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記事 13件
  • すべての表現は「本物」と「偽物」に分けられるのか?

    2018-02-23 22:19  
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     映画『グレイテスト・ショーマン』を見ました。
     『レ・ミゼラブル』や『アナと雪の女王』、『ラ・ラ・ランド』などのヒットで最近、人気を取り戻しつつあるミュージカル映画です。
     この作品の主人公は貧しい身の上から興行によって成り上がった男、P・T・バーナム。
     かれと、かれが生み出した史上初の「サーカス」がこの映画の中心です。
     このバーナムさん、実在の人物で、それどころかアメリカではとても有名な人のようです。
     史実のかれは、相当に後ろ暗いビジネスにも手を染めたペテン師まがいの男だったようですが、この映画のなかのバーナムはあくまでヒーロー。
     ときに判断を誤り、差別的な行動に走ることもありますが、基本的には家族を愛し、仲間たちを守ろうとする心優しい人物として描かれています。
     アメリカの批評家界隈では、この、主人公の「いい人化」が史実をねじ曲げているということで評価を下げている人も相当多くいるようですが、日本人のぼくとしてはまったく気になりません。
     そもそも史実を知らないのだからいくらかねじ曲げられていても問題はないというものです。
     ただ、それでも少々、人間ドラマの要素が薄いようには感じられました。
     話がとんとん拍子で進んでいくのは軽快なのですが、その分、ちょっと筋書き通りの展開に思われてしまうことは否めないのです。
     きっちり定石通り試練は起きますし、辛い出来事も色々と描かれてはいるのですが、それでもどうにも「軽い」描写に留まっているように思われます。
     音楽とダンスは文句なしに素晴らしいので、ここらへんの人間ドラマの薄さをどう見るかがこの作品の評価の鍵になるかと思います。あまりにも「いい話」すぎて、かえって胡散臭いと思う人も少なくないことでしょう。
     じっさい、ぼくも見終わった後は、「面白いけれど、ちょっとドラマが薄いな」と感じました。
     しかし、ミュージカル部分の見事さと、スピーディーな演出はその欠点を補って余りあるものがあることもたしか。人によって相当に評価が分かれる映画かもしれません。
     さて、この映画のテーマとして、バーナムが生み出したサーカスが、はたして「本物」の表現なのか、それとも「偽物」に過ぎないのか、ということがあります。
     ふたつ前の記事でも触れましたが、ある作品なり芸を評価するとき、それは「本物」だとか「偽物」だと語られることがあります。
     おそらく庵野さんがオリジナルな表現にこだわり、このアニメには「中身」がある、ない、と語ることもそういう文脈の話でしょう。
     しかし、ぼくは思うのです。ほんとうに「本物」の表現などというものがありえるのでしょうか?
     昔には「オリジナル」の作品があったというのは事実なのでしょうか?
     この映画のなかでは、オペラやクラシックバレエといった表現が「本物」の代表例として挙げられています。
     それと比べて、サーカスはあくまで「芸術」とはいえない紛い物のショーとして扱われています。
     ですが、どうでしょう、その区別は意味があるものなのでしょうか。
     ぼくにはそうは思えません。それはようするに単なる差別に過ぎないのではないのでは?
     たしかに、サーカスの表現は、少なくともこの時点では、オペラやバレエのように「上流」の人々の心を捉えるものではないかもしれません。
     けれど、「上流」に通用するものが「本物」だとすることはいかにもばかばかしくないでしょうか。
     それはあまりにも俗っぽい権威主義に過ぎないように思われます。
     そもそも、どんな表現も最初からいきなり「芸術」などというたいそうなものとして生まれるわけではないのです。
     大抵の表現は、まず愚にも付かない、「芸」などと呼ぶこともはばかられる、他愛ないものとして始まります。
     それが時間とともにしだいに洗練され、重厚さを増していき、そして「権威」になっていくのです。
     オペラにせよ、バレエにせよ、最初から「本物」とか「芸術」などと誉めそやされる表現だったわけではないでしょう。
     それらもまた、ごくつまらない芸としてスタートし、やがて「本物」と呼ばれるまでになったのです。
     そうだとすれば、そこにあるものはつまるところクオリティの差だけであり、それ以外の本質的な違いなどないと考えるべきではないでしょうか。
     ぼくは庵野さんが『美少女戦士セーラームーン』を「中身がない」と評していることにも疑問があります。
     ぼくは『セーラームーン』にくわしくないのでその評価が妥当なものなのかどうかはわかりませんが、表現を「中身がある」、「中身がない」と分けること自体が、あまり意味があることとは思われない。
     もちろん、庵野さんや奈須さんは「オリジナル」とか「偽物」という発想にこだわることで作品を生み出せたのだから、それ自体は意味あることなのでしょうが、批評概念としてはそれは価値が薄いと思うのです。
     良い作品があり、そうでない作品がある。それくらいの評価軸がシンプルで良いと考えます。あまり複雑化するとろくなことがない。
     「本物」であれ、「偽物」であれ、良いものは良い。面白いものは面白い。それで十分ではありませんか。ぼくは、そういうふうに考えます。 
  • 庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

    2018-02-13 12:54  
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     『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。
     また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。
     憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。
     前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。
     『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。
     ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。
     ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。
     『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。
     つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。
     『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。
     いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。
     作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。
     その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。
     何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。
     実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。

    庵野秀明:
    『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。

     
     ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。
     この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。
     それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。
     ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。
     さらにはこういう意見もあります。

    興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。
    基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。
    それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。
     
    でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。
    もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。
    「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。
    これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。
    http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022

     うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。
     庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。
     しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。
     『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。
     庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。
     そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。
     作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 
  • 岡田斗司夫語り。あるいは、オタクが着込む虚構のコートとは。

