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記事 7件
  • 予算数百万円で「秘密基地」を作って暮らしてみたい!

    2014-08-04 07:00  
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     先日、『スモールハウス』という本を読みました。タイトルがそのまま内容を表している本で、文字通りスモールなハウスの話。総敷地面積数坪とかの小さな家がいくつも紹介されています。
     アメリカでは「スモールハウスムーヴメント」という運動すら巻き起こっていると云いますが、いったい小さく狭い家のどこに魅力があるのか?
     この本のなかでは「掃除の手間がかからない」、「建築に大金がかからない」、「税金(固定資産税など)もなしか、少額で済む」、「ただただ暮らしやすい」ことなどがメリットとして挙げられています。
     ようは少ないモノで生活を楽しむ「シンプルライフ」系の発想から出て来たアイディアなのでしょう。
     小さな家ではモノをたくさん保有することは不可能であるわけで、必然的にシンプルな生活を送らざるをえない。だが、それがいい。そういうひとが、スモールハウス(シンプルハウス、と云ってもいいかも)を作って住んだりしているらしいんですね。
     読んでいると、たしかにこういう家もいいよな、と思えて来ます。もちろん、家族と一緒に暮らしたりすることには向かないだろうけれど、ひとり暮らしならスモールハウスでも十分じゃないかな?
     何しろわが日本には古来より「庵(いおり)」という概念があり、『二畳で豊かに暮らす』という本も出ているくらいなのです。
     ああ、ぼくももう少し貯金があったら、どこかの土地にあまりお金をかけないでスモールハウスを建てるんだけれど、なんて思ったりします。
     で、ここで一気に話が飛躍するのですが――『大人が作る秘密基地』という本があります。これは全国各地に点在する「秘密基地」めいた建物を取り上げた本なのですが、良いですよね、秘密基地。いったいこの世に秘密基地にあこがれない男の娘がいるだろうか。
     そして、ここからはまさに夢想そのものみたいな話になるのですが――どこかの場所に、ノマドライフの拠点となる「秘密基地」的なスモールハウスを200~300万円くらいの予算で作り、そこと自宅を往復して、『フルサトをつくる』で描かれていたような「多拠点生活」を送れたらいいだろうなあ、とか考えるのですよ。
     もちろん、普通にやっていたらそんな値段で家一軒作れるわけがないのだけれど、そこは努力と工夫で何とかならないかな? ほら、じっさい、家をひとつ組み立てられるキットが数十万円で売り出されているらしいし――。
     無理? そうかもしれないけれど、夢想するだけなら自由じゃないですか。『Bハウス』という本があるのですが、この本のサブタイトルは「10万円で家を建てて生活する」です。
     そして、著者はじっさいに10万円程度の予算で家を建ててしまって生活している人物なのです。まあ、さすがに破格の値段だけあって、通常の建売住宅と比べれば色々な点で見劣りする家ではあるらしいんだけれど、でも10万円ですよ、たったの10万円。
     その値段でも生きてく場所を確保しようと思えばなんとかなるのです。仮にその10倍かかるとしても100万円。100倍かかるとしても1000万円! それだけの値段で「秘密基地」を手に入れられたら、と思うとわくわくしませんか? ぼくはする。すごくする。
     まあ、 
  • 「好きを仕事にする」ことはほんとうに理想的な生き方だろうか?

    2014-08-02 07:00  
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     ども。最近、日々、わりとディープな記事を書いているのでそろそろ疲れてきた海燕です。さすがに記事のストックが尽きてしまったので、あらためて作り始めるべく、この文章を書いています。
     いやー、それにしても、最近、「戦場感覚」の話をいくつか続けて書いているわけですけれど、どこまで通じているのでしょうね。
     ぼくが云っているのはつまりは切り分けの話で、「社会」は人間に優しく作られうるし、また作られるべきだけれど、「世界」は本質的に人間に優しくない、ということです。
     そして、人間がどんなに優しげな「社会」を構築していっても、「世界」の残酷さは消えてなくなりはしない。それは「社会」という網目の裂け目から時々顔を出して、ひとを呑み込んでしまうものである、という話。簡単なことですね。
     この「世界の残酷な理不尽さ」のことを「自然世界のリアル」と呼び、人間が生み出した人間に都合が良い約束事である「人間社会のルール」と区別しているわけです。
     いまの社会は「人間社会のルール」が相当に広く行きわたっているので、ひとはめったに「自然世界のリアル」と遭遇しないで済みます。しかし、まさにそうであるからこそ、この社会に「真綿で首を絞められるような窮屈さ」を感じるひともいることでしょう。
     生まれてからずっと、「ほんとうの世界」から切り離されて人工の都市とシステムにだけ囲まれて生きているのですから、あたりまえと云えばあたりまえです。
     そうやって都市生活を続けるなかで失われてゆくもの、それは「生きているという手ごたえ」、あるいは「生の実感」と呼ばれる感覚でしょう。
     いま、自分はたしかに生きているという生々しい感触、それがあって初めてひとは自分の人生に実感を抱くことができるわけです。その「手ごたえ」が失われてゆくとどうなるかということは、たとえば漫画『自殺島』に描かれています。それはなまじの逆境よりも辛く苦しい孤独の地獄なのです。
     日本の自殺率がより生活がきびしく、希望も見いだしづらいはずのいわゆる発展途上国よりはるかに高かったりするのは、ひとつにはここらへんのことも関わっているのではないでしょうか?
