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記事 7件
  • 強烈! 濃密! 荒木飛呂彦『ジョジョリオン』が最高潮。

    2020-11-29 15:10  
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     荒木飛呂彦『ジョジョリオン』がクライマックスに到達しているように見えます。ほんとうにクライマックスなのかどうかはまだわからないのだけれど、とりあえずラスボス(?)らしき敵と戦ってはいる。はたしてどういう結末を迎えるのか、期待と不安が相半ばしています。
     『ジョジョの奇妙な冒険』第八部であるこの『ジョジョリオン』、あまり調べてはいませんが、おそらく賛否両論の評価なのではないかと思います。
     あいかわらず「ジョジョらしさ」は全編に横溢していて、「衰えていないなあ」と思わせる一方で、その内容は複雑で、難解で、正直、もう何をやっているのかよくわからない。
     主人公たちの「スタンド能力」にしても、もう何だかわけがわからないことになっていますよね。ちょっと一読しただけでは理解が及ばない感じ。

     もちろん、世の中には読みやすくてわかりやすいだけではない傑作もありますし、それが一概に悪いというわけで
  • 天才が時代遅れになるとき。

    2017-01-21 17:32  
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     新作小説『星の王、栄光の槍 ―最強騎士に成りあがっていとしの陛下を守ってみる―』を「なろう」にて公開中です。
    http://ncode.syosetu.com/n3292dt/
     前作は読者層への意識を完全に振り切って趣味に走りましたが、今作は少しだけ読者層を意識しています。妙にエロいのは趣味ですが。
     ただ、自分の価値観を曲げて読者に媚びたりしてもまったく意味がないということは痛感したので、そこは曲げていません。あくまで自分が面白いと思うもの、かっこいいと思うものを貫いているつもりです。その上でいかに読者層にアジャストするかを考えています。
     「なろう」にはあきらかに独自に偏った読者層があり、それを無視するとほぼまったく読まれません。小説としていくら優れていても、「なろう」のルールに沿っていなければダメだという一面があります。
     これは一見、不条理なことのようですが、あたりまえといえば
  • 今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?

