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記事 6件
  • あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

    2015-04-12 00:10  
    51pt

     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
     しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
     そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
     そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
     これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
     クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
     この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
     しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
     その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
     なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
     だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
     そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
     最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
     『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
     かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
     しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
     そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
     あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
     だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
     たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
     どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
     大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
     ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
     だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
     理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 
  • 「『艦これ』がしくじったようだな。しかし、奴は我らソシャゲアニメ化四天王のなかでは――」。

    2015-04-04 17:49  
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     『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を観ました。
     今回は大規模なフェスを目前に控えた合宿回。前作でもありましたねー。あいかわらず面白いです。
     前作『アイドルマスター』は文句なしの傑作だったわけですが、『デレマス』もここまでその路線を踏襲して来ているようです。
     ただ、たぶん前作と同じ路線だけで終わりはしないと思うので、二期を楽しみにしたいところ。
     一期でほぼ各キャラクターの個別エピソードを(数人まとめながらとはいえ)消化したので、二期で何かチャレンジして来るかもしれません。いまから楽しみ。
     今季のアニメでは『デレマス』の完成度は傑出して高いように思われます。
     同じくソーシャルゲームのアニメ化である『艦これ』がさんざん叩かれてしまったこととは対照的に感じますね。
     『デレマス』と『艦これ』はある程度共通した課題を抱えた作品だったと思うのですよ。
     両方とも原作そのものが狭い意味での物語がなくて、それでいて設定はたくさんあるソーシャルゲームだという問題を解決しなければならない作品なんですよね。
     で、どうするのかな?と思って見ていたんだけれど、『デレマス』は実にみごとな解決を見せてくれた感じですね。その一方で『艦これ』はこけてしまったようですが……。
     もっとも、ぼくはあまりアニメ『艦これ』を叩く気にはなれなくて、まあ、ある程度は仕方ないよね、と思っています。
     何といっても原作の設定をあまり開陳しすぎるわけにもいかなければ、破壊するわけにもいかないという「縛り」が大きい。
     また、ヴィジュアル的なところも一から想像して設定する必要があったわけだし。
     それは『デレマス』も同じかもしれないけれど、『艦これ』のほうがあきらかにむずかしい条件を抱えているよね、と思います。
     もちろん、それらすべての条件を無視するという手もあった。たとえばひたすら萌え日常アニメに終始するという手もあったわけですよね。
     魅力的なキャラクターはたくさんいるわけだから、それらを使ってひたすら甘ったるい演出の作品を作り出すやり方も考えられたと思う。
     結果的にはそれは選ばれなかったわけですけれど、第4話みたいな艦娘キャッキャウフフアニメに終始していたら良かったんだよ、といういうひともいるかもしれない。
     ぼくは第4話大好きなんですけれど(笑)。金剛型四姉妹がアイドルやるところが妙に好きでね……。
     ただ、そう割り切ってしまうのも寂しい話だという気もしなくもないんですよね。
     たぶんそれでもかなり面白いアニメができあがったかもしれないけれど、『艦これ』のポテンシャルを使い尽くした作品とはいえないわけですから。
     結局、いまのところ、「ソーシャルゲームをどう映像にするか?」という問いへの完全なアンサーは出ていないと思うんですよね。
     漫画とかライトノベルをアニメ化する方法論は長い歴史のなかである程度仕上がってきたわけなのだけれど、ソーシャルゲームをアニメにする方法論はまだうまくできあがっていないんじゃないか、ということです。
     まあ、 
  • 『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

