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そのうえ『アイアンマン2』を見たよ。
2016-05-13 15:0051pt
『アイアンマン』、『ペルソナ3 Falling Down』『アイドルマスターシンデレラガールズ vol.6』、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』、『マイティ・ソー』と見て、いま、『アイアンマン2』を見終えました。
昨夜から寝ている時間以外はほぼ映画かアニメを見ていることになります。けっこう見れるものですね。
この調子でいくと〈マーベル・シネマティック・ユニバース〉はすぐに見終わるだろうから、そのあと見る作品も考えておかないと。
で、『アイアンマン2』。うん、なかなか面白くはあるのだけれど、まあ、どうということはない映画ですね。
さすがにこれだけアメコミヒーローものを見ていると飽きてきた。
『アベンジャーズ』は以前に見ているので、これであと『インクレディブル・ハルク』を見ればシリーズ第一期はすべて見たことになるのだけれど、『ハルク』は飛ばして傑作と名高い『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』に行こうかと思う。
もうこの際、あえて順番にこだわる意味もないでしょ。
『アイアンマン3』もちょっと後回しにしよう。さすがに三連続っていうのは辛いからね。
『アイアンマン2』の話だった。この映画、『アイアンマン』が終わったシーンから始まる直接の続編であるわけですが、『アイアンマン』よりさらにシニカルなユーモアがただよう作品になっています。
まあ、そんなにたいした映画ではないのだけれど、この映画を見ておくとトニー・スタークのことをだいぶ好きになれる。
そのぶん、のちの『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』や『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』がより楽しめるのではないかなあ、とぼくはかってに思っています。
早く『シビル・ウォー』にたどり着きたい。
今回、トニーはアイアンマンスーツの特性から来る病を抱えていて、それなりに悲壮感のある展開にはなるのだけれどそこまで深刻にはならず、『ダークナイト』ほどのシリアスさには至りません。
まあ、このシリーズを見ているとクリストファー・ノーランがいかに天才なのかわかりますね。
やっぱり『ダークナイト』とか『ダークナイトライジング』は大傑作だった。
いや、ノーランはノーランで何を描いても過剰にシリアスになっちゃうという問題を抱えているわけですが。
でも、まあ、やっぱりノーラン以前と以後でアメコミ映画はまったく別次元になったんだろうなあ。
ぼくがこの〈マーベル・シネマティック・ユニバース〉の作品群を追いかけているのは、 -
続けて『キャプテン・アメリカ』を見たよ。
2016-05-13 04:1951pt
『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』。
〈マーベル・シネマティック・ユニバース〉シリーズの2本目です。
当初の予定ではちゃんと公開順(アメリカでの公開順)に見ていくつもりだったのだけれど、レンタル店に行ったら『インクレディブル・ハルク』が置いていなかったのであきらめ、自分の好きな順番で見ることにしました。
いやまあ、ストリーミング配信で見てもいいのですけれどね。でも気勢を削がれちゃった感じがする。
この映画のヒーローは、のちに「アイアンマン」トニー・スタークの友人にして対立しあう関係となる高潔の人、キャプテン・アメリカ。
タイトルからわかるように「アベンジャーズ最初のひとり」という設定です。
いや、年齢からいえばたぶん神さまであるロキのほうが歳経ていると思うのですが、まあ、アベンジャーズのリーダー的存在であることもあり、「キャプテンが最初」ということらしい。
物語の舞台は現代から70年前余り前の第二次世界大戦中。
主人公は虚弱なからだつきのため軍隊に入隊することができずにいる青年スティーヴ・ロジャース。
スティーヴはある強烈な力をもつ血清によって、無敵のヒーロー、キャプテン・アメリカに生まれ変わります。
ところが、自分の信じる正義の戦うつもり満々のキャプテン・アメリカを待っていたのは、国威発揚の道具としての役割と、国民に戦時国債を買わせる宣伝に利用される日々。
あるとき、親友が敵軍基地に捕虜として捕まっている可能性を知らされたキャプテン・アメリカは、単身、敵軍基地へ乗り込むのですが――。
映画の筋としては『アイアンマン』と同じく単純なものです。虚弱な肉体に高潔な精神を持つ青年が、幸運にも無敵の体を手に入れ、悪に立ち向かう。
かれが戦うのはナチス内部の秘密研究組織ヒドラとその首領レッドスカル。
