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グリット――ベイビーステップで成長するために必要なメンタル。
2016-11-21 15:5351pt小説を作っていると、「才能」ということについて考えます。何をするにしろ、ひとには才能の有無がある。もちろん、「ある」か「ない」かに分けられるほど単純なものではありませんが、他人より秀でた人もいれば劣った人もいることは事実です。
たとえば音楽などの芸術的才能などは歴然と差が出るものだといえるでしょう。小説ももちろんそうです。創作をするとき、多くの人が「才能の限界」にぶつかり、その道をあきらめてしまいます。
しかし、ほんとうに良い作品を創り出せるかどうかはあらかじめ才能によって決まっているのでしょうか? ぼくは、必ずしもそうではないと考えています。
たしかに才能の差は大きい。あまりにも大きい。しかし、それがすべてではないと考えたいのです。為末大さんの『限界の正体』という本も書かれていますが、ひとは限界に到達する前に「ここが限界だ」とかってに自分で決めつけてしまうものです。
「どうせいくら頑張ったってあいつにはかなわないよ」とか「才能がないからダメに決まっている」とか。つまり、人はしばしば「ほんとうの限界」の前に「心理的限界」を設定してしまうのです。
そして、さらにその「心理的限界」の手前で努力をやめてしまうこともあります。そうなると、「ほんとうの限界」のずっと前までしか到達できないことになります。これでは、結果が出ないこともあたりまえです。
為末さんはかつて陸上界で信じられていた「1マイル4分の壁」という話を持ちだします。その昔、スポーツにおいては「1マイルを4分以上のペースで走ることは人間には不可能である」という「常識」がまことしやかに信じられていたといいます。
その記録は長年にわたって越えられず、まさに「壁」であると考えられていました。ところが、ある人物がその「壁」を乗り越えると、それから1年以内に23人もの人物がその「壁」を越えてしまうのです!
つまり、じっさいには「限界の壁」など実在せず、ただ「心理的な壁」だけが存在していたということです。これこそまさにひとが「ほんとうの限界」に到達することを阻む「心理的限界」です。
それでは、「ほんとうの限界」に到達するにはどうすればいいのか? -
あきらめのその先に続く世界。相田裕『イチゴーイチハチ!』が日常系の新境地を切り開く。
2015-04-01 05:5051pt
相田裕の新作『イチゴーイチハチ!』を購入しました。
『GUNSLINGER GIRL』が完結して以来、ひさしぶりの商業作品ですが、『バーサスアンダースロー』のタイトルで同人誌で出版されていた作品のリメイクとなります。
第1巻でほぼ同人誌収録分を消化した感じですね。
これが素晴らしい内容で、非常に読ませます。今年の漫画ランキング暫定首位は間違いないところ。
それでは、この作品のどこがそれほど良いのか。
いろいろな評価が既に出ていますが、ぼくはこれは「挫折」と「諦念」の先の「キラキラした日常」を描こうとしているのだと判断しました。
運命に翻弄され、すべてを失い、夢をあきらめたその向こうにある「楽しさ」。それがこの作品のテーマなのではないかと。
『妹さえいればいい。』もそうなのですが、「日常系」と呼ばれたジャンルはここに来ていっそう深みを増している印象がありますね。
物語は、怪我によって野球の道を断念したひとりの少年が、その高校の生徒会に入って来るところから始まります。
かれはほんらいプロを目ざせるほど優れた資質のもち主だったのですが、いまとなってはその道は断念せざるを得ません。
その生徒会のほかの面々は、かれに「野球以外の楽しいこと」を教えようとするのですが――という話。
ぼくはここにある種の「諦念」の物語を見ます。
不条理な現実を受け入れ「あきらめること」の物語といってもいい。
普通、「あきらめ」はネガティヴな文脈で使われる言葉です。しかし、ひとはあきらめることなしには先へ進めない局面がある。
どんなに頑張っても自分の意志が世界に通じないという現実を受け止め、受け入れ、その上で前へ進むとき、「あきらめ」にはポジティヴな意味が宿るのではないでしょうか。
高河ゆんの『源氏』に、平清盛に仕える嵯峨空也がその清盛に捨てられた白拍子の少女を祗王寺へと連れていくエピソードがあります。
そこでは、彼女自身かつて清盛の愛妾であった女性祗王が、かれの無事を祈願していました。
ただ一時愛された思い出だけでここまでできるものなのか、と問い質す空也に対し、祗王は平然と言ってのけます。
「仕方がありませんわ 英雄色を好むと申します 女は華でございます 咲いて散るものです それが運命です 華と生まれたことになんの不満があるでしょう」
