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記事 7件
  • フェミニストはオタクの敵ではないのです。

    2016-07-22 02:27  
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     ども。海燕でゲス。
     フェミニストとして高名な北原みのりさんが「萌えキャラ」を批判してこんなことを書いているでゲス。

     ハッキリ言いますが、大人の女の多くは、少女ファンタジーにしがみつく大人の男を、キモイと思っています。萌えキャラがキモイ、というよりも、萌えキャラを重宝し濫用する男社会がキモイ。少女に向ける眼差しやファンタジーの過剰さに困惑し、どう身を置いていいかわからなくなるのです。なぜ男たちは、ここにいない少女たちを、執拗に求め続けるのか。その眼差しの空虚さに、恐怖するのです。
    http://dot.asahi.com/wa/2016070600233.html

     あー、はい。としかいいようがない意見でゲス。いまでもまだこんなことを書く人がいるんだなあ、とぐったりしますでゲス。
     たとえば、この意見をこんなこんなふうに書き換えてみると、この意見のどこがどう問題なのかはっきりします
  • 個人の立場が平等になればなるほど、幸福になる才能の格差があきらかになる。

    2016-07-02 18:36  
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     いまさらながら永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を読みました。
     すでに各所で話題のこの本、人気のあまり品切れが続き、電子書籍刊行の予定が早まったそうです。
     読んでみると、じっさい面白い。30歳を目前にして「さびすぎ」る日常を送る著者が、一念発起して「レズ風俗」へ行きちょっとだけ人生を前進するようすがセキララに描かれています。
     セールスポイントは物事を綺麗ごとに落とし込まない点にあるといっていいでしょう。
     自虐と自傷でズタボロになっている自分を分析するところから始めて、それならどうすればいいか? どうすれば「人生の甘い蜜」を啜れるのか? と著者が思索を進めていくようすは事実だけがもつ迫力に充ちています。
     「レズ風俗」という言葉を見て購入をやめる人もいるかもしれませんが、少しでも気になる方はぜひ読んでほしいですね。
     これは歳をとってもまったく大人になれない人間の実
  • 同性愛という概念はいつ頃生まれたのか知っていますか?

    2016-04-27 12:10  
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     牧村朝子『同性愛は「病気」なの?  僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』を読みました。
     『百合のリアル』の著者によるタイトル通りの本です。

     同性愛を「病気」、あるいは「犯罪」とみなし、さまざまな方法で「診断」、「分類」しようとした人々、そしてそれに対抗しようと試みた人たちの歴史を紹介しています。
     あなたは「同性愛(Homosexual)」という言葉、あるいは概念がいつの頃からあったものか、だれが作り出したものかご存知でしょうか?
     おそらくご存知ないでしょう。ぼくも知らなかった。なんとなく太古の昔からあるように思っていました。
     しかし、歴史的に見ればごく最近まで「同性愛」という概念は存在しなかったのだそうです。
     ひとはみな異性を愛するように生まれついているのだと素朴に信じられていて、同性との性行為は「病気」とか「犯罪」とされていた。
     それが「同性愛」という言葉で捉えられるようになるのは、1869年にケルベトニという人物が論文で発表したところから始まるのだそうです。
     つまり、「同性愛」という概念は、わずか150年ほどの歴史しかないわけです。
     そこから同性愛が「人権」として認められるまで、さまざまな人々の、まさにさまざまな苦闘がありました。
     そしてまた、その一方で「同性愛は病気である」とした人々の偏見や決めつけの歴史もまたあったのです。
     この本には、そういったこっけいとしかいいようがないような「同性愛治療法」の数々が紹介されています。
     しかし、ひとつひとつはこっけいであっても、現実にそれが通用してきた歴史があることを考えると、まったく笑えません。
     たとえば、ナチスでは「人工睾丸」を同性愛者に移植するという手術が行われていたという話を聞くと、おぞまさしさに震える思いです。
     「同性愛者」の歴史は、被差別と偏見にさらされてきた歴史でもあるということ。
     しかし、著者は過大な被害者意識に溺れることなく、あくまで淡々と、ときにコミカルに「同性愛」病理化の歴史を追いかけていきます。
     同性愛は生まれつきなのかそれとも後天的に身につけるものなのか? 幾人もの学者たちの多様な論説が紹介され、それらの問題点が現代の視点からつまびらかにされたのち、ついに「伝説の心理学者」エヴリン・フーカー登場に至ったときには大きなカタルシスがあります。
     当時、女性ひとりで男性社会に切り込んでいったこの人物は、友人である同性愛者フロムの頼みによって、当時の「同性愛研究」の権威的な学者たちに対して、こんな形で「挑戦状」を送りつけたといいます。

