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記事 16件
  • 電子書籍『戦場感覚』完全版刊行!

    2016-09-28 10:24  
    50pt

     電子書籍『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』をAmazon Kindle Storeにて上梓しました。元になっているのはぼくが数年前に発表した同人誌ですが、これはいっそう完成度を高めた「完全版」ということになります。
     価格は250円で、なんと11万文字以上あります。ほぼ新書一冊分ですね。はっきりいってお得なので、よければ買ってね。この本こそぼくの思想的バックボーンになっているものです。この本を読まなければ海燕のロジックは理解できないといってもいいかも。
     ちなみに、いまさらいうまでもないことかと思いますが、Kindle書籍はKindle媒体をもっていなくてもスマホやタブレットやPCで読むことができます。ていうかそっちのほうが読みやすいです。念のため。
     また、『小学校2年生の作文に泣かせられたよ。』という書評集も同時に出しています。こちらは相対的に短いですが、ぼくの書いた書評のな
  • ナルシシストの天才たちと日本一「スケベ」な男。

    2016-09-19 06:06  
    50pt

     まだしつこく恋愛工学のことを考えています。というか、恋愛工学に始まった思考をさらに進めている。
     先日は恋愛工学とはナルシシズムの理論なのだ、というところまで書きました。ここでいうナルシシズムとは自分以外の「他者」を持たない自己完結した心理のことです。
     それに対し、他人のなかに自分にコントロール不可能な「他者」を想定し、その「他者」と出逢うことで得られる快楽を求めることを、ここではエロティシズムと名付けましょう。
     人間は「他者」との交流によって快楽を感じ取ることができる生き物です。会話が楽しいのはそこに「他者」がいるからです。セックスが気持ちいいのはそこに「他者」との摩擦があるからです。
     「他者」とは自分とは異なる「内面」をもった永遠に理解不能でコントロール不能な存在であり、「決して支配されないもの」でもあります。支配できてしまったらそれは「他者」ではありません。
     「他者」と出
  • 電子書籍『弱いなら弱いままで』を執筆しています。

    2016-04-11 00:00  
    50pt
     ども。暇を持て余すこと幾千日目の海燕です。
     いやー、ニート飽きるわー。マジ飽きるわー。
     1日にやるべきことといえばせいぜいブログを更新することくらいですから、とにかく時間が余る。余って余ってどうしようもなくなる。
     そんなに暇を持て余しているなら、溜まっている本やアニメやゲームを一気に消化すればよさそうなものですが、そういうわけもいかない。
     人間、いくら時間が余っているからって1日10時間もアニメを見たり漫画を読んだりことはできないものなのです。
     そういうわけでどうにも暇で仕方がないので仕事をすることにしました。
     といってもぼくに依頼をしてくれる奇特な人もいないので、かってに原稿を書いて電子書籍で出すことに決めた。
     タイトルは『弱いなら弱いままで きっと主役にはなれないぼくたちのためのエンターテインメント論』になるんじゃないかと。
     同人誌『BREAK/THROUGH』、『戦場感覚』に続く内容になります。
     といっても、この2冊のようにむやみと読みづらい本にはならないと思います。
     このブログと同じくらい読みやすく、また気楽に読め、それでいて心に響く、そういう内容を目指したいものです。
     ボリューム的にはだいたい文庫本1冊ほど、10万字程度になるのではないでしょうか。
     このブログで書いた内容も多く含まれることになるでしょうが、よければ読んでいただければ幸いです。
     まあ、いつになったら出るのかはわかりませんが。来月か再来月あたりには出せるんじゃないかなあ。
     同人誌と違ってコミケに合わせたりする必要がないぶん気が楽ですね。
     いや、たぶんまったく売れないだろうし、儲からないだろうとは思うけれど、出して損はないからね。
     とりあえず執筆作業は暇つぶしくらいにはなるはず。
     また、そろそろいままで書いてきたことをまとめておく必要も感じているのですね。
     この本にはいくつかのキーワードがありますが、それらはすべてこのブログで語ってきたことです。
     扱われる作品もこのブログでおなじみのものになるでしょう。
     そういう意味では案外読む意味はなかったりするかもしれませんが、買ってくれるとぼくの生活が楽になるので感謝します。
     ほらほら、まとめて読むと案外面白いかもしれないし。当然、全編書き下ろしだし? 
     いや、ほんと、いつ出るのか、ほんとうに出るのか、さだかではないのですけれどね……。
     でも、 
  • 突然死というリアリティと、それでもなお生きるという選択。

    2014-08-06 07:00  
    50pt
     先日のラジオは「新世界」や「戦場感覚」の話題を受けて、予想外に盛り上がったのですが、そのなかでLDさんにより「突然死」という概念が提唱されていました。
     具体的な定義があるわけではないのですが、あえて定義づけるなら以下のようになるでしょうか。
    ・ある物語の主人公ないし重要人物が、物語的な意味なく突然死亡すること。
     この「物語的な意味なく」というところが重要で、物語のなかである必然性に沿ってキャラクターが死んでいく展開は突然死にはあたりません。たとえば『タッチ』の上杉和也が亡くなる展開がこの突然死にあたるのか微妙なところです。
     LDさんは例としてテレビドラマ『太陽にほえろ』や『振り返れば奴がいる』を挙げていますが、『太陽にほえろ』のような制作側のご都合主義によってキャラクターが殺されてしまっただけと思われる展開も、その物語を見ている側からすると突然死に見えるわけです。
     あなたも、最終回で主人公が突然死んでしまって終わり、という展開を辿った作品を、ひとつふたつ思い浮かべられるのではないでしょうか?
     ぼくは、この突然死の系譜というと、なつかしのタイトルであるところの安彦良和『ヴィナス戦記』などが思い浮かびます。これ、憶えているひとは少ないと思うんですけれど、まさに主人公が突然意味もなく殺されてしまって終わり、のパターンだったはずなんですよ。
     暗殺されるのだったかな? ちょっと記憶が曖昧ですが、駅(?)でかれを待っている女の子が「あれ? 来ないな?」みたいに思うところでバッサリ断ち切られていた記憶がある。いやー、すごい展開ですね。
     あと、最近ではテレビアニメ版『Phantom of Infelno』なんかも、最終回で突然死亡のパターンでした。他にもいくつか思い浮かびますが、記憶がたしかではないのでこのくらいにしておきましょう。
     なぜ、この突然死が重要なのかと云えば、ぼくがいうところの「戦場感覚のリアリティ」を突き詰めていくと、この突然死に行き着く一面があるからです。
     つまり、戦場感覚を突き詰めていった先にある究極のリアリティとは、「物語上、どんなに重要な人物でも(主人公でも)突然死ぬことがありえる」という世界観になると思うのです。
     それはある意味では、物語という意味の文脈を突然に断ち切る行為であり、「物語破壊」です。あなたがいままで長々と見て来た物語は幻想ですよ、一瞬で崩壊してしまうほどのものでしかないんですよ、という宣言に近いものがある。
     だから、ぼくは決してこの「突然死のリアリティ」こそが最高のリアリティであり物語の本質なのだ、などとは主張しません。それはある意味で現実世界の性質をそのままに切り取ることに成功しているかもしれませんが、「だから何なのだ?」という切り返しを避けることはできません。
     はっきり云ってしまえば、面白くもなんともないんですよ。物語の目的は決して「この世の無残な真実」をただそのままに描き出すところにあるわけではない、ということをご理解いただきたいと思います。
     この世界はこんなにひどいんだ、残酷なんだ、狂っているんだ、ということを 
  • 「好きを仕事にする」ことはほんとうに理想的な生き方だろうか?

    2014-08-02 07:00  
    50pt
     ども。最近、日々、わりとディープな記事を書いているのでそろそろ疲れてきた海燕です。さすがに記事のストックが尽きてしまったので、あらためて作り始めるべく、この文章を書いています。
     いやー、それにしても、最近、「戦場感覚」の話をいくつか続けて書いているわけですけれど、どこまで通じているのでしょうね。
     ぼくが云っているのはつまりは切り分けの話で、「社会」は人間に優しく作られうるし、また作られるべきだけれど、「世界」は本質的に人間に優しくない、ということです。
     そして、人間がどんなに優しげな「社会」を構築していっても、「世界」の残酷さは消えてなくなりはしない。それは「社会」という網目の裂け目から時々顔を出して、ひとを呑み込んでしまうものである、という話。簡単なことですね。
     この「世界の残酷な理不尽さ」のことを「自然世界のリアル」と呼び、人間が生み出した人間に都合が良い約束事である「人間社会のルール」と区別しているわけです。
     いまの社会は「人間社会のルール」が相当に広く行きわたっているので、ひとはめったに「自然世界のリアル」と遭遇しないで済みます。しかし、まさにそうであるからこそ、この社会に「真綿で首を絞められるような窮屈さ」を感じるひともいることでしょう。
     生まれてからずっと、「ほんとうの世界」から切り離されて人工の都市とシステムにだけ囲まれて生きているのですから、あたりまえと云えばあたりまえです。
     そうやって都市生活を続けるなかで失われてゆくもの、それは「生きているという手ごたえ」、あるいは「生の実感」と呼ばれる感覚でしょう。
     いま、自分はたしかに生きているという生々しい感触、それがあって初めてひとは自分の人生に実感を抱くことができるわけです。その「手ごたえ」が失われてゆくとどうなるかということは、たとえば漫画『自殺島』に描かれています。それはなまじの逆境よりも辛く苦しい孤独の地獄なのです。
     日本の自殺率がより生活がきびしく、希望も見いだしづらいはずのいわゆる発展途上国よりはるかに高かったりするのは、ひとつにはここらへんのことも関わっているのではないでしょうか?
     わが日本――というより、近代先進社会での生活は、「ただ生きているだけ」では幸福を見いだしづらい状況があるんですね。それでは、どうすれば良いのか?
     いまのところのぼくのひとつのアイディアは、「ささやかなしあわせの手ざわり」を大切にすることでどうにかならないかというものです。「現代幸福論」と題した一連の記事は、そういう発想のもとに書かれています。
     最近、ひとに薦められて『くーねるまるた』という漫画を読んだのですが、そこでは貧乏ながら「ささやかなしあわせの手ざわり」を感じさせる出来事が豊かに綴られていて、まさにこういうことだよな、と思わせられました。
     人生の豊かさとは、お金があるとか会社で高い地位に就いているとか、そういうこととはまったく関係がないところにあるものなんですよね。
     ペトロニウスさんが、幸せになるために必要なものは趣味と友達、と喝破しているけれども(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1)、ようは自分の人生を捧げるに値する「価値あるもの」が存在するかどうか、そしてその「価値あるもの」を共有できる仲間がいるかどうか、で大きくは決まってしまうということなのだと思う。
     で、いままでは何かしら好きなものがあったら、それを仕事にして、それでお金を稼いで生きていくということが、いちばんの幸せ、自己実現、夢を叶えることとして語られてきたところがありますよね。小説が好きだったら作家を目ざすべきだ、みたいなね。
     でも、それってどうなんでしょうね? 
  • なぜひとは闘わなければならないのか。