     わが日本――というより、近代先進社会での生活は、「ただ生きているだけ」では幸福を見いだしづらい状況があるんですね。それでは、どうすれば良いのか?
     いまのところのぼくのひとつのアイディアは、「ささやかなしあわせの手ざわり」を大切にすることでどうにかならないかというものです。「現代幸福論」と題した一連の記事は、そういう発想のもとに書かれています。
     最近、ひとに薦められて『くーねるまるた』という漫画を読んだのですが、そこでは貧乏ながら「ささやかなしあわせの手ざわり」を感じさせる出来事が豊かに綴られていて、まさにこういうことだよな、と思わせられました。
     人生の豊かさとは、お金があるとか会社で高い地位に就いているとか、そういうこととはまったく関係がないところにあるものなんですよね。
     ペトロニウスさんが、幸せになるために必要なものは趣味と友達、と喝破しているけれども(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1)、ようは自分の人生を捧げるに値する「価値あるもの」が存在するかどうか、そしてその「価値あるもの」を共有できる仲間がいるかどうか、で大きくは決まってしまうということなのだと思う。
     で、いままでは何かしら好きなものがあったら、それを仕事にして、それでお金を稼いで生きていくということが、いちばんの幸せ、自己実現、夢を叶えることとして語られてきたところがありますよね。小説が好きだったら作家を目ざすべきだ、みたいなね。
     でも、それってどうなんでしょうね? 
  • 「ほどほど豊かでほどほどデジタルな貧乏暮らし」の本を書きたいです。

    2014-07-27 15:54  
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     2年半ほど前に出した同人誌『戦場感覚』を読み返している。いやー、自分で書いた本ながら、面白いですね。
     当時は自分が何を書きたいのかもよくわからず、しゃにむに書いていたんだけれど、いまならここに書いてあることをある程度は整理できるように思う。
     で、当時は「書き尽くした……」という感じで、もうこの路線で本を書くことはないだろうと思っていたのだが、いまになってみると「続編」を書きたいという気持ちがふつふつと湧いてくるのを感じている。
     続編というか「姉妹編」になるだろうけれど、何か「暮らし」の本を書きたいなあ、と。この本、宮沢賢治で締めているんだけれど、そこらへんももっと深く探ってみたい気がする。
     参考資料とはしては、最近読んだ/読むつもりの本のなかでは、
    ・『スモールハウス』
    ・『Bライフ』
    ・『二畳で豊かに住む』
    ・『中身化する社会』
    ・『「いいひと」戦略』
    ・『自分でつくるセーフティネット』
    ・『簡単、なのに美味い! 家めしこそ、最高のごちそうである。』
    ・『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
    ・『稼がない男』
    ・『ニートの歩き方』
    ・『年収100万円の豊かな節約生活術』
    ・『英国式スローライフのすすめ』
    ・『イギリス式シンプルライフ』
    ・『「イギリス病」のすすめ』
    ・『ぼくは猟師になった』
    ・『わたし、解体はじめました』
    ・『山賊ダイアリー』
    ・『諦める力』
    ・『神山プロジェクト』
    ・『ノマドライフ』
    ・『仕事するのにオフィスはいらない』
    ・『週末田舎暮らし』
    ・『フルサトをつくる』
    ・『里山資本主義』
    ・『ハウスワイフ2.0』
    ・『神去なあなあ日常』
    ・『プア充』
    ・『自殺島』
    ・『バガボンド』
    ・『銀の匙』
    ・『無痛文明論』
     あたりが適当かな、と思う。探せば 
  • 充実した貧乏生活で残る最後の課題とは。

    2014-07-26 07:00  
    50pt
     以前にも取り上げた『プア充』という本がある。ざっくり云ってしまうと「年収なんて300万円くらいあればいいよ。それ以上は過剰だよ」という内容なのだが、その説得力はともかく、「プア充」という概念そのものには魅力がある。
     「ほどほどに働き、なんとか一定の金額を稼いで、余った時間を楽しく過ごそう」といった発想は、元来、労働意欲が低いぼくを魅了するわけだ。
     まあ、そのためには色々とあきらめなければならないだろうが……。しかし、忙しく働いて年収600万円なり800万円を稼いだところで、必ずしも幸せになれるとは限らないことは、前の世代を見ていればわかることではないだろうか?