    2016-04-08 07:03  
    51pt

     春アニメを色々追いかけています。
     Amazonプライム・ビデオも見れるし、dアニメストアも見れるいまのぼくに死角はない。ふっふっふ。
     とりあえず今期のアニメで面白そうだと思ったのは『マクロスΔ』かなあ。
     『逆転裁判』がイマイチで残念です。『ばくおん‼』はまあまあ。
     『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』は、あたりまえですが面白いですね。
     『Re:ゼロから始まる異世界生活』も面白いという話なのだけれど、ネットで配信されるまで見る手段がない。
     『マクロスΔ』は「いつもの『マクロス』」といってしまえばそれまでなのですが、あいかわらずのクレイジーな世界が素敵です。
     「よし。歌が効いてきた」とか、イミフな台詞があたりまえのように飛び出すあたり思わず笑ってしまう。
     いや、『マクロス』だから意味不明でもなんでもないんだけれど、これ、このシリーズを初めて見る人がいたら「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないでしょうか。
     壮絶な空戦アクションと可憐なアイドルステージが一体化したアニメーションは色々な意味で凄まじく、わけのわからない迫力に満ちています。
     テレビアニメでここまでのアクションを放送できる時代なんだよなあ。凄い。ヒロインの女の子もなかなか可愛い。
     『くまみこ』もほのぼの系で良いですね。
     『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』はライトノベルらしい都合のいい話で、気恥ずかしくもなかなか楽しい。
     ただ、いちいちヒロインのおっぱい(巨乳)をフォーカスするカットがアレ。
     40近くなってこういう思春期願望充足アニメを見ているぼくはどうなんだという気がしなくもない。
     こうやって並べてみるとけっこう面白そうな作品が並んでいるなあ。
     オタク的な願望充足系が多いみたいだけれど、『Re:ゼロ』みたいなきつくて地味な話もきっちりアニメ化されているあたり、ちゃんと多様性のある時代なんだなあと感心します。
     『Re:ゼロ』はほんとにきびしい話なのですが、シナリオのポテンシャルはぴかいちです。
     「なろう系」とは思えないほど構成が秀抜。アニメもていねいに作っているという噂なので、とりあえず期待したいところです。
     あと、すでに完結した作品ですが、『灰と幻想のグリムガル』のアニメをいま後追いで見ています。
     まだ序盤なのだけれど、これ、素晴らしいですね。
     非常に地味な作品であるかとは思いますが、とにかく演出が光っている。最後まで追いかけていきたいと思います。
     いや、これだけの質と量のアニメがいつでもただで見れるというのは凄いことですね(dアニメストアは有料だけれど、それにしても月額400円くらい)。
     そりゃ、エンターテインメントが日常化するわけだよ、と思ってしまう。
     エンターテインメントの日常化という現象の背景となっているのは、「絶対に消化し切れないほどの量のエンターテインメントがあたりまえのように存在する」という現実です。
     ライトノベルにしろ、テレビアニメにしろ、ウェブ小説にしろ、いまとなってはどうあがいても消費し切れないくらいのボリュームの作品群が日常的に提供されつづけていることはご存知の通り。
     あるいは、よほど暇な人ならライトノベルだけ、テレビアニメだけならある程度は追いかけることができるかもしれないけれど、それらすべてを消化することはもうどうしたって不可能なわけです。
     そういう意味では、あるジャンルに関してなんでも知っている博覧強記の人物という意味での「オタク」は、もう成立しない時代になっていますね。
     岡田斗司夫さんがいうところの「オタク・イズ・デッド」はそういう意味でも必然なのだと思います。
     とにかくこうなると必然的に一作一作を真剣に見ていくことはむずかしくなるし、あるいは真剣に見るにしても「膨大な量のなかから見るべきものを選ぶ」という作業が必須となる。
     そうなって来ると、もうエンターテインメント体験は特別なものではなくなりますよね。
     この「量」の問題が現代のエンターテインメントを語るにはどうしても付きまとうと思うのです。
     もちろん、それぞれの作品の「質」も高くなっていて、まったくかつてない贅沢な時代が到来していると感じます。
     「飽食」ならぬ「飽楽」の時代、といえばいいでしょうか。
     ひとつひとつの娯楽が神聖な輝きを失ってしまうほどありふれている時代。
     かつて、何百年も前には、娯楽というものはほんとうに貴重なものだったでしょう。
     たとえば、年に一度の村祭りで芝居を見るために、一年間きつい仕事に耐えるというようなことだって、ほんとうに行われていたわけです。
     そういう時代においては、その芝居はほんとうに面白く、神秘的なまでの輝きを放つものでありえたはずだろうと思う。
     その時代において、エンターテインメントはまさに非日常そのものであったといっていいかと思います。
     いや、ほんの数十年前にしても、エンターテインメントはもう少し特別な体験だったといっていいでしょう。
     少なくとも日常そのものではありえなかった。
     しかし、 
  • 物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。