    2017-11-27 02:28  
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     岡田斗司夫さんに関する記事の続きです。いや、まあ、ほんとうは続けて書いているので、続きといってもじっさいにはひとつの記事の後半といっても良いのですが、それはともかく、続き。
     さすがに岡田さんのブログに対する文句だけで終わってしまっては良くないと思うので、さらに続きを書いてみます。
     岡田さんは、現在、50代後半から60代前半にあたるいわゆる「オタク第一世代」のひとりです。で、この「オタク第一世代」は、いまとなっては非常に明暗分かたれた印象だよなと。
     いままでしばしば岡田さんが揶揄していた庵野秀明さんがいまや日本を代表する映画監督にまでなったのに対し、岡田さんや唐沢俊一さんはスキャンダルにまみれていかにも情けない印象です。
     同じブロマガで書いている人に対してこうも書いてしまうのは問題があるかもしれないけれど、まあいいや、ぼくはただのひきこもりで一切のしがらみがない身だし。
     最近、岡
  • 『シン・ゴジラ』が単なる愛国ポルノではありえない理由を『風立ちぬ』を通して説明する。

    2016-08-16 03:48  
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     ふと思い立って、もういちど宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見ています。『シン・ゴジラ』を見た後だと、この作品の歴史的意義がよくわかる気がしますね。この映画に関しては、ペトロニウスさんがこう書いています。

     これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、
     今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった
     といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。
     そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。
     未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、
  • なぜ人がイチローになってから打席に立とうとするのか、『シン・ゴジラ』で説明するよ。

    2016-08-14 09:56  
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     公開から数週間、そろそろ良いだろうということで『シン・ゴジラ』ネタバレ記事である。
     えー、以下の内容は『シン・ゴジラ』に対する致命的なネタバレを複数含んでいます。未見の方は決して読まないようにお願いします。
     さて、この話は一見、『シン・ゴジラ』とは無関係に見えるに違いないひとつの興味深い記事を引用するところから始まる。「イチローになってから打席に立とうとする人が多すぎる」と題された文章だ。

    もちろん準備は重要だが、打席に立つチャンスがあるのに立たない理由はない。
    どんなに頭が良くてどんなに情報をインプットしても、やってみなきゃわからない。
    バッターボックスの外からどんなに雄弁に分析できても、実際バッターボックスに入って見える風景は別世界だ。
    バッターボックスに入って体験する「カーブってこんな曲がるの!?!?!?」という衝撃は、相手がどのタイミングでカーブを投げてくるかより圧倒的に重要な情報なのだ。
    空振りしまくって、ボール球に手を出してしまって、三振して、そういう中で経験を詰んではじめてイチローになる可能性が出てくる。
    技術力が足りない、創業メンバーがいない、メンターがいない、競合がいる、全部バッターボックスの外から言っててもかっこ悪いだけだ。ダサすぎる。
    バッターボックスに立つチャンスがあるなら立てばいい。ストライクが来なくても死なないし、空振りしても死なない。むしろ、ボールの数だけストライクの可能性が高まるし、空振りの数だけヒットの可能性が高まる。
    http://hanaken.hatenablog.com/entry/2016/06/16/184421