    2014-08-01 05:06  
    50pt
     今年の初めあたり、ぼくは「フラワー・フォー・フレッカ」と題した記事を書いています。TONOの名作漫画『ダスク・ストーリィ』の感想記事ですね。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar433781
     この記事についたコメントにいまさらながらに気づいたのですが、これがなかなか興味深い内容だったので、いまさらながらにレスをつけたいと思います。まずは「フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。」の一部を引用することから始めましょう。

     TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。
     そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。
     たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。
     しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。
     やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。
     何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。
    「あなたに何がわかるのよ 私みたいにさえないみっともない子の人生が あなたやニッキーみたいにきれいでかっこいい人には絶対わからないわ にせものでいいのよ 知ってる人になんか もう会いたくない!! だって家族も友人もずーっと私の事なんかばかにしてるんだから」
     そんなフレッカに向かって、タスクは述べる。
    「ばかにしてなんかないよ 誰も君の事をばかにしてなんかいないよ 君はうすれてゆく意識とたたかいながら 苦しい息の下 必死でくりかえした “ニッキーがあぶない” “ねらわれてるのはニッキーだ”って おかげで犯人の男はすぐにとりおさえられた 君の言葉がニッキーを助けたんだ ニッキーも彼女の家族もどれほど君に感謝しているか そしてきのうまでぼくは君の事なんか全然知らなかった でも今は思ってるよ あんな恐ろしい目にあいながら なんて勇気のある女の子だろうって」
     ここには真実の物語がある、とぼくは思う。そしてこれこそぼくが求めてやまない物語の形なのだ。
     わかるだろうか。これは勇気の物語である。恐怖と絶望があるからこそひときわ輝く勇気の物語である。ひとが偉大でありえるという話、人間の燦然と輝くプライドのストーリー。
     ここにこそ美がある。人間存在の美、ひとの魂の高潔さの美しさが。そう、ひとは己の業を呪い、どこまでも堕ちてゆくこともできる。一方、フレッカであることもできる。
     そして、ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。いうまでもない、だれもがフレッカでありえるわけではない。しかし、だからこそその高貴さは際立つ。

     で、この記事に対し、こういうコメントが付いたわけです。

    海燕さんは、フレッカとは別のものを目指す人達をどう見ているのですか?
    海燕さんがフレッカの高貴さに憧れることと、「ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。」と思う事は別だと思います。
    例えば、「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が、フレッカ(恐怖と絶望に立ち向かう人)に、必ずしも劣るわけではないと思うのですが、いかがでしょう?
    バイソンにはバイソンの生き様があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方があって、それぞれ等しく尊ばれるものだと思います。

     一読、なるほど、と思いましたね。「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が「恐怖と絶望に立ち向かう人」に、必ずしも劣るわけではない。その通りです。
     このコメントを読んで、ぼくは瀬戸口廉也がシナリオを書いた名作ゲーム『SWAN SONG』のあるセリフを思い出しました。「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」。
     このセリフは物語終盤に出て来るのですが、『SWAN SONG』全体の主題を象徴するものと云っても良いでしょう。主人公である尼子司はここで、人間の生き方に優劣はないのだと云っているように思えます。
     どんな生き方を選ぶとしても、それはすべて素晴らしいのであって、成功とか失敗とか、勝利とか敗北といった世間のあたりまえの価値観だけでは人間の「生」を計り知ることはできないのだ、と。
     ぼくはこのセリフに心から感動しましたし、また、このコメントに共感しもします。たしかに「誰だって人間は素晴らしい」し、どんな生き方も「それぞれ等しく尊ばれるべき」ではあるでしょう。
     しかし――それで終わりなのか? 「誰だって人間は素晴らしい」のだから、どういう生き方を選ぼうとそれは勝手で、色々なあり方が「それぞれ等しく尊ばれるべき」であるのだから、どんな生き方をしようがひとに文句をつけられる筋合いはないのか?
     たしかにそういうふうに考えることもできるでしょう。ですが、その考え方は矛盾していると思うのです。なぜなら、それなら他者の「素晴らしさ」を尊重することなく、傷つけ、踏みにじるような生き方もまた「等しく尊ばれるべき」である、ということになってしまうからです。
     ぼくもまた、司が云うように「誰だって人間は素晴らしい」と思う。さまざまなありようが「等しく尊ばれるべき」であると考える。しかし、それと「ひとはどう生きるべきなのか」という問題は切り離して考えなくてはならないとも思っています。
     そうしなければ、「どんな生き方もひとしく素晴らしい」という言葉は、単なる現状肯定や堕落をそそのかすものとしか見えなくなってくるはずです。
     だから、ぼくはこう云うのです。なるほど、たしかにこのコメントで書かれているように、「パイソンにはパイソンの生き方があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方がある」。
     だが、それでもなお、パイソンはパイソンなりに、亀は亀なりに、ヤギはヤギなりに、「いまある自分」より一歩でも、半歩でもより良いありようを目ざすべきなのだ、それが人間の人間らしい生き方というものなのだ、と。
     そう、「恐怖に翻弄され」るひとは、「恐怖に翻弄され」ながら前を目指すべきだし、絶望に打ちのめされるひとは、まさに絶望に打ちのめされたそのままの姿で、それでもなお、先へ進もうとするべきなのである、とぼくは云うのです。
     おそらく、この押し付けがましい「べき」という断定に反感を覚えるひともいるでしょう。ひとがどう生きようがそのひとの自由ではないか? そんなこと、だれかに押し付けられる理由はないではないか? そういうふうに考えるひともいるに違いありません。
     しかし、ほんとうにそうでしょうか? 中島みゆきに『ファイト!』という名曲があります。「闘う君の詩を、闘わない奴らが笑うだろう。ファイト!」というサビの部分を、だれでも聴いたことがあるに違いありません。
     ただ、なにぶん昔の歌であり、全曲通して聴いた経験はないというひとも少なくないのではないでしょうか? あらためて全曲を通しその歌詞を検討してみると、その、まさに壮絶としか云いようがない内容があきらかになります。
     くわしい歌詞は、たとえばこちら(↓)を参考にしてもらいたいのですが、全曲を通して聴いてみると、「ファイト!」という何気ない言葉はきわめて重い意味を持っていることがあきらかになります。
    http://blogs.yahoo.co.jp/anno_yuki/36823400.html
     それは単に「がんばれ!」などという微温な内容ではなく、まさに言葉通り「闘え!」という凄まじくも優しい激励なのです。その歌詞の、たとえばこの一節。 
  • この世界の理不尽さを受け入れるということ。