    2015-03-28 14:31  
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     アニメ『艦これ』の最終回の評価、さんざんだったようですね。
     ぼくも見ましたけれど、たしかに「……」な出来。
     とくべつ作画が崩壊したとかそういうことじゃないんだけれど、シナリオの脈絡がなさすぎる。
     いや、脚本家としてはすべての描写に意味があると主張したいかもしれないけれど、ファンが一生懸命「解釈」しないと意味が通らない時点でやはり失敗でしょう。
     シリアスをやりたいのかコメディをやりたいのかよくわからないですしね。シリアスな場面でむやみと萌えカットを挟むのはやめてほしいところ。
     ただ、今回、このアニメ版が不評なのは、単純に出来が悪いという以上に、原作の設定を大きく改変しているという一点に問題があるらしい。
     意味もなく原作を改変すると熱心なファンが沸騰するといういいサンプルですね。
     その話を聞いてすぐに思い出したのがアニメ『真月譚月姫』であるキャラクターがスパゲッティを食べている描写があったこと。
     本来ならまったくどうということはない一シーンなのですが、そのキャラクターは原作では根っからのカレー好きという設定なので、ファンは強烈な違和感を抱き、大きな話題になったのでした。
     ことほどさように視聴者は作品のディティールに愛着を抱き、大切にするものだということです。
     製作スタッフにしてみれば「そんなの、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんが、むしろそういう細部こそが作品に命がこもるかどうか決する決定的なポイントなのです。
     『真月譚月姫』にせよ、『艦これ』にせよ、そこまでクオリティが低いアニメというわけでもない。
     むしろそれなりにはよくできているからこそ、原作ファンは「何か違う」と感じてしまうのだと思います。
     で、面白いのは、同じ『真月譚月姫』であっても、佐々木少年による漫画版の評判は非常に高いんですね。
     ぼくも全巻読みましたが、たしかに傑作だったと思う。
     ただ、漫画は漫画でオリジナル展開を付け加えたりしているんですよ。
     それなのに、そのことに対して文句をつけるファンはほとんどいない。いったいどこが違うのか?
     それについて、ぼくは昔、「わかってる度」という尺度を考えたことがありました。
     「原作に忠実」と評されている作品でも、じっさいにはメディアが違うわけだからそこまで忠実に映像化しているはずはない。
     やはり、原作の描写や設定を何かしら解釈して描き出していることには違いないわけです。
     しかし、それらの作品では原作に対する理解とリスペクト、つまり「わかってる度」が高いから、ファンがそうしてほしいように解釈している。
     結果、あたかも何もかも原作に忠実であるかのような印象を与える作品ができあがることになる――そういうことなのではないかと。
     つまり、『月姫』の漫画とアニメでは「わかってる度」に差があるわけです。
     「わかってる度」が高いとは、 
  • 『艦これ』がプラットフォームになる日。

    2015-03-05 01:34  
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     『艦隊これくしょん』のアニメ版をまったり見ています。まだ最新話まで追いついていませんが、いまのところなかなか面白いですね。
     第1話の時点ではちょっとどうかと思ったんだけれど、しだいに調子を上げて来ている感じ。金剛型四姉妹が楽しいなー。こういう子たちだったのか。
     まあ、原作を知らない人にとってはまったくわけがわからない世界設定だろうけれど、それはそういうものなのだと割り切るしかないのでしょう。
     ぼくは原作のゲームも一応はプレイしているのですが、あまりハマらずにやめてしまったので、そんなにくわしくない。アニメを見て初めてわかったことも多く、なかなか新鮮です。
     それにしても、『艦これ』のことがより詳しくわかるようになると、それだけでネット生活が楽しくなりますね(笑)。Twitterとかに流れて来るイラストとか短編漫画を見ているだけで楽しい。
     おそらくみんなこういうものを求めて『艦これ』にハマっている側面も大きいのだろうな、と思わせられます。
     そう、『艦これ』のような作品は、もはや単なるひとつのコンテンツではなく、さまざまなコンテンツやコミュニケーションのハブとなるエンターテインメント・プラットフォームなのですね。
     オタクはある共通知識を前提にして話をすると昔からいわれているけれど、『艦これ』のことを知っていると、楽しめるコミュニケーションの幅が一気に広くなる。それも含めて「艦これ」の魅力なのでしょう。
     その「楽しめるコミュニケーションの幅」を「砂場」に喩えた人もいたけれど、もはや、そういう作品周辺に広がる二次創作やコミュニケーション空間をも含めて作品を楽しむこと、ぼくの造語でいう「砂場消費」は、既存の「物語消費」や「データベース消費」ともまた一風異なる作品消化のスタイルとして定着したように思えます。
     まあ、昔から映画について語り合うことは映画そのものより楽しかったりするわけで、何が変わったというわけでもないのかもしれません。ただ、そのコミュニケーション志向がより先鋭化したということは、既に各所で語られている通りです。
     じっさい、『艦これ』そのものにはさほどハマれなかったぼくにしても、ネットに落ちている『艦これ』絡みのイラストや漫画、動画、音楽といったものを楽しんでいるだけで十分幸せになれてしまいます。
     そこに公式のコンテンツを加えると、もはやそれだけで他のものは何もいらないくらい楽しめるのではないかと思う。
     そうなのです、いまのご時世、べつだん『艦これ』じゃなく、『アイマス』でも『ラブライブ!』でも何でもいいのだけれど、何かひとつのプラットフォーム・コンテンツにハマっていると、もうそれだけでエンターテインメント生活が完結するくらいさまざまなことを楽しめるのですね。
     これ、ある意味ではユーザーの囲い込みを行っているに等しいんじゃないかと思うくらいなのですが、そういうわけでもないんだろうな。
    (ここまで1213文字/これから1364文字) 
  • アニメ『艦これ』の「決定的な選択」を追う。

