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記事 17件
  • シンジくん問題を考える。あなたはほんとうに本物の大人になれましたか?

    2019-07-16 00:38  
    50pt

    エヴァ、ゼロ年代あたりはシンジくんといったらいわゆる「ヘタレ主人公」筆頭のように言われがちだったけど、人権意識の向上した今のオタク界隈では「ネルフがマジでクソ」「シンジくんかわいそう」で満場一致してる雰囲気がある
    https://mobile.twitter.com/batapys1/status/1149831007719190528

     と、こういうツイートがあるのですが、ぼくはぼくなりにずっと「シンジくん問題」を考えています。
     どういういい方がいちばん正しく伝わるかわからないのですが――えーとですね、つまり、ここでひどいといわれているネルフにしても、かつてはシンジくんのような子供だったと思うんですよね。
     仮に、ゲンドウのような親を持ったシンジくんがまともな大人になれなくてもしかたないと考えるとしたら、ミサトだってかつてはそうだったのだろうし、ゲンドウもそうだったかもしれない。
  • 『エヴァ』にカタルシスがないと感じる人へ。

    2019-04-02 13:08  
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     『アオアシ』が!面白すぎる。この作家さん、『水の森』の頃から追いかけていたんだけれど、いやー、良いですね。実に素晴らしい。弱い自分自身を乗り越えて成長していく者たちの物語。王道のスポーツ漫画です。
     で、この「自分を乗り越える」という概念について最近、いろいろと考えています。まずは自分自身の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささ、与えられた環境への恨み、他者への妬み、怒りや憎しみといった負の感情などを「乗り越える」ことを「成長」と呼ぶことにしましょう。
     「自分を乗り越えるための戦い」とその結果としての「人間的な成長」は物語の大きなテーマで、結果として「乗り越えられた者」をここでは「大人」と呼ぶことにしたいと思います。
     少なくとも現代においては、どうやって「大人」になるかということは物語のひとつの大きなテーマとして存在しているといって良いでしょう。
     たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』は「乗り越
  • 二次創作は物語の面白さを増すのか、『エヴァ』と『FGO』で考える。

    2018-08-03 12:37  
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    ◆二次創作並行世界は物語に何をもたらすか?
     並行世界について考えている。
     つまり、並行世界という概念は物語に破滅的退屈さを呼び込むのか、それともより豊饒な実りをもたらすのか?
     前回はこの概念をわりとネガティヴに捉えていたので、今回はポジティヴに捉えなおしてみよう。並行世界の存在によって、物語はさらに面白さを増すと考えるのだ。
     そもそもここでいう並行世界とは何かというと、端的にいうならつまり、二次創作のことである。
     たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』で考えてみよう。
     『エヴァ』本編では人類補完計画が発動し、人類は滅亡し、碇シンジは補完されてしまったわけだが、その一方で本編とは異なる展開を描く無数の並行世界が存在する。
     一例を挙げるなら、漫画版の『エヴァ』がそうだ。
     貞本義行による漫画版の『エヴァ』は、アニメ本編とは似て非なる展開を遂げる。
     これはまさに、アニメ版『エヴァ』
  • 電子書籍『花の勲章』刊行。

    2016-10-01 06:01  
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     同人誌第一弾『BREAK/THROUGH』を『花の勲章 Breakthrough』と改題して電子書籍化しました。中身は、小説部分を削った以外ほぼそのままです。約10万文字あります。
     いま読むと、作品に関する情報は古びていますが、それでもなかなか面白いですねー。意外に悪くないな、と思います。ところどころ、『戦場感覚』に至るアイディアの萌芽が見られたりしますし。
     最後の第十章「花の勲章」のテンションの高さはいま見てもすごいものがあります。ぼくが書いたすべての文章の中で最もテンションが高い文章でしょう。
     よければ『戦場感覚』と合わせてお読みください。

     目次
    第一章「少年の夢。『プラネテス』が見る風景」
    第二章「世界が空気に溶けるまで――『ほしのこえ』から『けいおん!』へ」
    第三章「阿良々木暦の可能性殺し――『猫物語(白)』とハーレムブレイカー」
    第四章「『日本沈没』か『東のエデン』
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    50pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 
  • 90年代伝説の傑作アニメ『ジャイアントロボ』をいま見ると?