     じっさい、『ニートの歩き方』、『年収100万円の豊かな節約生活術』、『稼がない男』といった本を読んでいると、年収100万円前後(!)でもそれなりに豊かに生きていくことは可能なのだという実例を見ることができる。
     いや、ほんと、贅沢さえしなければなんとかなるとは思うんですよね。田舎に引っ込んだり、住居をシェアしたりすれば家賃はある程度浮かせられるし、自炊すれば食費は何とかなる。
     健康に気をつけて病気にかからないよう注意すれば医療費も下げられる。服はいまファストファッションがあるからそんなにお金はかからない。娯楽は図書館とネットさえあればどうとでもなるだろう。古い漫画なんかはネット古書店などをうまく使えば1冊20円とかで買えてしまう。
     だから労働ストレス起因の「不必要な出費」さえ避けることができれば、ローコストでそれなりに充実した生活を送ることは意外にむずかしくないのかもしれない。
     もちろん、「それでいざという時どうするの?」と思う人もいるだろうけれど、その時はその時だというしかない。
     普段からネットでディープに活動している人なら、案外、カンパが集まって何とかなったりする可能性もなくはない(もちろん、どうにもならずに破滅する可能性もあることはあるが)。
     ここらへん、きょう発売の佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット ~生存戦略としてのIT入門~』とリンクする話かもしれないですね……。
     そういうわけで、お金がなくても楽しく生きることはできる。じっさい、ぼくは(年収100万円代でこそないが)そうやって楽しく生きている。まったく良い時代。
     で、そうやって楽しく生きていった末に直面する最後の問題とは何だろうか? それは 
  • オフ会を開きたい。

    2014-07-25 19:17  
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     Pha『ニートの歩き方』を再読しています。再再読かも。読むたびに新しい発見がある、というわけでもないのですが、内容的にぼくの目ざすところと共通点があるので、読んでいると安心感がありますね。
     もっとも、Phaさんは「だるい」という言葉を多用するんだけれど、ぼくはあまり「だるい」とは思わなくて、どちらかというと毎日の退屈さをどう解消しようか悩むくらい。
     ただ人付き合いのストレスに致命的に弱いので、こうしてパラサイトライフを送っているだけであるわけです。基本的にぼくは意外と活動的な人間なのかも。
     いや、人並み以上にエネルギーがあるわけでは全然ないんだけれど、やっぱり毎日だらだらしていると活力が余るんですよ。その程度にはアクティヴ。もっと外にでる機会を作れると良いんだろうけれどね……。
     ぼくとPhaさんの差異はもうひとつ、Phaさんはなんだかんだ云って都会暮らしをしているところですね。都会にいるとひとと出逢う機会とか、圧倒的に作りやすいんだと思う。
     その点は、新潟くらい大きな都市でも、ちょっと東京とは比較になりません。ひとと逢いたいなあ。そうかといって、東京でひとり暮らしというのもお金がかかる上にめんどくさいですしね。東京に行ったところでアクティヴに動けるわけじゃないかもしれないし。
     「家族以外のひとと逢う機会がない」ということがひきこもり生活の最大のネックです。ほかはほとんど何も問題ない。まったりスローライフを満喫しています。
     最近、興味を持ってその手のスローライフ本を読んでみるんですけれど、やっぱりダメですね。全部読んだわけじゃないのでたしかなことは云えませんが、他愛ないきれいごとばかり書き連ねてある本がほとんどという印象。
     スローライフという発想そのものが間違えているとは思わないんだけれど、やっぱり極端なんですよ。科学の恩恵の偉大さをわかっていないとしか思えない本が多い。
     こういう本は往々にして近代を批判しているんだけれど、資本主義と物質文明が生み出す「余裕」があって初めてスローライフなどと云い出せるのだという現実を無視している。
     「貧しくても幸せな生活」はあるだろうけれど、食うや食わずの生活はやっぱり楽じゃないと思うわけです。たしかに経済発展「だけ」が大切なはずはないけれど、経済なんてどうでもいいからもっと豊かな自然と暮らそう!みたいなことを云われてもね。
     何度か書いていますが、ぼくは「ほどほどスローライフ」がベターだと思っていて、いかにそれを成し遂げていくかが人生のひとつのテーマです。
     「環境と調和した平和な暮らし」とかね、もう刺激が足りなくてうんざりするでしょうね。やっぱりそこは極彩色のアニメやら漫画があって、コンビニやファストフードがあってなんぼというところがありますから。