    2015-01-23 23:09  
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     アニメ『艦隊これくしょん』を第3話まで見ました。ある意味、衝撃的な展開ということであちこちで大騒ぎになっていますが、ぼくなりの意見を述べてみようかと。
     ぼくのまわりでも賛否が分かれている感じですが、ぼくは、まあ、ありかな、と思っています。今後の展開しだいだけれど、ひとつの選択肢として「なし」というほどではないかと。
     以下、その理由を書いて行きます。当然、ネタバレなのでご注意ください。
    (ここまで194文字/ここから1872文字) 
  • アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『艦隊これくしょん』の違いが興味深い。

    2015-01-15 02:10  
    51pt


     最近、ちょこちょこアニメを見ています。何といっても先が楽しみなのは『ユリ熊嵐』ですが、他にもいくつか面白そうな作品があって、なかなか楽しい。
     ぼくは地方在住なのですべてをリアルタイムで見るというわけには行きませんが、インターネットと衛星放送を駆使すればほとんど遅延なく大半の作品を見ることができるようです。いやー、ほんとうに素晴らしい時代ですね。それがセクシー。シャバダドゥ。
     既に各地で話題が沸騰しているようですが、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の初回が素晴らしい出来でした。このまま行けばかなりの名作が仕上がるんじゃないかな、と早くも期待は高まるばかり。
     同じくソーシャルゲームをアニメ化した『艦隊これくしょん -艦これ-』のほうはもうひとつの印象が強いだけに、両作品の落差に着目してみたくなります。
     そもそもソーシャルゲーのアニメ化、というか物語化にはどこかに無理があっておかしくないと思うのですね。
     もともとがひとつの自然な物語を紡ぐように作られているわけではないわけで、それを一本の物語に仕立て上げることは、ある意味ではゼロから物語を作るよりむずかしい作業になるのではないかと。
     それをみごとやってのけたように見える『シンデレラガールズ』のスタッフには感嘆するしかありません。それにしてもなぜここまでクオリティの高いアニメーションが仕上がったのでしょうか?
     はっきりいって、事前にヒットが見込めるコンテンツだけに単純にお金がかかっているということも大きいのだろうけれど、あきらかにそれだけではない。とにかく仕事が丁寧なんですよね。愚直なまでに基本に忠実に制作されているイメージ。
     おそらくこれも既に大きな話題になっていることだと思うけれど、数百人に及ぶ美少女キャラクターが登場している原作ゲームからあえて数人(実質2人)のキャラクターを選んで初回の物語を作り出した姿勢には驚かされました。
     前作『アイドルマスター』の初回は主要なキャラクターを全員登場させて、ひとりひとりを紹介していった感じだったので、異なる方法論で作られている印象です。
     で、これが実に決まっている。素晴らしい。あえていってしまうならば、『シンデレラガールズ』の初回に特別なケレンは何ひとつないともいっていいでしょう。
     まず主人公を登場させ、その動機(モチベーション)を語り、ほかのキャラクターと絡ませ、ひとりひとりその個性を紹介していく――といった、あたりまえといえばあたりまえの方法論。
     一切登場人物を紹介することなくいきなり物語を語り始めた『冴えない彼女の育て方』の初回(正確には第0回みたいだけど)あたりと比べても、むしろ地味とすらいえかねないやり方です。
     しかし、正統には力が宿り、王道には魔法が生まれる。シナリオ的にはそこまで特別なことは何もやっていないにもかかわらず、『シンデレラガールズ』は強い印象を残す初回を生み出すことに成功しました。
     じっさい、あらゆることがハイレベルに仕上がっているということは、ここまで強い印象を残すものであるということには、いまさらながら驚かされます。
     もちろん、「シンデレラガールズ」というタイトルからもわかるように、これから膨大なキャラクターが登場するのでしょう。原作にはちょっとテレビアニメの枠に収まり切らないくらいのキャラクターが存在しているのだから当然です。
     しかし、それらのそれぞれに魅力的なのであろうキャラクターたちに幻惑されることなく、まずはごく少数のキャラクターにのみ焦点を絞って物語を作り始めた監督以下スタッフの英断には心から拍手を送りたいと思います。
     どうやら、この一作はソーシャルゲームを映像化するための方法論を確立させたといってもいいようです。つまり、「何が変わったわけでもない。王道の方法論を丁寧に実践するやり方はこれからも通用する」ということです。
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