    2015-11-23 00:09  
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     昔見たあのアニメをもう一度見てみよう!企画の第一弾として、『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日-』を見ています。
     な、なつかしー。かつて中学生のぼくが熱狂しながら見ていたオリジナル・ビデオ・アニメのシリーズなのですが、うう、20年以上も経ってから再度見ることがあろうとは。
     なんだかんだでいろいろあった90年代OVAの最高傑作というべき一作で、個人的には非常に思い入れがあります。
     長いあいだ続編を待ったものですが、ついにそれが発表されることはなかったのでした。よよよ。
     まあ、ひとことでいってちょー面白いアニメですので、未見の方がいらっしゃいましたら(いるに決まっていますが)、ぜひ見てみてほしいですね。
     世紀末90年代真っ只中のあの日、ぼくはこのシリーズを熱狂と感動とともに見ていたのですが、いま見ると案外普通――などということはまったくなく、やっぱり圧倒的に面白い作品だと思います。
     何がそれほど傑出しているのか?
     謎また謎のストーリー、痛快きわまりないアクションなどを挙げることはできますが、それ以前に何か異常にぼくの心を惹きつけるものがある。
     あえていうなら、それは「面白さをためらわない」姿勢であるといえるかもしれません。
     とにかく作品を面白くすることに躊躇がない。
     考えられる限りのありとあらゆる手段を用いて面白くしようとしているアニメーションであるといえるかと思います。
     まず、もとは特撮企画である『ジャイアンロトロボ』をアニメ化しようとしたときに、『バビル二世』から『水滸伝』に至るさまざまな横山光輝作品を取り込んで、いわば横山光輝オールスタープロジェクトともいうべき作品世界を作り出そうとする発想が異常。
     しかも、『三国志』やら『仮面の忍者赤影』やらのキャラクターたちがときに善悪逆転し、ときに敵味方に分かれて戦い合うという企画意図そのものが素晴らしい。
     主人公である草間大作を初めとして、ほとんどがなんらかの出典を持つキャラクターで、その出典と照らし合わせて考えてみるだけでも楽しい。
     そして、もちろん、この作品はただそれだけで終わることなく、かつてだれも見たことがないような壮大なストーリーをひねり出していきます。
     舞台となるのは近未来とも思しい地球。一方はこの世の秩序を守ろうとする世界の守り手、国際警察機構! 他方はそれを反転させようと試みるBF団!
     この両者の超集団の壮絶を究めるパワーゲームのなかで、「地球静止作戦」と呼ばれる世紀のビッグプロジェクトが始まる。
     それは世界のあらゆるエネルギーをまかなう大発明「シズマ・ドライブ」を静止させようとするBF団史上最大の作戦。
     10年前、バシュタールの惨劇によって生み出されたエネルギーが止まるとき、過去の亡霊がうろつきまわり、人類は無限エネルギーの代償を支払わされることになる。
     しかし、その裏にはさらにさらに隠された真の目的が?
     真実はどこにあり、戦いはなんのためにあるのか?
     数々の超能力を持つ最強の超人たちが活躍するなか、少年は非情の決断を迫られる――。
     まあ、 
  • なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