     個人的に、なかなか面白いことをいっていると思う。正論といえば、正論である。しかし、同時に、この正論を理屈通りに実践できる人ばかりではないだろうとも思う。
     やはりどういいつくろったところで、失敗することは怖いし、三振することは格好悪いように思えるものなのだ。なぜなら、三振するということは、三振したことを非難されるということだからだ。
     なんであれ失敗すれば必ずだれかから批判される。嘲られるかもしれないし口汚くののしられるかもしれない。見下され、バカにされ、踏みにじられるかもしれない。
     それがまったく怖くないという人は少ないだろう。なんであれ行動する人間は、その恐怖と躊躇を乗り越えて行動している。
     イチローにしてもおそらくそうなのだろうと思う。イチローの生涯打率は、正確には知らないが、おそらく三割をいくらか超える程度だろう。
     ということは、世界最高峰の打者であるイチローですら、成功より遥かに多くの失敗を経験しているわけである。何千回もの失敗の山の上に初めて、イチローの偉業は屹立している。
     何もひとりイチローに限った話ではない。どれほど優れたトップアスリートであれ、生涯無敗という人はほとんどいないだろう。つまり、どんな分野であっても、あるいはどれほどの天才であってもなお、挑戦する人間は必ず失敗も経験するのである。
     それはアクションにともなう普遍的真理というべきことで、どうしたって避けることはできない。ひとは光り輝くサクセスにのみスポットライトをあて注目するが、その陰には必ず白鳥のもがきに似たトライアル&エラーの積み重ねがある。何十、何百、何千という屈辱的なエラーを経てようやく栄光のサクセスにたどり着けるものなのだ。
     それなら、もしそのエラーを犯すことがいやなら、どうすればいいか。ふつうに考えれば、エラーを犯さずに生きることはできないはずだが、ひとつだけ一切エラーしない方法がある。
     つまり、何もしないことだ。何も行動しなければ、ミスすることもない。挑戦しなければ、絶対に失敗しない。発言しなければ決して間違えないし、選択しなければ、無垢な絶対正義のままでいられる。
     そしてその無邪気な正義を振りかざし、必ず何らかの欠点を抱えている行動する者を好きなように批判し、叱責し、誹謗し、嘲笑することができる。何もしなければ、なんの責任を取らされることもない理屈である。
     ここでは、自分の行為の責任を引き受け、他者から攻撃されるリスクを背負った上で行動することを選んだ人間と、あくまで責任とリスクを回避し行動しないことを選んだ人間を、元々の正確な定義とは異なるかもしれないが、「インサイダー(責任当事者)」と「アウトサイダー(責任回避者)」と呼ぶことにしよう。
     あくまで、この場で利用するために考え出した概念に過ぎないので、本来の意味と違うことは気にしないでほしい。
     さて、この言葉の使い方に従うなら、イチローはあきらかにインサイダーである。イチローは常に責任から逃げない。リスクを避けることもしない。
     上記したように彼もいつも成功してきたわけではなく、それこそ何千回と打ち損ねてきたはずだが、それでもインサイダーであることを貫いてきた。
     一方、イチローを批判するアウトサイダーは数多い。彼らは自分でバッターボックスに立つことはしない。ただ、その外からイチローを批評し、ときに批判するだけである。
     「イチローなんてたいしたことないよ。だって、長距離安打は少ないわけだしさ。イチローを過剰評価しているのは日本人だけだよね」といった言説はその典型である。
     こういった言説を自由に語れることはアウトサイダーの特性といっていいだろう。どうしようもなく失敗と敗北を含む現実に直面せざるを得ないインサイダーに対し、アウトサイダーはどこまでも万能で無敵のポジションなのだ。
     また、しばしばその責任の重さに背骨をへし折られてしまうインサイダーと比べ、アウトサイダーは気楽だ。彼らは現実には何ひとつ行動に移さないが、まさにそうだからこそおれだってこれくらいやればできるという幻想にひたっていることができる。
     じっさいに野球をやっている人間は否応なくイチローの偉大さと、イチローと自分の格差を実感せざるを得ないだろう。プロの野球人ならなおさらである。
     しかし、じっさいに責任を引き受けて行動することがないアウトサイダーは一切その種の実感を抱くことはない。だから、アウトサイダーはどこまでも無責任に他人を批評し断罪することができるのだ。
     その意味で、アウトサイダーは自由である。その代わり、アウトサイダーは必然的に一生何ひとつ成し遂げることなく終わる。
     何かを成し遂げるのは常にインサイダーだ。ときに失敗し、ときに挫折し、ときに批判され、ときにくじけそうになりながらも、そして結果が不完全であっても、何らかの業績を達成するのはインサイダーだけである。
     この世に完全な成功は空想のなかにしかない。イチローの業績にしても、「ホームラン王を取ったわけではない」とか「日米通算で安打数をカウントするのはおかしい」といった瑕疵を見つけることはできる。
     しかし、そういった現実を生きる者の宿命を理解した上で、それでも現実を選ぶ人間こそがインサイダーなのである。
     アウトサイダーは空想的な理想のなかを生き、インサイダーは不完全な現実を生きる。
     さて、ここでようやく『シン・ゴジラ』の話に移る。「ニッポン対ゴジラ」というキャッチコピーからもあきらかであるように、『シン・ゴジラ』は日本という国をテーマに据えた映画である。
     ゴジラという天災めいた怪獣を通して、日本社会の現状を描く。アプローチとしては、それほど新しくはない。むしろ、ごく王道の正統的なやり方だといえるだろう。
     それでも日本をテーマにした物語作品として、『シン・ゴジラ』が革命的に新しいのは、これが徹底してインサイダーの物語であることだ。
     その数が数百名に及ぶというこの映画の登場人物たちは、そのほとんどが何かしらの責任を背負って「ゴジラ災害」に立ち向かう者たちばかりである。
     よく民間人やゴジラの被害者がほとんど出て来ないという批判を目にするが、それはこの映画のコンセプトがそこにはないからだとしかいいようがない。
     この映画は「いかに災害の当事者たちが山積する問題に立ち向かい、克服するか」に焦点をあてた作品であり、そこ以外は非情にカットされて当然なのだ。
     そして、まさにそのコンセプトこそが、『シン・ゴジラ』の斬新さである。
     いままで、アウトサイダーの立場から日本の現状を批判し、告発する物語はたくさんあった。その一方で、インサイダーの立場から日本を称賛し、熱烈に支持する物語も大量にあった。
     前者を左翼的といい、後者を右翼的ということも許されるかもしれないが、いずれにしろ、『シン・ゴジラ』はそのどちらの類型にも収まり切らない。
     この映画は日本の現状とその社会構造の根本的欠陥をフェアでフラットな視点で描写した上で、未来に希望を託している。
     「希望」。それこそ、『シン・ゴジラ』が描き出すことに成功したものだ。このレベルで現代日本に希望を見いだした作品というと、ちょっと思いつかない。
     もちろん、過去にも希望を見つけ出そうとした作品は多くあった。たとえば『踊る大走査線』は警察を舞台にした日本型組織の欠陥を告発する物語だったが、このシリーズの最終作は「新たなる希望」と題されている。

     しかし、どうだろう、『踊る大走査線』はほんとうに未来に希望を感じさせる作品だっただろうか。ぼくにはむしろ、シリーズを重ねるごとに「いくら個人が偉くなっても組織は変えられない」という絶望感だけがつのっていったように思える。
     たしかに「いつの日かは警察組織も変わる日が来るかもしれない」という意味での「希望」は示されているだろうが、じっさいに「その日」が描かれることはない。
     結局のところ、『踊る大走査線』はテーマを完遂することができなかったように思う。なぜだろうか。それは結局、「現場」を偏重しすぎたためだろう。
     『踊る大走査線』の映画のなかで、主人公である青島刑事は「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」と叫ぶ。
     そこにあるものは「現場」と「会議室」を対置し、あくまでも現場を重視する思想だ。しかし、現場とはつまり、巨大な人的システムの末端を意味するわけであり、巨大な問題に対してはトップが決断と命令を下して初めて機能する場合がありえる。
     一定以上のマクロ的な判断は現場ではなくトップが下すしかないのだ。もちろん、そのトップが『踊る大走査線』で繰り返し描かれていたように無能で無策なら、組織は腐敗する。
     しかし、現実にはトップもまたさまざまな意図や思惑をもって行動しているわけなのであり、「無能」のひと言で切り捨てることはできない。
     その意味では「事件は会議室でも起きている」。より正確にいうなら「事件は会議室と現場で同時に起きている」のである。
     『踊る大走査線』は現場を偏重するあまり、この「会議室で起きている事件」を魅力的に描き出すことができなかった。それを成し遂げたのが『シン・ゴジラ』である。『シン・ゴジラ』においてはまさに事件は会議室と現場で並行して起こっている。
     『踊る大走査線』のほかにも「日本告発型」の物語は少なくない。具体的には押井守監督の『劇場版機動警察パトレイバー2』がすぐに思い浮かぶ。これもまた、トップの無能と迷走を「現場」が独走して解決するというシナリオだった。

