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  • だれでもふたつ憶えておくだけで文章が上手くなる豆知識。

    2020-12-21 06:08  
    50pt

     文章術の本が好きだ。少しでも上手く文章を書けるようになりたいと日々切望しているから、参考になりそうな本は片端から読むことにしている。
     ところが、この手の本で実践的に役に立つものというと、意外に少ない。有名な本はいくらでもあるが、いずれも意外に内容が抽象的で曖昧なのだ。
     あの大文豪・谷崎潤一郎の高名な『文章読本』など、最初からいきなり「感性を磨きなさい」みたいなことが書かれてある。それはたしかにその通りだろう。しかし、いかにも迂遠な話で、すぐに役に立つとは惟(おも)われない。
     音楽の教本にはあまり「感性が大事」みたいなことは書かれていないだろうから、文章技術の話がいかに曖昧になりやすいかがわかる。
     世の中にはあきらかに「良い文章(名文)」と「酷い文章(駄文)」があるのだが、その両者がどこがどう違うのかは意外に説明しづらいものなのだ。
     そのわかりそうでわからない微妙な、それでいて決定的な違いをどうにか明快に語った本はないものだろうか、ぼくはずっと探していた。で、ここで巷で話題の古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』の話になる。
     この本は「名文」と「駄文」の違いをかなり明瞭に断定している。それは「論理性」にもとづく「リズム」の違いだというのだ。
     「論理」とは「論」が「理」によって裏打ちされていることである。つまり、文章は「そこで語られている論」が綺麗に「理」で説明されているほどリズミカルになり、読みやすくなるという理屈である。
     これは一面的ではあるが、真実だろう。ぼくも文章においてまず大事なのは論理性だと考える。もちろん、一定の限度はある。自然言語での論理性は、どうしても完璧とはいかない。それでも、可能な限りクリアにロジカルに書くべきだ。
     それができて、初めて「美しい文章(美文)」を目ざす門のまえに佇(た)てる。美文とはただ感傷的な語句を並べ立てれば良いというものではない。そこにはどうしても透徹した論理が必要であり、それがあって初めてレトリックの「美」が際立つのだ。
     まあ、ほんとうに一読して「美しい」と感じさせられる文章を書ける人など、いまの日本にもめったにいないとは惟うけれど。
     そういうわけで、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』はなかなか良い本だった。文章術の本としては初歩的な内容だが、この本を読んでいるといないのとでは大きな違いがあるだろう。オススメである。
     ちなみに、ぼくの場合の文章術の基本を、以下にほんの少しだけ公開しておこう。ぼくはいわゆる「上手い」文章を書くためには最低限、以下のふたつの認識が必要であると考えている。

    ①「構想」と「構成」は違う。
    ②「文」と「文章」は違う。

     この二点を頭に入れるだけで、文章は劇的に上手くなる。必ず。少なくとも他の多くの人の文章とは確実に差がつく。なぜなら、プロの書き手はともかく、ほとんどの一般人はこの単純な事実を理解していないからである。
     偉そうなことを云っているようだが、ぼく自身、このことに気づいて言語化できるようになったのは随分と最近になってからだ。気づいてしまえばどうということはない事実なのだが、気づくまでは意外と大変なのである。
     どういうことか? まず①。この場合の「構想」とは「頭のなかで書きたいテーマについて思いを巡らすこと」、そして「構成」とは「その巡らせた想いを正しい順番に並べること」である。
     違いがわかるだろうか? つまり、「構想」は古賀さんが「ぐるぐる」と云っているものを頭のなかに浮かべる行為なのだ。「何を書こうかなあ」と脳裡に思考を展開し、ああでもないこうでもないと考える。
     あるいは紙に書いたり、エディタにメモしたりするのも良いだろうが、とにかく「ぐるぐるぐるぐる」と延々、考えるわけである。これはいわば文章の「素材」を用意することだと云っていい。
     それに対し、「構成」はその「ぐるぐる」を的確に並べていく作業になる。云わば用意された「素材」を「料理」することに相当するだろう。
     『20歳の自分に受けさせたい文章講義』には、「起承転結」とか、「序論・本論・結論」といった構成のスタイルが紹介されている。そのいずれを採用するかはともかく、とにかく適切な順番で話を展開することが重要だ。
     ちなみにぼくは我ながら構成力がいまひとつのところがある。それもこれもすべての文章を一切構成せずに頭のなかで完結させて書いているからである。はい、手抜きですね。どうもごめんなさい。
     いや、ちゃんとした依頼を受けて文章を書くときは ブログの文章くらいは良いかな、って。イイワケですね。ごめんよー。この文章も文頭からつらつらと書いています。ダメじゃん。
     それはともかく(と、強引に話を変える)、②である。この「文」と「文章」の違いがわかると、文章力が劇的に成長します。注目。この場合の「文」とは、即ち「一文」を指す。つまり、