    2015-10-07 03:37  
    50pt

     ぼくはエンターテインメント小説が好きで、いろいろ読んでいるわけですが、エンターテインメントというものはある種、矛盾した条件を抱えているよな、と思うことがあります。
     つまり、普遍性と独創性の双方を兼ね備えていなければならないのですね。
     理想的なエンターテインメントとは「だれも見たことがないほど独創的で、しかもだれもが楽しめるほど親しみやすい作品」ということになるでしょう。
     ここにはあからさまなパラドックスがあります。
     「だれも見たことがないほど独創的な表現」を求めるととっつきづらいものができるし、「だもが楽しめるほど親しみやすい展開」を求めるとどこかで見たようなものが仕上がるわけです。
     このふたつの条件を同時に満たすことは、不可能ではないにしても、恐ろしく困難でしょう。どちらか片方だけならできないことはないだろうけれど。
     エンターテインメントの究極の目標は「だれが読んでも面白いと感じる」作品であるわけで、その点を追い求めていくとどうしてもどこか似通ったものになるのだと思います。
     その意味でエンターテインメント作品のオリジナリティにはある種の限界があるといえるかもしれません。
     一般的なライトノベルを先鋭的な実験文学を比べたらどうしたって実験文学のほうが独創的になることでしょう。それはそうだと思います。
     それにもかかわらずぼくがエンターテインメントを好むのは、「型」に対する「ズレ」に面白みを感じるから。
     ある種の固定されたスタイルを前提とした逸脱的表現は、完全に自由な状態での表現よりも面白く感じるということです。
     ただ、その「ズレ」はジャンルが洗練されていくにつれて修正され、消滅していく傾向があるように思います。
     ジャンルのターゲットがはっきりすると、カテゴリエラーな作品は追放されてしまうわけです。
     そうなってくると、ぼくとしてはもうひとつ面白くなくなる。
     ぼくはやっぱりカテゴリの常識からちょっとズレたものを読みたいのです。酔狂ではありますが。
     ――というようなことを、この記事を読んで考えました。
    http://seagull.hateblo.jp/entry/%E5%AD%A6%E6%88%A6%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF-vs-%E8%90%BD%E7%AC%AC%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%8B%B1%E9%9B%84%E8%AD%9A
     『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』というふたつのアニメの初回の内容がきわめて似通っていたという話ですが、これは偶然ではないと思います。
     そうかといって「「アニメ化されるラノベの書き方」みたいなマニュアルの存在を信じたくなる」というのもちょっと違う気がする。
     エンターテインメントが 
  • 運命はいつも極限の二択を突きつけてくる。選べ。「立ち向かう」か「座り込む」か。

    2015-05-11 03:08  
    50pt

     いま、『3月のライオン』の連載が非常にタイムリーな話題を扱ってくれています。
     以下、ネタバレあり。
     さて、今週号の『ライオン』は主人公である桐山零くんのこのような独白で始まります。

     人生はいつも 
     「立ち向かう」か「座り込む」かの
     二択だ
     何もしないでいても救かるなら 僕だって そうした
     ――でも そんな訳無い事くらい 小学生にだって解った
     だから 自分が居てもいい場所を 必死に探した
     自分の脚で立たねばと思った
     一人でも
     生きていけるように
     誰も
     傷つけずに すむように

     ここで桐山くんはダメ人間の川本父と対峙しながらこう考えているわけです。
     一見して、非常にきびしい内容であることがわかります。
     つまり、人生における「立ち向かう」と「座り込む」の二択で、自分はいつも「立ち向かう」ことを選んで来た、それは自立してひとを傷つけないようにするためだった、ということだと思います。
     ここにはあきらかにその都度の選択肢で常に「座り込む」ことを選んで来た(ように見える)川本父に対する批判が見て取れます。
     ある意味で零くんはここで自分自身のシャドウと向き合っているといえる。
     川本父はもしかしたらそうだったかもしれないもうひとりの自分の姿なのです。
     しかし、それでもなお、零くんと川本父は決定的に違う。
     それはつまり人生の志の差なのだということは前回で語られました。
     零くんには長期的な視点があり、川本父には短期的なそれしかないのだ、と。
     これはじっさい、連載をここまで追いかけてきた読者にとっては説得力ある話です。
     なんといっても、読者は零くんがこれまでズタボロになりながら努力する姿をさんざん見て来ているわけですから。
     そのかれがいう「自分の脚で立たねば」という言葉からは非常に強い印象を受けます。
     しかし、同時にこれは「そういうふうにできない」人間を切り捨てる話にもなりかねないわけです。
     ネットでこういうことを意見にして書くとものすごく叩かれますよね。世の中にはそうできない人間もいるんだ、お前は弱者を切り捨てるのか、と。
     つまり、非常に微妙な問題を孕んだエピソードがここにあるということ。
     ぼくの意見をいわせてもらうなら、 
  • あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