     この映画の主役である後藤や特車二課の面々は、それぞれが責任をもって行動している人間であり、ここでいうところのアウトサイダーでは決してないが、しかしこの作品では無策を晒すトップの実像は描かれない。
     それはあたかも「顔のないシステム」のようなものとして描写され、後藤たちはひたすらにそのシステムに怒りといら立ちを募らせる筋立てになっている。
     とにかくこの政治への不信、もっというなら政治への絶望が、これ一作のみならず『機動警察パトレイバー』シリーズの最大のテーマであるように思う。
     現場はみな頑張っている。しかし、上はダメだ。そういう決めつけがあるといってはいいすぎだろうか。
     『パトレイバー』よりさらにアウトサイダー的な視点から日本を告発した作品もある。たとえば、一色登喜彦『日本沈没』である。

     この作品は『シン・ゴジラ』と比べるとはるかにアウトサイダー的な視点から日本型組織の構造的欠陥を告発している。特に『日本沈没』ではどこまでも批判的に、もっというなら侮蔑的に日本のシステムを否定している。
     この作品によれば、日本は世界でもまれに見る幼稚な国であり、世界の「大人の国」に仲間入りするためには大きな犠牲を払わなければならないということのようだ。
     『日本沈没』の作中にははっきり「絶望の国」という表現が出てくる。これは『シン・ゴジラ』が「希望」を描こうとしたことと、はっきり対照的である。
     『日本沈没』では日本列島のすべて沈没し切るというフィクションが、じっさいにそうしてしまうわけにはいかないというリアルと対置して描写されていた。
     この漫画の最終章では、登場人物のひとりが主人公に対してこんなふうに語る場面がある(ちなみに夢オチである)。

    「現実のこの国は、沈まない故に… 絶望的にどうしようもない数多くの事を、チャラにすらできない… まさに… 役の台詞で君が言っていたように こんな国、こんな現実、本当は一度滅んで亡くなった方が、はるかに希望的な再スタートが切れるんじゃないか?」