    ・フロムの人脈を生かし、男性同性愛者を(刑務所からでも病院からでもなく)30人集める。
    ・続いて、男性異性愛者も30人集める。
    ・合計六十人の被験者に、ロールシャッハ・テストなど、当時主流であった心理検査を受けてもらう。
    ・その結果をまとめたうえで、被験者のプロフィールだけ隠して心理学会の権威に提出し、「あなたたちはこの心理検査結果だけで同性愛者を見分けることができますか?」と問う。

     心理学会のお偉いさんたちは、自信満々でこの挑戦を受けて立ち――そして、だれひとりとして正解する者はいませんでした。
     やがて、百数十年に及ぶ長い長い「同性愛」病理化を巡る戦いは終わりを告げることになります。
     1973年、 
  • レズビアン妊娠活動漫画『ゆりにん』を読んでみた。

    2016-02-26 22:14  
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     ども。最近、料理に凝っている海燕です。
     凝っているとはいってもちろん家庭料理のレベル、それも初心者に毛が生えた程度の腕前ですけれど、日々、何を作ろうかなあと考えることは楽しいです。
     じっさいに作ってみると上手くいかなかったりするんですけれどね。
     きょう作った「えびとセロリの塩炒め」はしみじみと美味しくなかった。
     ていうか、セロリに火を通すとダメなんじゃないかな。このレシピは「お気に入り」から抹消しておこう。
     ちなみにダイエットも粛々と実行していて、合計で5キロちょっと痩せました。
     その時々でいくらかの増減はあるにしても、まずまずのスピードといえるのではないでしょうか。そろそろ停滞期に入る可能性もありますが……。
     さて、それとは特に関係ありませんが、きょう紹介するのはある同性愛カップルの妊娠活動を描いた『ゆりにん レズビアンカップル妊活奮闘記』。
     一作の漫画としてのクオリティは正直、オススメできるかどうか微妙なところにあるのですが、ほかに類例がない本であることは間違いないのでここでレビュっておきます。
     この本、あるとき、ふとしたことから妊娠・出産を目指すことになったひと組のレズビアンカップルの過酷な「妊活」を描いています。
     レズビアンと妊活という言葉がうまく結びつかない人もいるかもしれませんが、当然ながら同性愛者でも子供を欲しいと望む人は多く、じっさいに産み、育てている人も少なくないわけです。
     これまた当然のことながら女性同士のカップルでは精子を用意できないので、だれか第三者に提供してもらう必要があることにはなりますが、それでも子供を持ちたいと望む人はいる。
     よく同性愛者は子孫を残せないから不完全なのだとかばかげたことをいう人がいますが、じっさいには同性愛でも子供を産んだり育てたりしている人は大勢いるのです。
     この本の主人公たちもそんなカップルのひと組。ちょっとしたことをきっかけにして子供を持ちたいと希望し、それから長く大変な「妊活」に励むことになります。
     ひと言で「大変」と書きましたが、いや、これがほんとうに大変なんだ。
     まず、妊娠のための精子を手に入れることがむずかしい。
     やっと提供者が現れてその問題が解決しても、なかなか妊娠できない。
     さらには主人公には持病があり、それとの兼ね合いも探り探りになる。
     その上、過去の虐待のトラウマが突然よみがえったりする……。
     それはもう、「壮絶」といいたくなるような凄まじい展開が続きます。
     いやー、妊娠・出産するってほんとうに大変なんですね。
     幸いにというべきか、主人公たちの周囲には理解者や協力者が多く、彼女たちはその人々に助けられて「妊活」を続けるのですが、なかなか結果は出ません。
     そしてやがては 
  • 熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