     わたしは丹念に薔薇の花びらを摘み取った。

     とか、

     かれは人情家で、始終、金を貸しては逃げられている。

     といった、句点で区切られた文のことだ。この「文」が集まって、全体として「文章」を形づくる。だから、「文」と「文章」を「一文」と「文章全体」と云い換えれば、もう少しわかりやすいだろうか。
     それがどうした、あたりまえのことだろう、と惟われるだろうか。そうではない。重要なのは、この「文」と「文章」には、それぞれに「構成」が存在するということなのだ。
     そして、「文(一文)」の構成とは単語を順番に並べることである。それに対し、「文章(文章全体)」の構成とは、 
  • 熱論再び! 『幸せになる勇気』があなたを啓発する。

    2016-03-06 00:20  
    51pt

     日本と韓国の双方でミリオンセラーを記録した名著『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』を読みました。
     前作はぼくにとって十年に一度ともいうべき傑作だったわけですが、それに続く本作の出来はどうか?
     よくあるベストセラーの二番煎じに過ぎないのか? ありふれた商業主義の果実でしかないのでは?
     否、否、否。本作も前作に引き続いてきわめて刺激的な議論が続き、まさに「勇気の二部作」完結編の風格を示しています。
     というより、前作と合わせて二冊で一冊の作品と考えたほうがいいでしょう。
     前作を読んで消化不良だった人も、本作を読む価値はあります。
     なぜなら、この本では『嫌われる勇気』を読んだひとが疑問に思うかもしれないところが逐一解説されているからです。
     前作で友情を誓って別れた「青年」と「哲人」はこの本で再開し、再び議論を開始します。
     はたして目くるめくロジックのたどり着くところはどこなのか? 前作を味わえた人なら本書も楽しめること間違いなしです。
     そもそも『嫌われる勇気』には、日本ではもうひとつ知名度が低いアドラー心理学の入門書という側面がありました。
     時代に100年先んじているという「自己啓発の源流・アドラーの教え」を、アドラー研究者である「哲人」とかれの思想に疑問を抱く「青年」の対決という形で描くという卓抜なアイディアは、いま考えても素晴らしい。
     結果としてはアドラーの常識を超越した思想を伝えるためにこれ以上の形式はなかったといっていいでしょう。
     「結果としては」と書くのは、いままでの出版の常識ではこのような形式は想定されていないから。
     小説でもなく、物語でも、実録でもなく、「対話篇」ともいうべきこの独特のスタイルは、一切の出版上の思い込みを排したところで生まれたのだと思います。まさにアドラーの思想そのもののように。
     それでは、『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』全二冊を通じて語られたアドラーの教えとはどんなものなのか。
     それは「心理学」と名付けられているものの、ギリシャ哲学の正嫡ともいうべき剛健な思想です。
     常識を疑い、あたりまえのことに逆らうきわめてオリジナリティの高い考え方。
     世界的にはフロイトやユングと並び称されているというアドラーの哲学は、『嫌われる勇気』のなかできわめて明快に解説されていました。
     ひとは他者から嫌われる勇気を持つことによって自立することができるということ。
     自分と他人の「課題」は分離しなければならないということ。
     そして、人間は過去のトラウマに縛られるような弱い存在ではないということ。
     いずれも現代の一般知識からすれば非常識ともいうべき発想です。
     しかし、それらすべては「哲人」その人によってとてもわかりやすく解説されたのでした。
     そして、「哲人」を論破するべくかれの家を訪れた「青年」も納得して去って行ったのです。
     ところが、 
  • 十年に一度の一冊。『嫌われる勇気』は人生を変えてしまう本だ。

