話を焼くことになった14歳の少女を中心に、ライトノベル界隈の群像を描いた小説です。
いままでこの種の業界ものは、ライトノベル作家を主人公にしたものが中心でしたが、この作品はイラストレーターを主人公に持ってきたところが新機軸。
まあ、そうはいっても似たような内容だと思って読み始めたのですが、これが面白い。実に面白いのです。いま、最も先を楽しみにしているライトノベルになってしまいました。
何がそれほど面白のかというと、うーん、何だろうな。実はこの作品、それほど魅力的には -
『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は「ダメ部活もの」の到達点か。
2016-06-26 04:4151pt
『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を最終話まで見ました。
いやー、面白かった。今季のアニメは豊作で、『カバネリ』とか『くまみこ』とか『マクロスΔ』とか面白そうな作品が色々あったけれど、終わってみるとこれがいちばん楽しかった。
うーん、何なんでしょうね。特にどこが新しいとも思えないんだけれど、何か妙に面白い。
体裁としては非常によくある「ダメ部活もの」。あるネットゲームに夢中になった面々が「ネトゲ部」という奇妙な部活を作って遊びまくるというそれだけのお話。
まあ、『ハルヒ』とか『はがない』の直系ですね。
この作品だけの特色というと特に思いつかないし、やたら胸を強調するカットとか、むしろ古くさいはずなんだけれど、どういうわけか楽しくてしかたない。
めちゃくちゃ幸せなアニメでした。ぜひ二期を作ってほしい。無理かな。無理かも。こうなったら原作の続刊を読んでみるか、というくらい -
『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?
2016-05-25 06:3151pt
ペトロニウスさんの『灰と幻想のグリムガル』評の第二弾が公開されていますね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160524/p1
あるいはいつもの如くこのまま公開されずに終わるのでは?と思っていただけにひと安心です(笑)。
ぼくの文章も引用されていますけれど、『グリムガル』はほんとうに現代の青春ものの系譜のなかでも頂点といえるような傑作だと思います。
この作品をまだ見終えていないというこのていたらく。いいかげんそろそろ最後まで見ないとなあ。マーベル映画とか見ていないでこっちを見ろよ、という気もします。
さて、この記事のなかではっきり書かれているように、現代の青春もののトレンドは、
1)主人公になれないわき役が、
2)それでもどうやって人生の充実感を得るか。
というところに収斂していきます。
「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。でも、けっこう楽しいし、いいところもあるんだよね、と。
これがおととい、きのうと書いた「充実した人生を送りたい」というテーマとかぶっていることがわかるでしょうか?
そう、ぼくはフィクションと同じテーマをリアルでも追及しているんですね。ただ、リアルではなかなか「死を実感すれば生もまた輝く」というわけにはいかないから、色々むずかしいわけなんですけれど。
『グリムガル』が傑作なのは、「1」の条件をほんとうに徹底して突き詰めているところです。
普通は「わき役」とはいっても一応はそれなりの能力を持たされているものなのですが、『グリムガル』の場合はほんとうになんの異能もないんですよね。それこそゴブリン一匹倒すこともできない。
で、その未熟で無能なかれらが「死」を実感することによって「人生の充実感=いま、生きているという実感」を得るプロセスが描かれています。
まさに「わき役たちの冴えない青春系」の最高傑作ともいうべき作品といっていいでしょう。
これ、映画の『ちはやふる』で、天才のちはやではなく才能がない太一がクローズアップされたのとまったく同じ構造だと思うのですが、もうさすがにそれは説明しなくてもわかってもらえるでしょう。
現代の青春ものはアニメであれ、映画であれ、必然的にそういう構図になるということなのです。
と、ここまでは話の前段階。今回はそういう「冴えない青春系」のひとつである『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』について話したいと思います。
この作品はもはや古典的といってもいいくらいライトノベルの伝統的形式を追従しています。どのような構造なのか、「物語三昧」から引用しましょう。
これまでのヲタクの言説や自意識の拗らせの中には、常に「リア充」という概念がその軸にありました。ヲタクの自意識を描くときに、どこかにリアルに充実している、この場合は、かわいい恋人やかっこいい彼氏に恵まれて、特に2次元に逃げることもなく、3次元の世界で楽しく過ごしている人々がいるという対抗意識のことになります。昨今(2016年3月時点の話)だいぶ薄れてきた気がするのですが、少なくとも過去のメジャー級の作品である『僕は友達が少ない』(2009-2015)や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008-2013)などのライトノベルで頂点に君臨して、アニメ化もされ、一時代を築いた作品群は、この軸が常にセットされていました。この系統のほぼすべてのライトノベルの主要な軸が、これであったといっても、また現在もそうであると言い切っても、おかしくはないほどです。
そう、「また現在もそうである」。
ペトロニウスさんはまだ見ていないようですが、『ネトゲの嫁』の軸は、「リア充」ではなく「リア充」に対抗意識を持つ少年少女が自分たちでかってに部活を作り、楽しい学園生活を送るという『はがない』の構造そのままです。