     この漫画では、くり返しくり返し「絶望」という言葉が登場し、日本がいま置かれている状況がいかに絶望的か告発しつづけている。
     その結果、日本はすべて沈没してしまうわけだが、最後の最後になって「沈んだ方がましだったかもしれない」と提示されるわけだ。作者の一色がいかに現代日本という国を嫌い、呪っているのかわかるような描写である。
     それにしても、ここには誘惑がある。「絶望的にどうしようもない数多くの事」を「チャラ」にしてしまうことで絶望的状況に希望を見いだせるなら、そうしたほうがいいのではないかという誘惑。
     『シン・ゴジラ』の脚本にしても、アメリカに原爆を落とさせてしまうという選択肢もありえたのではないだろうか。「それでもゴジラは死ななかった」とした上で、凝固剤注入に踏み込んだほうがシナリオ的には盛り上がったかもしれない。
     原爆によって東京、ひいては日本が「チャラ」になってしまったという結末のほうがスカっとする人も大勢いるだろう。いかにも庵野秀明らしい残酷さだし。しかし、『シン・ゴジラ』は最終的に原爆によって問題を「チャラ」にしてしまう道を選ばなかった。
     ゴジラは最終的に日本の科学技術によって凍結され、ものいわぬ死のオブジェのように東京の真ん中に立ち尽くしつづける。いつの日か核のカウントダウンは再開されるかもしれない。
     そんな、あるいはエンターテインメントとしては中途半端にも思えるかもしれない結末をあえて選択したのだ。これはあきらかにいつふたたび惨禍をもたらすかもしれない原発と共存する現代日本を連想させるリアルな結末である。
     はっきりとしたカタルシスには欠けるかもしれない。だが、ついに現実世界に対し絶望しか見せることができなかった『日本沈没』に対し、『シン・ゴジラ』は本物の希望を見せてくれる。
     それは未来が素晴らしいものになるに違いないというばら色の保証ではない。日本の前途は依然としてきびしい。しかし、それでもなお、まさに絶望的な事態を収拾しようとした努力した人々がおり、現実に収拾に成功した。その事実が希望なのである。
     人間の愚かさが生み出した問題は人間によって解決できるということ。それが『シン・ゴジラ』が示す希望だ。その希望は、この巨大な群像劇の登場人物ひとりひとりが表している。
     『シン・ゴジラ』の登場人物は、だれもが自分の責任を引き受けて、逃げない。その判断が正しかったのかどうか、だれにもわからない。否、おそらく間違えた判断も多々あったことだろう。
     初めから自衛隊を投入して攻撃していれば惨禍は未然に防げたかもしれない。しかし、この物語にはそういったことを無責任な立場から告発するアウトサイダーは登場しない。
     登場するのは、完璧ではなくてもなんとか事態を解決しようと試みつづけるインサイダーたちばかりである。
     そしてまた、ここには特権的ヒーローとしての碇シンジはいない。したがって、ひとりヒーローだけが巨大すぎる責任に押しつぶされることもない。
     『シン・ゴジラ』にヒーローの居場所はないのだ。そこにいるのはただ純然たるプロフェッショナルだけである。彼らはほとんど不可能とも思える作業をあくまで「仕事」として淡々と遂行していく。
     作中で語られているとおり、感動的な場面ではある。ただ、だからといって、そこに「国に殉ずる」といったヒロイズムはない。
     そもそも彼らを動かしているのは国家というシステムに対する忠誠心という意味での愛国心ではないように見える。彼らはただゴジラから地域や共同体を守ろうとしているだけなのだ。
     いまから20年ほど前、庵野秀明が監督した『新世紀エヴァンゲリオン』は「ゼーレ」と呼ばれるなぞの組織が世界を支配しているというある種、陰謀論的な物語だった。
     その物語は「社会」を飛ばして「個人」と「世界」を直結させた作品を意味するセカイ系という言葉を生んだ。しかし、いま、ぼくたちの目の前にある映画はセカイ系とはあまりに遠い、むしろ、その対極にある物語である。
     この映画でテーマとなっているものは、だれがどう見ても政治であり、軍事である。『シン・ゴジラ』のひとつのエポックは、日本人特有の政治に対する不信と、軍事に対する拒否感を乗り越えた点にある。
     ここでは政治家にはちゃんと「顔」がある。彼らは特別に有能ではないかもしれないが、ちゃんと自分なりの責任をもって行動しているのだということが端的に示されている。
     そして、ほかの権力中枢の人物たちにも「顔」はある。だから、この映画には「顔のないシステム」としての政治を批判し告発するという側面はない。
     それが良くないのだ、という人はいるだろう。政治とは悪なのであって、常に批判され告発されつづけなければならない存在なのだ。間違えても格好よく描かれたりしてはいけないのだ。それは幻想に過ぎないのだから、と。
     だが、そのように政治を単純化して考えることは不毛としかいいようがない。『シン・ゴジラ』で描かれている政治とは、きわめて複雑な人間の権力関係から成り立つ力学の問題である。
     それがどこまで現実に沿っているかはともかく、シンプルに「悪い奴」、「無能な奴」で済ませてしまえるほど、現実の政治も簡単ではないはずだとはいえるだろう。
     また、『シン・ゴジラ』ではだれもが責任当事者として自分の仕事を果たしていく。だから、映画を見ている我々も、自然、「自分がこの場にいたら、当事者として何ができるだろう?」と考えずにはいられない。
     かつての『新世紀エヴァンゲリオン』は「あなたならエヴァに乗りますか?」と問いかける作品だったが、『シン・ゴジラ』は「あなたならこの状況で何をしますか?」と問うてくる物語なのである。
     ともかく、『シン・ゴジラ』はきわめて地味とも思える結末を選んだ。その地味さをエンターテインメントとして消化してのけた手際はさすが庵野秀明としかいいようがないが(無人在来線爆弾!)、東京に原爆を落とさなかった以上、問題はまったく「チャラ」にはなっていないわけである。
     したがって、この道を選んだ以上、「絶望的にどうしようもない数多くの事」を解決するための方法は、そのひとつひとつを丁寧に議論の訴状に挙げ、膨大な時間をかけて地道な努力によって成し遂げていくことしかない。
     面倒な方法だ。うんざりするような迂遠さだ。しかし、その面倒と迂遠を避けるなら、そこに「希望」は生まれない。『日本沈没』がそうだったように、あとには「絶望」しか残らないだろう。
     庵野秀明総監督本人もまた、一貫してインサイダーとして仕事をしてきた人物である。
     20年前、『エヴァ』のあたりではそんな庵野秀明に対する評価は賛否両論といったところだったと思う。その頃は、アウトサイダー的な姿勢がいまより格好よく見えていた気がする。
     なんといっても、アウトサイダーは無謬なのに対し、インサイダーは不完全で傷だらけなのだから、当然といえば当然だ。