     つくづく人生はバランスだと思う。極端に偏ることは良くない。自然の豊かさに触れたいことはやぶさかではないものの、「管理されない自然」に幻想を見るほど幼稚でもないということ。
     結局、何であれ「そこそこ」とか「ほどほど」にとどめて暴走しないことが肝心なのかな、という気がします。そういうわけでPhaさんの提唱するニート暮らしには共感しつつ、でも、ぼく個人はお金も欲しいよなあ、ひとと触れあいもしたいよなあという気もするんですよね。
     これも繰り返しになりますが、現代社会を幸福に生きるためには、
    (1)お金。
    (2)時間。
    (3)関係。
    (4)趣味。
     の四点を充実させる必要があると思っていて、ぼくは「お金」と「関係(人間関係)」がちょっと貧しいかな、と。
     正確にはネット上の「関係」は充実しているんだけれど、何しろ地方在住なので、休日ごとにひとと逢うという訳にはいかない。それが、非常に大きな課題ですよね。人恋しいよう。うう。一方で「時間」は限りなくあるし、「趣味」は恐ろしく充実しているんですけれどね。
     とりあえず、オフ会でも開くか……。 
  • この世界の理不尽さを受け入れるということ。

    2014-07-25 07:00  
    50pt
     ども。海燕です。なんかコツコツと更新すると決めてから書きたいことが溜まってしまって、書きまくっています。
     実はこれから10日くらいの記事を既に書いて予約しちゃっているので、今後10日間は確実に毎朝7時に更新されつづけます。その後もしばらくは定時更新を続ける予定です。いつまで続くかはわかりませんが……。
     ほんとうはこうやって一気に書いてしまうと疲れてあとが続かないことは目に見えているので、毎日コツコツと書いたほうが良いんだろうけれど、いやー、できないんですよね。
     とことんぼくは短距離走者というか、中長期的なヴィジョンに基づいて行動できない人だと思う。書きはじめると止まらなくなっちゃうんだよなあ。書かない時はひと月に数本書くのも億劫なくせに。難儀な話でございます。
     で、何の話をしたいかというと、「戦場感覚」の話をしたいんですけれどね。「キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。」を未読の方はそちらからどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582
     いやー、何年か前に「戦場感覚」と題した同人誌を作った時は、実は自分が何を云いたいのかよくわかっていなかったんだけれど、ここのところ、「新世界」とかの話をきっかけにして、ようやくまとめることができるようになった。なので、きょうはその話をさせてくださいな。
     それでは、「戦場感覚」とは何なのか? 簡単に云ってしまうと、それは「この世が戦場であることを正確に認識し、なおかつその現実に抗い、立ち向かっていく感性」であるということになります。
     わかるかな? わからないでしょう。いまのいままでぼくにもわからなかったんだから。解説します。
     まず、ぼくの用語を使うなら、ぼくたちは皆、「人間社会のルール」と「自然世界のリアル」が合わさってできた「現実世界」に生きています。
     そこではたとえば「死にたくない。愛する人にも死んでほしくない」といったひとの願望によって「人権」という考え方や「ひとを殺してはいけない」というモラル、あるいはルールが作られ、ある程度までは守られています。
     だからぼくたちは普段、突然目の前のひとに殺されるかもしれないという心配をしないで生きていけるわけです。ありがたいことですね。
     しかし、これはあくまで人間が考えだした「約束事」であって、本質的に「自然世界のリアル」に則った「神の法則」ではありません。
     したがって、人間相手にはある程度有効ですが、ライオンには通用しません。津波にも通用しません。病気にも、寿命にも通用しません。同じ人間相手ですら通用しないこともあります。
     そして、じっさいにひとはそういうものに殺されて死んでいきます。つまり、この「現実世界」では「人間社会のルール」はある程度までは通用しますが、それでもなお、「自然世界のリアル」を駆逐することはできないわけです。
     これは人間にとってある種の敗北だと云えるかもしれません。そしてこういったことは多くの人間にとってきわめて「理不尽なこと」だと感じられます。
     たとえば地震で家族を失ったひとや、通り魔に刺されて亡くなったひとは、何か悪いことをしてそうなったわけではないからです。「何ひとつ悪いこともしていないのに突然ひどい目にあう」。そういう辛いことが「現実世界」においてはしばしば起こりうるのです。
     それはつまり「人間社会」という網の裂け目から「自然世界のリアル」が噴出した瞬間ということもできるでしょう。また、そういう現実世界を「おかしい」「間違えている」と感じる人もいるはずです。