    2016-02-06 13:35  
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     ふと思ったこと。
     よく同性愛者は異常だという人がいる。ネットを検索してみるとたくさん見つかるだろう。
     いまの常識から見ればそれは間違えた意見であるわけだが、そういう人と「議論」をしても相手の考え方を変えることは困難である。
     というか、何らかの信念を抱いている人と議論をしてその人の考えを変えようとすることはいずれも不可能に近いくらいむずかしいと思う。
     なぜだろう?
     それは、ようするに「言葉」とか「理屈」の次元で話をしているからだと思う。
     もちろん、議論は「言葉」で交わすよりないわけだが、そうやっていくら「言葉」を重ね、「理屈」を丁寧に説明しても、ひとの心は変わらない。
     なぜなら、ひとはほんとうは「言葉」や「理屈」でものを考えたりしていないからである。
     ほんとうは「心」ですべてを判断していて、その「心」を納得させるために「言葉」を生み出しているに過ぎないのだ。
     いわば「心」は基地で、「言葉」はその先兵である。
     だから、いくら「言葉」で相手を論破したところで、相手の「心」を変えない限り、ほんとうにその人を説得したことにはならない。
     同性愛者を嫌う人は、同性愛が異常である理由を、十でも百でも並べ立てるだろう。
     そして、同性愛者や同性愛者をサポートしようとする人はその「理屈」を打ち破ろうと自分たちの「理屈」を並べ上げる。
     ぼくの主観では、後者の理屈のほうが「正しい」ように思える。
     しかし、その理屈が「正しい」なら同性愛者異常説はそのうち消えてなくなるかというと、そうではない。
     それは「言葉」のレベルでは勝利していても、相手の本丸である「心」を変えることはできていないからだ。
     ひとは「心」が変わらない限り、また新しい「理屈」をいくらでも考え出してくる。
     「同性愛者が異常である理由」という「理屈」は、「同性愛者が嫌いだ。気持ち悪い」という「心」を正当化するために、無限に生産されつづけるのだ。
     つまり、だれかの意見が間違えていると思うとき、ほんとうに変えてもらうべきなのは「言葉」ではなく、それを生み出す「心」のほうであるわけだ。
     しかし、ひとの「心」を動かすことは至難である。
     そしてまた、ひとは往々にして「言葉」の次元での勝ち負けに拘ってしまうものだ。
     「言葉」による「議論」が概して不毛なのはこういう理由もあると思う。
     もちろん、相手を説得したり論破したりすること以外のところに目的がある場合はこの限りではないが。
     この話はべつに同性愛に限ったことではない。あらゆる何かしらの信念を持った人との議論にいえることである。
     たとえば一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちの議論は、限りなく不毛に陥りやすい。
     修正主義者たちは、たとえばあるユダヤ人虐殺が実はなかったということを説明するために膨大な量の「理屈」を持ち出してくるからである。
     それに反論する側はいちいちその「理屈」を潰していくしかないわけだが、どんなに「理屈」を否定してみせたところで相手は怯まない。
     ユダヤ人収容所が実在しなかったことのそれらしい理由など、その気になればいくつでも生み出されるものだからである。
     これは南京虐殺否定論でもなんでも同じことだ。
     ほんとうに問題なのは、差別や虐殺がなかったと思いたがる「心」のほうなのだ。
     しかし、 
  • 『ファイアーエムブレム』への同性婚システムの導入にまずは大きな拍手を送ろう。

    2015-06-25 02:20  
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     任天堂は6月24日、ニンテンドー3DS向けソフト「ファイアーエムブレムif」(25日発売)で、主人公キャラクターの同性婚が可能になっていることを明らかにした。同社が昨年発売した「トモダチコレクション」欧米版では同性婚ができないことで批判を受け、「次作では努力する」としていた。同社は今回の対応について「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」とコメントしている。http://news.nicovideo.jp/watch/nw1659408