     しかし、どうだろう、いま、時代は変わったといっていいのではないだろうか。もちろん、いまなお、相変わらずアウトサイダーの立場から庵野や『シン・ゴジラ』を批判する層は存在する。また、すべては「ブラック・ジョーク」に過ぎないといってのける人もいる。
    http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyayukiko/20160814-00061097/
     しかし、そうはいっても、いま、インサイダーとして『シン・ゴジラ』を生みだしてのけた庵野や樋口やスタッフに対するまっとうなリスペクトは、『エヴァ』のときと比べ、各段に増しているように思う。
     そして、アウトサイダーの立場から『シン・ゴジラ』を冷笑する人はもうあまり格好よくは見えない。これは個人的な感想に過ぎないが、ネットを見わたしているとそういうふうに思える。
     完璧で無謬ではあるものの、責任を背負おうとしないアウトサイダーの「ダサさ」がいまになってようやくはっきりと見えてきたのではないだろうか(もちろん、見えている人にはずっと見えていたわけだが)。
     アウトサイダーは、アウトサイダーである限り、一生、いや何度生まれ変わっても永遠にイチローになることはありえない。もちろん庵野秀明になることもない。なんらかの業績を残すこともなければ、作品を作り出すこともありえない。
     それは実践者と批評家の差「ではない」。批評家もまたまっとうな人物なら責任とリスクを引き受けて発言するものだからだ。アウトサイダーとは批評家ではないのだ。彼らはつまり無責任にヤジを飛ばす群衆であるに過ぎない。
     イチローは百万もの称賛を受けてきた天才バッターだ。しかし、それと同じくらい、あるいはそれ以上の非難を受けてもいる。イチローですらそうなのだ。
     そして、大半のインサイダーはイチローほどの圧倒的成功を達成できない。また、イチローにしても、初めから成功を約束されていたわけではない。彼はただ自分の人生をコインにして賭けに出て、その上で勝利しただけである。敗北する可能性もあったし、現実に局所的には敗北している。庵野秀明でも同じだろう。
     それに比べ、アウトサイダーは自由で万能で無敵で完璧だ。しかし、それでもぼくは不自由で傷だらけのインサイダーであることを選びたい。それはぼくがイチローや庵野秀明のような生き方をリスペクトするからだ。
     インサイダーは決して無傷ではない。成功の保証も何もない。その上、どこまでいってもアウトサイダーからの揶揄や面罵や嘲弄は飛んでくる。
     そしてまた、ほとんどのインサイダーは3000本安打を達成することもなければ、『シン・ゴジラ』を監督することもない。生涯無名のまま、特にだれからも褒められることもなく職責を終える。
     その意味でインサイダーとはあまりにも損な生き方である。責任を放棄してアウトサイダーであることを選んだほうがよほど気楽だし、安全でもある。しかし、それでも――そう、「それでも」なのだ。
     『シン・ゴジラ』のなかで首相が、閣僚が、矢口が、泉が、巨災対の面々が、自衛隊の人々がその責任から逃げなかったように、ぼくもそのようにして行きたいと思う。
     彼らは『エヴァンゲリオン』ふうにいうなら、「エヴァに乗ること」を選んだ者たちである。しかも、彼らは自分の仕事として、あたりまえに「エヴァに乗ること」を選択している。
     碇シンジのように逃げちゃダメだ、と呟くことすらない。彼らには長い人生のなかで見つけ出してきた守るべきものがあるのだろう。だから、逃げることはありえないのだ。
     それはまさに日本が見失ってきた大人の姿である。課せられた責任から逃れてアウトサイドに立つことはたやすいし、楽だし、安全でもある。
     しかし、「それでも」大人たちはインサイダーであることを選ぶ。彼らが完全な人間だからではない。彼らは彼らなりに、欠点もあるし間違うこともある。また、組織と政治とに縛られていて、必ずしも迅速に行動することはできない。
     その意味で彼らはヒーローになることができない。ただ、有能なプロフェッショナルに徹することはできる。それはどこまでいっても組織と歯車になることでしかありえないのかもしれない。だが、「それでも」職責を全うするべく懸命に活動する人々の姿は見る者の胸を打つ。
     ヒーローのいない物語。この独創的なイマジネーションは、あきらかに碇シンジをヒーローの座から追放した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の延長線上にある。
     だからこそ、『シン・エヴァンゲリオン』もこの路線を踏襲した作品になる可能性が高い。個人的には『シン・エヴァ』は碇シンジがほんとうの意味で大人へと成長する物語になることを期待したい。
     何しろ庵野秀明のことだからひと筋縄ではいかないことは間違いないが、いつか『シン・エヴァ』を見れる日が来ることを祈りたいものだ。
     『シン・ゴジラ』も、ほかのあらゆる名作と同様に、完璧ではないだろう。ただそれらの欠点を批判するだけで済ませ、あるいはすべては皮肉なのだ、ブラックジョークに過ぎないのだ、とシニカルに冷笑してみせるのなら、たしかに「どうにもならない現実をよくわかっている冷静な自分」をアピールすることができるかもしれない。
     しかし、そんなアウトサイダー的態度では永遠に現実は動かない。たしかに現実はあまりにシビアであり、人の手ではいかにも動かしがたいように見える。だが、現実が可変的なものであり、人の力でどうにかしていけるものであると認識することなくして、どうして未来に希望を抱けるだろうか。
     『シン・ゴジラ』は希望の物語だ。それは決してヒロイックな活躍を礼賛してはいない。プロフェッショナルな行動を恬淡と描写しているだけである。
     そして『エヴァ』を見てそこに「「お前ら全員バーカ」みたいなノリ」を見て取ってしまう人には伝わらないだろうが、庵野秀明の作品はそのすべてが一貫して真剣であり、希望を模索していた。
     たしかにその模索の末に絶望的な現実と直面してしまうこともあったが、それはその模索が真摯なものであったことを示している。ぼくはその模索を支持する。そしてついに『シン・ゴジラ』においてここまでの希望を見いだせたことに感嘆する。
     それは庵野秀明その人がインサイダーでありつづけたからこそ可能になったことだ。なるほど、三振することは格好悪い。イチローになってから打席に入ったほうが、つまりイチローになるまではアウトサイダーでいたほうが、はるかに格好いいには違いない。
     しかし、庵野秀明の、格好悪いところまでもすべてさらけ出して格闘する泥くさい姿を見ていると、そういうやり方が卑怯なものに思えてきてしまう。
     だから、まずはバッターボックスに立とう。三振するにせよ、見事ヒットを打つにせよ、話はそれからだ。
     責任を背負って行動する者だけが現実を変えることができる。それは、まさにあなた自身のことなのかもしれないのだ。 
  • 興奮と戦慄の超濃密庵野映画『シン・ゴジラ』を見のがすな!