まったく容赦する必要のない純粋悪で、続編はともかく、この映画に限ってはシンプルな勧善懲悪のストーリーといっていいでしょう。
ただし、わかりやすく勧善懲悪を成立させるために製作スタッフは相当の工夫を凝らしていると思しい。
キャプテン・アメリカはその名のとおりアメリカの正義を体現するナショナリズム色の強いヒーローなので、そのまま映画化したらある種、生々しいものになりかねない。
そこで、意図して全編を漫画的に演出したのだと思う。
また、正義を志すキャプテン・アメリカの敵はあくまでヒドラであって、かれ自身が戦場で敵と戦うことはありません(かれに影響を受けた多数の兵士が戦場で死んでいったことは間違いありませんが……)。
ここらへん、キャプテンをアメリカオンリーのヒーローにしないための微妙な気遣いが読み取れます。
この映画が作られるのが何十年か前だったらこの筋書きは違っていたかもしれませんね。
キャプテンはクライマックスである事情によって数十年の時を超え、現代のアメリカに現れることになるのですが、かれを待ち受けていたのは秘密組織S.H.I.L.D.と「アベンジャーズ」でした。
そして、 -
『ガンダム』の語りやすさ、『マクロス』の語りづらさ。
2016-05-08 15:1151pt
『マクロスΔ』を見ています。面白いなー。面白いなー。
破天荒というか荒唐無稽というか、いったい何を考えていたらこんな話を思いつくのかと疑問に思えてくる展開が素晴らしい。
「戦闘機(メカ)+アイドル(美少女)」という組み合わせそのものはそこまで不自然ではないはずなんだけれど、シリーズを通して積み重なってきた設定が前提として使われた結果、ほとんどよくわからないしろものに仕上がっている。
でも、音楽もアクションもキャラクターもいままで以上に魅力的だし、これは継続視聴する価値あるかも。
アクションといえば、『マクロスプラス』とか、初めて見たときにはそれはそれは感動したものですけれど、あのアクションがもうあたりまえになっている凄さ。時が経つって凄いものだなあ、と思いますね。
ただ、『マクロス』というシリーズはたとえば『ガンダム』と比べると語られづらい傾向があるように思います。
まあ、その理由ははっきりしていて、『マクロス』って語りづらいんですよね。
『ガンダム』はわりと簡単にシリアスに語ることができるけれど、『マクロス』ってわりとめちゃくちゃじゃないですか(笑)。
「戦争とは?」、「人間とは?」みたいにシンプルでシリアスなテーマで語ることがむずかしい。
「戦術音楽ユニット・ワルキューレ」とか、「ワクチンライブ」とか、いや、意味がわからないんですけど?って感じです。
でも、『マクロス』は『マクロス』で面白いし、ひとつの歴史を作っているんですよね。
批評家はどうしても語りやすい作品を語りやすいテーマで語ってしまう傾向が強いわけなのですけれど、それだと取り逃してしまうものがある。
やっぱり語りづらい作品こそ語っていかなければならないと思うのですよ。
この場合の「語りやすい作品」とは、いかにもシリアスっぽいテーマを持った作品のことといっていいかもしれません。
『ガンダム』はその意味でいかにも語りやすい。いかにも真摯で重厚なテーマがあるように思える作品だから。
あえていうなら、現実の戦争とか差別問題とかをそのまま持ってきて語れるところがあるのですよね。
いい換えるなら、ただそれについて語るだけで「何かしら語った気分になれる」作品だということでもある。
ただ、それが『ガンダム』シリーズがそれだけ高度な作品であることを意味しているかというと、ぼくはそうでもないと思う。
『ガンダム』シリーズって、たしかにシリアスな物語なんですけれど、無意味にシリアスというか、どう考えても答えなんて出るはずもない問題でむやみと悩んでいるようなところもあると思うんですよ。
何かというと「戦争をやめられない愚かな人間たちよ……」みたいなマクロすぎるテーマにアクセスしてしまう傾向がある。
それは『ガンダム』の長所であり、「語りやすさ」の原因であると同時に、欠点でもあるのではないか。
まあ、ここらへんは最新作『鉄血のオルフェンズ』に至って変わってきているのかもしれませんが……。
それに対して、『マクロス』シリーズはどうにも「語りにくい」。
シリアスな装いをしていても、内容がカオスきわまりないから、どうにも真剣に語りづらい。
でも、単純にだから『マクロス』はダメなのかというと、そんなことはないはず。
むしろ批評家たちのほうこそ、どうにかして『マクロス』のような作品を語っていくロジックを見つけ出さないといけないんじゃないか。
そうしていかないと、 -
シンデレラたちの十二時。最高の作品に「最高のその先」を求めたい気持ち。
2015-04-11 01:5351pt
いやー、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の最終回、最高でしたね!
