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記事 5件
  • 「自分の人生」という物語を避けることはできない。

    2016-06-13 23:56  
    50pt
     本を読んでいます。
     村瀬学『宮崎駿再考』と城戸義明『科学とは何か 科学はどこへ行くのか』と出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』を並行して読み進めいるところです。
     こう書けば聞こえはいいですが、ようするに読んでは投げ出し、投げ出しては読んでいるわけ。
     一冊の本に集中し切れない注意力の散漫さはぼくの欠点だとも思うのですが、しかし一方では幾冊もの本の内容が絡みあい、補いあい、あたかも一冊の本であるかのように響きあう楽しさがあることもたしかなのです。
     妙なる調べ響きわたる活字の交響楽。まあ、それはぼく一人にしか聞こえず、感じ取れない孤独の音楽であるわけですが、このようにして本をよむとき、ぼくはとても幸せだったりします。
     以前にも書いたように、本という本は必ずほかの本への「ハイパーリンク」が張り巡らされたネットワーク的情報源です。
     だからこそ一冊の本を読めばべつの本への興
  • 「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

    2016-06-02 17:36  
    50pt

     こんな記事を読みました。

     もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。
     スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。
     私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。
    http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000

     うーむ、どうなんでしょうね。
     たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。
     まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。
     でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。
     SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。
     ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。
     もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。
     ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。
     何より、読書とはそもそも孤独な行為です。
     電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。
     その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。
     それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。
     でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。
     本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。
     ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。
     本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。
     SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。
     しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。
     ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。
     それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。
     というか、 
  • 丁寧に生きるということ。「生」のキラメキを捉えたい。

    2016-05-23 02:13  
    50pt
     ども。あまりこのブログに書くことではないかもしれませんが、最近、なんとか自分の「生活」をより良くしたいなあと思っています。
     日々の「暮らし」を洗練させることはぼくの数年来のテーマで、つまりより生き活きと暮らしたいわけです。
     森浩二の『自殺島』は、人生に絶望した自殺志願者たちがなぞの「自殺島」へ送り込まれサバイバルしながら「生」の輝きを取り戻す物語でした。
     しかし、ぼくとしては平穏な都市生活を送りながらなんとかその「生」のキラメキを実感したいと思うのです。
     そのためにはたぶんいまよりもっと丁寧に生きることが必要でしょう。
     「生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら丁寧に生きろ」とは漫画『少女ファイト』の名台詞ですが、ぼくとしては「瞬間」ではなく長期間にわたって「生きている意味」を実感しつづけたいのです。
     可能なら死ぬとき、「ああ、いい人生だった」といって死ねるような、そんな人生を送りたい。
     そのために、自分のすべてを燃やし尽くすように烈しく生きるという手段もあるでしょう。
     『あしたのジョー』とか『昴』のような人生ですね。どこまでも高みを目指して自己を燃焼させるスタイル。
     そういう目的志向な人生も悪くはない。でも、ぼくとしては日々のあたりまえの「暮らし」のなかにこそ「生」を実感したいと思うのです。
     たとえば、一冊の本、一曲の歌、あるいはひとすくいのそぼろあんかけ豆腐に「生」は感じ取れると思う。
     目的は都市生活のなかで麻痺している「いま、生きている」というあたりまえの感覚を取り戻すこと。生き活きと暮らすこと。刻々と過ぎてゆく一瞬一瞬を噛み締めること。
     それでは、そのためには具体的にどうすればいいのか。そう考えていくと、まずは早寝早起きして――という、きわめて平凡な地点にたどり着きます。
     丁寧な生活はそういうところからしか始まらない。まあ、そういいつつもこうして夜更かししているわけですが、ほんとうは良くないと思うのですよ。
     朝起き、夜眠る。太陽のリズムとともに生きていく。そんな当然のことの大切さを思います。
     全然実践できていませんが、ほんとうは朝早く起き、前日のうちに準備しておいた仕事を早めに終わらせ、その後はゆっくりと翌日の仕事のために本を読んだり映画を見たりする、という暮らしを送りたいのです。
     こう書くと、もうひとりのぼくが「じゃあ、送ればいいじゃん」とささやくし、まったくその通りなのですが、現実にはなかなか生活のリズムが整わない。
     まるで丁寧に生きられていないなあ、と反省するばかりです。
     生活に関するぼくの興味は、たとえば料理や、入浴や、睡眠、読書、音楽、映画、インテリア、菜園、狩猟といった方向へ向かいます。
     狩猟はちょっとべつとするにしても、こういった生活のディティールをより良いものに変えていければ、もっと良い人生を送れるのではないかと思うのです。
     最近、ぼくはわりと自炊しているのですが、生活リズムが整っていないせいで毎日同じタイミングで料理することができていません。
     やっぱりまずは生活リズムからだよなあ、と思います。それが人生の「基本のき」だよな、と。
     まあ、それでも自分で料理していくらかでも美味しいものができあがるととても嬉しいです。
     それもまた「生活の喜び」のひとつでしょう。そういうささやかな喜びを丁寧に積み重ねていけば、いつかは「いま、生きている」という実感にたどり着けるのではないか、と漠然と思っています。
     「いつか」なんてあいまいなことではいけないのかもしれないけれど……。
     そういう文脈でいうと、映画『リトル・フォレスト』は田舎暮らしのなかでさまざまに自炊して暮らす様子を綴った物語で、「生」の実感が山盛りの素晴らしい作品した。
     一種の「スローライフもの」なのですが、流行りの言葉で終わらない生々しさを捉えた傑作です。
     「スローライフ」とか「シンプルライフ」とか「ミニマリズム」とか「断捨離」とか、綺麗な言葉に惑わされないよう気をつけたいものです。
     そう、生活の魔法は一 
  • 究極の異世界ファンタジーとは。