    2016-07-31 02:07  
    51pt
     映画『シン・ゴジラ』を見てきました。もうネットでは評判になっていますが、あまり冴えなかった前評判をくつがえす大傑作。
     ちなみにネタバレにならないように簡単に説明すると、えーと、えーと……なんもいえねえ。ちょっとした情報ですらバラせない感じの作品で、ぶっちゃけ「面白い」とか「傑作」と述べることもはばかられる感じ。まあ、大傑作なんですけれどね!
     皆さん、ぜひネタバレを踏む前に見ておいてください。凄いから。
     すでにネットでは大絶賛の嵐が巻き起こっているようで、ひとつの作品の評価がここまで圧倒的な賛辞で埋め尽くされるのを見たのは例の『ガールズ&パンツァー劇場版』のとき以来。
     あれも相当に素晴らしい作品だったけれど、『シン・ゴジラ』の場合はみんなの感想に熱狂がこもっています。
     可笑しいのは、みんながみんな褒めるとき「これは賛否両論だろうな。おれは大好きだけれど」といって褒めていること。
  • オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。

    2016-04-06 23:11  
    51pt

     ども。
     人気声優さんが出演しているという噂のアダルトビデオを見たものかどうか迷っている海燕です。
     いや、ぼく、声優さんについてはくわしくないから見てもしかたないのだけれど、下種な好奇心がうずくんですよねえ。
     さて、それとはまったく無関係ながら、きょうもウェブ小説の話です。
     いままでの内容をまとめた上で、ネットにおける混乱した言説を解きほぐす「交通整理」を試みてみようかと思います。
     キーワードは「オリジナル幻想」。
     ちょっと長いですが、最後まで読んでいただければありがたいです。
     まず、ウェブ小説や「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を巡る、山本弘さんや野尻抱介さんの発言を振り返ってみるところから始めましょう。
     山本さんはこんなことを語っていたのでした。

     どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないかという気がする。 
     じゃがいもなどの、この世界に普通にあるものや、エルフやゴブリンやドラゴンなど、ファンタジーRPGでおなじみの要素ばかり使っている。それを読んだ読者も「異世界とはこういうものだ」という固定観念に縛られている。 
     「異世界」と呼んでいるが、実は読者が知っている要素だけで構成されている。 
     想像力や創造力という点で、100年前のバローズより後退してるんじゃないだろうか。 
     もう少しだけ異世界を異世界っぽく描いてもばちは当たらないと思うんだが。

     一方、野尻さんはこんなことを述べています。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。
     バローズが描く異世界は、少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた。それを読み取るだけでも素晴らしい読書体験になる。「はいはい、みなさんご存知のゲーム風異世界ですよ」とばかりに差し出すものとはちがう。

     これらは、両方ともいわゆるオタク第一世代のクリエイターによる、より下の世代の創作活動に対する批判だといっていいと思います。
     内容にも共通項が多く、いまのファンタジー(と呼ばれている小説やアニメ)は「想像力」が足りないというものです。
     そしてここでターゲットにされているファンタジーとは、一部のライトノベルや、「小説家になろう」などで発表されているウェブ小説のことだといっていいでしょう。
     これらの言説が面白いのは、山本さんにしろ野尻さんにしろ、自己否定に繋がってしまっている一面があることです。
     山本さんも野尻さんもかつては何作ものライトノベルを書いてきた作家なのだから、自分の作品もそういう「想像力を欠いた」側面がある。
     したがって、後発の作品を批判することは、天に唾するたぐいの発言といえなくもないわけです。
     それにもかかわらず、なぜかれらは後発の作品を熱く批判するのでしょうか。
     それは当然、自分の作品と後発の作品に何らかの差異を見出しているからでしょう。
     山本さんや野尻さんの発言を丹念に見ていくと、「たしかに自分の作品にも想像力に欠ける一面はあるが、それでも最近のファンタジーとは違う」という想いが透けて見えるような気がします。
     それでは、その「違い」とは何か。
     それは「だれも見たことがない異世界を想像し創造しようとする努力や工夫」だと思われます。
     つまり、山本さんも野尻さんも後発のファンタジーの「オリジナリティのなさ」を批判するとともに、そもそもオリジナルな異世界を作り出そうと努力しようとしない姿勢を非難しているのでしょう。
     なぜなら、かれら自身は多々ある制約のなかでも、少しでもオリジナルな世界を作り出そうと努力してきたという自負があるから、後発作家の「手抜き」が腹立たしく思えるのだと見ています。
     これを「老害」といって即座に却下してしまうこともできますが、ぼくはそういう不毛な年齢差別を好みません。
     むしろ、山本さんや野尻さんの意見には一理あると受け止めます。というか、無理もない話だと思うのですよ。
     かれらの目から何万ものゲーム風異世界を舞台にした冒険劇を見ていたら、どうしたってそれは「手抜き」に見えるでしょう。
     これに対して、「ゲーム風のキャラが出てこない作品もある」といってみてところで、山本さんたちが求めているのは「見たことがあるものが出てこない」世界ではなく「見たこともない何かが出て来る」世界を希望しているわけですから無意味です。
     しかし、だれも見たことがない世界? そんなものがほんとうにありえるでしょうか。
     実はここがこの話のポイントだと思うのです。
     山本さんはバローズを引いて、こんなことをいっていました。

     馬に相当する生物を、「ソート」と呼んでも、作中では何の支障もない。 
     だったら、じゃがいもに似た作物だって、たとえば「ボルート」とかいう名前で呼んでもいいんじゃないだろうか? 
     けっこう安直に異世界感が出ると思うんだが、なぜみんなそうしない? 