    2014-03-12 22:24  
    53pt


     岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』読了。
     書店でこの本を手にとったのは、伊坂幸太郎の帯に惹かれたからだった。曰く、伊坂が小説を書くなかで考えてきたことが、本書のなかにも記されていると。
     興味が湧いて、一読した。感動した。すばらしい。すばらしい。すばらしい。この十年間で読んだ本のなかでも、ベストといえる一冊だ。
     「自己啓発の源流」というサブタイトルから、いくらか胡散臭い内容を想像するひともいるかもしれない。しかし、本書に胡散臭いところはまったくない。どこまでも単純にして明瞭。これ以上なくわかりやすい「自己啓発」の一冊なのだ。
     少なくとも凡庸な自己啓発書を何冊読むよりも、本書一冊を読んだほうが良いだろう。それくらい知的かつ刺激的な一冊である。
     そう云っても、まだ怪しく感じられる人もいるかもしれない。たしかに、本書の内容は世間の常識に反している。たとえば本書は語る。世界はシンプルなところだ。そして人生もまた同じなのだ、と。
     信じられるだろうか? 世界は不条理にして混沌、どこまでも複雑で見通せない。それが「大人の認識」というものだろうに。
     しかし、読み進めていくほどに、その内容にも納得がいくことになる。本書一巻を通して語られているのは「アドラー心理学」「個人心理学」と呼ばれる「哲学」だ。それは場合によってはあなたの人生そのものを変えてしまうほどに激烈な毒を含んでいる。
     毒。そのように掲揚することはいささか心苦しい。じっさい、ぼくはこの本を読むことによって巨大な影響を受けた。いままでの人生で、小説を除けば、これほど影響された本はないと云ってもいいかもしれない。
     だが、それは既存の価値観を崩壊させ、新たな人生へ向かわせるという意味で、やはり、「毒」と形容したいようなものだ。
     本書で語られている「心理学者アドラーの教え」はあまりにも厳しい。一歩間違えれば、すべてを自己責任に帰すだけの単純な精神論にすり替わるような気がしてならない。
     しかし、それでもなお、本書の教えはぼくの心を強く惹きつける。なぜなら、ぼくがいままで個人的に考えてきたことが、さらに明瞭に、さらにわかりやすくそこに綴られているからだ。まさに伊坂のように、ぼくもまたこの本のなかに自分を見たのである。
     地上の真理を会得した「哲人」と、かれを論難しようとする「青年」の対話の形式で本は進んでいく。「哲人」が語るアドラーの教えは劇薬のように苛烈なもので、「すべての人は幸福に生ることができる」と説くものである。
     哲人の、アドラーの教えはこうである。あなたの幸福はあなたが決めて良いのだ、否、あなたが決めるよりほかないのだ、と。あたかも、ひとの幸不幸とはだれも踏み込めないサンクチュアリであるというように。
     幸福は外部の条件によってではなく、ひとの心持ちひとつによって決まる。云ってしまえば、陳腐な理想論と思えるかもしれない。しかし、それは真実なのだとぼくは思う。
     アドラー心理学が学問的にどのように評価されているのかわからないが、それはともかく、ぼくはこの「教え」に実に感銘を受けた。なぜなら、それは常々ぼくが考えてきたことを遥かに洗練させたものにほかならないからだ。
     そうだ、ひとはいつでも幸福になれるし、そうなってかまわないのだ。そのために必要なものは何か? 富か? 名声か? 洗練された容姿か? 否――何もいらない。ただひとつ、 
  • 書くために文才は必要ない! 古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』が秀逸。(1640文字)

    2013-01-12 14:48  
    53pt
    古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読み終えたので、その書評です。いやー、いい本だった。著者とぼくとでは考え方が違うところもあるのですが、それ以上に賛成できるところは多い。まあ、応用編に入るためにはここに書かれているような基本をひと通りこなせるようになってからだよな、とぼくも思います。どこの世界でもやっぱり基本が大事なのです。