    2016-03-23 08:27  
    50pt

     山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。
    http://togetter.com/li/952223
     いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。
     というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。
     これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。
     しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。
     この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。
     論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。
     ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。
     情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。
     だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。
     このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。
     ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。
     こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。
     もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。
     それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。
     山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。
     問題は 
  • 情報洪水の時代をいかに生きるか。あるいはウェブ小説と音楽定額配信の共通点。

    2016-03-21 21:45  
    50pt
     敷居さんがブログで「ウェブ小説を読むことの気楽さ」について語っていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20160314/p1
     なぜわざわざ素人が書いた小説を読みあさるのかという問いへの解答です。
     曰く、「小説家になろう」を読むときは「ちょー気楽に、面白くない場合もあるってことを織り込み済でとりあえずパラパラ読む」。
     なるほど、納得です。多くのアマチュア小説は、最低限の面白さすら保証されていないわけですが、なぜそういうものをあえて読むのかといえば、まったく期待せずに読むから労力を使わなくていいのだということですね。
     いい換えるなら、「心が正座していない」ということができるかもしれません。
     真剣な姿勢で物語に向き合っているのではなく、ごく気楽にページをめくってみるという態度。
     あるいはそれは小説に向き合う態度として不遜なものとそしられるかもしれませんが、じっさいのところ、ウェブ小説のような媒体を読むためには必然的なスタイルだと思われます。
     敷居さんはこの姿勢を「雑誌」を読むときに喩えていますが、ぼくはむしろ音楽の定額配信を連想します。
     ウェブ小説を読む気楽さは、1000万曲とか3000万曲といったまさに途方もない数の楽曲をてきとーに流して聴いていく気楽さと、一脈通じているのではないか。
     その昔、といってもわずか数十年前のことに過ぎませんが、その頃には音楽はある程度「正座して聴く」ことが普通のものだったでしょう。
     日常生活のなかで音楽を聴く方法がレコードを聴くことくらいしかなく、「好きな楽曲を好きなように好きなだけ」聴くというスタイルは困難だったからです。
     人間のアートの受容のしかたはテクノロジーに規定されるわけで、その時代には音楽を聴くということはいまよりいくらかシリアスなことだったと思われます。
     もちろん、そのさらに昔、レコードすら存在しない頃にはさらに真剣だったことでしょう。
     トーマス・マンの『魔の山』で、山上のサナトリウムでモーツァルトか何かのレコードを流す場面がありましたが、とても神聖な時間として描写されていた記憶があります。
     ようするにテクノロジーの進歩は、ひとが小説なり音楽といったアートに向き合うことをきわめて気楽なことにしてしまったのです。
     それが良いことなのかどうかは一概にはいえません。
     見方を変えるなら、ぼくたちは作品にほんとうに真剣に向き合うことを忘れてしまっているということもできるかもしれません。
     あまりにも大量の小説やら映画やらアニメやらがあふれているいまの時代、かつてのように「人生で数少ない貴重な体験」として物語を味わうことは不可能に近いように思われます。
     いまではもう一期一会の真剣さで物語と付き合うことは非常にむずかしい。
     どうしたって、ある程度は「気楽」なスタイルで膨大な物語を次から次へと消費していくという形にならざるをえません。
     しかし、