特に変わったことをやっているわけではないんだけれど、演出力が凄すぎる。
ある意味、アニメーションとして王道のところで魅せている作品であるといえるでしょう。
トラブルを起こしてそれを乗り越えていくという基本に忠実なシナリオが、至上の演出力によってひとつの「奇跡」という印象を生むとき、いままでにない興奮と感動がひろがります。
ただ、ぼくはアイドルのライブにまったくシンクロニティがない人なので、ちょっと「会場」のファンのノリについて行けないものを感じてしまったけれど……。
いやまあ、それはどうでもいいのだ。とにかく良い作品だったのだ。
ぼくはほかのアニメはどうしても見る前に気力を高める必要があるんだけれど、これだけは実に楽に見れました。
作品世界へ入っていくために特段の気力を必要としない。視聴者が楽をするためには制作スタッフは苦労するわけで、そこにはきっと素晴らしい努力があったのでしょう。
心の底から「ありがとうございました」といいたい気分です。
でも、これで終わりじゃないんだよなあ。シンデレラたちのセカンドシーズンはどうなるのやら、いまから楽しみです。
分割2クールもすっかり定着したなあ。
それにしても、この作品を見ていると、エンターテインメントがどうあるべきかについて考えさせられます。
エンターテインメントとして「良い作品」とは何なのか、ということに正しい答えはなく、それぞれのクリエイターがその作品を通して考えていかなければならないことではあるんだけれど、『デレマス』はその問いに対し、ある種優等生的なアンサーを示しているように思える。
ファンが求めているものを、ファンが想像する以上のクオリティで提供する。
いうまでもなく簡単なことではありえないのですが、その理想をここまで美しい形で体現されてしまうと、ちょっと文句のつけようがない。
もちろん、細かく見て行くと完璧ではないところはいくらもあるのでしょうが、骨太なシナリオがすべてを救っています。
元々がソーシャルゲームだというのに、ここまでの品質でアニメ化するとは――ちょっとぐうの音も出ないですね。ぐ……で、出ない。
ほかの作品とくらべてそこまで圧倒的なリソースを使っているわけでもないだろうに、ここまでの作品が仕上がるんだものなあ。さすがです。
とはいえ、それでもなおあえていうなら優等生の方法論には若干の物足りなさがただようこともたしかで、ぼくなどはそこをもう一歩踏み込んでくれないかな、という気持ちも正直あります。
いや、それをいうのは贅沢だということはよくわかっているんですけれどね。
自分がそんなこといわれたらいやだもの。
よく「ファンの期待には応えて予想は裏切る」といいますが、それができている限りはファンと作品の幸福な「蜜月」は続いていくのでしょう。
ただ、ほんとうに「蜜月」をいつまでも続けていくことが唯一の「解」なのかといえば、ぼくはそんなことはないと思います。
結局のところ、 -
「『艦これ』がしくじったようだな。しかし、奴は我らソシャゲアニメ化四天王のなかでは――」。
2015-04-04 17:4951pt
『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を観ました。
今回は大規模なフェスを目前に控えた合宿回。前作でもありましたねー。あいかわらず面白いです。
前作『アイドルマスター』は文句なしの傑作だったわけですが、『デレマス』もここまでその路線を踏襲して来ているようです。
ただ、たぶん前作と同じ路線だけで終わりはしないと思うので、二期を楽しみにしたいところ。
一期でほぼ各キャラクターの個別エピソードを(数人まとめながらとはいえ)消化したので、二期で何かチャレンジして来るかもしれません。いまから楽しみ。
今季のアニメでは『デレマス』の完成度は傑出して高いように思われます。
同じくソーシャルゲームのアニメ化である『艦これ』がさんざん叩かれてしまったこととは対照的に感じますね。
『デレマス』と『艦これ』はある程度共通した課題を抱えた作品だったと思うのですよ。
両方とも原作そのものが狭い意味での物語がなくて、それでいて設定はたくさんあるソーシャルゲームだという問題を解決しなければならない作品なんですよね。
で、どうするのかな?と思って見ていたんだけれど、『デレマス』は実にみごとな解決を見せてくれた感じですね。その一方で『艦これ』はこけてしまったようですが……。
もっとも、ぼくはあまりアニメ『艦これ』を叩く気にはなれなくて、まあ、ある程度は仕方ないよね、と思っています。
