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記事 10件
  • 背徳のアンソロジー『リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン』で暗黒文学の精髄を味わおう!

    2020-12-07 16:23  
    50pt

     何年もまえから欲しいと思っていたアンソロジー『リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン』をついに購入しました。
     もし電子書籍版があったらもっと早く買っていたとは思うけれど、とにかく入手できたことは嬉しい。珠玉のアンソロジーというウワサなので、これから舐めるように耽読するつもり。
     もう、目次を見ているだけでたまらないですね。わずかに既読の作品もある一方でいくつか知らない名前もあって、ここからさらに「暗黒系」の鉱脈を掘っていける予感がしています。収録作はこんな感じ。

    「夜」 北原白秋
    「絵本の春」 泉鏡花
    「毒もみのすきな署長さん」 宮沢賢治
    「残虐への郷愁」 江戸川乱歩
    「かいやぐら物語」 横溝正史
    「失楽園殺人事件」 小栗虫太郎
    「月澹荘綺譚」 三島由紀夫
    「醜魔たち」 倉橋由美子
    「僧帽筋」 塚本邦雄
    「塚本邦雄三十三種」
    「第九の欠落を含む十の詩編」 高橋睦郎
    「僧侶」 吉岡実
    「薔薇の縛め」 中井英夫
    「幼児殺戮者」 澁澤龍彦
    「就眠儀式 Einschlaf-Zauber」 須永朝彦
    「兎」 金井美恵子
    「葛原妙子三十三首」
    「高柳重信十一句」
    「大広間」 吉田知子
    「紫色の丘」 竹内健
    「花曝れ首」 赤江瀑
    「藤原月彦三十三句」
    「傳説」 山尾悠子
    「眉雨」 古井由吉
    「暗黒系 Goth」 乙一
    「セカイ、蛮族、ぼく。」 伊藤計劃
    「ジャングリン・パパの愛撫の手」 桜庭一樹
    「逃げよう」 京極夏彦
    「老婆J」 小川洋子
    「ステーシー異聞 再殺部隊隊長の回想」 大槻ケンヂ
    「老年」 倉坂鬼一郎
    「ミンク」 金原ひとみ
    「デーモン日和」 木下古栗
    「今日の心霊」 藤野香織
    「人魚の肉」 中里友香
    「壁」 川口晴美
    「グレー・グレー」 高原英理

     津原泰水の作品がないことがちょっと気になるくらいで、まさに圧倒的な布陣。白秋や鏡花の古典から現代の乙一、桜庭一樹といったライトノベル出身作家までカバーした日本の「リテラリー・ゴシック(文学的ゴシック作品)」の一覧表といえるのではないかと。
     いやあ、よくここまで集めましたね! 凄すぎ。
     何しろまだ読んでいないので感想も何もないのだけれど、じつに七百ページ近いボリュームは簡単に読み通せるものでもなく、いまのところ、ただ匣のような本の形から「不穏の文学」の気配を感じ取るだけです。
     表紙はあたりまえのように球体関節人形であるわけですが、いやあ、良いよね、人形。押井守の『イノセンス』もまあ、映画として客観的な出来不出来はともかく、好みの世界ではあった。
     まあ、ぼくは球体関節人形といっても、元祖のハンス・ベルメールくらいしか知らないのですけれどね。何か良い解説書はないものかな。
     ところで、 
  • たとえ運命に選ばれなかったとしても。