     まさに「現実はクソゲー」です。そして、そういう思いから、人間は「人間社会」と「自然世界」を分かつ「壁」をより高く、より強靭にしようと努力してきました。ひとがなるべく「自然世界のリアル」と直面しなくて済むように。
     それが、人間がここ何千年か続けてきた努力だと云ってもいいでしょう。そのおかげでたとえば100年前と比べたら「自然世界のリアル」に晒される機会は圧倒的に減った。「人間社会」と「自然世界」を分ける「壁」はいまやきわめて強靭なものとなったのです。
     もう、この社会においては「人間にとって理不尽と感じられること」はあまり起こりません。いや、まだまだいくらでも残っているかもしれませんが、以前に比べれば圧倒的に少なくなったはずです。
     たとえばさまざまな制度が整えられた結果、病気で医者にかかることもできず死ぬひとは相対的に減少を続けています。これは「人間の勝利」と云えるかもしれませんね。人々はいまや「人間社会」に手厚く保護されて生きることができるようになったのです。素晴らしいことです。
     とは云え、「自然世界のリアル」は決して消滅したりはしません。それは虎視眈々と「壁」に穴が空く瞬間を狙っているようにすら思えます。だから、こんなに医学が発達した社会でも、不治の難病にかかったりするひとはいなくなりません。
     それはぼくたちにとっては「理不尽と感じられること」ですが、一方で自然世界においては「普通のこと」であり、「あたりまえのこと」なのです。
     さて、ぼくたちはいったいこういう「現実世界」をどう受け止めるべきなのか? ひとつには、あくまでも「人間社会」を守る「壁」を厚く、高くしていくべきだ、という意見が出て来ると思います。
     政治を良くするとか、医療を整えるとか、科学を進歩させるとかして、なるべく「理不尽と思われること」が起こらないようにしよう、という発想ですね。
     これは一面ではまったく正しいし、また偉いことだと思います。じっさい、そういう努力があるからこそ、ぼく自身、こうしていま安楽に暮らしていけるわけで、人類の「社会を良くしよう」という努力を軽く見ることはできません。
     しかし、それでは「自然世界のリアル」とは、なるべくなら直面しないほうが良いものなのでしょうか? それは人間にとって厄介という意味しかないのでしょうか? 実は、ぼくはそうは思わないんですよ。
     為末大さんに『諦める力』という本があります。通常、ネガティヴな意味で使われる「あきらめる」ということを、ポジティヴな意味で捉えなおそうと試みている一冊なのですが、為末さんによれば「あきらめる」ことは決して負の意味しか持っていないわけではないということになります。
     しかし、こういう見方もあると思います。それはようするに単にあきらめることなく最高の成果までたどり着けなかった者の「負け惜しみ」でしかないのではないか、と。
     だれだって、金メダルが取れるならそのほうが良いのでは? あきらめずに済むならそっちのほうがいいに決まっているのでは? つまり、あきらめるとは「自然世界のリアル」に膝を屈することでしかなく、仮にポジティヴな意味があるとしても、それはしょせん敗北主義者の思想に過ぎないのでは?
     さて、どう思いますか。人間はいままで「自然世界のリアル」を征服しようと努力してきました。スポーツもまた、そういう努力の一種として扱われることがあるかもしれません。
     だから、みごと「人間の努力が結果と結びつくとは限らない」という「自然世界のリアル」をねじ伏せたたかに見える勝利者にのみスポットライトがあたり、敗北者を見つめるひとは少ない。そして人間は「勝利者が最も努力している」と考えがちです。
     しかし、為末さんも指摘しているように、これは事実を無視した考え方です。じっさいには、どんなに努力していても勝てないひとは勝てない。最高の努力をしながら最低の結果しか得られないなんてひとは、星の数ほどもいると考えなければなりません。
     そういう意味で、スポーツとはこの「人間社会」において、人間の努力は結果とは結びつかないという「自然世界のリアル」が最も端的に示される「リアリズム」の世界です。
     決して「努力すれば必ず勝てる」という人間の願いがストレートに叶う願望充足(ナルシシズム)の世界ではありません。
     しかし、多くの人々はその酷烈なリアルを見たくないために、勝利者はだれよりもがんばってきたに違いないとか、敗北者は努力を怠ったはずだとかいうふうに「合理化」するのです。困ったことです。
     だけどまあ、スポーツの話は置いておきましょう。とにかくこういうふうに、ひとは究極的には「自然世界のリアル」には抗えません。お望みながら「神さまには勝てない」という云い方をしても良いでしょう。
     だから、どうしてもどこかで何かをあきらめる必要が出て来るわけです。でも――どうでしょう。それってほんとうに悪いことなのでしょうか?
