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退屈は人類最後の課題だ。
2015-11-02 23:5551pt
先日教わった『地龍のダンジョン奮闘記!』というなろう小説がなかなか面白くて、読み耽っている。
タイトルだけ見ると異世界ファンタジーのようだが、じっさいには地龍に転生した主人公ができるだけ居心地のいいダンジョンを作ろうとするいわゆるスローライフもの。
最強の地龍に生まれ変わったくせに、徹底してニートな主人公の発想が心地よく、なかなか読んでいて楽しい。
ストーリーが一挙に動き出してからは面白くなるのかどうか微妙だけれど、何しろストレスがなく気楽なのですらすら読み進めてしまう。
考えてみればわざわざ異世界に転生してまでなぜスローライフを送らなければならないのだとも思えるが、現実世界の現実的な条件に縛られないあたりがこのジャンルの人気の理由だろう。
異世界ものではないが、『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』あたりも似たようなところに面白さの根幹があると思う。
多くの人が、派手な冒険や過酷な成長よりも、まったりとした成熟した日常にあこがれを抱くようになっているのかもしれない。
もちろん、その一方で冒険活劇はしっかりと生き残っているのだが。
ところで、ぼく自身もまずスローライフといっていい暮らしを送っている。
このブログそのほかでいくらかの収入を得て、毎日だらだらと暮らしているわけだ。
1日1回ジムに通うほかは、いくら寝ていてもだれにも怒られない。生きたいように生きられる。
自由で快適なひきこもりライフ。
しかし、この至福とも思える生活は、ひとが思うほど良いものではないともいえる。
なんといっても、退屈なのだ!
孤独はSkypeで話すなどして晴らすことができるが、退屈はまさにいかんともしがたい。
読書とか映画とかテレビゲームとか、そういう内向的な趣味には限界がある。
いくら面白くても自分のなかに情報を詰め込むだけでは飽きて来るのだ。
たぶん、行動することが必要なのだと思う。
前の記事で書いたように、くだらないことでもコミットしてみるのだ。
そうして本気になってバカをやって汗をかくことで、人生のむなしさを乗り越える。それしかない。
しかし、現実に地方都市でひとりひきこもりをやっているだけだと、できることは限られているのも事実。
ぼくはつまり「生きがい」が欲しいのだが、そんなもの、そこかしこに落ちているわけがない。
働きに出かけるか? しかし、いま現在、特にお金に不自由しているわけではないし、時給650円でバイトしたって、辛い思いをするだけでいいことはないと思う。
そういうわけで、悩むところなのだ。
この退屈という魔物を打ち倒すことができれば、ぼくのスローライフは理想的だといえそうなのだが……。
いったいどうすればいいだろう?
ぼくは本のなかに答えを探してみた。
何冊かの本は、プアでフリーでスローな人生こそが素晴らしいのだと示唆しているように思えた。
たとえば、こんな本たちである。 -
ひきこもりに居場所はない。だから自分で作るしかないということ。
2015-06-04 18:0451pt
ども。『スプラトゥーン』と『ゼルダの伝説 風のタクト』を買おうかどうか迷っている海燕です。
さすがに未クリアのソフトを増やしすぎるのもどうかと思うんだけれど。うーん。
さて、日々、リアルライフを神ゲーにしたいと願っているぼくですが、じっさいにはそれとは程遠い生活を送っております。
いや、楽は楽なんですけれどね。働かなくても一定の収入は入って来るし、一日中寝転んでいても文句をいう人はいないし、ある意味でこれほど気楽な人生はないといえそうですが――でも、退屈。
星里もちるの漫画『本気のしるし』のなかに、すべてを失って無為に暮らす主人公が、公園のベンチか何かの上に座って「この退屈だけは耐えられない」と呟くシーンがありましたが、いまのぼくはその気持ちがしみじみとわかります。
やっぱりひとは無為には耐えられない生き物なのです。
何かを積み上げている実感、つまり「生きがい」がないと、生きていけないのが普通だと思う。
もちろん、積み上げることにどれほどの意味があるかといえば、何もないのかもしれない。