    2016-04-12 00:05  
    51pt

     石田衣良『オネスティ』を読んだ。
     石田の得意とする恋愛小説なのだが、普通の恋愛ものとは一風変わっている。
     幼い頃、運命的に出逢い、一生をともにする間柄となったカイとミノリふたりを描く物語。
     そこまでは普通なのだが、このふたり、決して肉体関係に進まないことを誓い合うのだ。
     恋人にはならない。結婚して夫婦になることも決してない。そう決意した上で、かれらは一切の秘密のない関係を築いていく。
     親友のようでもあり愛人のようでもあり、そのいずれともいくらか異なる間柄。
     石田は繊細な描写で、ふたりだけにしか理解できないそのオネスティ(誠実さ)にもとづく絆をていねいに描きだす。
     きわめて美しい物語だ。感動的といってもいいかもしれない。
     しかし、ここでぼくが注目したいのは、その物語のなかで脚光を浴びる主人公たちではない。
     カイの妻となるミキという女性のことだ。
     彼女はカイを愛し、かれと結婚するのだが、カイの心にいつもミノリがいて、自分は代役に過ぎないことを知っている。
     そして、その想いはやがて彼女を狂おしく責め立てていくのだ。
     ミキは、この物語で主人公としてフォーカスされた人物ではない。
     カイとミノリのオネスティの物語の単なる「わき役」である。
     だが、彼女を見ていると思わずにはいられない。
     物語に選ばれていないこと、「わき役」であるとは、なんと切ないことなのだろうと。
     いままでも、いくつもの物語を読む過程で、何度も思うことがあった。
     「主人公」と「わき役」で、なぜこうまで区別されなければならないのだろうかと。
     本来、この世に「主役」も「わき役」もいない。すべては平等であるはずである。
     けれど、物語は必ずだれかひとりなり数人を「主人公」として選び出し、注目する。
     そのとき、スポットライトがあたらない人間たちはみな「わき役」ということになる。
     『オネスティ』でいうのなら、ミキがどんなに悩んでも、苦しんでも、それは「主人公の悩み、苦しみ」ではありえないのだ。
     スポットライトが照らし出すのはどこまでいってもカイとミノリ。ミキの懊悩に光はあたらない。
     もちろん、それは小説という構造があるからこその嘘ではある。
     これが現実なら、ミキは自分を中心として、つまり主人公だと思って悩み、苦しむことだろう。
     物語というシステムがあるからこそ、主役とわき役が選抜されて見えるのであって、現実にはそんな区分はないのだ――いや、しかし、ほんとうに?
     ぼくには現実世界にも「選ばれて主人公である人」と「わき役でしかありえない人」はいるようにも感じられる。
     少なくともそういうふうに感じ、考える人は必ずいることだろう。
     自分にスポットライトがあたることはついにない、一生、自分は光の差さない暗がりのなかで生きていくしかない、そういうふうに思っている人は相当数にのぼるはずだ。
     そしてそれは、必ずしも思い込みとばかりはいえないだろう。
     この世は一面で平等ではあるが、しかし真実は決してそうではない。
     「運命に選ばれて主人公のように生きる人」と「そうではない人」の格差は凄まじいものがある。
     もちろん、主役には主役の苦悩がある。それはわき役でしかない人には想像できないものではあるだろう。
     とはいえ、単なるわき役から見れば、その悩みすら、苦しみすらうらやましいものに思えるのではないか。
     わき役にはわき役の悩みがあり、苦しみがあるにもかかわらず、それらは世界に無視されて終わるのだから。
     だからこそ、ぼくたちの多くは選ばれたがる。
     「あなたは選ばれました」という言葉は、詐欺師の常とう手段だ。
     あまりにもありふれていて陳腐と化した言葉だが、それでもそのなかには何かひとの心を狂わせる蠱惑がひそんでいる。
     あなたは選ばれました――神に、世界に、運命に選ばれたのです。
     そういわれてほの暗い喜びを感じない人は少ないだろう。たとえ、そこに欺瞞の彩りがひそんでいると気づいたとしても。
     それほどまでに「何者かに選ばれる」ということはひとの心を強く魅了する。
     「愛されたい」という想いも、ひっきょう、「だれかに選ばれたい」という意味ではないだろうか。
     しかし、「わき役」はだれにも愛されないし、選ばれない。そのちっぽけな存在に注目する人はいない。
     『オネスティ』のミキはとても可哀想な女性だ。
     彼女は真摯に愛しながら、愛されない。
     カイとの間にオネスティな関係を築くことができない。
     カイの財産をもらうことはできるが、それがなんだろう。
     彼女が求めたものは、たったひとつ、かれの愛情だけしかなかったというのに。
     だが、その孤独、その絶望すら、あくまでも「わき役」のそれでしかなく、彼女の悲恋に光があたりはしない。
     それが物語というものではある。とはいえ、それはなんと残酷なことなのだろう。
     そして、自分は主人公になれないと感じながら生きていくということは、なんと辛いことなのだろう。
     わき役はどこまでもわき役。主人公にはかなわないのだ。
     いや、しかし、この世にはそんな「わき役」の美しさを描く物語もある。
     たとえば先日読み上げた中田永一(乙一)の傑作短編「少年ジャンパー」はそういう話だった。
     これはほんとうに傑作だと思う。
     中田はいままでも無数の傑作短編を書いているが、そのなかでも新境地をひらく一作といえるのではないだろうか。
     この物語の主人公は人並み外れて醜い容姿の少年である。
     だれからも愛されていないし、最後まで愛されることもない。
     かれはあるとき「ジャンプ」という超能力に目覚める。
     一度行ったことがある場所なら、世界中どこへでも一瞬で「ジャンプ」できるという素晴らしい能力だ。
     しかし、そんな超能力を持ってしても、かれが「世界にとってのわき役」であり「キモメン」であるという事実は変わらない。
     かれはいかなる意味でも世界にも運命にも物語にも選ばれていないのだ。
     よくネットには「おれはキモメンだから異性から差別されてきた!」と書く人がいるが、まさにそういう境遇の少年である。
     あるとき、かれは偶然から異性に恋心を抱くようになる。
     かれがほんとうに「主人公」なら、どんなに醜い顔をしているとしてもその恋は実り、幸福な結末を迎えることだろう。
     あるいは少なくとも悲劇的に美しいクライマックスが待っているに違いない。
     ところが、 
  • 『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。

