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タグ “幸福論” を含む記事 11件

十分に頭が悪ければ、幸せになることはむずかしくない。

 ひとはなんのために生きているのか?  その問いには色々な答えが考えられるでしょうが、「幸せになるため」というのもそのひとつでしょう。  ひとは幸せになるために生きる。シンプルだし、それなりに納得がいく答えです。  それでは、人間はどのようなときに幸福を感じるのでしょうか?  これにもさまざまな答えがありえるだろうと思います。ここでぼくが取り上げたいのは「自己肯定感の高さ」こそが幸福をもたらすというものです。  自分自身を心底肯定できているとき、ひとは幸福である。そういうことができるのではないでしょうか。  さらに考えてみましょう。それなら、どうすれば自己肯定感を得ることができるのか。  だれかに愛されたとき。なんらかの業績を挙げたとき。そんなことが思い浮かびます。  しかし、ひとに無条件に愛されたり、傑出した仕事を成し遂げることは容易ではありません。  もちろん、そんなことなしでもひとは自分を肯定できるし、幸せになることもできるはずだけれど、簡単にはそうできない人たちも多い。  それでは、どうしても自分を肯定する方法を見つけ出せない人はどうするのか。  実はこの問いにはひとつの明確な答えがあるのです。それは「ひとを引きずり下ろす」こと。  自分がひとの上に立つのがむずかしいのだとすれば、他人を引きずり下ろしてしばまえばいい――ロジカルといえばロジカルな結論でしょう。  だから、世の中には、なんとかして他人の価値を貶めようとがんばっている人たちがたくさんいます。  そういう人たちは、めったに他人を評価しません。金メダリストだろうがノーベル賞受賞者だろうが、たいした業績であるとは認めないのです。  そんなものたいしたことないよ、とかれらはいうでしょう。だって、その人物にはこんな欠点があるじゃないか、とも。  そう、かれらはいつもひとの価値を下げることにのみ熱中しています。  ちょっとでも瑕疵を見せた人を、かれらは徹底的に攻撃します。  それが、それだけが自分の「幸せ」に至る道であると信じているかのように。  じっさいには、かれらにそこまで深い考えはないでしょう。単純に、自分たちのうっぷん晴らしの行動が「正義」であると、ほんとうに信じていることもありえます。  ほんとうはそれは「正義」には程遠い、ただ自分のストレスを他者にぶつけるだけの醜悪な行為であるわけですが、かれらは決してそんなことには気づきません。  かれらはどこまでも自己を正当化し、他者を攻撃し、ひきずりおろそうと努力するのです。そうしないと「幸せ」を実感できないから。  インターネットの各所で常時起こっている「優越感ゲーム」、「上から目線ゲーム」は、この「引きずり下ろしマニア」たちが行っているものです。  かれらはだれか有名だったり、お金持ちだったり、業績が評価されていたりする人がミスを犯すことが嬉しくてしかたありません。  そういうとき、かれらは喜々としてその相手を引きずり下ろしにかかります。それこそがかれらの「幸せ」なのです。たぶん。おそらく。きっと。  ただ、かれらが気づかない、気づこうとしない問題点がひとつあります。  それは、 