    2014-07-25 07:00  
    50pt
     ども。海燕です。なんかコツコツと更新すると決めてから書きたいことが溜まってしまって、書きまくっています。
     実はこれから10日くらいの記事を既に書いて予約しちゃっているので、今後10日間は確実に毎朝7時に更新されつづけます。その後もしばらくは定時更新を続ける予定です。いつまで続くかはわかりませんが……。
     ほんとうはこうやって一気に書いてしまうと疲れてあとが続かないことは目に見えているので、毎日コツコツと書いたほうが良いんだろうけれど、いやー、できないんですよね。
     とことんぼくは短距離走者というか、中長期的なヴィジョンに基づいて行動できない人だと思う。書きはじめると止まらなくなっちゃうんだよなあ。書かない時はひと月に数本書くのも億劫なくせに。難儀な話でございます。
     で、何の話をしたいかというと、「戦場感覚」の話をしたいんですけれどね。「キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。」を未読の方はそちらからどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582
     いやー、何年か前に「戦場感覚」と題した同人誌を作った時は、実は自分が何を云いたいのかよくわかっていなかったんだけれど、ここのところ、「新世界」とかの話をきっかけにして、ようやくまとめることができるようになった。なので、きょうはその話をさせてくださいな。
     それでは、「戦場感覚」とは何なのか? 簡単に云ってしまうと、それは「この世が戦場であることを正確に認識し、なおかつその現実に抗い、立ち向かっていく感性」であるということになります。
     わかるかな? わからないでしょう。いまのいままでぼくにもわからなかったんだから。解説します。
     まず、ぼくの用語を使うなら、ぼくたちは皆、「人間社会のルール」と「自然世界のリアル」が合わさってできた「現実世界」に生きています。
     そこではたとえば「死にたくない。愛する人にも死んでほしくない」といったひとの願望によって「人権」という考え方や「ひとを殺してはいけない」というモラル、あるいはルールが作られ、ある程度までは守られています。
     だからぼくたちは普段、突然目の前のひとに殺されるかもしれないという心配をしないで生きていけるわけです。ありがたいことですね。
     しかし、これはあくまで人間が考えだした「約束事」であって、本質的に「自然世界のリアル」に則った「神の法則」ではありません。
     したがって、人間相手にはある程度有効ですが、ライオンには通用しません。津波にも通用しません。病気にも、寿命にも通用しません。同じ人間相手ですら通用しないこともあります。
     そして、じっさいにひとはそういうものに殺されて死んでいきます。つまり、この「現実世界」では「人間社会のルール」はある程度までは通用しますが、それでもなお、「自然世界のリアル」を駆逐することはできないわけです。
     これは人間にとってある種の敗北だと云えるかもしれません。そしてこういったことは多くの人間にとってきわめて「理不尽なこと」だと感じられます。
     たとえば地震で家族を失ったひとや、通り魔に刺されて亡くなったひとは、何か悪いことをしてそうなったわけではないからです。「何ひとつ悪いこともしていないのに突然ひどい目にあう」。そういう辛いことが「現実世界」においてはしばしば起こりうるのです。
     それはつまり「人間社会」という網の裂け目から「自然世界のリアル」が噴出した瞬間ということもできるでしょう。また、そういう現実世界を「おかしい」「間違えている」と感じる人もいるはずです。
     まさに「現実はクソゲー」です。そして、そういう思いから、人間は「人間社会」と「自然世界」を分かつ「壁」をより高く、より強靭にしようと努力してきました。ひとがなるべく「自然世界のリアル」と直面しなくて済むように。
     それが、人間がここ何千年か続けてきた努力だと云ってもいいでしょう。そのおかげでたとえば100年前と比べたら「自然世界のリアル」に晒される機会は圧倒的に減った。「人間社会」と「自然世界」を分ける「壁」はいまやきわめて強靭なものとなったのです。
     もう、この社会においては「人間にとって理不尽と感じられること」はあまり起こりません。いや、まだまだいくらでも残っているかもしれませんが、以前に比べれば圧倒的に少なくなったはずです。
     たとえばさまざまな制度が整えられた結果、病気で医者にかかることもできず死ぬひとは相対的に減少を続けています。これは「人間の勝利」と云えるかもしれませんね。人々はいまや「人間社会」に手厚く保護されて生きることができるようになったのです。素晴らしいことです。
     とは云え、「自然世界のリアル」は決して消滅したりはしません。それは虎視眈々と「壁」に穴が空く瞬間を狙っているようにすら思えます。だから、こんなに医学が発達した社会でも、不治の難病にかかったりするひとはいなくなりません。
     それはぼくたちにとっては「理不尽と感じられること」ですが、一方で自然世界においては「普通のこと」であり、「あたりまえのこと」なのです。
     さて、ぼくたちはいったいこういう「現実世界」をどう受け止めるべきなのか? ひとつには、あくまでも「人間社会」を守る「壁」を厚く、高くしていくべきだ、という意見が出て来ると思います。
     政治を良くするとか、医療を整えるとか、科学を進歩させるとかして、なるべく「理不尽と思われること」が起こらないようにしよう、という発想ですね。
     これは一面ではまったく正しいし、また偉いことだと思います。じっさい、そういう努力があるからこそ、ぼく自身、こうしていま安楽に暮らしていけるわけで、人類の「社会を良くしよう」という努力を軽く見ることはできません。
     しかし、それでは「自然世界のリアル」とは、なるべくなら直面しないほうが良いものなのでしょうか? それは人間にとって厄介という意味しかないのでしょうか? 実は、ぼくはそうは思わないんですよ。
     為末大さんに『諦める力』という本があります。通常、ネガティヴな意味で使われる「あきらめる」ということを、ポジティヴな意味で捉えなおそうと試みている一冊なのですが、為末さんによれば「あきらめる」ことは決して負の意味しか持っていないわけではないということになります。
     しかし、こういう見方もあると思います。それはようするに単にあきらめることなく最高の成果までたどり着けなかった者の「負け惜しみ」でしかないのではないか、と。
     だれだって、金メダルが取れるならそのほうが良いのでは? あきらめずに済むならそっちのほうがいいに決まっているのでは? つまり、あきらめるとは「自然世界のリアル」に膝を屈することでしかなく、仮にポジティヴな意味があるとしても、それはしょせん敗北主義者の思想に過ぎないのでは?
     さて、どう思いますか。人間はいままで「自然世界のリアル」を征服しようと努力してきました。スポーツもまた、そういう努力の一種として扱われることがあるかもしれません。
     だから、みごと「人間の努力が結果と結びつくとは限らない」という「自然世界のリアル」をねじ伏せたたかに見える勝利者にのみスポットライトがあたり、敗北者を見つめるひとは少ない。そして人間は「勝利者が最も努力している」と考えがちです。
     しかし、為末さんも指摘しているように、これは事実を無視した考え方です。じっさいには、どんなに努力していても勝てないひとは勝てない。最高の努力をしながら最低の結果しか得られないなんてひとは、星の数ほどもいると考えなければなりません。
     そういう意味で、スポーツとはこの「人間社会」において、人間の努力は結果とは結びつかないという「自然世界のリアル」が最も端的に示される「リアリズム」の世界です。
     決して「努力すれば必ず勝てる」という人間の願いがストレートに叶う願望充足(ナルシシズム)の世界ではありません。
     しかし、多くの人々はその酷烈なリアルを見たくないために、勝利者はだれよりもがんばってきたに違いないとか、敗北者は努力を怠ったはずだとかいうふうに「合理化」するのです。困ったことです。
     だけどまあ、スポーツの話は置いておきましょう。とにかくこういうふうに、ひとは究極的には「自然世界のリアル」には抗えません。お望みながら「神さまには勝てない」という云い方をしても良いでしょう。
     だから、どうしてもどこかで何かをあきらめる必要が出て来るわけです。でも――どうでしょう。それってほんとうに悪いことなのでしょうか?
     え、悪いに決まっている? ほんとうに? たしかに、金メダルをあきらめなければならないことや、大好きな異性に好かれないことはネガティヴな意味を持っているには違いありません。