    2015-04-24 05:07  
    51pt


    深い眠りに落ちる
    少し前の手前の
    まどろみの中に似た
    密やかな夜に
    探し続けてるのは
    あのメタフィジカ
    祈るように紡ぎだす
    ひとつの歌
     「メタフィジカ」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25268427)

     「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。
     20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。
     ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。 また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。

     かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。

     さて、本題に入りましょう。
     このタイトルと書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが(笑)、気にせず始めることにします。
     これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。
     べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。
     さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。
     いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。
     少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。
     その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。
     じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。
     ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。
     この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274730242
     この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。
     しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。
     そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。
     答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。
     それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。
     「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから40年前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。
     ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。

     なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)
     では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
    「想像できないことを想像する」
     という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
     SFだったら、それが可能なのではないか?
     だめだろうか?

     だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。
     かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。
     そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。
     前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでもしられています。
     そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。
     『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。
     「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。
     その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。
     山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。
     そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。
     どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。
     ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。
     つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。
     それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。

     それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?
     『イザヤ書』

     しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。
     「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。
     そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。
     おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。
     あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。
     そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。
     いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。
     この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。
     彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。
     「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。
     さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。
     20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。
     そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。
     その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。 たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。
     この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。
     神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。
     いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。
     ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。
     あるいは前の記事で取り上げた『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。
     これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。
     しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。
     一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。
     とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。
     その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、SFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。
     いずれも古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。
     さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。
     『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。

     とまれ
     階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。
     超意識の意味は?
     低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……
     晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。

     一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。
     いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。
     『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。
     それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。
     もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。
     天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。
     ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。
     スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。

     目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
     手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。

     同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。
     これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。
     一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。
     麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。
     この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。
     はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。
     しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。
     少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。
     この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。
     なぜ? それはわかりません。
     ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。
     ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。
     つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。
     『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。
     やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。
     さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
     たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。
     トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。
     それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。
     そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。
     「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。
     あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。

    「僕は、帰らなければならないのですね?」
    「きみ次第じゃ」
    「選べるのですか?」
    「おお、そうじゃとも」
     ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。
    「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」
    「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
    「先へ」
     ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。

     「先」。
     それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。
     つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。
     さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。
     『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は 
  • 「ドラマティック」とはどういう意味か? 線と変曲点で考える。