十分に頭が悪ければ、幸せになることはむずかしくない。

水木しげるに学ぶ、幸福になるための七か条。

 漫画家の水木しげるさんが逝去されたそうで、故人を惜しんで以前書いた記事を再掲しておく。93歳。大往生と思われますが、それでも、惜しい人を亡くしました。  どうしたら幸福になれるのか? なるほど、むずかしい問題だね。  わが日の本の歴史上、いまほど平和で、安定していて、豊かな時代はない。しかし、同時に、いまほど切実に幸福の意味が問いかけられている時代もないかもしれない。  洗濯機もある。自家用車もある。薄型テレビもある。DVDレコーダもある。クーラーもある。携帯電話も、パソコンも、何もかもそろっている。足りないものはメイドロボくらい。  それなのに、あまり幸せそうじゃないひとが多いのはなぜだろう。いったいどうすれば本当の意味で幸福になれるのだろうか? そもそも幸福って何だろう?  思うに、何でも悩んだときは専門家の意見を聞いてみるにかぎる。幸福論の専門家、幸福観察学会会長の意見に耳を傾けてみることにしよう。ま、この学会、会員は1名しかいないんだけど。  その1名とは、水木しげる。いわずと知れた『ゲゲゲの鬼太郎』の原作者である。  水木さんは著書『水木さんの幸福論』のなかで、「何十年にもわたって世界中の幸福な人、不幸な人を観察してきた体験から見つけ出した、幸せになるための知恵」を七か条にまとめている。順番に紹介していこう。 ●第一条「成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはならない。」  水木さんはいう。  世界中の神話宗教民話などを調べると、地獄のありさまはそれぞれに違っている。しかし、天国のほうは似たり寄ったり。  きよらかな河が流れ、薄物をまとった美女がいて、おいしそうな食事があふれている。おや、環境が悪くなったことに目を瞑れば、不況の現代日本こそまさに天国じゃないか!  それなのに現代には悲壮な顔をして歩いているひとが多い。それは成功や栄誉という亡霊に憑り付かれているからではないか。  成功なんて時の運、成功しなくても全然OK! 成功しなくても楽しめることに熱中しよう、と。  それでは、「成功しなくても楽しめること」は具体的にはどんなものなのだろうか? ●第二条「しないでいられないことをし続けなさい。」  それは、「しないではいられないこと」だと水木さんはいう。  打ち込めるものを真剣に探すと案外見つからなかったりする。そうじゃなく、ただ好奇心を大切にし、何か好奇心がわき起こったら、そのことに熱中してみる。そうすれば、「しないではいられないこと」が見つかってくる。  それでも見つからないなら、子供の頃に戻ってみるといい。子供の頃は、だれもが好きなことに没頭して生きていたはず。その頃の気持ちを取り戻そう、と。 ●第三条「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。」  それでは、その「しないではいられないこと」とは、社会的に立派な行為であるべきだろうか? ひとに認めてもらえるよう頑張るべきなのだろうか?  そうではない、と水木さんは仰る。自分の好きなことに専念するためなら、世間の常識なんて捨ててしまおう。奇人変人になってもいい。いや、むしろ、奇人変人になるべきだ。  その証拠に、世界の奇人変人には幸せそうなひとが多いではないか。だれが何といおうとわがままに自分の幸福を追求する。それでこそ本当に幸せになれるというものだ、と。 ●第四条「好きの力を信じる。」  孔子曰く、「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」。水木さんの意見も、どうやら二千数百年前の聖賢と同じようだ。  水木さんは若くして漫画道に入り、その道を歩むこと60年。ついに歩き通した。勲章なんてものをもらったことより、こっちのほうがよほど幸せなことだ、とかれはいう。  さて、それでは水木さんは好きなことに専念すれば、かならず成功できるといっているのだろうか? ●第五条「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」  そうではないようである。 

水木しげるに学ぶ、幸福になるための七か条。

お誕生日おめでとう。

 きょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。  37歳――ほとんど信じられないような歳だ。  35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。  ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。  ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。  そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。  前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。  これはだれしもそうであるかもしれない。  生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。  ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。  筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。  それが「老い」ということだ。  10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。  しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。  ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。  その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。  ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。  ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。  さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。  ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。  そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。  ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。  おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。  その自分が「基準」になるわけだ。  一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。  心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。  生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。  その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。  おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。  本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。  その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。  この「凝り」をどうほぐしたものか……。  どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。 

お誕生日おめでとう。

ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

 敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。  読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113  ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232  ……時代とシンクロしていやがるなー。  えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。  ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。  思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。  でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。  それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。  昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。  そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。  ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。  それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。  このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。  広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。  ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。  いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。  まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。  普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。  ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。  それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。  まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。  それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。  そういえば、 

ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。

 Amazonインスタント・ビデオで映画『happy しあわせを探すあなたへ』を見ました。  いまさらではありますが、すっかりレンタルビデオに頼らなくても自宅で動画を見れる時代になりましたね。便利、便利。  『happy』は「幸せ」について探求したドキュメンタリー映画です。  この作品のなかにはさまざまな「幸せのかたち」が登場し、「いったい幸せってなんだろう?」という根源的な疑問に答えてくれます。  このブログを継続的に読まれている方なら、ぼくが最近、幸せについて続けて本を読んでいっていることはご存知でしょう。  その理由は簡単で、自分自身が幸せになりたいから。  しかし、現実に幸せに生きることはそう容易ではありません。  ぼくはいま、幸せと不幸せの境界くらいのところにいて、どちらにも行ける状況にあると思います。  これから幸せのほうに行きたいのですが、そのためにはどうすればいいか? そのヒントをこの映画のなかに見いだしたいと思っていました。  この映画は同様の疑問を抱いたらしい映画監督によって企画され、数年の歳月をかけて撮影されました。  心理学や脳医学の世界的権威たちの協力を得、さまざまな国や立場の人々のなかに幸福を探っていきます。  映画はまずインドの貧しい車夫を描くところから始まります。  驚かされるのは、現代社会を生きるぼくたちから見るときわめて貧しいように見えるかれが、それでも「自分は幸せだ」と胸をはって答えていること。  いままでこのブログでは幾度もくり返し述べてきたことですが、どうやら幸せはその人の富とはあまり関係がないらしいのです。  じっさい、戦後日本は奇跡的とも思える経済成長を続けて来わけですが、日本人の生活満足度はほとんど変わっていないというデータもあるようです。  富と幸せのあいだには一定の相関関係こそありますが、イコールで結べるようなたしかな関係はないということ。  それでは、ひとの幸せはどこにあるのか? 答えはきわめてシンプルです。  映画を一見してみて感じたことは、「幸せとは人間関係である」ということです。  抜きん出て幸福度が高い人には、必ずといっていいほど親しい家族や友人がいる。  そういう人とともに暮らせることが人間の幸せなのです。  あたりまえといえばあたりまえのつまらない結論かもしれません。  しかし、幸福学やポジティブ心理学の結論はやはりここに行き着くらしい。  映画はアメリカや日本のたくさんの家族や仲間を描いて行きます。  そこから導き出されるのは、良好な人間関係をたくさん持っている人ほど幸せになりやすいという事実です。  それに対して、あまりに孤独だったり不都合な人間関係しか築けていない人はそうなりづらいばかりか、寿命さえ短くなるらしい。  映画のなかでは、先進国のなかで最も幸福度が低い国として日本が登場します。  ここは考えさせられるところです。  いったいぼくたち日本人に欠けているものはなんなのか?  真面目に懸命に生きてきたはずの日本人がなぜそれでも幸福になりきれないのか?  映画はあまりにも仕事をしすぎるからだと匂わせていますが、それはつまり仕事に専心するあまり身近な人間関係を犠牲にしているということではないでしょうか。  人間関係こそがひとの幸福度を大きく左右する。その事実を忘れないようにしたいと思います。  もちろん、ひとはいくらだれかと親しくなったところで最後はひとりですし、自ら望んで孤独を選んでいる人もいることでしょう。  そういう生き方が悪いとはいいませんし、先の記事で書いたように「孤独力」には価値があります。やたら群れればいいというものではない。  しかし、その一方でやはりひとはその一生を通じて安易な「つながり」に留まらない本物の人間関係を求めていく必要があるのです。  そういう関係を作り出せた人はまったき幸福をも手に入れることができます。モンスターからお姫さまを救い出した騎士のように。  ぼくが思い出すのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。 

幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。

わずかなお金で幸福が買える5つの約束。

 インターネットは皮肉屋の集まり、ネットでは教条的な意見は陳腐な道徳的説教とみなされ軽蔑されることが少なくない。  だから、ここでぼくが「幸せはお金では決まらない」といったら、さぞかしたくさんのシニカルな反論が返ってくるかもしれない。  しかし、それはたくさんの統計調査によって立証された事実なのである。  たしかに、収入と幸福に相関関係はある。ある程度は。  だが、収入が一定額を超えると、そこから先は驚くほどわずかしか幸福度が上がらないというのが心理学者たちが出した意見だ。  お金と幸福について書かれた論文は数多いが、そのほとんどが同じ結論に至っている。  曰く、お金がまったくないことは不幸だが、一定額以上お金を持っていることは必ずしも幸福を意味しない。  また、宝くじがあたるといった幸運なライフイベントの効果もすぐに切れてしまう。  ひとはお金では幸せになれないのだ、と。  冷笑家たちがどんなに笑い飛ばしても、この事実は揺らがない。  このいささか道徳的に過ぎるようにも思われる結論にどうにか異論を提示しようとしたのが、『「幸せをお金で買う」5つの授業』の著者エリザベス・ダンとマイケル・ノートンである。  もっとも、かれらはただお金を使うだけでは幸せになれないことを認める。つまり、かれらに先行する17000ばかりの論文に敬意を表する。  しかし、そこからさらにひとつの問いをつなげるのだ。  それでは、お金をもっとうまく使ったとしたらどうか?  つまり、平凡な使い方では容易に幸せになれないとしても、より気の利いた使い方をすれば違ってくるのではないか?  その気の利いた使い方とは、具体的に以下の五か条で表される。 1.経験を買う。 2.ご褒美にする。 3.時間を買う。 4.先に支払って、あとで消費する。 5.他人に投資する。  これがつまり、「5つの授業」である。  もっとも、これだけではなんのことやらわからないだろう。もう少しくわしく解説しよう。  第1条の「経験を買う」とは、お金を「モノ」ではなく「経験」に支払うようにするという意味である。  いまでこそシンプル・ライフが称揚されるようになったが、それでもまだ、幸せを手に入れるためにはモノを買わなければならないと思い込んでいる人は多い。  モノはなんといってもそこに確固とした実体として存在しているという安心感がある。  それが自分のものになるのなら、お金は惜しまないという人は少なくないだろう。  それに対して、「経験」はいかにもあいまいである。  たとえば、ロケットに乗って宇宙空間まで駆け上がり、わずか数分間だけそこから下界を見下ろすといった経験に数千万円の価値があると信じることは簡単ではない。  それはたしかに胸躍る経験ではあるだろう。だが、あとには何も残らないではないか?  それに比べて高級車や薄型テレビは、少なくとも数年のあいだは実体として残る。  お金の使い道として、モノよりも経験を優先することはばかげているように思える。  ところが、それがそうでもないのだ。  なぜか? それはつまり、人間がきわめて順応性の高い生き物だからである。  ひとは、どんなモノにもあっというまに慣れてしまうのだ。  たとえば、高価な家に住んでいると、その家に対する満足度はしばらくは高いまま続く――しかし、生活そのものに対する満足度は一向に上がらないのである。  それに比べて、経験にお金を使うなら、ひとは後悔をせずに済む。  なぜなら、記憶の万華鏡のなかでは、何かしらの失敗や挫折すら美しく見えてくるから。  ひとは「やらなかったこと」こそを悔やむ生き物なのだ。  第2条の「ご褒美にする」は、そのお金の使い道を「ご褒美」として特別な体験にするということである。  これも人間の飽きっぽさと強く関係している。  ひとはただ味わうだけではあっというまに飽きてしまう。  たとえば、美味しいチョコレートを山ほど食べられるといった経験をすると、ひと粒ひと粒のチョコのありがたみを感じなくなってしまう。  ところが、ここでチョコを食べることを「ご褒美」に変え、簡単にはチョコを食べられないようにすると、そのチョコの美味しさは劇的に向上する。  これを 

わずかなお金で幸福が買える5つの約束。

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

 「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。 http://ibaya.hatenablog.com/entries/2015/06/29  ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。 坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」 みっつ「はい」 坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」 みっつ「はい」 坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」  まさにいまのぼくのことだな、と思う。  家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。  もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。  まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。  「幸せなだけじゃ足りない」。  たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。  じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。  その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。  もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。  ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。  だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。  子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。  ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。  ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。  それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。  これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。  この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。  しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。  それでは、どうすればいいのか? 

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

 「幸せ」のことを考えている。  幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。  答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。  勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。  つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。  そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。  しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。  それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。  そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。  と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。 「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」  「本当にいいものは太陽の方を向いている」。  十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。  「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。  それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。  むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。  たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。  しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。  もちろん、 

騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

人生に対しツンデレになるな。

 ポジティブ心理学をご存知だろうか。  「なんでもポジティブに考えればうまくいく」という思想のこと「ではない」。  それは、鬱や病といった人生のネガティヴな側面を注視する既存の心理学と異なり、幸福や活力といったポジティヴな側面に目を向けようとする心理学のことである。  この新しい学問が誕生したのは1990年代のことで、爾来、いろいろな成果を積み重ね、いまでは心理学の大きな支柱のひとつとみなされるに至っている、らしい。  「らしい」と書くのはぼくもくわしい知識を持っていないからだが、興味は大いにあるので、イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』を読んでみた。  タイトル通り、実に多岐にわたるテーマが語られている本なのだが、個人的に興味深かったのは、そのなかの第13章「ポジティブ心理学を暮らしに活かすには」の結論だった。  そこにはこう書かれていたのである。「自分自身についてよく考え、得意なことをし、人生のよい面に意識を向け、他者に親切にしましょう」。  著者自身が書いているように、「あまりにも単純すぎるようにみえ」る結論なのだが、結局、これしかないらしい。  幸せになるためには、もっとポジティブになることが大切だという結論なのだ。  しかし、どうだろう、この種の理屈を鼻で笑ってしまう人は少なくないのではないだろうか。  ポジティブ・シンキングをすれば幸せになれるとは、ようするにひとに脳天気であれといっているようにも思える。  そんなふうにして幸福になるくらいならいっそ不幸であるほうがいい、そういうふうに思う人は大勢いるのではと思うのだ。  ぼくたち、と大きな主語を使っていいのかどうかわからないが、少なくともぼくのような人間は、口先では幸せになりたい、幸せになりたいといいながら、しかし、幸せという状態をどこか軽んじているところがある。  なんといっても、人間の苦悩の底知れない複雑さにくらべて、幸福はいかにも単純ではないだろうか。  それはまたどことなく軽薄であり、深刻さを欠いているように思える。  四六時中機嫌がよく、なんの悩みもないように見える人物は、友人としては最適だが、しかし、あまり強く尊敬する気にはなれない。  何かしらの悩みと苦しみこそがひとを複雑な存在にする――そうではないだろうか。  しかし、これは一面的な見方である。最近、ぼくはそう思うようになった。  幸せが単純だと、いったいだれが決めたのだろう?  まさに 

人生に対しツンデレになるな。

宝くじをあてた人が必ずしも幸せになれないのはなぜか。

 最近、読者の需要を無視して好き勝手に記事を書いていますが、もうひとつ書きたい記事を書いておきたいと思います。  いや、こういう記事って、自分のために書いている側面が強くて、書いてまとめないと思考を先に進めることができないんですよね。  なので、読むほうが面白いのかどうかはわかりませんが書き記しておきたいと思います。  ぼくは最近、かなり理想とする「幸福な人生」のヴィジョンに近いところに来ていると思うんですよ。  そこそこ使えるお金はあるし、友達はたくさんできて社会性は満足しているし、時間は余っているので好きなだけ本は読めるし、ほぼ理想的な生活を実現したといえる。  唯一足りないのは恋人くらいでしょうか。まあ、それ以外はほぼ欲しいものをそろえられたと思うのです。  でも、心のどこかで「まだ何か足りない」、「そこそこ幸せではあるが、十分とはいえない」という思いがのこっている。  なぜなのかな、とずっと思っていたんだけれど、最近考えるのは、やっぱり身体性が充足していないのかな、と。  ぼくの希望をそのままに叶えていくと「一日中部屋で本を読んでいたい」ということになるのだけれど、それではやはり不足なのでしょう。  ほんとうに十分に幸せになるためには、からだを動かすことも必要なのでしょうね。  というか、ある方向に偏った内容で人生を充実させようとすることは間違えているのかな、という気がしています。  前の記事で「幸せになるためには感性をオープンにしなくてはならない」と書きましたけれど、結局、それも程度問題であるわけです。  感性が大事だからといって知性をなおざりにしてはやはり何かが狂ってくる。  あるいは、趣味に没頭できるからといって仕事を放り出してしまってはどこか満足しきれないことになる。  つまり、大切なのはバランスであるという結論になりそうなんですよね。  知性と感性、精神と身体、趣味と仕事、欲望と自制、インドアとアウトドア、そのバランスが取れていないとあまり幸せにはなれないのかな、と。  たとえば仕事一筋で生きるのはいいのだけれど、それだけだといかにもバランスが悪い。  天秤の一方に仕事を載せるなら、やはり他方に趣味とか家族とかを載せないと平衡しないと思うのです。  もちろん、意図してバランスを崩す生き方もある。ほかのあらゆるものを犠牲にしてある道を究める、というような。  たとえばからだを壊すことを心配しすぎていたら一流のアスリートにはなれないこともほんとうかもしれない。  しかし、 

宝くじをあてた人が必ずしも幸せになれないのはなぜか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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