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なぜコミュ障は地獄なのか。
2015-06-08 21:1751ptTwitterでこんなツイートを呟いてみた。
「絵が描ける」とか「歌が歌える」とか「文章が書ける」ということは、その分野における自分の技術と折り合いがつけられているということだ。ほんとうはやるだけならだれにでもやれるのだ。ただ自分のあまりの下手さに耐えられないから「できない」と思っているだけで。
そうしたら、てす(@a1rou59)さんから次のようなリプライをいただいた。
@kaien そのうちで良いので、この「折り合い」の付かない感じ・自分の下手さに耐えられない感じをブロマガでkwsk。解決しなくて良いのですが、本当にこの感じに困ってしまって・・・
それでは、さっそくその件について書くことにしよう(あまり長く放置すると忘れ去ってしまう可能性が高い)。
上記のツイートで書いたように、ひとは、なんらかの物理的には可能な行為を、心理的な理由で「できない」と思っていることがある。
たとえば、高所恐怖症の人にとって、スカイダイビングやバンジージャンプ、フリーフォールのような行為は、物理的には可能だが、心理的には不可能なものである。
あまりにも心理的障壁が高いため、かれらはそれを物理的に不可能な行為であるかのように表現することがある。
「わたしにはどう足掻いてもとてもできない」、「あまりにも危険すぎる」とか。
しかし、それはやはり嘘なのであって、問題は99%まで心理的なものだ。
たしかに、1%以下の危険性がないでもないことは事実だ。
何かが狂って、予想外のトラブルが起こるかもしれない。パラシュートの金具が(入念にチェックされているはずにもかかわらず)壊れているとか。
だが、そういった確率は、たとえば日常生活のなかで殺人犯と遭遇する確率と比べてもそう高くないだろう。
冷静に客観的に考えれば、スカイダイビングやバンジージャンプに物理的な危険が伴うことはほとんどないということはわかるはずだ。
もし大きな危険があるならすぐに問題になって中止されているだろう。
もちろん、だからといってこういった行為が恐ろしくないことにはならない。
物理的な障壁は一切なくても、心理的な障壁は残る。
高所恐怖症の人はいうだろう、「そうはいっても、怖いものは怖い」と。
それはまったく納得のいく話である。ひとは理性だけで生きているわけではないからだ。
理性的に考えれば不条理な恐怖感であっても、並大抵では克服できないということはありえる。
だから、ひとはしばしばいい訳することになる。「スカイダイビングなんて、ばかみたい」、「まともな人間はそんな危険な真似をしたりしないよ」などなど。
この場合は、まだ身体的な危険がゼロではないぶん、そのいい訳も理解しやすい。
ところが、人間はほぼ99・99%身体的な危険がない場合でも、行動を尻込みすることがありえる。
つまり、歌を歌ったり、絵を描いたり、文章を綴ったりするという「自己表現」に関わる行為を避ける場合である。
ひとはときに
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