    2015-04-17 12:51  
    51pt

     ふう。一日休んでしまった。
     いや、ちゃんと用意はしていたんですよ? でも、PCが落ちて原稿が消えてしまって――いい訳はいいか。
     ペトロニウスさんが三つ前の記事に反応してくれていますねー。ありがとうございます。
     もっとも、この記事はまだ完成しているとはいいがたくて、「落差」とか「コントラスト」といった概念はまだ整理しきれていない感じ。
     ここにもうひとつ、「つじつま」を加えると、ぼくの「物語の面白さ/退屈さ」に関する話の基礎ができあがる印象です。
     この話は「面白い物語とはどんなものか?」という非常にシンプルな疑問から生まれています。
     「それはこういうものだ」と解説した本は枚挙にいとまがないのですが、ぼくとしてはいまひとつピンと来ない。
     なんといっても、それらを読んでもすぐには面白い物語を分析できるわけではないわけです。
     それらは、たとえば「『スター・ウォーズ』はこのような物語構造を採用しており――」、「『DEATH NOTE』はゼロ年代のかくの如き時代背景の産物で――」などと語りますが、非常にもっともらしいものの、「ほんとうにその物語構造なり時代背景が「物語の面白さ」に直接に関係しているのか」と考えると、判然としないところがある。
     たとえばある物語がオイディプス神話と同じ類型を用いているとして、だからその物語は面白いのだ、と即座にいえるでしょうか?
     構造的にはそういうことになるかもしれません。しかし、あたりまえですが、同じような構造を用いていても面白い物語とそうではない物語がある。その差はどこで生まれるのか?
     何より、ひと通り物語理論を勉強してもだれもが面白い物語を作れるわけではないのはどうしてなのか?
     ぼくはこのところがひっかかってどうにもならないのです。
     そこで、自前でより実践的な物語理論を作りたいところであるわけなのですが、まあそんなもの簡単にできるわけがない。
     だから、まずはいくつかぼくが面白いと感じた物語を取り出して「自分はなぜそれを面白いと感じたんだろう?」と分析してみたいと思っています。
     そのプロセスがまさにこのブログのいくつかの記事であるわけです。
     ちなみにぼくは「面白い」とは、「感情が動くこと」であると思っています。
     喜怒哀楽と一般にいいますが、歓喜、哀惜、恐怖、驚愕、憤怒といった感情を引き起こして平板になりがちな日常に刺激をもたらす作品を「面白い」と称するのだという考え方です。
     これだと、いわゆる「日常系」を捉えそこねることになりそうですが、日常系もやはり「漠然とした幸福感」をもたらすところに「面白さ」があるわけで、特別扱いすることもないだろうと思います(ただ、どうしてそれが「漠然とした幸福感」をもたらすのか、という問題は残ります)。
     たしかに一部の奇形的に進歩した本格ミステリなどは非常に知的/構造分析的な「面白さ」ですが、それでもやはりまったく意外性がない単なるパズルは小説として高い評価を受けない。
     よって、「面白さ」とは「感情が動くこと」、したがって、物語の面白さとは受け手の感情を動かすところにある、とりあえずそう定義してかまわないでしょう。
     それでは、どのような物語がより受け手の感情を動かすのか?という話をするときに考えたのが、例の「落差」という概念です。
     つまり、物語がある状態から、次の状態に移行するとき、その変化が急激で大きいほど物語は面白くなる、という考え方ですね。
     もう少しくわしく説明してみましょう。作家の乙一は、『ミステリーの書き方』という本のなかで、物語を次のように定義しています

     小説は文字が連なってできている一本の線だ。一本の線には両端がある。つまりはじまりと終わりのことだ。その二つをここでは発端と結果と呼ぶ。すべての物語は発端と結果を結ぶ線なのだ。ミステリを書くならば、発端と結果はすなわち、事件の発生と解決のことである。
     しかしその二つを結ぶ線が平坦で何の盛り上がりもなければ読者は飽きる。一本の線をどこかで折り曲げてジェットコースターのレールのように波打たせなければならない。そうして読者の心を揺さぶる必要がある。その折り曲げるポイントを把握するため、私はいつもプロットを書く。