何といっても原作の設定をあまり開陳しすぎるわけにもいかなければ、破壊するわけにもいかないという「縛り」が大きい。
また、ヴィジュアル的なところも一から想像して設定する必要があったわけだし。
それは『デレマス』も同じかもしれないけれど、『艦これ』のほうがあきらかにむずかしい条件を抱えているよね、と思います。
もちろん、それらすべての条件を無視するという手もあった。たとえばひたすら萌え日常アニメに終始するという手もあったわけですよね。
魅力的なキャラクターはたくさんいるわけだから、それらを使ってひたすら甘ったるい演出の作品を作り出すやり方も考えられたと思う。
結果的にはそれは選ばれなかったわけですけれど、第4話みたいな艦娘キャッキャウフフアニメに終始していたら良かったんだよ、といういうひともいるかもしれない。
ぼくは第4話大好きなんですけれど(笑)。金剛型四姉妹がアイドルやるところが妙に好きでね……。
ただ、そう割り切ってしまうのも寂しい話だという気もしなくもないんですよね。
たぶんそれでもかなり面白いアニメができあがったかもしれないけれど、『艦これ』のポテンシャルを使い尽くした作品とはいえないわけですから。
結局、いまのところ、「ソーシャルゲームをどう映像にするか?」という問いへの完全なアンサーは出ていないと思うんですよね。
漫画とかライトノベルをアニメ化する方法論は長い歴史のなかである程度仕上がってきたわけなのだけれど、ソーシャルゲームをアニメにする方法論はまだうまくできあがっていないんじゃないか、ということです。
まあ、 -
アニメ『デレマス』は物語の構造的課題をどう乗り越えるか。
2015-03-23 02:1751pt
いささか遅ればせながら『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を見ました。
今回は小学生ふたりを含む凸凹アイドルトリオ「デコレーション」のお話。
おじさん、小学生がへそ出しファッションというのはマジでどうかと思うな、というのは置いておくとして、プロデューサーとアイドルのディスコミュニケーションから事件が起こる『デレマス』の典型的なエピソードでした。
携帯電話があるにもかかわらずなぜかはぐれてしまうデコレーションと武内Pのすれ違いが見どころなのですが、さすがにシナリオに無理があるような気がしなくもないw
いくらなんでももう少しちゃんと連絡とれるでしょ。
いつものごとく武内Pの不器用さがほほ笑ましい、といいたいところですが、危うく仕事に穴を空けるところだったわけで、Pの責任は重大と思われますね。
いやー、さすがにこの人、コミュニケーション能力なさすぎじゃないでしょうか。
人間として誠実なのは間違いないとしても、ここまで事態解決能力に難があるのは問題なんじゃないかと。
武内Pというキャラクターはアニメ版『デレマス』の大きな発明で、非常に魅力的ではあるんだけれど、この不器用さは社会人としてどうなんだと思わなくもない。
いや、そういうことをいうのは無粋だというのもわかるんですけれどね。
そもそも『デレマス』は前作『アイドルマスター』に比べて構造的にカタルシスが生まれにくいところがあるように思います。
『アイマス』は無名の事務所に所属するアイドルたちが無名のところからメジャーへ駆け上がっていく展開に快感があったわけですが、『デレマス』は初めから大企業に所属しているわけですから、ある程度、成功が約束されている側面がある。
もしこれでまるで成功しなかったらよほどプロデューサーが無能なのか、アイドルたちに魅力がないかということになってしまうと思うんですよ。
仮に『デレマス』がこの先、前作と同様のテーマを追いかけて行くことになるとしたら、前作より甘い初期条件で物語を始めていることは大きな問題だと感じます。
だから、この先また何かひと工夫があるとは思うんだけれど、全体の4割程度を消化したいまの段階(たぶん)でその工夫が見えて来ないということには、ちょっと歯がゆく思えなくもない。
もちろん、このままあっさり大成功して終わるはずはないので、何か仕掛けてくるとは思うんですけれどね。
まあ、大企業の大きなプロジェクトが背景になっているという設定からは、必然的にその企業のなかでの過酷な競争があって――という話になりそうなところなのですが、おそらく『デレマス』も前作同様に理想論のファンタジーで押し通されるはずで、そういう話にはならないでしょう。