しかし、それでもひとは何かが積み上がっていくことそのものに喜びを感じるのではないでしょうか。
ひとはいくら頑張っても何も積み上がっていかない状況に長くいると、ついには狂ってしまいます。
そういうわけで、人生を神ゲーにするためには「努力の成果が積み上がっていく実感」がほしいところなのですが、そこでいったい何をしたらいいものやら途方に暮れてしまいます。
できれば、書くことで何か実りを得たいのだけれど、まあ、むずかしいよね。さりとて、ほかに何ができるわけでなし。
安定してはいるが退屈な生活という牢獄に閉じ込められて、この先、何をしたら良いものやら、悩み、迷うところです。
しばらく前にぼくは「自分自身を主人公にした自分のライフストーリーを生きて行きたい」というようなことを書きました。
これは、他人の物語を受動的に読んだり見たりしつづけることに限界を感じたことから出た発言です。
つまり、ぼくはやはり他人の物語を読んだり見たりするだけでは満足できないと気づかざるを得なかったのですね。
どうしても自分の人生を充実させなければ他人の物語を楽しむこともまたできないのだということです。
いま、 -
リアルはなぜクソゲーなのか?
2015-06-01 03:3651pt
ニンテンドー3DSでLEVEL5制作のRPG『ファンタジーライフ』を始めました。
ああ、まだ『スーパーマリオ3Dワールド』も『ゼノブレイドクロス』も終わっていないのに新たにゲームを始めてしまうぼくの意思の弱さよ。
ちなみにiOS版の『シュタインズゲート』なんかも途中で止まっています。『逆転裁判2』と『3』、『アサシンクリード4』あたりも途中だな。
いい訳させてもらうならべつだん意志が弱くてひとつのゲームを続けられないわけじゃなくて、むしろ「複数のゲームを同時進行している状態」をこそ快適だと感じているのだと思うのですね。
それもアクション、正統派RPG、スローライフ系RPG、ADVといろいろなジャンルの作品がそろっている状態が心地いい。
ようするにぼくは「選択肢を増やしたい」と考えているのでしょう。
いつでもやりたいと思ったときにそのジャンルのゲームを遊ぶことができるということに「自由」を見いだしているわけですね。
べつにやらなくてもいいのだけれど、やりたくなったらいつでもできる。
それがぼくが考える「自由」であり「贅沢」なのだと思います。
もちろん、事はゲームに限りません。たとえば、中華料理を食べたいな、と思ったときに即座に食べることができるということが「贅沢」だと思います。
そういう意味では、ぼくはなかなかに自由で贅沢な人生を送っているといえるかもしれません。
いつでも寝たいときに寝て、起きたいときに起き、やりたいことだけをやって暮らしているわけですから。
もちろん、そうはいっても、「金銭」という条件によって制限される要素は少なくありません。
たとえば海外旅行に行きたいな、と思ってもすぐに実行するのはむずかしい。
だから、ぼくがお金を欲しいと思うのは、必ずしもそれを使いたいからではないのですね。
仮に貯金が1000万円くらいあったら、たぶんじっさいに使わなくてもそれなりに満足できるんじゃないかと思う。
「いつでも使うことができる」と思っていられることが重要なのであって、じっさいにやりたいことはそれほどないんじゃないか。
この感覚、わかる人はわかってくれると思うんだけれど、どんなものだろう。
さて、『ファンタジーライフ』の話に戻ります。 -
働くのも自由。働かないのも自由。精神を解放する革命思想がここにある。
2015-05-30 00:1651pt
先日書いた通り、Phaさんの新刊『持たない幸福論』を読み上げたので、その感想を書いておきたいと思います。
結論から書くなら、非常に面白かったです。
ぼくとしてはビシバシ心に突き刺さる知的にエンターテインメントな一冊でした。
書き手が「日本一有名なニート」としてしられるPhaさんということで、ともすると「ニートのススメ」みたいに読まれかねない本であるとは思いますが、ぼくにいわせればそういう内容ではない。
これは仕事や家族に関する集団幻想を片端から打ち破ろうとするラディカルな告発の書だと思うのです。
この本のなかで、Phaさんは「労働」や「家族」、「お金」といった価値の絶対性に対して次々に疑問を呈していきます。