     さすがというか、簡にして要を得た説明であるわけですが、ぼくはかってにこの線を「ストーリーライン」と呼ぶことにしたいと思います。そのままの意味ですね。
     乙一はまた、物語を左右するイベントが起こり、ストーリーラインが折れ曲がるポイントを数学用語から採って変曲点と呼んでいます。

     変曲点(へんきょくてん)とは、平面上の曲線で曲がる方向が変わる点のこと。幾何学的にいえば、曲線上で曲率の符号(プラス・マイナス)が変化する点(この点では0となる)をいう。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%9B%B2%E7%82%B9

     さて、このように考えると、ストーリーラインの折れ曲がり方(物語中における状況の変化のしかた)には「角度」と「落差」があることになります。
     そして、より「急角度」で、「落差が大きい」変化が「ドラマティック」ということになるのです。
     前回取り上げた『ブラック・ジャック』の「ふたりの黒い医師」のエピソードを思い出してみましょう。
     あの物語は 
  • 書き出しが良いとそれだけで傑作に思える症候群。

    2015-04-15 01:27  
    51pt
     ども。
     なんかめちゃくちゃ長い記事を書いてしまったので、すぐには内容のある記事を書く気になれません。
     あの長さの記事をだれが読むのかという気がしますが、何人かには読んでいただけたようで幸いです。
     我ながらひきこもりの身の上でよくこれだけ書けるものだと思いますにょろ。だれも褒めてくれないから自分で褒めておこう。
     まあとにかくやる気が湧き出てこないので、ひとつコピペだけで安直な記事でも作ろうかと思います。
     ちょうどTwitterで「印象にのこる小説の書き出し」に関するツイートが流れてきたので、これに便乗することにしましょう。
     ぼくが、個人的に印象に残っている小説の書き出しです。
     まずは、そう、

     九歳で、夏だった。

     乙一ですね。
     「夏と花火と私の死体」。

     極限まで簡潔な――というかほとんど極限を超えて文法的におかしいのではないか、と思われる一文が印象的です。
     16歳でこれが書けてしまうということは、やはりただ者ではない。天才の片鱗は既にここに表れています。
     続いては、

     申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

     太宰治の「駈込み訴え」。

     この疾走的なリズム感。こういう小説を書かせると太宰は日本文学最強の書き手ですね。「生かして置けねえ」と崩れるところの迫力が凄い。
     ちなみにこの小説は青空文庫で読めます。かなり泣かせる傑作短編なので、オススメ。
     香気馥郁たる美文、ということでは、やはり連城三紀彦の文章が印象深いものがあります。
     特にこれ、と挙げるのなら「花緋文字」でしょうか。「花葬」シリーズのなかでも凶悪ともいうべき一作ですが、その冒頭の美しいこと。

     石畳に水でも打ったように滲む茶屋の灯を小波だたせ、一陣の秋風が吹きぬけるなか、三津が、私の呼び停めた声につと高下駄の音をとめてふり返り、
    「――兄さん」
     思わずそう呟いたものの、まだ誰か思い出せぬように、首を傾げて立ち竦んでいたのを、今でもはっきりと憶えております。


     また、個人的に気に入っているところでは、石田衣良『波のうえの魔術師』があります。
     石田衣良の全作品のなかでも、この作品の書き出しはスペシャルに格好いいと思う。凡手が真似できない匠の切れ味。

     灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
     波のうえの魔術師だ。

     秀抜な文章もさることながらイメージそのものが美しい。
     「灰色のデジタルの波」、「細かな数字の飛沫」、そして「波のうえの魔術師」。
     こういう繊細なイメージを味わえるのが小説の醍醐味ですね。
     石田衣良は格好つけるとほんとうに格好いい。天才的です。
     さて、ここらへんで有名どころをひとつ押さえておきましょう。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』。

     港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
    「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど--」
     と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。
    「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
     《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壺(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。


     うん、一読して「は?」となった人もいるかもしれませんが、「空きチャンネルに合わせたTVの色」とは、つまり曇り空の灰色のことです。
     この小説の冒頭の舞台ははるか未来の「千葉市(チバ・シティ)」なのだけれど、いったいどこの千葉なのだろう……。
     個人的にあらゆる書き出しのなかでもベストに近いと思っているのが、 
  • 北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。