     だれだってほんとうは金メダルを取って大好きな異性に好かれてウハウハの世界を送りたいに決まっている。ぼくも送りたい。それが叶わないということはこの現実世界の大いなる欠点だ、現実がクソゲーたる所以だ――そうでしょうか?
     いや、あるいはこう云うひともいるかもしれません。仮に金メダルや女の子をあきらめることにポジティヴな意味があるとしても、命をあきらめることにそんなものはない。
     もし、「ひとが死なない世界」があるなら、そういう世界のほうが良いに決まっている。だから、「人間社会」が目ざすべきなのは「だれも理不尽に死んだりしない社会」であるはずだ、と。
     うーん。そうかなあ。それはつまり、この世に「断念」はないほうが良いと云っているのと同じことです。何ひとつ「あきらめること」がなければそのほうが良いに決まっている?
     しかし、ほんとうに「断念」にはネガティヴな側面しかないのでしょうか? ひとにとって「理不尽に感じられること」の極である「死」とは、単に忌み嫌うべき、あるいは克服するべき対象でしかないのでしょうか?
     これは、むずかしい問題です。「ひとは死なないほうが良いのか」。グレッグ・イーガンあたりだと「そうに決まっている」と答えるんだけれど、でも、ほんとうにそうなんでしょうかね。
     山本弘さんも「死なないほうが良いに決まっているんだよ!」と云っていましたが、実はぼくはそうは思わないんですよ。
     ひとは「死」という「自然世界のリアル」が存在するからこそ、成熟していくことができるのではないか、と思うからです。
     人間にとって成熟とは何でしょうか? それはまさに「断念」を知るということだと思うのです。自分の限界を知り、どんなにがんばっても叶わないことがあることを知り、世界が自分を中心に動いていないことを知る。それが成熟でしょう。
     三歳の子供は世界のすべてが自分の思い通りに動いて当然だと思っているかもしれません。そして、それが叶わないと泣きわめきます。しかし、成熟した大人は当然そんなことはしません。
     つまり、成熟とは「自然世界のリアル」を受容し、自己中心的な世界観から抜け出すことだと云っても良いのだと思います。大人になるとはあきらめを知ることなのです。
     「あきらめたらそこで試合終了だよ」。しかし、あきらめず最後まで戦ったからといって勝てるとは限りません。三井寿は奇跡の逆転シュートを決めましたが、そういうことはじっさいにはめったにないのです。
     つまり、どこまでも「自然世界のリアル」を避けつづけるということは、成熟の機会を逃がすとうことなのです。もしもいつか「死」が克服されたなら、おそらく、人間はいまよりずっと子供っぽくなるでしょう。そういうものだと思います。
     あるいはペトロニウスさんなら、人間にとって「自然世界」とは究極的な「他者」であり、その「他者」と直面することによって「ナルシシズムの檻」を脱出することができる、という表現をするかもしれませんね。
     つまり、「どこまでも断念することなくはてしなく欲望を満たしつづけること」は、一見、素晴らしいように見えても、ひととして成熟する機会を逃すことに繋がっているわけです。ひとは断念を通してのみ新しい自分を知ることができる、とも云えるかもしれない。
     ただ、こう書いてもすぐに疑問が湧いてくるに違いありません。たとえ「安楽で穏やかな死」を肯定できるとしても、この世にはもっと残酷なことや悪夢のようなことが転がっている。お前はそれも肯定されるべきだというのか、と。
     たとえば、イスラエル軍の攻撃によってパレスチナの子供が殺されていくこと、東日本大震災の大津波によって無辜の人命が失われたこと、あるいはナチスのガス室や広島の核爆弾はどうだ? それらも「人間の成熟のために必要だから肯定されるべきだ」というのか? それでもお前は人間か? というふうに。
     ここで、ぼくは悩みます。たしかにそれらはあまりに残酷で悪夢的で、とても肯定できるはずもない。しかし、それらを拒否するなら、そもそもどこに「線」を引くべきかという問題が生まれてしまう。
     「核攻撃による無残な死」を肯定できないとしたら、そもそも「死そのもの」も肯定できないのではないか?とかね。やっぱり「自然世界のリアル」なんて人間にとってないほうが良い、あるいは最小限であるべきものなのだろうか、しかしそれではひとは決して大人になれず、ナルシシズムにひたって生きていくしかない。うーん、悩ましいところです。
     しかし、少なくとも云えることは、「「自然世界のリアル」から逃れ切ろうとすることは間違えている」ということではないのかと思うんですよ。
     つまり、「理不尽な苦しみ」を完全に排除してしまうことは間違えている、ということです。「理不尽な苦しみ」が完全に克服された社会は、理想郷であるように思えるかもしれませんが、しかしやはりそれはひとが「他者」と出会い、成熟していく可能性が閉ざされた自己愛の宇宙です。
     ぼくもありとあらゆる理不尽を放置するべきだとは思いません。それは極論です。しかし、その一方でありとあらゆる理不尽が追放されるべきだとも思わない。
     ひとは「自然世界」という他者に向き合うべきだと思うのです。そうしないといつまでも寂しいままだ。
     栗本薫は「ひとが孤独でなくなるとはどういうことなのか?」というテーマに生涯を賭けて挑んだ作家ですが、その彼女にに『レダ』という作品があります。
     まさにここでいうところの「自然世界のリアル」がことごとく克服された社会が舞台となっている物語です。しかし、主人公であるイヴは最後にはその理想都市を出て、スペースポートから「外の世界」へ旅立ってしまうのです。
     これはもろにペトロニウスさんが云うところの「ナルシシズムの檻からの脱出」の文脈ですね。ナルシシズム的な理想都市に住んでいるかぎり、ひとは傷つくこともないし、苦しむこともない。あるいは、予定調和の範疇で傷つき、苦しむことができる。
     だけれど、そこには「他者」がいない。ほんとうにひとと触れ合う感動がない。だから、どんなに理不尽であるとしても、狂った世界であるとしても、イヴはあくまでも「現実」を選ぶのです。それはまさに「大人の選択」です。
     ぼくが云っていることがわかるでしょうか? ひとは「世界が自分の思い通りにならない」という無力感を通してのみ大人になっていくということなのです。
     だから、この世界が理不尽であり、「自然世界のリアル」が存在するということは、人間にとって祝福なのです。たとえ、それが一面で恐ろしく辛く苦しく、逃げ出したいものだとしても。
     そして、「断念」を知り、「他者」と出会い、ひととしてほんとうに「成熟」するとき、人間は決してひとりではありません。なぜなら、同じようにこの世界で生きている「仲間」たちが視界に入って来るからです。
     これこそが、栗本薫が追い求めたテーマ、「ひとはどうすれば孤独ではなくなるのか?」に対するぼくなりのアンサーです。
     ひとはどうしようもなく孤独だ、しかし、同じように孤独に苦しんでいる「他者」と出会い、触れ合うとき、その孤独の檻を脱してひとと触れ合うことができる。
     その「他者」はまさに「他者」である故に、決して自分の思い通りには動かない。しかし、そういう「他者性」を受け入れて初めて、ひとはだれかを愛することができる。ぼくはそう思います。
     だから、この世界が酷烈で残酷な「戦場」であることは決して間違えたことではないのです。むしろ、世界の戦場性(自然世界的なるもの)が消滅した社会こそ、ほんとうにひとが孤独な地獄だと云えるでしょう。あるいはそれを楽園と云うひともいるかもしれませんが……。
     だから、ひとがこの現実世界という牢獄のなかで一生涯戦いつづけ、そしていつしか倒れて死んでいくしかないということ、それはある意味で「正しいこと」なのです。
     少なくともぼくはそう考えている。たしかにこの世は残酷で苦難に満ちているかもしれないが、その一方で限りなく豊饒でもある。そして残酷さを否定するなら、豊穣さもまた失われるに違いない。
     その「この世界の理不尽な残酷さ」を受け入れ、戦いつづける意志、それこそがぼくの云う「戦場感覚」です。その戦いとは、あるいは病身を治療しようとすることかもしれませんし、ピアノを修練することかもしれません。あるいは銃を手に革命のため立ち上がることかも。ただ生きることかも。
     ともかく、大切なのは勝利することではなく、戦うことそのものです。押し付けられた運命を相手にまわして、どこまでも戦いつづける。永野護の『ファイブスター物語』では、それを「壮麗なる抵抗(マジェスティック・スタンド)」と呼びます。ぼくはそういう人間をこそ美しいと思う。
     そういうことなのです。伝わるかな?
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  • キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。

