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記事 2件
  • ひとが「アイデンティティ」を捨て去るとき。

    2016-02-12 12:03  
    51pt

     『同居人の美少女がレズビアンだった件』。
     フィクションとしか思えないようなタイトルですが、これは(いくらかデフォルメされているところがあるらしいとはいえ)ノンフィクションの漫画で、そしてここでいう「同居人の美少女」とは『百合のリアル』の著者である牧村朝子さんのことです。
     この本はその「レズビアンの美少女」を主人公に、彼女の恋の顛末を語った一冊。
     波乱万丈、痛快無類、とても面白い本なので、『百合のリアル』と合わせてオススメです。
     『百合のリアル』と違ってこちらはKindleで買えるのもありがたい。
     まあ、そういうわけで、「レズビアン」に興味がある人にもない人にも、オススメの一冊なのでした。
     このタイトルでレズビアン「だった」と書かれている通り、牧村さんは最終的には「レズビアン」という「アイデンティティ」を放棄してしまいます。
     「自分は自分」。それで十分だと考えるようになるのですね。
     これは社会的にマイノリティに置かれた人がいかにして自分に誇りを持ち、なおかつその誇りすら捨て去るか、というプロセスとして、きわめて興味深いものに思えます。
     社会的に弱者である人間は、社会から身を守るためになんらかの「アイデンティティ」を必要とします。
     それは社会が押しつけて来る「カテゴリ」とは別物で、当事者が自ら選択する「プライド」です。
     「ホモ」と呼ばれていた人たちが「ゲイ」と名乗ったのはその典型的な一例でしょう。
     そして、その「プライド」はしばしば「少数派である自分たちこそほんとうに素晴らしい存在なのだ」という域に達します。
     たとえば「ブラック・イズ・ビューティフル」といった言葉がありますね。
     そういった言葉は社会において弱者の立場に立たされてきた人々がどうしても持たざるを得なかった「プライド」であるに違いありません。
     しかし、社会が変わって行くとなると、必ずしもいつまでもその「プライド」を保ちつづける必要があるわけではありません。
     「自分たちこそがほんとうは優れている」という「プライド」の論理は、逆説的に自分たちを孤立させているわけで、歴史的な過程のなかで必要とされる一プロセスではあるにせよ、どこかの時点で捨て去ることもまた必要なのだと思います。
     これ、「オタクは知的エリートである」といった理屈もまったく同じであることがわかるでしょうか? 
  • 「妬み」という甘美な麻薬。

    2015-04-01 04:46  
    51pt
     「妬み」の話をもう少し続けたいと思います。
     ひとは他人を妬んで蹴落とそうとするもの、ということはわかるのですが、どうもぼくはここらへんのことが実感できない。
     ペトロニウスさんではないですが、ひとを妬んでいる暇があったら自分が幸せになることに時間を使えばいいのに、と思うのです。
     だから、ぼくは嫉妬の落とし穴に陥って人生を台無しにしてゆくひとにはとても冷たいところがあります。
     自分のなかにない心理だから、共感がまったくないのですね。
     世の中には変わったひともいるものだなあ、くらいの思いしかない。
     そういう意味では、ぼくはまったく非情な奴だと思う。
     ただ、本質的に「妬み」の苦しみは他人がどうしてやることもできない性質のものだと思うのですよ。
     自分でどうにかして処理して行かなければならない。
     その感情を他人に向けつづける限り、ひとは成長することも幸福に自己実現することもできません。
     それでは、「妬み」とは何か?
     ぼくはこういうふうに考えています。
     ある人がいて、何らかの点で自分を上回っている。その人の近くにいると、劣等感で苦しい。そういうときに、どうすればいいか? そのような問題だと。
     この問いに対するアンサーはふたつ考えられます。
    1)自分が努力してその人より上へ行く。
     そしてもうひとつ、
    2)その人をいまいるところからひきずり下ろす。
     という選択肢もあるわけなのですね。
     この「2」は必ずしもその人を罠に嵌めるとかそういうことばかりを指すわけではありません。
     自分の頭のなかでその人の存在を貶める、あるいは周囲とのやり取りのなかでその人の価値を低く捉える、そういうことも「2」に入ります。
     つまり、「あんな奴はバカだ」といってみたりとか、集団で「あいつってクズだよな」と話してすっきりする、といったことも「2」のうちに入るわけです。
     よく、ある人に粘着して攻撃しつづけるひとが「それは嫉妬なのでは?」と指摘されると、「あんなくだらない奴に嫉妬したりするはずないだろ」というようにいい返すところを見かけます。
     しかし、その人を「くだらない奴」と捉えることそのものが、既にして嫉妬の表れであるということもありえるわけです。
     自分のなかでその人を過小評価しなければ耐えられないほど、その人の存在に脅威を感じているということなのですから。
     ひとは、だれより下だとかだれより上だといった他愛ない比較の問題からなかなか自由になれないものです。
     やれ一流大学を出たの、大手企業に入ったのということをとても自慢に思う人は少なくないですし、それができない人間を低く見るひともしばしばいます。
     「ひとを正当に、等身大に評価できる」ということは、それじたいひとつの才能であって、だれにでもできることではないのです。
     ひとをありのままに評価できるためには、虚心坦懐でいる必要があり、それはだれにでも到れる心理ではないですからね……。
     ネット上で有名人が口汚くののしられることが多いのは、やはり嫉妬が原因でしょう。