    2015-07-20 07:30  
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     昨夜、LINEで話したことがちょっと面白かったのでメモしておこう。
     最近、『アベンジャーズ』とか『バットマンVSスーパーマン』とか、本来、独立しているヒーローの映画を組み合わせた映画作品が次々と発表されて話題をさらっている。
     映画史的にはそれなりに画期的な事態だと思うのだが、この種のクロスオーヴァーは、アメコミの歴史のなかではくり返し行われてきたことであるらしい。
     というのも、本来、「なんでもあり」のアメコミでは、バットマンやスパイダーマン、ウルヴァリンといったキャラクターだけを活用してさまざまな実験的な作品が描かれてきたからだ。
     それもこれも作家ではなく出版社が著作権を有しているからではあるのだが、あるキャラクターが何度も死んだり、そのたびに生き返ったり、いろいろなキャラクター同士がくっついたり離れたりすることはかなり常識的に行われているのだとか。
     日本人の目から見るとかなり奇妙にも思える話ではあるが、あらゆる物語の根源である神話や民話に近いと考えると、こちらのほうが正統な物語の系譜であるといえるかもしれない。
     一方、より作家的/近代的な作品が多いと思われる日本ではそういうオールスターキャスト的作例は少ないと思われる(ないことはない)。
     『ガンダム』とか『仮面ライダー』あたりは比較的近いだろうか。
     もっとも、『ガンダム』でさえひとつの宇宙を共有しているというわけではない。
     その一方で「ある作家が描いた複数の作品がひとつのバックグラウンドを共有する」という真逆の現象はよく起こる。
     それはたとえば永井豪の作品がそうなったように、独立して描かれた複数の作品が最終的にはひとつの物語世界へ流れ込んでいく、という形を取ることもあるし、奈須きのこの作品がそうであるように、初めからひとつのバックグラウンド世界を想定して書かれることもある。
     『エヴァ』とか『ジョジョ』とか『ファイブスター物語』などを見て行くと、まったく異なる作品を作り出そうとしても最終的には同じものに仕上がってしまう作家がいることもわかる。
     その作家が自分の内面世界を象徴的に描き出しているだけなのだと考えるなら、それは当然のことであるのだろう。
     『エヴァ』にしても、新劇場版のシリーズは「まったく新しいものを作ろうとしても『エヴァ』になってしまう」というところから「それなら『エヴァ』にしよう」ということになったらしいし……。
     とにかく、このように、それぞれ独立した物語であるように見えていた物語がひとつの物語世界の出来事として語られることは洋の東西をまたいで少なくない。
     もっというなら、その際、「公式」か「非公式」か、一次創作か、二次創作か、という話は原理的にはあまり意味がない。
     重要なのは、一度発表された魅力的な物語は、その瞬間から「拡散」しはじめるということである。
     たとえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは発表以来、数知れない「パスティーシュ(贋作小説)」を生み出している。
     その数、数万ともいわれるパスティーシュは出来も内容もさまざまだが、シャーロック・ホームズないし類似の人物が登場していることだけは共通している。
     これをすべてひとつの世界のパラレルワールドの出来事として考えると、ちょっと面白い。
     というか、こういう「同じキャラクターが登場するが内容的に矛盾する複数の物語」を合理的に整理しようとすると、必然的に「平行世界(パラレルワールド)」を持ちださざるを得なくなるということだろう。
     逆にいえば、その設定さえ持ち出してしまえばどんな異質な物語であろうと、異なる世界線の出来事として整理してしまえるということでもある。
     先述した奈須きのこの作品世界は、それぞれの作品がパラレルワールドの関係にあり、しかもひとつの作品内でもパラレルな複数の物語が展開しているという非常に複雑な構造になっている。
     そこに『Fate/Zero』を初めとする「外典」がいくつも加わるわけで、もう何がなんだか、という状況ではある。
     だから、たとえば『Fate』なり『月姫』の番外編的新作が作られても、それは必ずしも『Fate』や『月姫』の物語が先へ進んだことにはならないわけだ。
     それぞれ「Fate」とか「Unlimited Blade Works」と名付けられた物語はあくまですでに完結しており、それはもう変わることはないということなのだろう。
     ここまで書いてきて、それでは、一本の連続した物語とはどう定義すればいいのだろう、ということが頭に浮かんだ。 
  • 「Tittygram」でおっぱいにブログタイトルを書いてもらったよ。

    2015-05-03 06:41  
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     ども、きょう、登山に行く予定の海燕です。
     だからいまの時刻は寝ていないといけないんだけれど――不摂生がたたってほぼ寝られませんでした。
     ところで、メールではなくブログでこの文章を読んでおられる方、このブログ、どこか変わったと思いませんか?
     具体的には→とか。ええ、ページ右側のアイコン画像を変えたのです。そう――「おっぱい画像」に!
     なんとおっぱいの上にブログタイトルを書くという斬新な演出!
     「かいえんはっぴーえんどけんきゅうしつ」!
     おっぱい! おっぱい!
     ……えーと、おそらくコラージュ画像にしか見えないと思いますが、ほんとうにおっぱいの上に直接文字を書いてもらっています。そのはずです。
     大きな画像はこれ。 
  • 愛が理想をくじくとき。『まどマギ』と『風立ちぬ』の相違点について。

