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記事 2件
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    50pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 
  • 究極の異世界ファンタジーとは。

    2016-03-23 08:27  
    50pt

     山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。
    http://togetter.com/li/952223
     いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。
     というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。
     これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。
     しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。
     この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。
     論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。
     ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。
     情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。
     だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。
     このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。
     ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。
     こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。
     もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。
     それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。
     山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。
     問題は