ここらへん、甘いといえば甘いのだけれど、ぼくはこのシリーズにはファンタジーをこそ期待しているので、特に文句はない。
ただ、最終的にファンタジーが勝つにしても、まったく何の障害もなかったら当然ながら物語として面白くない。
したがって、何かしらの形で「現実」が見えて来ないといけないと思うのですが――どうするのだろうね、うーむ。
前作は、各々のアイドルそれぞれに個性もあれば人気の差もあるという「現実」と、みんな仲間! 家族! という「理想」のコンフリクトが大きな魅力でした。
最終的に「理想」が勝利し、美しいファンタジーとして終幕することになるのですが、ぼくはそのことに何の文句もありません。
やっぱり、フィクションなんだからフィクションのマジックを見せてほしいわけなのですよ。
現実ってこういうものだよね、仕方ないよね、というだけではあえて物語という形で語る意味がないではありませんか?
そういうわけで、『アイマス』や『デレマス』が理想を追求するファンタジーであることを批判するつもりは一切ないのだけれど、あまりに甘ったるいとやはり問題ですよね。
前作がほんとうに感動的だったのは、きびしく押し寄せてくる「現実」を前にしてもなお、どこまでも「理想」を追い求めるその姿勢に美しいものを感じたからでした。
今回はそれに比べると余裕がある気がしてしまうんですよね。
前回の杏の描写にしても、 -
ニートアイドル双葉杏は「働かなかったら負けだと思っている」人々の限界をあぶり出す。
2015-03-15 01:2251pt
『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を見ました。前回に続いて個別のキャラクターにフォーカスした一話完結のエピソード。
うーむ、中だるみというわけではないけれど、ちょっとテンションが落ちたかな。決して文句をつけるわけではないのですが、とにかく「いい人」しか出て来ない良質なファンタジーは前作で既に見ているので、今回は何かいままでにないことに挑戦してほしいということはあるかも。
ただ、何かしらシビアな設定を持って来てもだれも喜ばないという気もするので、あるいはこのくらいでちょうど良いのだとも考えられる。
とはいえ、このまま終わるようだとぼく的には既視感を感じてしまうことは否めない。ひと通り各キャラクターのエピソードが終わった後にどういう話を持って来るかで評価が決まるかな。
まあ、もちろん、ぼくが評価しなくてもほかに評価する人がたくさんいるので、何の問題もないのですが。
でも、前作『アイドルマスター』のファンとしては、何かしらの形で前作を乗り越えてほしい、あるいは少なくともひと味違うものを見せてほしいと望まずにはいられません。前作が素晴らしかっただけにいっそうそう思うわけです。
ちなみに最新話は「働いたら負けだと思っている」ぼくたちのニートアイドル双葉杏の大活躍の巻でした。
最後まで見ても「この子、どういうふうに騙されてアイドルになったんだろ?」という大宇宙の謎は解けないわけですが、杏のキュートさは堪能できます。こやつ、可愛いな! ダメ人間だけれど、ダメ生物だけれど、とにかく可愛い。
最近、この種のダメ人間キャラクターは色々な作品に出てくるようになりましたが、じっさいには「徹底してだらける」ってそう簡単なことじゃないと思います。
もちろん、一生懸命動いているときには何もしないで済んだらどんなに楽だろうと思うわけですが、それが現実になると苦痛を感じる。
どうにもパラドキシカルな話ではありますが、「一切何もしてはならない」と命令されたら、「頼むから何かさせてくれ」といいだす人が多数派なんじゃないかと思う。
一生何ひとつ成し遂げずにおわるというのもやっぱりちょっとむなしいですしね。そうじゃなかったら、だれも必死になってお金を稼いだりしないでしょう。
ほんとうに何もしないつもりなら、ただ生きていくために必要なお金なんてたかが知れているわけで、そこまであくせく働く必要はない。やはり人間は何もしない生活にほのかにあこがれながら、じっさいそうなってみると苦しむものなのだと思う。
ぼくは普段、水とパンと図書館(とネット)があれば生きていけると公言しているのだけれど、より充実した人生を送るためにはやはりどうしたって「生き甲斐」みたいなものが必要になってくるのかもしれません。
だからこそ、ハイパーニートのぼくですらちゃんと確定申告して税金払わないといけないくらいには働いているわけです。まあ、ぼくの「働く」って、健全な社会人の皆さまの「働く」とは、次元が違うかもしれないけれど。