    2015-04-03 13:15  
    51pt




    心に太陽を持て。
    あらしが ふこうと、
    ふぶきが こようと、
    天には黒くも、
    地には争いが絶えなかろうと、
    いつも、心に太陽を持て。

     映画『くちびるに歌を』をみた。
     圧倒されて言葉ひとつ出て来なかった。
     これは、まさに吹き荒れる嵐のなか、なお青褪めたくちびるに歌声を保とうとする、その健気な人々の物語だ。
     運命の無情な羽ばたきに吹き飛ばされながら、それでも心に太陽を抱きつづけようとする人たちの鮮烈な生の記録だ。
     ここには〈世界〉がある。そして〈人間〉がいる。
     どうしようもない巨大な歯車に押しつぶされながら、何とか一生懸命に生き抜こうとするひとの意思がある。
     美しい。なんと美しい映画なのだろう。
     傑作とか名画とか、そのような陳腐な表現はこの清新な一作に似合わないが、あえてそういうふうに呼ばせてもらおう。傑作だ。名画である。
     ひとつ映画に限らず、今年ふれたあらゆる物語のなかでも、出色の一作ということができる。
     話は、ある小さな離島の中学校に、ひとりの美貌の女性教師が赴任してくるところから始まる。
     ささやかな約束によって合唱部の担当となったその教師は、しかしかれらを熱心に指導しようとはしなかった。
     やがてその教師目あてに幾人かの男子部員たちが入って来て、部は分裂し、混乱する。
     そしてあきらかになる教師の過去。彼女は元々、素晴らしいピアニストだったのだ。
     それなら、なぜ自分たちのためにその天性の技量を振るおうとはしないのか? 合唱部の生徒たちの間にフラストレーションが溜まっていく。
     しかし、そのうち彼女が心に抱えたひとつの〈瑕〉が明かされることになる。
     一方、生徒たちもまた物語を抱えている。自閉症の兄とともに暮らす少年。実の父親に見捨てられた少女。そして、かれらの想いと教師の想いが響き合うとき、ひとつの奇跡が起こる――。
     この映画が描こうとしているものも、ある種の〈諦念〉である。
     主人公の少年は自閉症の兄の世話をする人生を受け入れている。自分の生の意味はそこにあるのだと、はっきりとわかっている。
     父に見捨てられた少女はそれはどうしようもないことだときちんと理解している。
     しかし、それでもなお、そこに「どうしても割り切れない想い」がある。
     ひとがひとである限り、純粋に無私の境地には到達できない。どんなに割り切ろうとしても、やはりほんの少しだけ無念がのこる。
     だから、そう、くちびるに歌を。
     何もかも思い通りにならない、辛く、また切ない日々のなかでも、歌声を保ちつづけること、それが、 
  • あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?

    2015-01-28 06:25  
    51pt


     いま、岡田斗司夫さんの『僕らの新しい道徳』という本を読んでいます。「道徳」をテーマにした対談集で、この本のなかに『週刊少年ジャンプ』が道徳の記事として良いのではないか、という話が出て来ます。

     たとえば、1980年代の『週刊少年ジャンプ』は「友情・努力・勝利」をテーマにしていましたが、この場合の「友情」は、フランス革命でいうところの「友愛(フラタニティ)」に近い。フランス革命はスローガンとして「自由・平等・友愛」を掲げていたけれど、これはあくまで目的を同じくするメンバー間の友愛であり、平等でした。フランス革命は全人類の平等を訴えたのではなく、共同体に属しているメンバーが平等であって互いに助け合おうと訴えたのです。
     道徳には、有効範囲が設定されています。自分が共感できる仲間の範疇でしか道徳は共有できませんし、時代によっても変化します。1980年代の『週刊少年ジャンプ』読者と、2010年代の読者では、道徳観は違って当然。普遍でも不変でもなく、流行がある。だからこその『週刊少年ジャンプ』です。