もう、その点では一切オリジナリティがないといっていい。
だから、Twitterで宮城さんという方がこのような疑問を呈されていたのはいたって当然だといえます。
@LDmanken @Gaius_Petronius @kaien もうアップロード完了とは仕事が早いですね。ネトゲ嫁はオタクの描かれ方が俺妹の頃と変わらないように思えて、私は何だかちょっと古臭さを感じるのですが、LDさんから見てどうでしょうか。
これに対し、LDさんはこのように答えています。
@mi_ya_gi_3 @Gaius_Petronius @kaien まだ、全部見ていないので何とも言えませんが、どうなんでしょう。僕はむしろ登場人物たちはネトゲユーザではあっても(現代的な意味含め)オタクでは無いようにも感じています。
どうなんでしょうね。オタクとは何か、とかいいだすとまた長くてめんどくさい議論になってしまうと思うので深入りしたくはありませんが、少なくともぼくは『ネトゲの嫁』を見ていてそんなに古くさいとは感じなかったんですよね。
しかし、たしかに構造そのものは「リア充」を敵視する生徒たちだけで部活を運営するという、ありふれすぎているものです。やっぱり古くさい話なんじゃないの?といわれてもしかたありません。
それでは、『ネトゲの嫁』のオリジナリティはどこにあるのか?
これ、まだなんともいえないところではあるんだけれど、 -
はぐれ者たちの楽園としてのオタク界隈は失われたのか?
2016-05-18 13:4651pt
マツダ靖&ゆとりの『ちいさい奥さま』を読んでいます。
ゲームオタク漫画の秀作『ちいさいお姉さん』の続編というか、姉妹編ですね。
作中の問題らしい問題はほぼ前作で解決してしまっていて、今回はただひたすら主人公たちが、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ、いちゃいちゃするだけの漫画になっているのだけれど、これが面白い。
いったい何が面白いのだろう。たぶん、主人公たちにオタクらしいルサンチマンが一切見られないあたりが良いのだろうな、と思います。
これは『ヲタクに恋は難しい』と一脈通じるところでもあるのだろうけれど、オタク特有のわけのわからない選民意識とか、その反対の激しい劣等感とか、そういう余計なものがまるで見あたらないあたりが素晴らしい。
ただひたすらに幸せなオタク新婚ライフ。じっさいにこういう生活を送っている人もたくさんいるんだろうなあ。
めちゃくちゃうらやましい。ぼくも結婚したい。もう無理かな……。とりあえず収入を増やさないとな……。
いや、そういう生々しい話はいいのだけれど、とにかくよい漫画です。
こういう作品を読むと、ほんとうにオタクも変わったのだなあと思いますね。
辺境の民だったはずがいつのまにか中央からひとが流入していたというか。
「選ばれなかった者の恨みつらみ」みたいなものはもうまったくなくなってしまった。
ぼくはそういう変化を基本的には「良いこと」であると思っています。
昔のオタクは知的だったけれどいまはただの凡人になってしまった、みたいな言説はあきらかに幻想を拠り所にしています。
昔の知的なオタクってだれのことでしょう。思い浮かぶ名前は、だれもかれもそんなにインテリジェントには思えません。
だから、「オタクのライト化」という現象は、基本的には「良いこと」であって、歓迎すべきものである、ぼくはそういうふうに考えているのです。
ただ、すべてが完全に良い方向へ進むということはありえないので、その変化のなかで「失われていくもの」もまたあるはずではあります。
その「失われたもの」とは、おそらく「世間に適応できなかった人たちの居場所」みたいなものでしょう。
そういえば、コミケの昔といまに関する、こんな記事を読みました。
今の同人誌即売会しか知らない人には信じられないかもしれませんが、昔は島中(サークルの壁ではなく零細~中堅が配置される中央部分)でどこの誰が焼いたのかも判然としないクッキーが回ってきて、それを皆で食べたりとか、大手の本が買えなくてガッカリしている所を、前に並んでいて買えた人が「良かったら読みますか?」なんて言ってくれて、その場で読ませてもらったりとか、一般参加で並んでいる時に全然知らない人同士で話し込んでお互いの水筒に淹れてきた紅茶やスープを交換したりしてたんですよ。
そういう「同じ世間から爪弾きにされたもの同士」みたいな妙な連帯感があって、誰かが困っていたらすぐに助け合う(でも、ベタベタと余計な干渉はしない。その場限り)みたいな空気、自分はここにいていいんだという安心感を返してほしいと思っているだけなんです。(それが無理な願いであることは、重々承知しています)
売り上げ云々ではないんですよ。
http://kurumi47.hatenablog.com/entry/2016/01/24/180412
それはたしかにそうだろうなあ、と思うのです。
いまのコミケは、というかオタク界隈は、もう「世間から爪弾きにされた者」の居場所ではありえないことでしょう。
まあ、オタクが -
いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。
2015-11-29 05:5751pt
ども。11月も終わりですねー。
今年も残すは12月のみとなるわけで、毎年のことながら早いなあと思います。
ほんと、歳取ると一年が過ぎ去るのが速く感じますね。
今年のベストとして挙げたい作品はいくつかあるのですが、気づくとどれも青春物語ばかりです。
ぼくはもともと青春ものは大好きなのだけれど、今年はその方面に特に収穫が多かった気がします。
具体的には『妹さえいればいい。』であったり、『心が叫びたがってるんだ。』や『バクマン。』だったりするのですが、それぞれ共通点があるように思えます。
どうでもいいけれど、みんなタイトルのラストに「。」が付きますね。なんなんだろ、モーニング娘。リスペクトなのか?