     え、悪いに決まっている? ほんとうに? たしかに、金メダルをあきらめなければならないことや、大好きな異性に好かれないことはネガティヴな意味を持っているには違いありません。
     だれだってほんとうは金メダルを取って大好きな異性に好かれてウハウハの世界を送りたいに決まっている。ぼくも送りたい。それが叶わないということはこの現実世界の大いなる欠点だ、現実がクソゲーたる所以だ――そうでしょうか?
     いや、あるいはこう云うひともいるかもしれません。仮に金メダルや女の子をあきらめることにポジティヴな意味があるとしても、命をあきらめることにそんなものはない。
     もし、「ひとが死なない世界」があるなら、そういう世界のほうが良いに決まっている。だから、「人間社会」が目ざすべきなのは「だれも理不尽に死んだりしない社会」であるはずだ、と。
     うーん。そうかなあ。それはつまり、この世に「断念」はないほうが良いと云っているのと同じことです。何ひとつ「あきらめること」がなければそのほうが良いに決まっている?
     しかし、ほんとうに「断念」にはネガティヴな側面しかないのでしょうか? ひとにとって「理不尽に感じられること」の極である「死」とは、単に忌み嫌うべき、あるいは克服するべき対象でしかないのでしょうか?
     これは、むずかしい問題です。「ひとは死なないほうが良いのか」。グレッグ・イーガンあたりだと「そうに決まっている」と答えるんだけれど、でも、ほんとうにそうなんでしょうかね。
     山本弘さんも「死なないほうが良いに決まっているんだよ!」と云っていましたが、実はぼくはそうは思わないんですよ。
     ひとは「死」という「自然世界のリアル」が存在するからこそ、成熟していくことができるのではないか、と思うからです。
     人間にとって成熟とは何でしょうか? それはまさに「断念」を知るということだと思うのです。自分の限界を知り、どんなにがんばっても叶わないことがあることを知り、世界が自分を中心に動いていないことを知る。それが成熟でしょう。
     三歳の子供は世界のすべてが自分の思い通りに動いて当然だと思っているかもしれません。そして、それが叶わないと泣きわめきます。しかし、成熟した大人は当然そんなことはしません。
     つまり、成熟とは「自然世界のリアル」を受容し、自己中心的な世界観から抜け出すことだと云っても良いのだと思います。大人になるとはあきらめを知ることなのです。
     「あきらめたらそこで試合終了だよ」。しかし、あきらめず最後まで戦ったからといって勝てるとは限りません。三井寿は奇跡の逆転シュートを決めましたが、そういうことはじっさいにはめったにないのです。
     つまり、どこまでも「自然世界のリアル」を避けつづけるということは、成熟の機会を逃がすとうことなのです。もしもいつか「死」が克服されたなら、おそらく、人間はいまよりずっと子供っぽくなるでしょう。そういうものだと思います。
     あるいはペトロニウスさんなら、人間にとって「自然世界」とは究極的な「他者」であり、その「他者」と直面することによって「ナルシシズムの檻」を脱出することができる、という表現をするかもしれませんね。
     つまり、「どこまでも断念することなくはてしなく欲望を満たしつづけること」は、一見、素晴らしいように見えても、ひととして成熟する機会を逃すことに繋がっているわけです。ひとは断念を通してのみ新しい自分を知ることができる、とも云えるかもしれない。
     ただ、こう書いてもすぐに疑問が湧いてくるに違いありません。たとえ「安楽で穏やかな死」を肯定できるとしても、この世にはもっと残酷なことや悪夢のようなことが転がっている。お前はそれも肯定されるべきだというのか、と。
     たとえば、イスラエル軍の攻撃によってパレスチナの子供が殺されていくこと、東日本大震災の大津波によって無辜の人命が失われたこと、あるいはナチスのガス室や広島の核爆弾はどうだ? それらも「人間の成熟のために必要だから肯定されるべきだ」というのか? それでもお前は人間か? というふうに。
     ここで、ぼくは悩みます。たしかにそれらはあまりに残酷で悪夢的で、とても肯定できるはずもない。しかし、それらを拒否するなら、そもそもどこに「線」を引くべきかという問題が生まれてしまう。