    2014-07-16 17:02  
    50pt


     きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。
    http://www.ustream.tv/recorded/49943304
     このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。
     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
     そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。
     『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。
     『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。
     「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。
     ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。
     これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。
     それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。
     さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。
     ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。
     これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。
     で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。
     それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!
     つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。
     「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。
     だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。
     そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。
     しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。
     ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。
     しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。
     そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。
     ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。
     とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。
     なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。
     そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。
     まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。
     ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。
     これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。
     ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。
     ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。
     戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。
     で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。
     『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。
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  • 【無料記事】同人誌『戦場感覚』第九章「カペラ――あいのうた」。(9423文字)

    2013-05-15 21:47  
    52pt


     第九駅「カペラ――あいのうた」
     1.無償の愛は存在するか。
     ふりそそぐ銀雨から足早に逃れ、ある店で雨やどりしていたとき、となりに座った少年のiPodから、かすれた歌が聴こえてきた。ひと昔前のラブソング。若い恋人たちの切ない別れの歌だ。
     その哀しげなヴォーカルに耳を澄ましながら、ふとわたしは考えた。なぜ、わたしたちの文化はこれほど愛にあふれているのだろう。そしてなぜ、わたしたちの現実はこれほど愛に飢えているのだろうか。
     愛とは何だろう。愛なしに生きていくことはできないのだろうか。とりとめのない思索。そして、少年が立ち去る頃には、そんな思いも消えていた。この社会ではだれも、愛について長く考え込んだりしないのだ――。
     しかし、わたしはいま、この「旅」の第九駅で「愛」を主題に据えてみたい。ここでいう愛とは恋愛だけではなく、友人愛や家族愛も含めたより広い範囲の愛情を指す。愛は現代の最もありふれたテーマだ。せいぜい陳腐に堕さないよう努力しよう。
     さて、わたしたちの社会には愛を主題にした物語があふれている。「無償の愛」を扱ったものも少なくない。
     無償の愛。何も見返りを求めない愛ということだ。しかし、わたしがその言葉から連想するのは数ある純愛物語ではなく、山本周五郎の時代小説『さぶ』である。
     『さぶ』は山本の最高傑作のひとつだ。ラブストーリーですらない男同士の友情の物語だが、これほど愛について考えさせられる物語をほかに知らない。
     物語は、小雨が霧のようにけぶる夕方、両国橋をさぶが泣きながら渡って行くところから始まる。栄二がそのあとを追い、店をやめて実家に帰るというさぶをいたわりなぐさめ、また、励ます。
     それから数年。栄二はその優れた才能を示し、職人として成り上がっていく。一方、愚図なさぶは日の目があたらないまま。
     しかし、そんなあるとき、事件が起こる。栄二が冤罪によって寄場送りとなるのだ。栄二は濡れ衣を着せられた怨みと怒りによって別人のようになってしまう。そして、そんな栄二をさぶは献身的に支えつづける。
     この物語の主人公は栄二だが、タイトルになっているように、より重要な役割をはたすのはさぶのほうだ。さぶが栄二に対してささげる無償の友情は印象的である。
     物語全編を通してさぶは栄二を支えつづけ、しかも何ひとつ見返りを求めない。しかし、栄二はさぶのその「無償の愛」を疑い、何か狙いがあるのではないかと勘ぐる。
     さぶの献身と栄二の疑念は対立し、対決し、栄二は最後の最後までさぶを疑いつづける。かれの心のなかでは自分を冤罪におとしいれた犯人や、自分の無罪を信じなかった親方たちへの復讐心が火のように燃えていて、ひとを信じるなどとてもできないのだ。
     無実の罪を着せられたときかれが見た人間の姿、それは、いままで家族のように信じあっていたはずの仲間でも、あたりまえのように自分を見捨て、裏切るものなのだ、というものであった。
     そんな残酷な現実、世界の真実を見たかれが、どうして「無償の愛」などという戯言を信じられるだろう。しかし、それでもなお、さぶは栄二を支えることをやめない。栄二自身がその友情を拒み、かれを疑い、否定したというのに、それでもさぶは献身を続ける。
     さぶだけではない。さまざまな人々が栄二を支えようとする。ひとを疑い、拒み、寄せ付けようとしない栄二のために、無数の人々が骨を折る。それが栄二には信じられない。なぜだ。いまの自分に親切をしたところで何の得がある。かれはそう考える。
     しかし、そういうかれ自身、かれと同じようにひとに騙されおとしいれられて生きてきた人足寄場の仲間たちを見捨てることができず、さまざまに親切を働くのである。
     そのプロセスを通し、栄二はかつてあたりまえのように甘受していたさまざまなことが、決してあたりまえなどではなかったことを知る。
     かれはたしかに不運であった。しかし、ひっきょう、運不運が何であろう。かれは十数年も同じ釜の飯を食った人々に裏切られたが、ほとんど付き合いもないような人々が助けてくれた。
     あるとき、事故にあったかれを助けるために、寄場の仲間たちが集まってくる。そしてようやく栄二の心のなかで燃えていた人間不信の炎は静まる。否。このときようやくかれは「人間」を発見したのだ。
     かれが新たに発見した人間とは、ときには平然とひとを裏切り、見捨て、そうかと思うと命を捨ててでも助けようとする、そういうふしぎな存在であった。それじたいひとつの「謎」としかいいようがない、ふしぎな、しかし愛おしい存在であった。
     それでは、さぶはどうなのか。物語は一貫して栄二の視点で進み、さぶの内心はわからない。さぶがいったい何を考え、思い、栄二に対し献身を続けたのか。その本当のところは謎のままだ。
     ただ、わたしにはわかるような気がする。献身といい、犠牲というが、さぶには栄二のために犠牲になったつもりも、我が身を捨てて献身しているつもりもなかったであろう。
     栄二がそう感じていたように、自己犠牲には欺瞞が付きまとう。さぶの友情はそういう質のものではない。ただ、さぶはそうしたかったからしたまでだ。
     さぶは栄二に同情していたのだろうか。それもあるかもしれない。しかし、同情というだけではかれの行動を説明しきれない。
     ひとついえることは、栄二を支えることはさぶにとって「歓び」であったということである。つまりはさぶを栄二を好きだったのだ。愛するものにとって、愛することそのものが歓びである。
     なぜすべてを失った自分にそんなにしてくれる、と問う栄二に対し、さぶはいいかえす。栄二自身がかつて両国橋で店をやめようとする自分を止めてくれたではないか。あれはいったいなぜなのだ、ひとのやることにはいつもわけがあるものではない、そうではないか、と。
     栄二は困惑しながらも、さぶの言葉を受けいれざるをえない。さぶが栄二に示すのは、この世には「無条件の愛」が存在するという事実である。惜しみなく与えて何ひとつ見返りを求めない愛。それじたいが歓びであるがゆえに、あいてから何かを得ようとする必要がない、そんな愛。
     2.世界をこの子のために。
     読者のなかには、そんな愛が本当に存在するのかと(まさに栄二のように)疑う方もいるだろう。しかし、わたしたちはそれに近いものがあることを知っている。親が子に注ぐ愛である。
     むろん、すべての親が子に対し無償の愛を注げるわけではない。しかし、そうであってなお、もしこの世に無償の愛というものが存在しえるとしたら、それは親の愛以外にない。
     親は子を無条件に愛する。親は子と愛を巡って「取り引き」することもない。もし「もし泣きやんだら愛してあげる」とか「次のテストの点数が良かったら愛してあげる」といったかたちで取り引きするとしたら、それは無条件の愛ではない。
     もちろん、どんな親も子を無限に許容することとはできない。親は子が間違いを犯したと感じたら叱るだろう。しかし、子が重い過ちを犯したとしても、親は子を愛することをやめない。
     「無条件の愛」を備えている親は、たとえ子供が乱暴でも、テストの点数が悪くても、子供を見放すことをしないだろう。その欠点も汚点も、すべて含めて愛すること、それが「無条件の愛」である。
     このような愛をもつ親に育てられた子供は、「見捨てられる不安」を抱くことなく育つかもしれない。これをしなければ見捨てられるとか、あれをしたら愛されなくなるといった不安とは無縁に育つのだ。
     だからといってまっすぐに育つとは限らない、途中、道を間違えることもあるかもしれないけれど、少なくともその子は自分が何をしても親は無条件の愛を注いでくれるという自信をもって育つことになるだろう。
     これはある意味で究極の自信である。自分の容姿に対する自信とか、積み重ねた技術に対する自信といったものは、結局、それが崩れればなくなってしまうもの。
     しかし、自分の「存在」そのものに対する自信は何かを無くしたことによって揺らぐものではない。だから「たとえ世界が自分を責めたとしても、愛してくれるひとがいる」ということを深く心から信じている人間は、自己否定の不安に悩まされることはないと思う。
     自己肯定感とは自分は賢いとか美しいという認識のことではない。自分がどんなに小さな人間でも、愚かでも弱くても醜くても、それをためらいなく肯定してくれるひとがいる、という深い信仰なのである。
     それでは、「無条件の愛」を学習しなかった子供はどうなるのか。たとえば「テストでいい成績を取ったら愛してあげる」といった「条件付きの愛」のもとで育てられた子供は、大人になるにつれ「愛とはゲームである」と学習するだろう。
     そして、この学習結果に従っているかぎり、かれは根本的な自己肯定感を身につけることができない。なぜなら、愛がゲームである以上、そのゲームにおいて勝者であるうちは愛を得られるけれども、敗者となったとたんすべてを失うことになることは明白だからだ。
     こうして、かれらはそのゲームに熱中していくことになる。最後まで勝ちつづけることもあるし、途中で挫折することもあるだろう。そしてまた、ゲームに依存するあまり、心を病んでいくこともしばしばである。
     いわゆる「心の病」にジェンダーの差が見られることは広く知られている。ひきこもりは男性に多く、摂食障害は女性に多い。これは男性が「成績競争で勝ちつづけたら愛される」という「条件」を、女性が「綺麗で可愛かったら愛される」という「条件」を学習しながら育つからだろう。
     そしていったん「愛はゲームである」と認識してしまったひとは、勝っても勝っても、不安を取り除くことはできない。むしろ勝ちつづければ勝ちつづけるほど、無理はたまり、心はストレスにむしばまれていく。
     「条件付きの愛」は依存性の薬物に似ている。一時は天にも舞いあがるほど心を高揚させてくれるが、いずれその効果が切れると副作用に心は乱れ、死んでしまいたいような気分になるのだ。
     だから、社会は「無条件の愛は素晴らしい」というメッセージを発信する。それはしばしば「純愛」と呼ばれ、悲惨な現実を前にしても決して見捨てないような強い愛の物語というかたちを採る。
     『ある愛の詩』や、『ノルウェイの森』、『世界の中心で愛をさけぶ』、純愛物語のベストセラーは数かぎりない。ひとはやはり「大人になってからも無条件の愛を見出すことはできる」という物語を必要としているのだ。
     だれもが両親から無条件の愛を注がれているわけではないし、それにこの社会で生きることはその能力によって判定され、差別されていくことにほかならないのだから。
     しかし、恋愛はどうしようもなく「条件付き」である。わたしたちは恋愛においてあいての容姿や性格を「品定め」し、付き合ってもよいかどうか判断する。そういう恋愛を物語のなかの「純愛」と比べて「不純」だというひとがいる。
     そういうひとたちはときに現実を否定し、物語のなかに逃げこむ。それはそれでひとつの生き方ではあるだろう。そうでない人々は「条件付きの愛のゲーム」をそれなりに割りきって楽しむ。割りきって楽しむぶんには「条件付きの愛のゲーム」はとても楽しい。それは性的享楽とワンセットになった、大人の秘密の楽しみとでもいうべきものだ。
     しかし、ほんとうに心が渇いているひとたちは、どうしてもそこで割り切ることができない。かれらはときに「無条件の愛」を求めてあいてに無理をいったり、次々とパートナーを変えたりする。そしてあいてを傷つけ、自分もまた傷つく。
     それでは、幼児期に「無条件の愛」を注がれなかった人々はどうなるのか。一生、存在の孤独と愛への渇望を癒やすことはできないのか。そうではない、とわたしは信じたい。ひとは変わることができる。そのはずである。
     3.『アウグストゥス』。
     ヘルマン・ヘッセに『アウグストゥス』と題する短編がある。特別な運命を背負ったアウグストゥスという名の若者の一生を追った物語だ。
     アウグストゥスが生まれたとき、最近夫を失ったばかりの母親は、名付け親のビンスワンガー老人に薦められ、迷ったあげく「この子が誰からも愛される人間になるように」と願いをかける。
     彼女は金持ちになることよりも、権力を得ることよりも、愛されることのほうがより幸福をもたらしてくれると信じたのである。
     この願いは叶い、アウグストゥスはだれからも愛される子供に育つ。そしてかれがとなりのビンスワンガー老人の家を訪れると、暖炉の火は赤く燃え、どこからか幾重にも重なった妙なる音楽が鳴り響き、そしてきらきらと光る子供たちでいっぱいになるのだった。それはアウグストゥスがそれまで見聞きしたものなかでも最も素晴らしいものだった。
     しかし、アウグストゥスが12歳になる頃には、隣家を訪ねてもその光る子供たちの幻影を見ることはできなくなる。そして長ずるとアウグストゥスの魅力はさらに増してゆく。

     何処に行っても彼の後を追い、身を捧げて仕える人々がいて、彼は微笑んで、かつて子供だった昔に小さな女の子から指輪を受け取ったのと同じ仕方でそれを受け取った。彼の眼や唇には願いを叶える魔力があり、女たちは濃やかな心遣いで彼を包み、友人たちは彼に夢中になった。そして誰ひとりとして――彼自身もそれをほとんど感じなかったのだが――彼の心がどれほど空虚に貪欲になってしまい、魂が病気になって苦しんでいたかが分らなかった。

     やがてアウグストゥスは悪徳に心を捧げるようになる。かれを愛してやまない人々をだまし、裏切り、利用して使い捨てにすることに走る。悪徳だけが愛されることに疲れたこの若者を癒してくれた。そしてやがてかれは悪徳にすらも倦み、自殺を企てる。
     ところが、そこにあのビンスワンガー老人が表れて、かれのかわりに毒杯をあおってしまう。そして、不幸に終わったアウグストゥスの人生のつぐないに、もういちどだけ願いを叶えてやろうというのだった。
     この申し出にアウグストゥスは懊悩しつつも願う。「役に立たなかった古い魔法を取り去って、その代りに人々を愛することができるようにしてください!」。
     ふたたび願いは叶い、アウグストゥスはすべてを失う。いままでの背徳の代償にかれはあらゆる人々から嘲られ、罵られ、最後には牢獄に入れられることになる。しかし、それと同時に、かれはいままでかれを強くさいなんでいたニヒリズムから開放される。

     しかし今はどんな人を見ても彼は嬉しく心を打たれ感動した。遊んだり学校へ行ったりする子供たちを見るのが好きだった。家の前のベンチに座り、萎れた手をお日様に当てて温めている老人たちが好きだった。女の子を憧れに満ちた眼差しで追っている若い徒弟や、仕事を終えて、子供たちを腕に抱いて家路につく労働者や、夕方町外れの街灯の下に立って待ち、彼のような追放された男などにまで春をひさぐ、みすぼらしい身なりの娼婦を見たりすると、この人たちはみんな兄弟や姉妹なのだった。そして誰もが愛する母親の思い出や、もっと良い生れや、もっと素晴らしく、もっと高貴な運命のひそかな印を身に帯びており、誰もが愛しく注目に値し、良く考えるきっかけを与えてくれ、そして誰ひとりとして、自分で感じているほど悪人ではないのだった。

