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いま、「主人公になれない者たちの物語」が熱い。
2016-04-10 01:5851pt
最近、ペトロニウスさんやLDさんと「いまの時代のトレンドは何か?」ということを話したりします。
この場合、話しているのがぼくたちなので、最新ファッションのトレンドではなく、アニメや漫画の流行のことを指しています。
で、色々と話してみたのですが、どうもよくわからないというか、はっきりした答えが出てこないのですね。
というのも、単純にトレンドを語るにはすでに市場が成熟しすぎているのだと思います。
いい換えるなら、支配的なトレンドが成立しないほど多様化が進んでいる。
一見すると甘ったるい萌えアニメばかり、安っぽいファンタジーばかり、といった状況に見えるかもしれませんが、よく観察してみるとあきらかにその観測は正しくない。実に色々な作品が共存しているのです。
たしかに『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』みたいなひとをダメにするアニメ(笑)もありますが、その一方で『灰と幻想のグリムガル』とか『Re:ゼロから始める異世界生活』のようなめちゃくちゃきびしい話も存在している。
その片方が市場を席捲するという状況ではもはやなく、常時甘ったるいものときびしいものの両極のあいだの作品がグラデーションをともなって提供されつづけているのが現状ということになるでしょう。
狭い観測範囲ばかり見ているとダメダメな作品ばかりが提供されつづけているというふうに見えるだけのことで、全体をしっかり見ていけばきわめて多様でしかも質が高い作品が存在する現状は明白です。
これはもちろん素晴らしいことなのですが、たぶんアニメや漫画だけではなく、ほかの文化ジャンルを見てもそうなのでしょう。
2016年現在、日本の文化状況はひと言では語れないほど成熟し多様化しているという見方が正しいように思われます。
だから、決して「いまのトレンドはこうだ!」ということはできないのですが、それにしてもきびしい物語が続いているなあ、と感じます。
ぼくたちの言葉でいうと「新世界系」ということになるのですが、登場人物を容赦のない現実に晒すことを特徴とする物語が散見される。
特に『進撃の巨人』以降、そういう物語が続いているように感じられます。
先述の『グリムガル』や『Re:ゼロ』のほかにも、たとえば『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』も非常にきびしい話ですよね。
ある意味ではそれはひたすらに甘い日常を楽しむ萌えラブコメの対極にある世界ということもできるわけですが、その両者が併存する環境こそが理想的な状況だといえるとぼくは思っています。
結局のところ、人生とはただ甘ったるいだけのものではありえない一方で、辛いだけのものでもありません。
ひどく残酷で容赦がないその一方で、信じられないような奇跡的な出来事も起こりえるのが現実の人生なのだと思う。
しかし、クリエイターがリアリズムに徹しようと考えるとき、ただひたすらに暗く救いのない現実「だけ」を描こうとする傾向があるように思われます。
それはそれでもちろん人生の一断面を正確に描き出しているのだけれど、それこそが人生の真実なのだといわれると何かが違っているように思われます。
たとえば甘い恋愛の喜びにしたところで、決して嘘ではありえないのですから。
だから、こんなアニメばかり見ていると人生がダメになる!と思われるような萌えアニメを見るのも必ずしも悪いことではないと思うのですよね。
たしかにそればかりを見ていると致命的に何かを間違えてしまうかもしれませんが、他方できわめてきびしい現実を突きつけるようなアニメもちゃんとやっているわけですから、それも並行して見ればいい。何も問題ないと思うのです。
そういうわけでそのきびしい物語の話をしたいと思います。
最近、『ちはやふる』の実写映画版を見て来ました。
これが面白くて、漫画版はちはやの物語であるものを、太一の物語に見えるよう再編集されているのですね。
漫画版でもちはやよりは太一が主人公のように見えなくもありませんが、映画は完全に太一の物語以外の何ものでもない。
これは非常に現代的だなあ、と感じ入りました。
原作を読んでいない人たちのために説明しておくと、太一とはイケメンで頭が良くて金持ちの息子、というすべてがそろった少年なのですね。