     「核攻撃による無残な死」を肯定できないとしたら、そもそも「死そのもの」も肯定できないのではないか?とかね。やっぱり「自然世界のリアル」なんて人間にとってないほうが良い、あるいは最小限であるべきものなのだろうか、しかしそれではひとは決して大人になれず、ナルシシズムにひたって生きていくしかない。うーん、悩ましいところです。
     しかし、少なくとも云えることは、「「自然世界のリアル」から逃れ切ろうとすることは間違えている」ということではないのかと思うんですよ。
     つまり、「理不尽な苦しみ」を完全に排除してしまうことは間違えている、ということです。「理不尽な苦しみ」が完全に克服された社会は、理想郷であるように思えるかもしれませんが、しかしやはりそれはひとが「他者」と出会い、成熟していく可能性が閉ざされた自己愛の宇宙です。
     ぼくもありとあらゆる理不尽を放置するべきだとは思いません。それは極論です。しかし、その一方でありとあらゆる理不尽が追放されるべきだとも思わない。
     ひとは「自然世界」という他者に向き合うべきだと思うのです。そうしないといつまでも寂しいままだ。
     栗本薫は「ひとが孤独でなくなるとはどういうことなのか?」というテーマに生涯を賭けて挑んだ作家ですが、その彼女にに『レダ』という作品があります。
     まさにここでいうところの「自然世界のリアル」がことごとく克服された社会が舞台となっている物語です。しかし、主人公であるイヴは最後にはその理想都市を出て、スペースポートから「外の世界」へ旅立ってしまうのです。
     これはもろにペトロニウスさんが云うところの「ナルシシズムの檻からの脱出」の文脈ですね。ナルシシズム的な理想都市に住んでいるかぎり、ひとは傷つくこともないし、苦しむこともない。あるいは、予定調和の範疇で傷つき、苦しむことができる。
     だけれど、そこには「他者」がいない。ほんとうにひとと触れ合う感動がない。だから、どんなに理不尽であるとしても、狂った世界であるとしても、イヴはあくまでも「現実」を選ぶのです。それはまさに「大人の選択」です。
     ぼくが云っていることがわかるでしょうか? ひとは「世界が自分の思い通りにならない」という無力感を通してのみ大人になっていくということなのです。
     だから、この世界が理不尽であり、「自然世界のリアル」が存在するということは、人間にとって祝福なのです。たとえ、それが一面で恐ろしく辛く苦しく、逃げ出したいものだとしても。
     そして、「断念」を知り、「他者」と出会い、ひととしてほんとうに「成熟」するとき、人間は決してひとりではありません。なぜなら、同じようにこの世界で生きている「仲間」たちが視界に入って来るからです。
     これこそが、栗本薫が追い求めたテーマ、「ひとはどうすれば孤独ではなくなるのか?」に対するぼくなりのアンサーです。
     ひとはどうしようもなく孤独だ、しかし、同じように孤独に苦しんでいる「他者」と出会い、触れ合うとき、その孤独の檻を脱してひとと触れ合うことができる。
     その「他者」はまさに「他者」である故に、決して自分の思い通りには動かない。しかし、そういう「他者性」を受け入れて初めて、ひとはだれかを愛することができる。ぼくはそう思います。
     だから、この世界が酷烈で残酷な「戦場」であることは決して間違えたことではないのです。むしろ、世界の戦場性(自然世界的なるもの)が消滅した社会こそ、ほんとうにひとが孤独な地獄だと云えるでしょう。あるいはそれを楽園と云うひともいるかもしれませんが……。
     だから、ひとがこの現実世界という牢獄のなかで一生涯戦いつづけ、そしていつしか倒れて死んでいくしかないということ、それはある意味で「正しいこと」なのです。
     少なくともぼくはそう考えている。たしかにこの世は残酷で苦難に満ちているかもしれないが、その一方で限りなく豊饒でもある。そして残酷さを否定するなら、豊穣さもまた失われるに違いない。
     その「この世界の理不尽な残酷さ」を受け入れ、戦いつづける意志、それこそがぼくの云う「戦場感覚」です。その戦いとは、あるいは病身を治療しようとすることかもしれませんし、ピアノを修練することかもしれません。あるいは銃を手に革命のため立ち上がることかも。ただ生きることかも。
     ともかく、大切なのは勝利することではなく、戦うことそのものです。押し付けられた運命を相手にまわして、どこまでも戦いつづける。永野護の『ファイブスター物語』では、それを「壮麗なる抵抗(マジェスティック・スタンド)」と呼びます。ぼくはそういう人間をこそ美しいと思う。
     そういうことなのです。伝わるかな?