     この話は非常に面白い。ここでちょっと余談に走ると、個人的に「努力・友情・勝利」というスローガンから「努力」が抜け落ちて「友情」と「勝利」のみが強調されるようになったのがいまの『週刊少年ジャンプ』なのかな、と思っています。
     仮に「努力」が抜け落ちたところに何か言葉を入れるとしたら「個性」とか「工夫」といった表現が入るのではないでしょうか。これはやっぱり「努力すればそのぶん成功するものだ」という幻想が説得力を失った結果なのではないかと思うわけなのですが、まあそれはいい。
     重要なのは、ここで岡田さんが「道徳には有効範囲がある」として『ONE PIECE』を例に挙げていることです。これはすごくよくわかる話です。
     『ONE PIECE』の主人公である海賊少年ルフィは「仲間」を強調し、仲間のためなら命をも惜しまない姿勢を強調します。
     それが読む者の感動を呼ぶわけですが、一方でルフィは「敵」とみなした人間に対しては容赦しません。徹底的に暴力を振るうことでかれの考える正義を実行します。
     「仲間」とみなした人間には最大の共感を、「敵」とみなした人間には最大の攻撃を。これがルフィの道徳だといっていいのではないでしょうか。
     その態度は物語中ではポジティヴに描かれていますが、一面で独善性を伴うことも否定できない側面があり、だからこそ、『ONE PIECE』は超人気作でありながら賛否両論が分かれるところがあります。
     で、ぼくは『ONE PIECE』の話は裏返すと『HUNTERXHUNTER』の話になると思っています。つまり、ルフィの海賊団の話はそのまま幻影旅団のスライドするわけです。
     幻影旅団もルフィ海賊団と同じ道徳観を備えた集団です。仲間には絶対の忠誠を、敵には究極の無慈悲を。しかし、ルフィの海賊団と比べると、「仲間」と「敵」を明確に分けることのネガティヴな側面が強調されているように思います。
     ルフィが、いくらか身勝手ながらも「正義」に拘っているのに対し、幻影旅団は「仲間の利益」だけしか考えない、そんな印象がある。
     しかし、そのルフィにしても、自分にとって不快な人間の権益を代弁しようとは考えないでしょう。この世の何よりも「仲間」が大切。「仲間」の敵は自分の敵。ルフィはそう考えているように思えます。
     いずれにしろ、「道徳には、有効範囲が設定されてい」る以上、どこかで「仲間」と「それ以外」を区切らなければならない。
     そうなると、当然、それではどこまでを「自分が共感できる仲間の範疇」とみなすかという問題が出て来ます。つまり、どこまでを道徳的に共感できるフラタニティの友と考えるかということ。
     『HUNTERXHUNTER』の作中では、この問いは人間ですらないキメラアントをも「仲間」とみなすか否か、という形できわめて先鋭的に展開することになりますが、ここではもっと現実的な問いを考えてみましょう。
     つまり――「あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?」と。ぼくがいままでずっと書いて来たことは、あなたにこの問いに答えてもらうためなのです。
     これまで縷々と述べてきたように、岡田斗司夫という人はかなり個性的な人物です。最近は「いいひと戦略」に則ってなのかどうなのか、わりと社会道徳に適合するよう振る舞っているように見えますが、本質的にはあまり道徳を尊重しているようには思えません。
     というか、ぼくは岡田さんは内心では型通りの道徳なんて深く軽蔑しているに違いないと信じているんですけれど、まあ、まず「いいひと」とはいいがたいでしょう。
     そしてまた今回あきらかになったことは、岡田斗司夫という人は女性を人間として尊重せず、ほぼモノ扱いするタイプの人物だということです。
     何人愛人を作ろうと本人の自由ではありますが、それにしても相当共感しづらいパーソナリティというべきでしょう。
     しかし、相当に豊かな才能を持っていることはたしかで、その能力は社会的に有用だといえそうです。
     何といっても、岡田斗司夫がいなければGAINAXもなかったかもしれず、『トップをねらえ!』とか『ふしぎの海のナディア』といった作品もなかったかもしれないわけです。その能力は一定の評価に値します(もっとも、仮に『トップ』や『ナディア』がなかったとしても、ほかの作品が生まれただろうことは間違いありませんが)。
     さて、あなたはそんな岡田斗司夫に共感できますか? 岡田斗司夫を「仲間」だとみなすことができますか? ご一考ください。
     結論から書いてしまうと、「ぼくはできます」。岡田斗司夫さんのような人物もまた、同じ共同体の「仲間」として権利を与えられてしかるべきだと考えます。
    (ここまで2375文字/ここから3099文字) 
  • 後味爽やかな傑作短編「宗像くんと万年筆事件」。