その人でなければできない仕事などというものはないとか、家族もシェアハウスグループの一種に過ぎないとか、お金がなくても楽しく生きていくことはできるとか。
同い年でやはり無職ライフを堪能している者としては共感せずにはいられない意見ばかりなのですが、それらの幻想をかたくなに信じている人にとっては反感を感じずにはいられない内容でしょう。
これらの意見を通して、Phaさんは読む人をいわゆる「世間の常識」なるものから解き放とうとしているように思えます。
その意味でこの本は過激な告発の書であり、そして偉大な解放の書でもあるのです。
なんだかんだいって世の中にはまだ「働かざるもの食うべからず」とか「結婚して子供を作って一人前」といった宗教を信じ込んでいる人も多いことも事実。
そして、それで満足している人はいいけれど、苦しんでいる人も多いはずなのですね。
この本はそういう人たちに向かって優しく「苦しまなくてもいいんだよ」と語りかけます。
働きたくないのに働かなくてもいい、結婚しなくても、家族を持たなくても、後ろめたく思う必要はない。本書の内容を簡単に表すなら、そういうことになるでしょう。
決してニートになることを奨めているわけではありません。
そうではなく、「世間の常識」という形のない鎖から自分を解き放って生きてみませんか、と誘いかけているだけだと思います。
あらゆる常識や幻想を排して判断してみて、その上で「やっぱり自分は働いてお金を稼ぎたい」と思うならその道を歩めばいい。
そしてもしそうではなく「働くことってしんどいな」と思うようならなるべく働かないで済む生き方を選べばいい。
いずれにしろ優劣はない、そういう思想だといっていいでしょう。
つまり、「なんでもあり」ですね。 -
「無職の才能」が足りなくて。
2015-05-25 01:4551pt再度、記事に付いたコメントを転載させていただきます。
転載されたコメントの「メディアへの接触は自由である」というのは、ネットへの書きこみや投稿ができる状態でしょうか。
もしそうでないのならば、そのうち楽しくなくなると思います。これは他の記事でもコメントしたことですが、「自己承認欲求」が満たせないからです。
いくら面白いコンテンツを自由に消費できても、これだけだと「自分は世の中の何かに役だっている」という実感を得られません。
「自分は何のために生きているのか」「この世に自分は必要なのか」「このまま何も成し遂げずに死ぬのか」という疑問がわいてきて、楽しむどころじゃなくなってくるのではないかと。
自己承認欲求が無い人も、中にはいるかもしれません。でも、そういう人は少数だと思います。
たいていの人は、社会と関わって他人や自分自身によって「自分を何らかのかたちで認められる」ことがないと、欲求不満になってしまうのではないでしょうか。
――ああ、承認欲求、ありますよねえ。
いまの世の中には楽しいことや面白いものが山のようにあふれているわけですが、やはりひたすらそれらを楽しんで面白おかしく生きていくことはできないようです。
いや、できる人もいるのだろうけれど、ぼくにはできない。やっぱり「ぼくはなんのために生まれてきたんだ?」とか思い悩んでしまう。
なんといっても人間は社会的動物で、社会との関係を構築せずに生きて行くのはしんどいのだと思います。
ひとは「他者」という鏡があって初めて自分の立ち位置を確認できるようなところがある。
ぼくにしてからそれは変わらず、お気楽なニート暮らしを満喫しているとどうも不満感が高まっていくようなのですよね。
ぼくですらやっぱり何かひとの役に立つことをしたいとか思ってしまうわけなのです。
そういう強迫観念に捕らわれず自由に人生を楽しめる人もいるのだろうけれど、どうやらぼくはそうではない。
そういう意味ではぼくにはあまり「無職の才能」はないのかもしれません。ただやむを得ず無職しているだけなんですね。 -
お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。
2015-05-24 02:3751pt
日本一有名なニートとしてしられるPhaさんの新刊が出るそうで、クリスマスまでの日を数える子供のように楽しみに待っている。
タイトルは「持たない幸福論」、26日発売だとか。
26日になったら即座にKindleで落とそう。まったく便利な世の中である。