     というわけで、『ファイアーエムブレム』の最新作で同性婚が可能になったようだ。
     『ファイアーエムブレム』の結婚システムはスーパーファミコンの『聖戦の系譜』以来のものであるわけですが、ついにそこに同性同士の関係が導入されたわけで、長年のファンとしてはなかなかに感慨深い。
     より保守的であることも可能であろう局面で、革新を選んだ任天堂の判断にひとまずは拍手を送りたい。
     じっさいにゲーム内でどのような描写になるのかはやってみないとわからないところだが、プレイしてみたいという意欲は増した。
     ただ、「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」といわれると、一抹の違和感を覚えないこともない。
     いや、文言としてはもちろん正しいのだが、多様性を反映させる方法が「主人公を異性、同性ともに結婚させることができるシステムを導入する」ことであるのかどうか、ぼくとしては微妙に迷うところだ。
     というか、『ファイアーエムブレム』一作がその手法を導入することは問題ないのだが、それがスタンダードとして今後のゲームにおいても活かされるべきかというと、そうとは思えない。
     あくまで『ファイアーエムブレム』一作の手法としては高く評価するというのがぼくの判断になる。
     とはいえ、任天堂のテレビゲームに同性愛の描写が導入されることはやはり画期的であり、その判断は偉大な英断であるといえる。
     ぼくとしては、それがなんらかの政治的な強制力を持たない限り、コンピューターゲームに同性愛の描写を増やしていくことには無条件で賛成だ。
     なんといっても、現在の状態が社会の実情を反映していないことは明白だからである。
     敵、味方の双方に一定の割合でLGBTがいることを前提としてシナリオが組まれてもいい。
     というか、そうなることが自然ではないだろうか。
     ただ、そういった配慮をシステムに落としこむときに、同性結婚を許容するという形が唯一の正しいあり方かというと、ぼくはそうは考えないということだ。
     ほかにもいろいろな方法論が考えられるだろうし、「恋愛/結婚描写が存在するゲームの主人公はバイセクシュアルであるべき」といえるかというとそうではないだろう。
     『ファイアーエムブレム』の方法論はひとつのやり方として尊重されてしかるべきだが、ほかのゲームはほかのやり方を考えてもいいと思う。
     LGBTを含む多様性の描写が「唯一の正しいあり方」に収斂していくのではなく、「無数の多様なあり方」に拡散していくことこそが、最も重要だと考える。
     ただ、いままでの国産ゲームでは「異性愛を前提とした異性婚に限定したシステム」以外がほとんどない状況だったのだから、それに比べれば一歩進んだとはいえるだろう。
     まあ、じっさいにプレイしてみないとその革新性についてはなんともいえないということも事実だが。
     いまの時点でああでもないこうでもないということは早計であるかもしれない。
     しかし、 
  • 『アルスラーン戦記』と「同性愛的な二次創作」の微妙で複雑な関係。

    2015-04-15 05:54  
    50pt

     作家の田中芳樹さんが所属している有限会社らいとすたっふの「らいとすたっふ所属作家の著作物の二次利用に関する規定」が改定されたことが話題を呼んでいる。
    http://www.wrightstaff.co.jp/
     「露骨な性描写や同性愛表現が含まれる」二次創作を禁止した項目を廃し、新たに「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まないこと」とする項目を加えたようだ。
     いままでの書き方ではことさらに同性愛描写を禁止するように受け取られかねないから、これは適切な変更だと思う。
     もちろん、らいとすたっふ側にそのような意図はなく、ただ「いわゆるカップリング」を抑制したいというだけの目的だったのだろうが、誤解や曲解を招きかねない表現であることに違いはない。変更されて良かった。
     しかし、この規定には微妙な含みがある。
     「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まない」なら、「いわゆるカップリング」的な同性愛描写そのものは「お咎めなし」にあたるのだろうか。
     判断はむずかしいところだと思うが、Twitterで検索してみたところ、いわゆる腐女子界隈の人たちはこれを「18禁でなければカップリングも問題なし」と受け止めている人も多いようだ。
     ただ、これで全面的にカップリング描写が認められたと見ることはいかにも早計には思える。
     原作者がそういう描写を好ましいと思っていないことはたしかだろうから、何かのきっかけで再度規定が変更ということもありえる。注意するべきではないだろうか。
     というか、あきらかに原作者が嫌がっているような二次創作を展開しても後ろめたさがありそうなものだが、そういうものでもないのだろうか。
     人それぞれだろうが、自分が気分良ければいいと思う人もいるのかもしれない。
     もともとが人気があり、これからさらに人気に火がつく可能性が高い作品だけに、今後、どういう展開をたどるのか注目してみたいと思う。
     それにしても、「同性愛のカップリング」一般を禁止することは、意外に色々な問題を抱えているようだ。
     シンプルに「同性愛のカップリングを禁じる」と書けば、それなら異性愛のカップリングは良いのか、それは同性愛差別ではないか、と受け取られる。
     しかし、作者の心理として自分のキャラクターがかってに同性愛者化されたところは見たくないという人がいても、それほどおかしいなこととはいえないのではないか(田中芳樹がそうだというのではないが)。
     じっさい、ぼくにしても、「同性愛的なカップリング」の禁止が同性愛差別化というと――やはり、それは違うんじゃないか?と思える。
     まず、なんといってもそれらの二次創作が原作作中の登場人物の性的指向をねじ曲げているようには思えるわけで、異性愛とか同性愛という以前に、それこそが問題なのだ、と考えると話はシンプルになると思う。
     つまり、「作中で異性愛者として描かれている人物を同性愛者であるかのように描くこと」はやはり不快である、そういうふうに表明しても同性愛差別にはあたらないのではないだろうか。
     当然、この理屈で行くと