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  • 現代社会における「しあわせの形」とはどのようなものか。

    2014-07-24 07:00  
    50pt


     いつも思うのだ。ひとはどうすれば幸せになれるのだろう? カネか? モノか? 愛か? 家庭か? 仕事なのか? いったい何をどう充実させれば本物の幸福に手が届くのだろうか。
     伊藤洋志&pha『フルサトをつくる』を読んだのも、そういうテーマを考える一助にならないか、と考えたからだ。
     この本はある種の「田舎本」で、田舎に自宅とはべつの拠点を作って「パラレルライフ」を楽しむ方法が書かれている。処理しきれないほど高速な情報にあふれた都会だけで暮らすよりも、田舎にも住みかを作って自由な暮らしをしたほうが良いのではないかという提案。
     こう書くと、いわゆる「ロハス」とか「スローライフ」の本か、と警戒するひともいるかもしれない。しかし、そうではない。それらの思想と本書の考え方が根本的に違うのは、この本は「社会を変えよう」とか「生き方を根本から見直そう」とは考えていないという一点にある。
     本書における田舎暮らしは、あくまで無数の選択肢のひとつである。「田舎バンザイ!」、「都市生活よさらば!」などと語ったいるわけではない。
     そういう意味で、本文中にもあるが、ヒッピーのコミューンなどとは根本的に違う思想に貫かれている。筆者らは近代文明を否定するのではなく、ただその足りないところを補完しようとしているに過ぎない。
     ようは「いいとこ取り」の発想であり、「都会もいいけれど田舎もね」という「中庸」の思想である。これは、現実的であるばかりでなく、理想的でもあると思う。
     じっさい、都会生活に疲れたひとでも、「じゃ、あしたから田舎に転居しよう」とはなかなか思えないに違いない。しかし、ちょっと田舎に隠れ家を持つ、ということなら魅力的だと考えるひとは多いのではないか。
     都会が楽園ではないように、田舎もまた完全な理想郷ではない。それはそうだが、やはり田舎には田舎の良いところがたくさんあるのであって、それらを「いいとこ取り」して暮らすことができれば、いままでよりハッピーな生活が送れるかもしれない。
     本書の提案を乱暴にまとめると、そういうことになるのではないだろうか。
     個人的な話になるが、「どうすればこの現代社会で幸福に生きられるのか?」ということをずっと考えている。それがこのブログの最大のテーマであると云ってもいい。新たにブログのタイトルに据えた「成熟社会の遊び方」とはそういうことだ。
     過去を振り返ってみれば、高度経済成長期にもバブル期にも、その時代に応じた「幸福のモデルケース」があったように思う。
     もちろん、そこから阻害された人たちは大勢いたわけだし、それはある種の幻想に過ぎなかったとも云えるわけだが、ともかくあったことはあった。
     しかし、現代は社会が成熟し、価値観の多様化が進み、わかりやすい「幸福の形」を見いだしづらくなっている時代なのだと思う。
     それはぞれぞれの人間がそれぞれなりの「幸福の形」を追い求められるということで、素晴らしいことではあるのだが、あまりの自由さに困惑している人も少なくないだろう。
     いま、ぼくたちはカネやモノだけで必ず幸せになれるという時代には生きていない。経済は沈滞しているし、原発は爆発してしまった。おそらくもう二度と日本にバブルのような時代は訪れないに違いない。
     だが、カネやモノがすべてではないとすれば、いったいぼくたちはどうすれば幸福になれるのだろう? ここでぼくは悩んでいる。
     こういう話をすると必ず出て来るのが、これからの時代は精神的、文化的な成熟が大切だという話だ。物質文明の空虚な繁栄は永久には続かない、欲を捨てココロを充実させることが大切なのだうんぬんかんぬん。
     これはある意味ではまったくその通りだし、ちょっと正面から反論するのはむずかしいようなところがある。ただ、ひとはやっぱり「衣食足りて礼節を知る」わけで、「清貧の思想」を貫徹することは、凡人にはむずかしい。
     まして他人にそれを強制するようになったら暴力的と云えるだろう。むしろ、いまのぼくたちにはチャップリンの「人生に必要なのは、勇気と想像力、そして少々のお金だ」という言葉のほうが響くのではないだろうか。
     どんなに勇気や想像力があっても、やはり「少々のお金」は必要なのだということ。近代社会からの脱出なんて、たいていの人にとっては夢物語だということだ。
     『フルサトをつくる』にも書いてあるのだが、ここらへんを履き違えると、ポル・ポトだの毛沢東だのの思想になってしまう。
     ただ、その一方でやっぱり守銭奴的な生活はばかげているということも、いま20代から30代は痛感しているはずだ。くりかえすが、ぼくたちはもうカネとモノがひとを幸せにしてくれる、と無邪気に信じられるほど子供ではない。
     そういう意味ではたしかに成熟した社会を生きているわけだ。つまりは、何ごとも極端に振れることは良くないのだというのが、ぼくたち若い世代がこの社会で得た教訓である。
     このブログでは、そういったことを踏まえて、ひきつづき「成熟社会における幸福のモデルケース」を探って行きたい。
     といっても、あまりにも雲をつかむような話である。そこで、ぼくはさっきイタリア料理店でシーフードパスタランチ(1380円)を食べながら、何かとっかかりはないかと考えた(この記事は予約更新です)。
     そうすると、まったくの私見になるが、この社会で幸せになるために大切なのは以下の四つではないかと思えてきた。