     そしてアウグストゥスはついにあのビンスワンガー老人の家にたどり着く。老人は以前と同じに迎え入れてくれた。そして、あのかすかな楽しい音楽がどこからか聴こえてき、無数の小さな精霊たちがふわふわとただよいやって来て、精巧にからみ合って旋回する。
     アウグストゥスはそれを見、耳を済ませ、「その感じ易い子供の感覚のすべてを遥かに再び見いだした楽園の中に解き放った」。アウグストゥスは救われたのである。
     この寓話が示していることはだれの目にもあきらかであろう。ひとはただ愛されているだけだと、いずれそれに慣れ、倦み、退廃的な心境におちいっていく。
     しかし、ひとたび愛することを覚えれば、それは世界を薔薇色にもかがやかせ、だれもが少年時代には知っていたはずのあの黄金の楽園へと誘ってくれる。愛されることより愛することのほうがより偉大な祝福なのだ、と。
     あるいはあなたはこの物語をありふれた偽善に過ぎないと考えるかもしれぬ。ひとは愛されることによってのみ幸福になれるのであって、愛されることなしに愛することなどできないのだ、と。
     しかし、それならばこの世はやがて愛されることだけを望み、愛することを知らない人々によって占領されるはずである。わたしたちはどこかで憎悪と復讐の鎖を断ち切らなければならない。ひとを愛することを知り、そのことによってわたしたち自身を救いださなければならない。そう思う。
     「内なる蛇」はまたも囁くことだろう。「お前自身がそのようには愛されなかったというのに、なぜお前の息子に「無条件の愛」をくれてやる必要がある?」と。
     しかし、愛はわたしたちの奥のいのちの泉から湧きだしてくる。捧げれば捧げるほどに、わたしたちは自分自身を癒していくのである。
     つまらない綺麗事と思われるだろうか? 与えられることではなく与えることがひとを救うなど信じられないと? それでは、愛することがひとをどのように変えるものか、その真実を示したひとつの物語を読んでみよう。羅川真里茂の傑作『ニューヨークニューヨーク』である。
     4.愛の報酬。
     『ニューヨークニューヨーク』はアメリカの同性愛者の警察官ケインを主人公にした一連の物語からなる。自由の都ニューヨークで、放蕩を尽くしながら生きていくこの青年は、あるときのちに生涯のパートナーとなる若者メルと出逢って人生が変わる。
     しかし、ここで取り上げたいのは、ケインとメルのことではなく、ケインの母親の物語である。息子にゲイであることをカミングアウトされた彼女は、その事実を受け入れることができず、悩み、苦しむ。彼女はいずれ息子が結婚し、孫を抱かせてくれるものと思い込んでいたのだ。
     息子は彼女のその期待と夢を無残に打ち砕いた。彼女は息子を愛しているが故に、どうしても同性愛者としてのかれを受けいれることができない。
     彼女は息子と口論し、傷つけ、傷つけられる。しかし、長い葛藤の末に、彼女はついに息子を受けいれることを決心する。彼女は思う。夫をはじめ、いままで自分が出逢ってきた人々は、そのヒューマニズムを自分に分け与えてくれた。
     いままた、自分の世界は広がっていこうとしているのだ、と。そして、彼女は息子が精神的危機におちいったとき、だれよりも力強くその心を支えるのだ。
     これこそ愛すること、受けいれることの報酬である。もしケインが異性愛者で、彼女の期待を裏切らなかったとしたらどうだろう。彼女は傷つくこともなく、悩むこともなく、つまり戦うことなく人生を終えることができたであろう。
     しかし、そのとき、彼女は同性愛者を初めとするマイノリティの人々に対する偏見と差別を一生涯正すことなく終わったに違いない。
     あるいはそれはそれでひとつの「幸福」ではあるのかもしれない。が、そこには予期せぬ真実と向かい合い、苦しみ、傷つきながらもそれを乗り越えて世界を広げる感動、つまり戦場感覚者の感動はない。
     彼女は息子を無条件に愛することによって、それにふさわしい報酬を得たのである。アウグストゥスの選択は間違いではなかった。
     ひとは、愛されることではなく、愛することによって変わっていくことができる。わたしたちがだれかを無条件に愛することによって発見するもの、それはそのあいてのかけがえなさの感触である。
     かれにいかなる欠点があるとしても、かれが自分の人生に迷惑をかけ、かれのために不便を強いられるとしても、それでもなお、かれの存在はかけがえがなく愛おしいという実感。
     第一駅で、わたしは選択的中絶やヒューマンエンハンスメントについて語った。もういちど振り返ってみよう。わたしたちはなぜより強く、賢く、美しくありたいと思うのだろうか。あるいは、なぜ自分の子供にそうあってほしいと願うのだろうか。
     そこにあるものは「完全」を指向し、「不完全」な現実を否定する意思である。しかし、不完全な現実の人間を否認しつづけるなら、当然、そんなあいてに対し無条件の愛をそそぐことなどできない。
     そのとき、愛はあいてに無数の「条件」を課し、それに応えさせることによってあいてをより「完全」へと近づけていこうとする欲望という形を取るだろう。
     一方、「無条件な愛」は不完全なあいてをそのままに慈しむ。あいてのその不完全性、弱さも愚かしさもすべて含めて愛するのだ。そのとき初めてひとは同様に不完全なこの世界や、自分自身を愛することができるようになるだろう。
     どんな種類のものであっても、能力は常に代替可能である。いかなる不世出の天才といえども、ほかの存在をもって代替しうる。
     たとえば、いまアメリカの大統領が倒れたとしても、だれかがかわりにその職を務めるだけだろう。しかし、存在は代替不可能だ。たとえそのひとが能力的にひとより劣っているとしても、そのひとの存在は唯一無二であり、何者かによって代わりがきくようなものでは全くない。
     その絶対唯一性を個の性と書き「個性」と呼ぶ。ひとの個性とは、他人と比べて傑出している性質をいうのではない。そうではなく、いかなる傑出した性質によっても換えることができぬ「かけがえのなさ」をいうのである。
     あなたはかけがえがない。わたしもまた、かけがえがない。世界はかけがえのない音で満たされた、二度とは再演されない音楽である。わたしはそんな世界を、わたし自身を愛する。
     もちろん、わたしは世界のすべてを容認することはできない。ときにわたしはだれかの愚かしさに腹を立てる。不条理な出来事にあえばうんざりして嘆く。
     しかし、それでもなお、わたしはこの世界を愛している。それは親がわが子を愛するのと同じ愛だ。わが子が不器用であったり、未熟であったりするほどに、よりいっそう愛おしく感じるような愛である。
     そこには何ひとつ「条件」は存在しない。むろん、神ならぬひとである以上、時折り「蛇」の囁きに耳を貸したくなることもあるだろう。そしてまた、じっさいにむやみと腹を立てて怒鳴り散らしたりするようなことも、時にはある。愛は常に試練にさらされているのだ。
     しかし、それでもなお、愛することの「歓び」はわたしを導きつづけるだろう。だから、わたしは、稚拙であるがゆえにいっそう胸にせまる演奏を愛するようにこの世界を愛する。
     たとえだれひとりとしてわたしを愛さないとしても、わたしはこの未完成で不完全な世界をそのままに愛するであろう。
     その愛は、大聖堂に響きわたる天使の音楽さながら、この世界に響いていき、どこか遠い場所にかすかな残響をとどかせる。そう、この世界にはそういった愛の残響がみちているのだ。見知らぬだれかの愛なしにはわたしはここにこうしてあることはなかった。
     だからもっと耳を澄まそう。愛の歌が聴こえてくるように。 
  • 【無料記事】同人誌『戦場感覚』第八章「プロキオン――遙かなる中原へ」。(9630文字)

    2013-05-12 18:37  
    52pt

     この記事から冒頭に要約なり紹介文を書いていこうかと思います。さて、一日あいだが空いてしまいましたが、『戦場感覚』の第八章をお送りします。この本は第十章あたりから本題に入るので、まだ助走段階なんですが、どうか読んでみてくださいませ。


     第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」
     1.『グイン・サーガ』解読(1)。
     風が吹く。
     吹き抜ける。
     それは緑の草原をそよがせ、赤い街道の木々を揺らし、中原から辺境、そのまた彼方のノスフェラスへとかけ抜けてゆく。
     その風が語り伝える物語、ひとりの豹頭の剣士の伝説を、ひとは、かれの名前を冠し、『グイン・サーガ』と呼ぶ。
     わたしたちの長い「銀河鉄道の旅」もついに第八駅にまでたどり着いた。この章ではひとりの作家を取り上げ、その作品を一望して全体像を確認することとしたいと思う。その作家とは、世界一の長大さを誇ることで知られる『グイン・サーガ』の語りべ、栗本薫である。
     すでに逝去から2年が経つが、いまなお新刊が刊行されつづけるなど、その存在感は薄れていない。じつはわたしが「戦場感覚」というとき、真っ先に思い浮かぶのはこの作家なのである。
     その作品はきわめて多数で、また様々なジャンルにまたがっているため、全体像を把握することはたやすくないが、戦場感覚について語るとき、この作家を除くことはできない。
     なぜなら、栗本薫の生涯のテーマとは、わたしがいうところのグランドテーマ、「戦場である世界でいかに生き抜くか」にほかならないからである。ひとつ『グイン・サーガ』だけではなく、数々のSFも、ミステリも、ハードボイルドも、そしてボーイズ・ラブ作品にいたるまで、彼女の作品はすべて、何かしらグランドテーマとかかわっている。
     