で、そのPhaさんが「お金がないと幸せになれないのか」という記事を書いている。
http://pha.hateblo.jp/entry/2015/05/22/003115
もちろん、イエスかノーでシンプルに答えられる問題ではないのだけれど、Phaさんのアンサーはイエスに近いようだ。
ぼくとしては「ある程度は収入があったほうが幸せになりやすい」と答えたい。
やっぱりいまの時代、大半の人間は社会のなかで生きているのだし、その社会で通用する通貨をたくさん持っているといろいろ便利ではある。
お金がたくさんあれば幸福というものではないことは諸々の調査があきらかにしているが、そうかといって極端な貧乏もやはり辛いものがある。
昔、「清貧の思想」と題する本がベストセラーになったが、清貧とはなかなかむずかしいもので、やはり大抵の貧乏はただ貧しいだけなのである。
ただ、貧乏が即座に不幸かというと、必ずしもそうではないらしいこともたくさんの証言がある。
また、現代日本のような社会インフラがきわめて高度に整備された社会における貧乏は、そうでない社会における貧乏とはまた性格が違っているだろう。
「貧乏」が即座に「貧困」ではないのだ。
『貧乏は幸せのはじまり』というなかなか面白い本があって、そのなかには赤貧の有名人のエピソードがいくつも出て来る。
ほほえましく読めるものもあれば、読んでいるほうが辛くなってくるものもあるのだが、それらを読んでいるとたしかに裕福さと幸不幸は関係ないのだな、と思えて来る。
すべてはその人の内面の問題。
もちろん、そうはいっても、凡人にとって貧乏は楽ではない。
凡人は、それが可能であるならおとなしく一定のお金がある生活を送ったほうがいいだろう。
ただ、最低限の収入でもなかなか楽しそうに暮らしている人たちがいることは事実だ。
社会の整備が進んだ上に、いろいろなものが極端に安価で入手できるようになった昨今、「貧しいが楽しい暮らし」を送ることは以前より容易になって来ている。
というか、 -
デフレ化するエンターテインメント。
2015-05-21 09:5251pt5月27日に定額制音楽配信サービス「AWA(アワ)」が正式スタートするそうです。料金は「Lite Plan」が月額360円、「Premium Plan」が月額1080円。2016年末までに1000万曲の提供を見込むとのこと。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1505/20/news123.html
うーむ、いままでレコチョクBestを利用していたけれど、乗り換えようかな。
それにしても月額360円で1000万曲て。1円で3万曲くらい聴ける計算になりますね(苦笑)。
いくら歴史の趨勢とはいえ、これでは音楽ビジネスも成り立たないはずだよなと唸ってしまいます。
音楽だけではなく、エンターテインメントは総じて限りなく無料に近づいていますよね。
ぼくはいまWiiUの『ゼノブレイドクロス』をプレイしているのだけれど、このゲーム、端から端まで楽しもうと思ったら300時間くらいかかるらしい。
じっさい、いま25時間くらいやっているけれど、あきらかにストーリーはまだ序盤で、まあ300時間とまでは行かないにしてもクリアまで100時間以上はかかることは必至だと思われます。
これは極端な例ですが、テレビゲームはどれもプレイ時間が長時間化していて、80時間とかかかるものは普通になっている。
ソフトの価格は昔とそれほど変わっていないわけで、一本買えばそれだけ長い時間楽しめることになります。
テレビアニメとかテレビドラマなんかは、放送を録画すれば無料なのは当然として、各種視聴サービスも整って来ています。
たとえばdアニメストアでは400円で1000作以上が見放題。ただ視聴するだけならほとんどお金はかからないといっていいかと。
また、小説や漫画などもネット古書店を使えば安く入手できますし、Geoなどではさらなる安価でレンタルもしています。
映画も、劇場で見れば1800円かかるけれど、ビデオをレンタルしたり動画配信で見たりするだけなら300円程度で済む。
制作費100億円の映画を100円で見ることすら可能。
もう、何もかもが安くなっているわけです。