しかし、『ちはやふる』のメインテーマである競技かるたに関しては特別な才能を持っていない。
ほかのすべてを持っているのに、かるたにおいては二流ということに、強いコンプレックスを持っている。そういう造形のキャラクターであるわけです。
かれは物語の主人公にしてヒロインであるちはやに恋し、彼女の心を射止めるために好きでもないかるたに熱中するのですが、「かるたの神さまに選ばれていない」という劣等感は消せません。
映画はそんな太一にフォーカスし、かれの切ない想いを追いかけていきます。
これは非常に現代ふうの物語だなあ、と感じます。同時に、最近の青春映画ではよく見られるパターンでもあるな、と。
ここしばらく、ぼくは日本の青春映画を追いかけているのですが、それらは一様にひとつの特徴を備えているように思います。
あらかじめ敗北と挫折がプリセットされているということ。
『くちびるに歌を』でも、『バクマン。』でも『心が叫びたがっているんだ』でも、そこは共通している。
もちろん古典的な青春映画でも挫折は付き物ですが、これらの作品では最後の最後まで挫折が付きまとっています。
敗北と挫折を乗り越えて勝利を手に入れるという側面がなくはないのですが、『バクマン。』あたりに典型的なように、その勝利のさらに先にはやはり敗北が待っているのです。
『心が叫びたがってるんだ』などは最終的にはそれなりの成功にたどり着くのですが、それにしてもきわめて局地的な成功に過ぎません。
全国大会優勝!とか、そういうことではない。
このスケールの小ささがきわめて現代的で特徴的だと思います。
努力して大成功をつかみ取るという結果で終われないということ。
もちろん、ただスケールが小さいだけの物語は面白くない。
だからなぜそういう物語が登場してきているのかということが重要だと思う。
先に答えを述べてしまうと、それは「選ばれていない者たちの物語」を描くためではあると考えられます。
アニメ『輪るピングドラム』が「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉とともに始まったのはしばらく前のこと。
それから時間が経って、「きっと何者にもなれない者たち」が主役となる物語が続いているといういい方もできる。
これは映画ではなくアニメですが、『灰と幻想のグリムガル』がやはり最も特徴的だと思います。 -
球磨川禊の優しすぎる嘘。(1253文字)
2013-04-07 10:4653pt
『少年ジャンプ』掲載の『めだかボックス』最新話で、球磨川禊がめだかの前に立ちふさがっている。「在学中に必ずめだかに勝つ」と誓うこの「敗北の星の下に生まれてきた男」がほんとうに勝てるのか、それともやはり宿命には抗えないのか、次号に注目だ。
いうまでもなく球磨川はとても人気があるキャラクターである。人気投票では2位以下を引き離してぶっちぎりの首位を獲得している。「絶対に勝てない男」が連載の外で大勝利してしまっているわけで、ちょっとおもしろい話。
それでは、球磨川の魅力はどこにあるのだろうか。それは「絶対に勝てない」「ひとには疎まれる」「性格は最悪」というもろもろのネガティヴ条件を受け入れてひょうひょうと生きていくその自然さにあるのだと思う。
球磨川は初め負の能力を持つ「マイナス」たちのリーダーとして物語上に登場してきた。かれは「社会に受け入れられないもの」たちのトップであり、だれよりも不幸でだれよりも根性が悪いキャラクターだといわれていた。
球磨川はきっと「だから、自分には不幸な人間の気持ちがわかる」と考えているのだろう。ひとは自分より幸福な人間を妬み、恨む。しかし、「だれよりも不幸でみじめ」な自分はだれにも妬まれない。だから、自分は不幸な人々の仲間であることができるのだ、とも。
しかし、それはやはり嘘だ。現実には球磨川に嫉妬する人間も絶対にいるはずである。「あいつはマイナスのくせに恵まれている」と。球磨川はそういう人間に対して「いやいや、ぼくはこんなに不幸だよ。悲惨だよ。非モテだよ。非リアだよ。だからきみの仲間なんだよ」と示しつづけなければならない。そうしなければ球磨川の嘘は成立しないのだ。
不幸な者同士の、あるいは自分を不幸だと思っている者同士なら理解しあえる。それはあまりに哀しくて優しい嘘。球磨川というキャラクターが人気を獲得したのは、哀しいほど優しい人間だからなのだと思う。
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