    その壮大な世界を語りきるには、一章ではあまりに短すぎるが、何とかわかりやすくまとめてみるとしよう。
     さて、栗本薫の仕事が多岐にわたることは事実だが、自他ともに認める最大最高の傑作は『グイン・サーガ』である。『グイン・サーガ』の主人公は、中原と呼ばれる中世的文明世界に忽然とあらわれた豹頭の超戦士グインだ。
     かれは隣国モンゴールによって亡ぼされたパロ王国の王子レムス、王女リンダ、〈災いを呼ぶ男〉を名のる傭兵イシュトヴァーンらと出逢い、冒険をくりひろげてゆく。
     いわゆるヒロイックファンタジーであるが、物語が進むにつれ、その内容は単なる類型的な冒険ファンタジーには収まらないものになってゆく。各登場人物の実存をめぐる問題が表面化してくるのである。
     『グイン・サーガ』の登場人物は、最重要なものだけでも両手の指に余るほどあるが、そのなかでも主役級と呼べるのがグインであり、イシュトヴァーンであり、パロの宰相アルド・ナリスである。
     特にアルド・ナリスはパロにのこされたなぞめいた「古代機械」を通し、中原から「宇宙生成の謎」にまで迫ろうとする。その野心は、パロの王位や中原統一といった次元にとどまるものではなく、宇宙的規模のものなのである。
     しかし、頭脳明晰なナリスもあくまでひとりの人間であるに過ぎず、また大陸の文明の中心である中原にしても、宇宙的規模から見れば辺境の未開の地域であるに過ぎないため、かれはかぎりなく無力である。
     ナリスはときにその無力感に歯噛みしながら「宇宙生成の謎」の答えが眠っているノスフェラスの地へ旅することを願う。が、パロの王子であるかれには、その旅は叶わない。
     長大な『グイン・サーガ』全編を通読してなお、ナリスがいったい何を求めていたのか、その本当のところを理解しなかった読者も少なくないだろう。ナリスは、単なる超科学、超文明の遺産を求めていたわけではない。
     かれが突き詰めて考えようとした謎とは、「自分はいったいなぜここにあるのか」という、形而上学的ともいえる問いであった。そう、かれもまた「世界への違和」と「流刑意識」を抱えたアウトサイダーだったのである。
     ナリスの日常は戦場である。パロ王家にとって厄介者ともいえる存在として生まれたかれにとって、ただ生き抜くというだけのことも決してたやすいことではなかった。
     その戦いのプロセスのなかで、自分はなぜここに自分として生まれたのか。なぜ、ほかのだれかではなく、アルド・ナリスとして生を受け、戦いつづけなければならないのか、という究極の問いはふくらんでいったであろう。
     なぜこれほどまでに辛く、苦しく、孤独な、地獄のような世界で生きていかなければならないのか。なぜ運命の神ヤーンは自分にこの運命を与え、ほかのものには異なる運命を与えたのか――答えのない問い。しかし、かれは問わずにいられなかった。神へ、世界へ、「なぜだ!」と。
     ナリスにとって、地上はまさに流刑地にほかならなかった。自分がいるべき「真世界」はほかにある――かれもまた、戦場感覚者がしばしば感じるあの想いを抱えていた。かれは楽園を追われた堕天使の哀しみを知っていた。そして、未開の前近代社会において、その哀しみを共有しえるものはだれもいなかったのである。
     ナリスが特異なのは、その流刑意識の一方で、美貌と天才に恵まれた自分へのプライドを保ちつづけていたことである。かれは人々を見下し、一顧だにしなかった。そして、それでいて、だれよりも深くかれらを愛しているかのように見せかけるという分裂を生きていた。否。その分裂そのものがアルド・ナリスであった。
     かれは何重もの仮面をかぶり、しばしば「仮面の下の仮面」を素顔と思わせることでひとを篭絡していった。かれはいくつものその場面によって人格を使いこなす現代人だったのである。
     それでは、そうまでして宮廷という名の戦場を生き抜いたアルド・ナリスの本当の素顔とは何だったのか。それは、寂しさにすすり泣くひとりの子供であった。たったひとり、突然に戦場に放り出され、すすり泣きながらもあらゆる術策をもって生きのころうとした子供であったのだ。
     2.『グイン・サーガ』解読(2)。
     一方、ナリスとは違った意味での戦場を生きているのがイシュトヴァーンである。かれはヴァラキアの下町に生み捨てられ、その後、その町の娼婦や博徒たちに育てられて成長していく。そして16歳でヴァラキアを出、〈紅の傭兵〉、〈災いを呼ぶ男〉と名のり、世界に波乱を巻き起こしてゆくことになる。
     かれのただひとつの夢は「王になること」。下町の孤児にはあまりに分不相応なこの野心が、かれを血まみれの狂王と呼ばれる道へ導いてゆく。
     天才ナリスと比べるとイシュトヴァーンははっきりと「凡人」である。かれには宇宙だの真理だのといった話は無縁だ。しかし、それでいてかれもまたヤーンに選ばれた人間であることに変わりはない。ただ、かれの「戦い」は、より地上的、現世的であるという違いがあるだけである。
     凡夫たちへの優越感に縛られていたナリスとは対照的に、イシュトヴァーンのモチベーションは劣等感にある。王になるという壮大な夢を見ながら、しかし、現実には単なる一孤児であるに過ぎないかれは、自分の才能と美貌を頼みに思えば思うほど、惨めさに囚われた。
     おなじ人間として生まれながら、なぜかれはかくも花やかにあり、われはかくも惨めにあるのか、その消せない疑問こそが、イシュトヴァーンを駆りたてたものである。
     ひっきょう、かれもまた、ナリスとは異なるかたちで、運命に対して「なぜだ」と問い詰めているのだ。ナリスとイシュトヴァーンだけではない。この物語に登場する人物の大半が、その生きざまを通じて、運命に問いかけている、なぜだ、なぜなのだ、と。
     『グイン・サーガ』の魅力的な登場人物は数かぎりない。パロの王子にして吟遊詩人のマリウス、魔道師ヴァレリウス、黒太子スカール、〈光の公女〉アムネリス、レムス、リンダ、オクタヴィア、獅子心皇帝アキレウス、ヴァラキアのヨナ、サウル老帝、〈闇の司祭〉グラチウス、〈ドールに追われる男〉イェライシャ、ミアイル公子――。
     かれらに共通しているのは、それぞれかたちは異なるながら、ひとりで重い運命を背負っているということである。
     かれらの大半は孤児である。栗本薫は法や家族や国家、法や倫理といったものを信じない。否。法や倫理がひとを守ってくれるということを信じない。彼女にとって、世界はどこまでも弱肉強食、覇権を巡る戦いが続くバトルロイヤルの戦場である。
     それは現代日本が舞台の作品でも変わらない。『終わりのないラブ・ソング』の主人公双葉は、その美貌から、少年院でレイプされつづける。これを、趣味的な描写と見てはならない。
     「少年院」という空間は、『グイン・サーガ』における「中原」とパラレルである。栗本は、世界の戦場性が端的に表れる舞台として、「中原」や「少年院」を選んでいるに過ぎない。それを現実の少年院と比べてリアリティを云々することほどばかばかしいことはない。すべては現実を抽象化し、その本質を取り出すことで設定された舞台なのである。
     
    『グイン・サーガ』にしても、問題をよりわかりやすくするために中世的文明世界が選ばれている。ひとがひとであるかぎり、グランドルールはどんな世界でも変わらない。いかなる世界であっても、ひとが暮らすところは戦場なのだ。
     そして、いつ果てるともなく続く、孤独な戦い――それは、「不信」という病をともなっている。ひとが信じられなくなるという、病。
     それはあまりにも当然のことだ。なぜなら、たやすくひとを信じれば、いつ裏切られるともわからぬのだから。そうして、裏切られたら最後、待つものは死だ。だから、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、物語が進むにつれ、ひとを信じることができなくなっていたのだ。
     ナリスは初めから陰湿なパロ宮廷に育ち、人々を「利益」で操ることによって生きのびてきた男であった。しかし、イシュトヴァーンは初め、明朗快活な若者である。
     ほら吹きで、いいかげんで、しかしだれもが好きにならずにはいられないような、壮大な夢を抱き、しかしその夢の大きさ、果てしなさに打ちのめされつつある若者。それが、まさにその夢、その野心によって追いつめられていくプロセスは、残酷だ。
     一介の傭兵からモンゴールの将軍へ、さらにはゴーラの国王へと、地位が高くなり、権力が大きくなるほどに、イシュトヴァーンは変貌してゆく。
     やがてかれは「不信」の檻に囚われる。だれも信じることはできない。信じたら最後、裏切られ、見捨てられる。もし信じられるものがあるとすれば、それは「利益」によってつながった人間だけだ。かれはいまはもうただ「利」しか信じることができないのである。
     わたしたちは第九駅で、これとよく似た「不信」のかたちを見ることになる。山本周五郎の名作『さぶ』における、栄二のさぶに対する「不信」である。
     この「不信」の檻を乗り越えることはむずかしい。理性では、信じる根拠がないものを、それでもなお信じること。己のいのちを、捨て去ることになるかもしれない賭け。
     しかし、一生をこの「不信」の牢獄のなかで生きてきたアルド・ナリスは、あるとき、おずおずと、子供がそっと手をさしのべるように、ひとを信じることをおぼえる。その結果は、かれにとって信じられぬものであった。何の「利」も差し出さなくても、かれに従うというものが大勢あらわれたのだ。あなたを愛しています、わが王よ、と