    2015-04-12 00:10  
    50pt

     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
     しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
     そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
     そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
     これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
     クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
     この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
     しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
     その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
     なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
     だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
     そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
     最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
     『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
     かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
     しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
     そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
     あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
     だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
     たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
     どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
     大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
     ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
     だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
     理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 
  • 蜜月が終わるとき。かつて愛したものに笑顔で別れを告げよう。

    2014-11-21 22:27  
    50pt


     貞本義行による漫画『新世紀エヴァンゲリオン』の最終巻を読みました。連載開始から実に18年もの歳月をかけての完結となったわけですが、卓越した表現力で、テレビシリーズとも新劇場版ともまた違う「もうひとつの『エヴァ』」を描き抜いてくれたと思います。
     ここには庵野秀明の「狂気」はありませんが、その代わり、シンジを初めとする登場人物の心理がとてもていねいに描写されています。
     こういう『エヴァ』が見たかったんだ、という人も多いのではないでしょうか。いまさらではありますが、やはり貞本さんは絵がうまい。一本一本の線の綺麗なこと。この人はこの人である種の天才だよね。
     それにしても18年です。その長い年月の間に、『エヴァ』と別れを告げた人も多いでしょう。いつまでも終わる気配を見せない物語に、「もう『エヴァ』はいいよ」と感じている人もいるかもしれません。
     それはおそらく制作サイドにしても同じことで、あるいは「もう新しいファンがいるのだから、いつまでも古いファンに支持してもらわなくてもかまわないよ」と思っているかもしれません。
     つくづく思うのですが、作品と読者が心の底から互いを愛しあい、求めあう蜜月の時期は短いものです。
     どれほど愛しあった作品と読者でも、かつて愛しあった恋人たちの気持ちがすれ違い、やがて離れていくように、いつのまにか疎遠な関係になってしまったりするようです。
     『エヴァ』にしてすらそういうことはあると思う。いまになってなお新たに生み出される謎、新しく付け加えられる設定――その膨大な分量に、「いいかげんにしてくれ」と思っているファンは少なくないかもしれません。
     しかし、物語が続いていくということはそういうことなのです。ひとつの作品は、それが続いていく限り、変化しつづけ、ある意味では元の魅力を失いつづけていきます。
     読者がどれほど「もういいよ」、「ここで止まってくれ」と望んでも、作り手にはべつの意図があり、そして作り手が続けたいと望む限り、作品は続いていくのです(あるいは完全に人気がなくなって見捨てられるか)。
     こういう構造を、寂しい、と感じる人もいるでしょう。あの日愛した作品にそのままの姿であってほしい、そう願う人はたくさんいるはずです。
     そして作り手の側にしても、叶うものならずっと同じファンに愛されつづけたいと願っているかもしれません。ですが、それは結局、決して叶わない願いです。
     ある物語を続けていけば、どうしたって一途に支持しつづける読者だけというわけには行きません。なかにはかつてその作品を愛したからこそ、可愛さ余って憎さ百倍の思いで攻撃してくる読者もいるでしょう。
     その気持ちはよくわかる。でも、ぼくはそれは正しい姿勢ではないと思うのです。ひとは変わるものであり、作品もまた変わっていく。
     そしてその終わりない運動によって、作品と読者の間には距離が生まれていく。とても哀しいこと。しかし、それは作品のせいでもなければ、読者のせいでもないわけです。
     ひとは変わるもので、作品もまた同じ。時の仮借ない責め立てのなかで、すべてのものは変化していきます。そのことを止めようとすることは、自然の摂理に反することです。
     ひとにできることは、時の流れを受け入れること。無常――何もかも変わっていくというその真理を受容し、笑顔で作品と別れを告げることだけなのではないでしょうか。