    2014-09-29 19:28  
    51pt


     その年の本格ミステリの最高傑作短編を集めた『ベスト本格ミステリ2013』に、中田永一「宗像くんと万年筆事件」が収録されている。第66回日本推理作家協会賞短編部門の候補作となったという作品である。
     これが面白くて面白くて、ひさしぶりに夢中になって読み耽った。ちなみに中田永一はデビュー作「百瀬、こっちを向いて」が映画化され、『くちびるに歌を』で第61回小学館児童出版文化賞を受賞するなど活躍中の作家だが、この名前が乙一の別名義であることは周知の通りである。
     いや、しかし、「宗像くんと万年筆事件」、実に素晴らしい。何が良いって、爽やかな後味がたまらない。中田永一(乙一)のほとんど全作品がそうなのだが、読み終わったあと、実に切なくも爽涼とした印象が残る。
     中田は「少年と少女が出会って、ほんの一瞬だけ交流し、去って行く、という物語を予定していました」と書いているが、まさにその一瞬の交流の哀切さが胸に刻み込まれる。文句なしの傑作だ。
     主人公は小学校である事件に巻き込まれ、ぬれぎぬを着せられたひとりの少女。その彼女をさっそうと救い出すヒーローとなるのが同級生の宗像くんだ。
     もっとも、この宗像くん、見かけはちっともさっそうとしていない。むしろクラスの嫌われ者ですらある。
     「宗像くんは小学五年生のときにうちの学校に転入してきて、それ以来ずっと友だちがいない。彼の嫌われている理由はあきらかで、ちかくによると、ぷんとにおうのだ。何日もお風呂に入っていないらしく、彼の毛は脂でてかっており、爪の間には真っ黒な垢がたまっていた。服は黄ばんでおり、あきらかに何日も、もしかしたら何週間も洗濯されていなかった。席替えの際、彼のとなりになってしまった女子児童は泣き出してしまい、彼がおろおろと困惑していた。」というキャラクター。
     しかし、このダーティーな宗像くん、あるときに十円玉を借りた恩義を返すため、意外な知性と推理力を発揮して、主人公の無実の罪を晴らしてしまうのだ。しかも、かれは最後にはその十円を返してどこへともなく去ってゆく。格好いい!
     この種のミステリでこんなにも爽やかな後味を覚えたのはいつ以来だろう。ぼくは現代の本格ミステリの最大の弱点は読み終えたあとの後味の悪さだと思っているので、こういう小説は大歓迎である。もっと読みたい。 
  • 才能という重荷を背負う生き方。「ギフテッド」の苦悩を乙一に見る。(1638文字)

    2012-11-24 12:26  
    53pt
    乙一はぼくにとってスペシャルな作家のひとりです。初めて「しあわせは子猫のかたち」を読んだ時から、その天才的としかいいようがない作品に惹かれてきました。しかし、かれはあるときから乙一名義を使うことを避け、無名の別名義で活動するようになります。なぜかれはその道を選んだのか? そこには天才といわれるひと特有の苦悩があったように思えてなりません。
  • 【無料記事】乙一の穴埋め式プロット作成術。(1636文字)

    2012-10-07 10:44  
    現代を代表する天才作家乙一のプロット作りの秘密について書いています。これもその昔書いた記事の再利用ですね。乙一のプロット作成術はシンプルで、しかも合理的です。こういうプロットの作り方がだれにでも通用するわけではないでしょうが、ひとによってはとても参考になるのではないでしょうか。最近の乙一は作品数が少ないことが気になるところではありますが。