まあいいや、その共通点とは「集団である目標を目ざして努力していること」です。
となると、『冴えない彼女の育てかた』あたりもここに含まれますね。
『エロマンガ先生』や『妹さえいればいい。』の場合、各人は個別で頑張っているわけですが、「良い小説を書きたい」という志は共通しています。
まあ、もちろん、集団で目標に向かうことは青春もののきわめてオーソドックスなパターンです。いま新しく生まれ出た物語類型というわけではありません。
しかし、いまの時代の作品がいくらか新しいのは、集団に必ずしも「一致団結」を求めない点です。
バラバラな個性の持ち主がバラバラなまま同じ夢を目ざす。そういう物語が散見されるように思います。
それは、やはりある種の「仲良し空間」であるわけですが、目標がある以上、もはや単なる仲良し同士の集まりではありえません。
そこにはどうしようもなく選別が伴うし、淘汰が発生する。実力による差別が介在してしまうのです。
それを受け入れたうえで、それでもなお、高い目標を目ざすべきか? それとももっとゆるい友人関係で満足するべきなのか?
その問いは、たとえば『響け! ユーフォニアム』あたりに端的に見られます。
そして、何かしら目標を目ざすことを選んだなら、そこに「祭」が生まれます。
ぼくたちの大好きな非日常時空間、「祭」。
その最も象徴的なのは文化祭だと思いますが、文化祭はいつかは終わってしまう。
それでは、終わらない祭を続けるためにはどうすればいいか?と考えたときに、お仕事ものに接続されるのだと思います。
『SHIROBAKO』ですね。あれは最も都合のいいファンタジーに過ぎないという批判はあるかと思いますが、でも、その裏には救いのない現実が存在するという視点はあるでしょう。
その上で、ファンタジーを描いている。終わりのない「祭」の夢を。
それは創作の作法として十分に「あり」なのではないでしょうか?
ちなみに、 -
友達さがしの向こう側で見つけた世界。
2015-11-21 22:1351pt
けれども、いま2015年後半以降になって、連続で見たものを全部思い出してみても、特にライトノベルの最前線は、男女同数のように男性キャラクターがバランスよく出てくるようになってきている感じがするんですよね。大御所である『妹さえいればいい。』とこの伏見さんの『エロマンガ先生』も、なんというか、そういう感じになっている気がする。
なんか、みんな同じ設定、同じ何かを見ている気がするんですよね。その「なにか」が、まだ言葉にできていないんですが、なんか似ているんですよね。黒猫一択のような、ヒロインにはまってしまうというのとは違う感じの魅力で、、、、伏見さんの『エロマンガ先生』も『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も、どっちもやっぱり大事なのは、友だちを得ていくこと、それが大きな基盤のテーマですよね。ほとんどテンプレで、ほとんど同じなんだけど、、、、何かが決定的に違うんですよね。『エロマンガ先生』と『妹さえいればいい。』は、その何かがはっきり見えている感じがします。それが何なんだろう?って凄い思うんですよね。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151121/p1 いま、それ考えています(笑)。
平坂読『妹さえいればいい。』と伏見つかさ『エロマンガ先生』の共通項を考えていくと、まずは当然、両者ともライトノベル作家を主人公にした作品であるということが挙がると思います。
もちろんそれはどちらが真似したとか追随したという次元の話ではない。
むしろ同じコンセプトを追求した結果、必然的に同じシチュエーションに至ったということなのではないかと思いますけれど、とにかく似たような設定を用いている。
問題はそれが何を意味しているかということで、そこのところがよくわからない。
わからないけれど、でも、「何か」があるとは感じるんですよね。
なんだろう。それはたぶんこの二作品だけじゃなくて、最近、ぼくが感動した青春系の映画『バクマン。』とか『心が叫びたがってるんだ。』とも共通しているものなのだと思います。時代の最先端の精神。
まず、これらの作品にあきらかに共通しているのは、何かしらの仕事ないし作業に集団でのめり込み、熱中し、夢中になって没頭するということです。
『バクマン。』の結末を見れば自明ですが、ここでほんとうの目標になっているのは社会的成功ではない。他人の評価でもない。
むしろ、熱中することそのものが価値となっていると思うのです。
何かに夢中になって努力する。そのことそのものが目的なのであって、それが社会的にどう見られているかは問題ではないということ。
『妹さえいればいい。』の最新刊で、主人公である伊月はもっと成功したいという夢を赤裸々に語りますが、それはべつだんベストセラーを出したいということではないということも並行して描かれています。
かれが目指しているのは究極的には形がないスピリットであって、具体的な成功ではないのです。
『バクマン。』は『少年ジャンプ』的な「努力・友情・勝利」を描きますが、「勝利」の描き方が以前とは異なっています。
べつにナンバー1になることだけが勝利なのではない。敗北の苦い味を噛みしめることもまたそこではバリューなのです。
で、大切なのはここでは男女入り混じった集団でひとつの目標を目ざしているということ。
それは『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』ではライトノベルやイラストであり、『バクマン。』では少年漫画であり、『心が叫びたがってるんだ。』ではミュージカルでしたが、とにかく主人公たちに共通の目標というか志が設定してあるところが同じです。
そしてかれらはその目標に向かって一心不乱に頑張りつづける。
それは一種の「仲良し空間」には違いないでしょう。