     ナリスはいう。その無償の「愛」と「奉仕」に対して、それを受け取る側ができることがたったひとつだけある。それは信じることだ。そう、この世には受け取ることでしか贈れない贈り物があり、それは、「信頼」というのだ。ただ、信じること。それが、唯一の返礼なのだと。
     かつての「知の怪物」アルド・ナリスからは考えられない発言である。ただ信じること。そのことによってしか見えてこないものもあるのだ、と。
     3.名探偵伊集院大介。
     栗本薫は作家としてヒロイック・ファンタジーからポルノグラフィにいたるまで、ありとあらゆるジャンルを書きつくした。絶後であるかはともかく、空前の作業ではあっただろう。
     特にある種の特殊技能が要求される本格推理の世界において『絃の聖域』という名作をのこしていることは注目にあたいする。『絃の聖域』。伝統芸能の名家に巻き起こった連続殺人事件を扱った長編だ。日本推理小説史に冠絶する名作である。
     そしてこの作品でさっそうと登場するのが、栗本薫の名探偵、伊集院大介だ。ひょうひょうとして掴みどころがなく、それでいて何ともやさしくあたたかいこの探偵は、わたしにとっても最も好きな探偵のひとりである。
     『グイン・サーガ』がハワードの『コナン』シリーズへのオマージュであったように、伊集院大介ものは横溝正史の金田一耕助ものへのオマージュだ。栗本は自分の好きなあらゆる作品を自家薬籠中のものとしてしまう模倣の天才であった。
     しかし、当然ながら、それは単なる横溝正史フォロワーに終わるものではない。『絃の聖域』には、栗本薫のオリジナリティが充溢している。芸術至上主義である。
     『絃の聖域』の舞台は、ある三味線の名家。この家を舞台にして、凄惨な連続殺人事件が巻き起こる。そうしてそれは一族がほとんど全滅するまで続く。その果てに見えてくるもの、それはすべてを操るある真犯人の姿なのであるが、大介がその真犯人に行きついたあとには、凡庸なミステリにはない、骨太のカタルシスが待っている。
     ひとを狂わせる「芸」という「道」の、その深遠さ、過酷さ。第三駅でわたしは『どんちゃんがきゅ~』を取り上げたが、『絃の聖域』と『どんちゃんがきゅ~』は、まさに「芸」に心狂わされたものたちの、その凄絶を克明に描いているという一点で、同じジャンルに属するだろう。
     この作品で、あるいはほかの作品で、伊集院大介が見せる心優しさは胸を打つものがある。大介はイシュトヴァーンやナリスのように自ら物語を生きる人物ではない。かれは「傍観者」であり、精神的な子供が主役となる栗本の世界にあって、数少ない本物の大人である。
     かれの役割は繊細にすぎる「子供たち」を守り、支え、その人生をより良い方向へ導くことだ。非情なこの世界で、かれもいつもうまくやれるとはかぎらない。たとえば『猫目石』で、大介の介入は無力に終わる。
     しかし、大介の介入によって、多くの人々が救われてきた。そのままなら悲劇へと向かうばかりだった物語が、ハッピーエンドに終わることも少なくない。異常に悲劇的結末が多い栗本の作品であるが、伊集院大介がかかわった事件は、案外と幸福な結末を見る。そういう意味では、かれは全く稀有なキャラクターである。
     その特質は『絃の聖域』に続く『優しい密室』に表れている。この事件で、大介は、作者本人ともいえる少女を救い、導いている。『優しい密室』ではじっさいにそのような役どころで出てくるのだが、伊集院大介は「探偵」というよりもむしろ「教師」なのである。優しい、穏やかな、しかし神のように洞察力に満ちた「教師」。
     かれは人間を愛し、その弱さと愚かしさをも愛し、卑劣な犯罪から弱者たちを守ろうとする。かれは正義というよりもむしろ人間性の使徒である。名探偵としての推理力ならもっと上をゆくものがいくらでもいるに違いないが、しかし、それでもなお、その存在はかけがえがない。
     栗本は生涯で何十作もミステリを書いたが、しかし本格としてのトリックだとかロジックといったものにはまるで興味を示さなかった。江戸川乱歩賞作家であるにもかかわらず。
     彼女にとって大切だったのは、名探偵、怪盗、ちぎられたトランプ、絶海の孤島、車椅子の億万長者、仮面の男、といった本格のファッションであった。そういうところを見ると、栗本薫は論理を捨て、形式を重視する「脱本格」の遠い祖先であったといえるかもしれない。
     伊集院大介シリーズはその後、綾辻行人に影響を与えたという怪作『鬼面の研究』と、二冊の短篇集、切ない恋愛小説の佳編『猫目石』を経て、ついに『天狼星』シリーズにいたる。この『天狼星』で、栗本はついに本格ミステリの殻を脱ぎ捨て、作中に乱歩趣味を横溢させる。
     『天狼星』の中心となるのは狂気の連続殺人をひきおこす〈怪盗シリウス〉である。シリウスは伊集院大介の影である。かれは、アルド・ナリスがそうであったように、自分の手でひとを殺すことはしない。ただ、ひとを操り、殺人事件を起こしてゆくのだけである。
     シリウスはなぜか決して警察権力に捕まることはない。あたかも、「悪」そのもの、「闇」そのものであるかのように、都会の夜に紛れ、神出鬼没をそのままに、暗躍しつづける。かれは乱歩の二十面相がそうであったように不死の存在であり、いつまでも大介のまえに立ちふさがりつづける。
     とうていリアリズム小説とはいえないような『天狼星』であるが、ここにも芸術至上主義は顔を覗かせている。『天狼星』全編を通して、「芸」は「悪」に対抗できる存在として、あるいは「悪」を遥かに凌駕する存在として描かれているのである。
     『天狼星』以降の栗本ミステリには、見るべきものは少ない。パソコン通信を舞台にした『仮面舞踏会』、着物の世界を描いた『女郎蜘蛛』などが佳作として挙げられる程度であろう。
     しかし、わたしにとって伊集院大介と逢えることはいつでも歓びでありつづけた。大介は、栗本の光の面を表すキャラクターである。なるほど、世界は酷烈をきわめる戦場であるかもしれぬ。しかし、伊集院大介はそこにいる。栗本はそういおうとしているようだ。
     大介は決してひとを見捨てない。かれはいつまでも優しくひとを見守ってくれる。かれは人間愛の化身である。そう、わたしが栗本作品を愛読するのは、その小説技術からではない。そこに、人間を愛し、見捨てず、見守りつづけるしずかなまなざしを感じるからなのだ。その精神に比べれば、圧倒的な技術も、ただの化粧であるに過ぎない。
     4.ルールはひとつではない。
     栗本には現代ものも多い。「東京サーガ」と、のちに彼女が呼ぶようになる作品群である。それは伊集院大介ものを含み、さらに巨大な世界を作り出している。
     その中心にあるものは、『翼あるもの』に始まり、『朝日のあたる家』、『ムーン・リヴァー』と続く、森田透を主人公にした物語だ。
     森田透。この人物こそは、ある意味でナリスやイシュトヴァーン以上に、栗本薫らしいキャラクターであるといえる。かれは初めアイドルとしてデビューし、人気を集める。しかし、天才的なカリスマシンガー今西良を中心とするグループのなかで居場所を見いだせずに、グループを辞めてしまう。
     そこからかれの転落は始まる。かれは今西良を上回るほどの美貌の持ち主であるにもかかわらず、なぜか人気を集めることができず、芸能界を出る。そしてそこから先は、金をもつ男女にからだを売って日銭を稼ぐ日々。絵に描いたような転落人生。
     たったひとり、そんなかれをかまってくれた男も、今西良の魔力ともいえる魅力に惹かれ、かれを愛するようになる。透には何ひとつのこらない。何ひとつ。かれには「生きる」ためのモチベーションが致命的に欠けている。だから、かれはどこまでも失敗者であり、敗残者なのである。
     かれは生きることが好きでもないし、生きていたいとも思わない男なのだ。だから、かれはより力のあるものに散々に利用され、陵辱され、利用される。しかし、あるときから、かれのその「無力さ」は周囲の庇護欲をかきたてることになる。運命の転換。
     第三駅で紹介した「下位ルールA」を思い出してほしい。「戦場である世界ではより強いものが生きのこる」。このルールはあたかも自明のものであるように見える。しかし、「世界の理」グランドルールそのものは変えられないし、変えてはならないものであるが、下位ルールはそこから人間が導きだした法則であるに過ぎず、変更することが可能である。
     栗本は「下位ルールA」に代わる「下位ルールB」を生み出した。即ち「戦場である世界ではより美しいものが生きのこる」。
     コペルニクス的転換というべきか。栗本のボーイズ・ラブ作品はこのルールによって戦われるバトルロイヤルである。それは戦場の物語であるという一点において、『グイン・サーガ』や、伊集院大介ものと何も変わらない。ただ、使われているルールが違うだけなのである。この点を理解しないと、栗本の作品を読解することは困難だ。
     「下位ルールA」から「下位ルールB」へのルールの転換を、たとえば栗本の最高傑作のひとつ『終わりのないラブ・ソング』に見えることができる。この作品では、「下位ルールA」において最弱である主人公双葉が、果てしなくレイプされつづけたあげく、「下位ルールB」によってヒエラルキーの頂点に踊り出るという逆転劇が描かれている。
     つまり、「暴力」という戦場において最も弱いものが、「愛」という戦場において勝利者となるわけである。どこまでも「下位ルールA」に従う少年漫画では決してありえないような逆転だ。
     また、「下位ルールB」がありえるということは、「下位ルールC」も、「下位ルールD」も考えられるということである。下位ルールは無限に存在しえる。そして、その無数のルールで戦われるバトルロイヤルの物語こそが、『グイン・サーガ』なのである。
     「少年の物語」とは、戦場感覚者のグランドルール、「この世界は戦場である」に対し、「戦場で生きのこるのはより強いものである」という下位ルールを設定した物語であった。しかし、『グイン・サーガ』ではこの「下位ルールA」は通用しない。否。物語はただそれだけで戦われるわけではない、というべきか。
     『グイン・サーガ』では、あるものは音楽で、あるものは美貌で、あるものは知力で、またあるものは愛で、権力で戦う。世界はたしかに戦場ではあるが、そこにおける戦い方はひとつではない。これこそ、『グイン・サーガ』をまたとなく豊穣な世界にしている秘密だ。
     だから、『グイン・サーガ』と『終わりのないラブソング』の違いは、下位ルールの違いであるに過ぎないのだ。
     もちろん、常に自分の望むルールで戦えるわけではない。音楽をきわめたものが権力に敗れることもあるし(マリウスとダリウス大公)、あらゆる面で頂点に立つものが愛をまえに敗れ去ることもありえる(グインとシルヴィア)。『グイン・サーガ』とは、きわめて複雑なルールのゲームなのだ。
     栗本の作品群の全貌は、ひとつ『グイン・サーガ』、ひとつ『終わりのないラブソング』だけを見ていてもわからない。そのひとつひとつは、表面だけを見ていけばきわめて異質なものにも見えるであろう。しかし、その本質はいずれも戦場感覚の物語である。
     「戦場でいかに生き抜くか」。このグランドテーマに対する答えはひとつではないと、そう栗本はいおうとしていたのだと思う。だからこそ、彼女は数えきれないほどの物語を生み出しつづけた。それはあるときは「性」の戦場で戦われるゲームであり、またあるときは「知」の戦場、「暴力」の戦場、「美」の戦場におけるゲームであった。
     その表面の多様性を取り払ってみれば、すべての作品が「生き抜くこと」を描いた物語であるとわかるだろう。ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、森田透にしろ、生き抜くことが楽ではない環境に突然に生み落とされた子供である。その生き方がわたしたちを感動させるとすれば、それはわたしたちの人生もまた戦場であるからだろう。
     その意味では栗本薫こそ、戦場感覚を代表する作家の一人である。その物語は、いまなお燦然と輝き、人々を魅了しつづけている。