いやー、しんどいわー、日夜じゃがりこ食べながらアニメを見たりするのしんどいわー。新作のカップヌードルを啜りながらネットで落とした映画を見たりするのもしんどいわー。ふー、楽な人生ってないものだなー。
――殺意の波動を感じるのでこれくらいにしておきますが、とにかく気楽な人生を絵に描いて灰色に塗りたくったような生活をしているぼくですらそれなりの「労働意欲」みたいなものはあるわけです。
それはようするに -
神崎蘭子が硝子の靴を履くとき。『アイドルマスターシンデレラガールズ』は愛と救済の聖なるアニメ!
2015-03-09 04:4151pt
優れて面白い物語はひとを救う。特に高尚な芸術に限らない。ときにごくあたりまえの娯楽作品にも救済は宿る。
その秘密は真摯さであり切実さ。それはコメディであれホラーであれラブロマンスであれ変わりないだろう。一冊の本がひとを導くこともあるということ。すべてクリエイターはそういう魔術的な一作を目ざし作品を作っているのではないだろうか。
さて、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』最新話を見た。特に衒ったところのない軽いコメディだが、それでもそこにはある種の救いがあるように感じた。
いまの生活がどんなに惨めでも、苦しくても、物語を見ている時は救われる。そう思わせる作品には価値があるに違いない。
萩尾望都の傑作「青い鳥」の一節を思い出す。
なにもかもなくして
希望がなくても
世界が不条理でも
舞台だけは美しかった
あそこには幸福があった
舞台にだけは青い鳥が住んでた
それがほんとうにすばらしいものならば、アニメーションのなかにも「青い鳥」は宿る。だからこそ、きょうに至るまで無数のアニメが作られつづけているのだろう。
『デレマス』もまた、ある種のひとにとっては、そんな「青い鳥」を内に住まわせた作品のひとつである。ようするに非常に面白い。
今回の主人公は「中二病キャラ」の神崎蘭子。いつも漆黒のゴシックファッションをまとい、同じ色の日傘を差して、奇妙な中二病言葉で話すこの少女は、原作ゲームの膨大なキャラクターのなかでも指折りの人気だという。
今回の話は卯月たちに続いてデビューすることになった蘭子が、その企画の是非に関してプロデューサーと対話するまでを描く。
いつからそんなふうになってしまったのか、彼女以外にはよく意味がわからない中二病言葉でしか話せない蘭子は、プロデューサーとうまく意思の疎通を図ることができない。
かれのちょっとした誤解を正すこともできず、ただただ困惑するばかり。そんな蘭子がなけなしの勇気を振り絞り、プロデューサーに自分の意志を伝える場面が今回の見どころだ。
前回と同じくコミュニケーション不全がコミュニケーション成立によって解決するパターン。誤解に基づく問題と理解による解決は、今後も『デレマス』のシナリオのゴールデンパターンとして定着するかもしれない。
そもそも蘭子がわずらう中二病とは自意識の病である。自分の正確なポジションを把握することができず、ただひたすら自意識を空転させ肥大化させる病理。
その結果が過剰に尊大な態度や言葉遣いとなって現れるわけだが、話がコメディになるとそれはキャラクターの可愛げに見えて来る。
じっさい、蘭子もそのほんとうの素顔はごく素直で内気な少女なのだ。不可思議な言葉遣いや白い肌を覆う黒服は彼女の「鎧」。ほんとうは繊細で脆弱な心を持っているからこそ、それとはうらはらに傲慢な態度を取ってしまうわけである。そのギャップが蘭子というキャラクターのチャームポイントなのだと思う。
視聴者のなかにも何らかの形で中二病をわずらった経験がある者は多いだろうから、とても共感しやすいキャラクターなのかもしれない。
思えば、アニメファンなどという人種は、大抵は硝子細工めいた繊細な心を持っているもの。生まれつきワイヤーロープみたいな豪胆な神経を持っているひとはなかなかこの種の作品を理解しないだろうからそれも当然のことだ。
蘭子は、そういう繊細な精神と放埒な態度を共存させた視聴者たちの心をひとりの美少女の形に結晶させたキャラクターだということもできるかもしれない。
だからこそ、夜空色のゴシックドレスや暗号めいた中二病言葉といった「鎧」なくしては生きていけない彼女の儚さは、画面の向こうの同類たちの共感を集めるのだろう。
あるいはそれは健康なことではないかもしれないが、そもそも、べつだん健康でなければならない理由など存在しないのである。現実より夢のなかを好む人間がいて何が悪いというのか?