たとえば『ペルソナ4』や『仮面ライダーフォーゼ』で描かれたような。
しかし、ただの「仲良し空間」ではなく、互いに切磋琢磨する関係であることもたしか。
その結果、男女や友達の描きがどうなるか? -
平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。
2015-11-18 17:5151pt
きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。
現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。
いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。
この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。
紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。
各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。
だから、関係性はどんどん変化していく。
しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。
ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。
いや、このいい方は誤解を招くかな。
もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。
いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。
ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。
ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。
でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。
そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。
平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。
はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。
この作品にはぜひヒットしてほしいですね。
それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。
その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。
同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。
平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。
しかし -
カーストシステムは強者をもさいなむ。
2015-11-09 02:1351pt
寒くなって来ましたね。
こういう寒い日々は家でストーブの前に陣取って萌え四コマを読むに限る、ということで、この頃、漫画『ちいさいお姉さん』を読んでいます。
ゲームが大好きな「ちいさいお姉さん」と弟の他愛ない日常を描いた四コマ漫画。
本来、ぼくが手を出すような作品ではなく、特に序盤の辺りはそこまで傑出して面白いというわけでもないので、薦められなかったら読んでいなかったかも。
ところが、この作品、第3巻できょうだいの日常を離れ、群像劇的にほかのキャラクターも描くようになってから急速にぼく好みになってくるんですね。
群像ゲームオタク四コマというか、とにかくゲームが好きな人たちがいっぱい出て来る漫画です。
そのなかのひとりとして、自分はロリコンじゃないかと思い悩むエリートサラリーマンオタクの人が出て来るんですけれど、この人の造形が実にいい感じ。
ある意味、作中でも極端にリアリティがない設定のキャラクターなんですけれど、妙に親近感が湧きます。
この人は典型的な「持っているもの」と「ほんとうに欲しいもの」がずれている人なんですね。
エリートで、仕事もできて、モテモテで、と三拍子そろった人生を送っているわけなのですが、ほんとうはそんなもの欲しくないんですよ。
ただちいさくて可愛い女の子が好きでならないだけのエロゲオタだったりするわけなのです。
この人を見ていると、ああ、人間ってやっぱりそうだよなあと思えて来るのです。
「すでに持っているもの」がいつも「ほんとうに欲しいもの」と一致していればひとは幸せでいられるのだろうけれど、じっさいにはそういうことはめったにないですからね。
だから、手に入れても、手に入れてもなかなか幸せになれない。それが現実。
この人の場合、「ほんとうの自分」を認めてしまって、周囲からも認められれば幸せになれるのだろうけれど、イメージが邪魔をするわけです。
あんなにイケメンで格好良くて颯爽としている人が二次オタなんてありえない的なイメージ。
ひとは社会のなかでかくも自由ではありえないということ。むずかしいですね。
ちょっと話を広げると、カーストとかヒエラルキーとかいう制度は、その下のほうにいる人間を苦しめるだけでなく、じっさいには上のほうにいる人間をもさいなむものだと思うのです。
だって、べつにカーストの上位にいるからって、それに適応した人格だとは限らないのですから。
カーストの上位にいることに誇りを抱き、それに満足できるような性格の人ならいいだろうけれど、必ずしもそうとは限らないわけですからね。
これは
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