もちろん、音楽にしろ映画にしろゲームにしろアニメにしろ漫画にしろ、最新作をリアルタイムで入手しようと思ったらいままでと変わらない価格になる可能性が高いわけですが、ほんの数ヶ月待つだけで劇的に安くなることが大半です。
ただ時間を豊かに潰すだけならほとんどお金はかからないわけです。
スマホやゲーム機に初期投資は必要であるにしろ、それも最新型をそろえようと思わなければきわめて安く済む。
コンテンツのほうは、そうですね、1ヶ月3000円もあればお釣りが来るのではないでしょうか。
アニメや動画は -
ひとはなぜこうも正義に酔い、極論に走るのか。
2015-05-11 21:2551pt
『減速して生きる ダウンシフターズ』という本を読む。
人生のギアを下げ、「減速」して生きる人々・ダウンシフターズについて書かれた本だ。
といっても、インタビュー集のようなものではなく、ほぼ著者の生き方が淡々と綴られているだけである。
否応なくダウンシフトして生きているぼくは非常に共感するところもあるのだが、一方で著者の主張が素朴すぎるように思えて苛立つところもあった。
戦争反対、環境優先、無農薬の美味しい野菜を、といった主張のひとつひとつはたしかに正論なのだが、それが全部合わさるとどうにも胡散くさく感じられてしまう。
あまりにもきれいすぎる理屈であるため、現実を無視しているように感じられてしまうのだ。
人生のダウンシフトは悪くない考えだと思うが、それを経済とか政治の問題とダイレクトに結びつけてしまうと、どうにも違和を覚えずにはいられなくなる。
ダウンシフトのほかにも、シンプルライフとか、スローライフとか、ロハスとか、清貧とか、プア充とか、貧乏道とか、「お金を使い過ぎない生活」を称揚した言葉は多い。
それらは往々にして「物質文明からの解放」や「持続的でない資本主義サイクルからの脱出」をうたっている。
しかし、ぼくはそこにどうしようもなく欺瞞を感じ取ってしまう。
それは人間のきれいな一面だけを切り取ってそこだけを称える思想であるように思えてならないのである。
ダウンシフト、シンプルライフ、プア充、いずれも大いにけっこうだとは思うが、行き過ぎると巨大な欺瞞を抱え込むことになるのではないか。
昔から思っていた。どうしてひとはこう極端に走るのだろう、と。
以前、タバコについて記事を書いたことがある。
どうして愛煙家と嫌煙家はああも不毛な議論を続けるのだろうかという疑問について書いたつもりだった。
愛煙家は嫌煙家を「禁煙ファシスト」と呼び、嫌煙家は愛煙家を「ニコチン漬けの哀れな病人」と決めつける、その構図にぼくは深刻な疑問があったのである。
その記事はどうやら愛煙家を擁護するものと受け取られたらしく、その文脈で賛否両論があったが、ぼくがいいたいのはそういうことではなかった。
ある人が愛煙家でも嫌煙家でもべつにかまわない。それぞれの人にそれぞれの立場があることだろう。
ただ、それならなぜ、少しでも相手の立場に立って相手寄りの姿勢で考えることができないのか。
なぜ、これほどまでに相手を軽蔑し、憎悪し、レッテルを貼り、一方的に攻撃しなければならないのか。
そうぼくは問いたかったのである。
タバコに限らず、憲法問題でも原発問題でも環境問題でもそうだ。
それらはそもそも -
理想は「そこそこシンプルライフ」。
2015-04-19 22:2551pt今月も後半になってきて、そろそろ疲れが出て来ているな。いかんいかん、注意していないと、あっというまに記事更新がとどこおってしまう。
とはいえ、アニメやライトノベルの記事はちょっと書き飽きたことも事実。
あるいは大方の人はそういう記事を求めているのかもしれないが、書きたくない記事は書かないということがこのブログの基本である。あしからず。
そこで、きょうは「生活」のことを書きたいと思う。
生活。それも「豊かな生活」について、ぼくは随分と興味がある。
じっさい、いま「貧しい」生活を送っているという実感があるから、なんとかしてそれを豊かにしたいと思うのだ。
そうはいっても、単純に収入を増やせばいいという問題ではないことはぼくにもわかる。
いや、もちろんお金も欲しいのだが、お金さえあれば即座に豊かな暮らしを実現できるというものではないだろう。
その幻想はいまから何十年か前に泡ととも -
「贅沢貧乏」に憧れて。お金を使い過ぎず豊かに暮らすことは可能か?