それは生物としての正常なありようではないだろうが、あるいはそれこそが人間の人間らしさの証明だといえるのではないだろうか。少なくともぼくは不健康なもの、夜の夢の文化のすべてを追放した社会になど住みたくない。
蘭子はたしかにかよわい少女だが、そのフラジャイルな儚さはなまじの強さよりはるかに強烈な印象を残す。彼女はすべての心弱き者たちのアイドルであり、天使にして堕天使、数いるシンデレラたちのなかでもいちばん繊細な心理を持っているかもしれない少女なのだ。かわゆす。
ちなみに、蘭子が好むGOTHICという文化はもともとローマ帝国を滅ぼした蛮人ゴート族に由来し、その言葉は「ゴート族ふうの」を意味しているという。
元々は過去、ヨーロッパにおいて文学、建築、美術の各分野において数世紀にわたって発展しつづけたある種の様式を指す言葉である。
しかし、おそらく日本でいちばんくわしいゴス解説書である『ゴシックハート』の著者・高原英理はこれを具体的な文藝作品や芸術作品にとどまらず、ある種の精神であり様式であると定義している。
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『艦これ』がプラットフォームになる日。
2015-03-05 01:3451pt
『艦隊これくしょん』のアニメ版をまったり見ています。まだ最新話まで追いついていませんが、いまのところなかなか面白いですね。
第1話の時点ではちょっとどうかと思ったんだけれど、しだいに調子を上げて来ている感じ。金剛型四姉妹が楽しいなー。こういう子たちだったのか。
まあ、原作を知らない人にとってはまったくわけがわからない世界設定だろうけれど、それはそういうものなのだと割り切るしかないのでしょう。
ぼくは原作のゲームも一応はプレイしているのですが、あまりハマらずにやめてしまったので、そんなにくわしくない。アニメを見て初めてわかったことも多く、なかなか新鮮です。
それにしても、『艦これ』のことがより詳しくわかるようになると、それだけでネット生活が楽しくなりますね(笑)。Twitterとかに流れて来るイラストとか短編漫画を見ているだけで楽しい。
おそらくみんなこういうものを求めて『艦これ』にハマっている側面も大きいのだろうな、と思わせられます。
そう、『艦これ』のような作品は、もはや単なるひとつのコンテンツではなく、さまざまなコンテンツやコミュニケーションのハブとなるエンターテインメント・プラットフォームなのですね。
オタクはある共通知識を前提にして話をすると昔からいわれているけれど、『艦これ』のことを知っていると、楽しめるコミュニケーションの幅が一気に広くなる。それも含めて「艦これ」の魅力なのでしょう。
その「楽しめるコミュニケーションの幅」を「砂場」に喩えた人もいたけれど、もはや、そういう作品周辺に広がる二次創作やコミュニケーション空間をも含めて作品を楽しむこと、ぼくの造語でいう「砂場消費」は、既存の「物語消費」や「データベース消費」ともまた一風異なる作品消化のスタイルとして定着したように思えます。
まあ、昔から映画について語り合うことは映画そのものより楽しかったりするわけで、何が変わったというわけでもないのかもしれません。ただ、そのコミュニケーション志向がより先鋭化したということは、既に各所で語られている通りです。
じっさい、『艦これ』そのものにはさほどハマれなかったぼくにしても、ネットに落ちている『艦これ』絡みのイラストや漫画、動画、音楽といったものを楽しんでいるだけで十分幸せになれてしまいます。
そこに公式のコンテンツを加えると、もはやそれだけで他のものは何もいらないくらい楽しめるのではないかと思う。
そうなのです、いまのご時世、べつだん『艦これ』じゃなく、『アイマス』でも『ラブライブ!』でも何でもいいのだけれど、何かひとつのプラットフォーム・コンテンツにハマっていると、もうそれだけでエンターテインメント生活が完結するくらいさまざまなことを楽しめるのですね。