    2015-03-19 02:04  
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     一般に、男性作家は男性に都合のいい話を描き、女性作家は女性に都合のいい話を描くものです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     もちろん、より公正な視点から物語を綴る作家もいるでしょうが、高尚な文学作品はしらず、通常のエンターテインメントではどうにもそういうふうになりがちなのではないでしょうか。
     たとえば宮﨑駿が監督した映画『風立ちぬ』などは、とても男性に都合のいい話だったと思います。 人物も世界も、すべてが男性主人公の「少年の夢」の輝きを照らしだすために存在しているような印象があった。
     ぼくはそのご都合主義的な開き直りが嫌いではありませんが、ふと、女性の目にはどう見えるのだろうと感じることもあります。
     非常にスタンダードな「男のロマン」の物語であるように見えるだけに、あるいは女性から見たらなんと身勝手な、と思えるのではないでしょうか。
     とはいえ、ぼくは男なのでやはり「男のロマン」の物語を好ましく感じます。 ある天才的な主人公が、大人になってなお、少年時代の夢を純粋に追い求めつづける――そういう「少年の夢」の物語がとても好きです。
     それは、まさに『風立ちぬ』がそうであったように、現実世界の理屈と衝突してときに血まみれの夢と化すことでしょう。 しかし、そうであればあるほどその純粋さは際立つわけです。
     『風立ちぬ』のほかには、漫画『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスあたりがそういうキャラクターにあたるでしょうか。
     人道をも倫理をも汚辱してなお、自らの夢をどこまでも追いかけつづけるという奇怪な類型。 ぼくはそこにとても美しい、あえていうなら人間的なものを見るのです。
     『ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインもそういう「男の美学」を体現したキャラクターでした。
     そういう態度そのものが、一面から見れば呪われたものであると理解してなお、ぼくはやはり「少年の夢」に強く惹かれます。 ある意味では男性のエゴイズムでしかないのかもしれませんが。
     それとは違うものの、「すがりつく女性を振りほどいて、ひとり死地へ向かう」というのも「男のロマン」のひとつのパターンですね。 『あしたのジョー』がこれに近いし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などもこのパターンに入るのではないでしょうか。
     最近の作品では、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語がまさにこれそのままでしたね。
     男という生き物は、どうも死にロマンを見いだす「死にたがり」の傾向があるようで、美しく死にたいという欲望はかなり普遍的なものであるようにも思えます。
     ダグラス・カイエンはすがりつくミース・シルバーを気絶させ、騎士としての大義のため、ひとり邪悪な魔導師ボスヤスフォートとの決戦へと向かいます。 男の目から見ると非常に格好良く見えるのですが、あるいは女性から見ると違う風に見えるかもしれません。
     永野護は男性作家のわりには妙に女性心理に理解が深い作家だと思いますが、ここではあくまで「男のロマン」を優先させた描写をしています。
     おそらく女性読者には不評だったかもしれないと思うわけなのですが、まあ、『ファイブスター物語』全体がそうやって男性の夢をロマンティックに描いている傾向はありますね。だからこそ好きなのかもしれません。
     しかし、あたりまえのことですが女性には女性の想いがあって、それはそれでものすごい重みを持っているわけです。 ところが、いままでの「男のロマン」の物語では、女性の役割は脇役というか、あえていうなら添え物に留まってしまうことが常でした。
     ぼくはそこに微妙に不満があって、「ひとり死を決意した男を翻意させる方法はないのだろうか?」ということをずっと考えていました。
     個人的にこの文脈で革命的だったのが『神様のりんご』(『どんちゃんがきゅ~』)というゲーム。 ここでは、まさに「少年の夢」の完遂のため、すべてを捨て去ることを決意した男に対し、少女が死に物狂いで抵抗します。
     そこには「少年の夢」に匹敵する「少女の想い」が、「男のロマン」に対抗しうる「女のパトス」が描かれていたように感じられて、ぼくはとても好きな作品なのですが、まあ、どマイナーなのであまり詳しく語ることはやめておきましょう。
     で、もうひとつ、この文脈で革新的に感じられたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』です。 
  • ディオ・ブランドーの憂鬱。西尾維新は少年漫画屈指の悪役をどう再解釈し再構築したか。(2103文字)

    2013-01-16 21:32  
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    西尾維新の『ジョジョの奇妙な冒険』ノベライズ作品『OVER HEAVEN』を読んでの書評記事です。いやー、これはむずかしい作品ですね。作品そのものが『ジョジョ』に対する批評になっていて、しかもかなり攻撃的というか、問題含みの批評だといえる。その内容については本文を読んでもらえばいいのですが、とにかく興味深い作品でした。とりあえずぼくは好きですよ。