2015-04-09 22:4051pt
お金が欲しい。
収入を増やしたい。
一方でそう願いながら、他方でぼくは「つましい生活」に憧れている。
むろん、貧乏を希望しているわけではない。清貧の思想とやらにかぶれたわけではさらさらない。
ただ、わが身の浪費を思うとき、もう少し少ないコストで快適に暮らしていけるのではないかと思わずにいられないのだ。
いまのままでは、仮に収入が倍になったとしても、その分をすべて無駄に使い尽くして終わるだけかもしれない。
それは相対的に贅沢な暮らしではあるだろう。だが、ぼくが考える「豊かな人生」とは異なる。
お金が欲しい、収入を増やしたいと強く望みながら、反面、ぼくは「極力お金に頼らずに生きて行く方法」について考えているわけなのである。
西園寺マキエ『稼がない男』を読むと、その「お金に頼らない生活」を成し遂げたひとりの男性の人生を見ることができる。
著者の恋人であるヨシオ(仮名)は、早稲田大学を優秀な成績で卒業し一流企業に就職しながら、あっさりとその就職先を捨て、「稼がない人生」に突入する。
ヨシオの年収はわずか150万円弱。かれは生活のすべてをその金額でまかなっている。
常識的に考えれば困難だが、そもそもあまりお金を使わない生活をしている上、生活に必要なあらゆる雑費を緻密に算出して管理しているため、この金額でも困らないのである。
もっとも、たとえば突然パソコンが壊れたとき、途方に暮れるしかないことも事実。
それでもヨシオはどこまでも楽天的で、「稼がない人生」をほとんど享楽的に味わい尽くす。
著者はこの心優しい「稼がない男」の生きざまを数十年も追いかけていく。
ぼくがこの本を読むと、「ああ、この収入でも生きてゆくことはできるのだな」となんとなく安心する。
そして、その上で自分はなるべく稼ごうと考える。
人間の幸福はお金では決まらない。それはたしかだが、一定額のお金はある程度の「自由」を保障する。
そして、ぼくはヨシオとは違って、その「自由」を放棄できるほどに悟ってはいないのである。
とはいえ、「最低金額での生活」はそれはそれで魅力的だ。
じっさい、様々なものが安価になったいま、無駄な出費を避ければ、限りなくローコストで楽しい人生を送ることができるだろう。
テレビアニメの録画にも、ニコニコ動画の鑑賞にも、LINEやSkypeでのやり取りにもほとんどお金はかからないことであるし。
山崎寿人『年収100万円の豊かな節約生活』を読むと、その節制生活をさらに突き詰めた人物を発見できる。
この本の著者は、生活のあらゆる無駄を切り詰め、年間わずか100万円で暮らしている。
この「楽しく」というところが重要で、かれの生活は決して暗くもなければ憂鬱でもない。
ただ無意味な出費を避けているだけで、かれは十分に「贅沢」な人生を送っている。
ぼくがあこがれる「つましい生活」の理想形がここにある。
何より、日々の食事に凝っているところに惹かれる。
そう、あえて大金を蕩尽しなくても、手間さえかければ美味なものは食べられるのである。ラグジュアリーなレストランの最高級ディナーとまでは行かないとしても。
「お金に頼らない人生」は
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