これ、ある意味ではユーザーの囲い込みを行っているに等しいんじゃないかと思うくらいなのですが、そういうわけでもないんだろうな。
(ここまで1213文字/これから1364文字) -
絶好調『アイドルマスター シンデレラガールズ』の可能性を問う。
2015-03-01 19:3451pt
三月になりました。春の息吹はまだ遠いけれど、真冬はとうに過ぎ去ったようです。ぼくは石田衣良の性愛小説『水を抱く』を読んでいます。あしたかあさってには読み終えて紹介記事を書くことができるでしょう。
石田衣良は何を書かせてもどこか淡白で情緒が薄い作家ですが、こういうダーク&ビターな話を書かせるとさすがにうまい。繊細な儚さと破滅的な魔性を共存させる「運命の女」に惹きつけられます。
が、いまは昏く物憂い物語世界にひたり切れるほど体力がないので、癒やしを求め平行してアニメを見ることにしました。今季の作品のなかでも非常に評価が高い『アイドルマスター シンデレラガールズ』。
録画したまましばらく放置していたんだけれど、ようやく神回と評判の最新話まで追いつきました。いや、これは素晴らしい。
『水を抱く』から世界を切り替えると、冷たい海の底から突然あたたかな海面へ浮上したようでくらくらしますが、まあそれはそれで味わい深い。
それにしてもよくできたアニメですねー。前作『アイドルマスター』もそれはそれは素晴らしい作品で、ぼくは映画監督のフランク・キャプラなんかを例にあげてその善性に満ちた世界を絶賛したものですが、『シンデレラガールズ』はまた一風変わった面白さがあります。
何といっても、物語がよくできている。シナリオレベルでの成果なのかどうかわかりませんが、非常に練られ考えられたストーリーテリングという印象。
正直、じっさいに見るまでは期待と不安が相半ばする心境だったので、第1話の練度の高さには驚かされました。いや、ほんと、ここまでレベルが高いものをテレビで無料で(衛星放送の料金は払っているけれど、それだけで)見られてしまう時代というのは恐ろしいものがありますね。
ハイクオリティなエンターテインメントが次から次へと湧いて出る魔法の壷を持っているようなもので、もうぼくの人生はウハウハとしかいいようがありません。まさにハピハピ☆
これは『艦これ』もそうなんだけれど、『デレマス』は原作がソーシャルゲームであるわけで、そもそも方法論的に困難を抱えていると思うのです。
端的にいうと、制作時点で既にキャラクターがとんでもなくたくさんいるということですね。ゲーム版の『デレマス』には現時点で200名を越えるキャラクターが存在しているそうですが、その全員を物語に絡めようと思ったら大変なことでしょう。
もちろん、べつだん、すべてのキャラクターをアニメに出したり、物語に絡めたりする必要性は必ずしもないんだけれど、でも、それぞれのキャラクターにそれなりのファンは付いているわけで、なるべく多くのキャラクターを登場させたほうがユーザーの満足度が高くなるはず。
しかし、もともと物語的な必然性からキャラクターが生み出されているわけではないということで、必然的に作劇的な問題が発生して来るのですね。
そうなってくるとどうしたって群像劇にせざるをえないんだけれど、アニメで膨大なキャラクターが絡む群像劇をやろうとするとそう簡単ではない。少なくともひと工夫が必要になってくることは間違いない。
で、『デレマス』はその作劇的な工夫がほんとうによくできていたと思うのです。第1話をわずか3人(実質2人)にフォーカスして描き抜いたところも良かったけれど、第2話と第3話で主要キャラクターの顔見世をして、あらためて第4話でキャラクター紹介をやるあたり、エクセレントとしかいいようがない。
(ここまで1430文字/ここから1840文字)
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