そんな言葉を受け、空也は呟きます。
「……わたしは「仕方ない」という言葉が好きです あきらめよりも何か決意を感じさせます」
ぼくはこの場面と台詞が非常に好きです。初めて読んだとき以来、強く印象に残っています。
それではこのやり取りをどう解釈するべきでしょうか。
普通に読むぶんには「女は華でございます 咲いて散るのがさだめです」とは、やけに古風な女性観とも思えるし、男の心変わりを「仕方ない」と受け止める姿勢は後ろ向きとも思えます。
しかし、空也はその「仕方ない」を好きだといい、ただの「あきらめ」と区別して「何か決意を感じさせます」と語っています。
つまり、ここでは「仕方ない」にただの「あきらめ」以上の意味が見いだされているのです。
それはどんな意味でしょう。結論から書くと、ここで語られているものは「ポジティヴな諦念」というべきものであるように思えます。「建設的なあきらめ」といってもいいでしょう。
それはたしかに「あきらめ」には違いないのだけれど、決してネガティヴな意味での「あきらめ」ではない。あきらめることによって前へ進んでいこうとする、意思の力を秘めた諦念なのです。
『イチゴーイチハチ!』の「あきらめ」も、この「建設的なあきらめ」だといっていいと思う。
おかしなことをいっているように思えるでしょうか。
そうではありません。正しい「あきらめ」はその人自身の意思によってなされるものです。
そしてひとはその種のあきらめなしでは生きていけません。生きることとはあきらめつづけることである、ということもできるでしょう。
それでは、負の意味でのあきらめと正の意味でのあきらめをどう区別すればいいのでしょうか。
答えは単純ではないように思えます。たとえば、その道をあきらめることでほかの道を進めるようなあきらめ、ひとつあきらめることで最終的なゴールにより近づくようなあきらめ、そういうあきらめが「良いあきらめ」だ、ということはできるでしょう。
しかし、そのいかにも合理主義的な選択に、ぼくは小さな、しかし見過ごせない違和を抱きます。ほんとうにそんな合理主義的にだけ考えることが正しいのか。
為末大に『諦める力』という著書があります。まさにここでいう「ポジティヴな諦念」について書かれた本です。
しかし、やはりそこでの諦念は「合理主義的な諦念」の次元に留まっている。
ある道を行ってもどうせダメなのだとわかったらさっさとあきらめてほかの道へ行くべきだ、そちらの選択のほうが合理的だ、というような話なのです。
ぼくは、この話に何かとげが刺さったような違和を感じます。
『イチゴーイチハチ!』でいうなら、野球がダメだとわかった少年はべつの道で成功を目ざせばいい、野球にはもう見込みがないのだから、というような話になるでしょう。
ですが、ほんとうにそんなふうに簡単に割り切れるものでしょうか。
割り切るべきなのだ、という思想は正しいかもしれない。けれど、やはり割り切れない思いがある。
『イチゴーイチハチ!』はそんな「どうしても割り切れない思い」を描いています。
そして、「その先にあるもの」を描こうとしているように思います。
為末さんの発想は、ある「競争」で敗者になることを受け入れることによって、べつの「競争」で勝者になろう、というものです。
しかし、それでは、どんな合理的な手段を選んでもどの道でも勝利できない人間はどうすればいいのか。
たとえば、不治の病にかかって余命いくばくもなくなってしまったとき、ひとはやはり絶望するしかないのだろうか。
そうではない、そういうときにこそ「あきらめる力」が必要になってくるのではないか、というのがぼくの考えです。
「あきらめる力」とは「受け入れる力」であり、自分の意志ではどうしようもない現実を受け入れる強さのことだと思うのです。
どうにもままならない過酷な運命を受け入れて一歩一歩前進していこうとする意思――それをぼくの言葉で「戦場感覚」と呼びます。
「あきらめ」と「絶望」は同じものに見えるかもしれない。しかし、ぼくとしてはこういいたいところです。
絶望的な現実を前にしても絶望しないためにこそ、諦念が必要となるのだ、と。
「あきらめる力」とは、ただ単に競争における勝利を目ざすための方法論ではない、一切の勝利がありえない状況をも受け入れるそのための力なのではないか、と。
そして、『イチゴーイチハチ!』はそこから一歩進んで、「あきらめたその先」を描こうとします。ここがほんとうに凄い。
「いつどんな不条理なことが起こるかわからない現実世界」を「新世界」と呼ぶなら、『イチゴーイチハチ!』はその「新世界の楽しみ方」を描こうとしているように思います。
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