     ここで、山本さんはあきらかにじゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼ぶ工夫に意味があると考えているわけです。
     つまり、そういう工夫をすればそうしないよりもより想像力を発揮したことになるという思いがある。
     しかし、そう、どうやら山本さんが考える斬新な異世界とは、よく使われる固有名詞の代わりにオリジナルの名詞を使うといったレベルのことに過ぎないらしいのですね。
     いや、あるいはもう少し突飛な、たとえばあたりまえの馬のかわりに八本足の生物が出て来るとか、距離や単位が地球のものとはまったく違うとか、そういうレベルのことでもあるかもしれませんが、とにかく山本さんや野尻さんは、そのレベルで工夫されているに過ぎないバローズの世界を「そんな問題は100年も前にエドガー・ライス・バローズが通り過ぎている」とか、「少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた」などと評価しているのです。
     ぼくはバローズの小説を読んだことがないので、それがじっさいに「オリジナリティがあ」る作品なのかどうか判断することができません。
     しかし、少なくとも山本さんが書くレベルの工夫のことは、特にオリジナルだとは思いません。
     現代のファンタジー作家がバローズに倣おうとしないのは、そのやり方がむずかしすぎて真似できないからではなく、そういうことになんの意味も見出していないからだと思われます。
     だって、じゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼んだところで、それはしょせんじゃがいも(に似た作物)でしかないではありませんか。
     その程度のことが「オリジナル」と呼ぶに値するとは、ぼくはまったく考えない。
     それでは、真の「オリジナル」とはどんなものなのか?
     ぼくは究極的には「真のオリジナル」と呼んでいい作品など、この世に存在しないと考えます。
     もちろん、相対的に独創的な表現を駆使している作品はあるでしょう。
     が、そういった作品もどこかでほかの作品から影響を受け、あるいは自然世界のなんらかの現象を模倣しているのであって、純粋なオリジナルとはいえない。
     人間には純粋なオリジナルの表現は不可能なのだと考えるべきです。
     その意味で、この世のすべての表現は「二次創作」でしかないとはいえる。
     しかし、世の中には自分が作ったものは自分だけの表現であって、まさにオリジナルといえるものなのだ、と信じる人々がいます。
     その幻想をここでは「オリジナル幻想」と呼びましょう。
     ぼくがこの話で思い出すのは、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの対談です。その対談のなかで、竹熊さんはこんなことを書いています。

    竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
    大泉 庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
    竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
     手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
    http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

     つまり、オリジナル幻想には世代的な差があるということですね。
     宮崎駿とか手塚治虫の世代、プレオタク世代とでも呼んだらいいでしょうか、その頃のクリエイターたちは自分の作品を「天から降ってきた霊感だと感じ」て創作していた、しかし、それより下の作品はそこまで無邪気に自分の作品のオリジナリティを信じることができない、という話です。
     もちろん、宮崎駿とか手塚治虫の世代が純粋にオリジナルな作品を生み出せていたのかというと、違う。
     やはりかれらの作品にも「元ネタ」はある。その意味で、宮崎駿といえど、手塚治虫といえど、パロディ的、オマージュ的に創作しているわけです。
     しかし、この世代のクリエイターたちがのちの「パロディ世代」のクリエイターと決定的に違うのは、そのしょせんパロディでしかありえない作品を、ほんとうに自分のオリジナルだと信じていることです。
     それはしょせん錯覚であり、幻想であるかもしれませんが、下の世代のクリエイター、たとえば庵野秀明にとっては、その錯覚すら不可能なことなのです。
     だから、庵野さんたちの世代は「パロディ」とか「オマージュ」といった作法にこだわる。
     先行する無数の作品から引用をくり返し、「あえてやっている」自分を演出する。
     それしかできないのです。
     いいえ、最終的には庵野さんはその境地にも飽き足らず、その「パロディ」を乗り越えて「自分自身という最後のオリジナリティ」を表現するためにある種の「ドキュメンタリー」として『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したわけですが、それは血反吐を吐くような作業だったことでしょう。
     ちなみに、これらの経緯に関しては『パラノ・エヴァンゲリオン』、『スキゾ・エヴァンゲリオン』という二冊の対談集にくわしいです。
     最近、電子書籍化されたそうなので、興味がおありの方はぜひどうぞ。
     さてさて、世代的には山本さんも野尻さんも庵野さんと同じく「オタク第一世代」に属しているものと思われます。いま50代くらいの人たちですね。
     この世代は、たしかに上の世代ほど無邪気にオリジナル幻想を信じてはいないはずです。
     何しろ、山本さんにしても、野尻さんにしても、たとえばJ・R・R・トールキンやアーサー・C・クラークの先行作品を参照しながら作品を作って来たのですから(『ふわふわの泉』なんて、タイトルといい、アイディアといい、『楽園の泉』のパロディですよね)。
     よほど鈍感でない限り、その自覚があるはずです。ぼくはまさか自覚がないとは思わない、きっとそれはあることでしょう。
     ただ、おそらくかれらは、それでも自分たちの作品は先行作品のデッドコピーではない、と信じている。そこにプライドを抱いている。
     だからこそ、より下の世代の作品の、先行作品のデッドコピーに徹したとも見える「オリジナリティの欠如」が気になるのだと思うのです。
     ようするにかれらから見ると、自分たちが努力し、工夫したポイントで手を抜いているように感じられると思うのですね。
     かれらにしてみれば、その点こそが「単なるパクリ」と「面白いオマージュ」を分かつ聖なるポイントなのであって、そこを省くとは何事か、という想いがあるのだと思う。
     ですが、これはじっさいには手を抜いているというより、その手の工夫に価値を見出していないと見るほうがより正確だと思われます。
     そう、オリジナル幻想を無邪気に信じられたプレオタク世代、そこに疑念を感じながらもなんらかの工夫を凝らして少しでもオリジナルな表現を工夫した「パロディ世代」であるオタク第一世代と来て、それ以降の世代はもはや自分たちの表現の「オリジナリティのなさ」に悩みすらしなくなっているのです。
     ちなみに、オタク第一世代による「お前たちはオリジナリティがなくてけしからん!」という批判に対し、反発し、反論するのはオタク第二、第三世代くらいまでではないかと思ったりします。
     第四世代となると、もはや第一世代の人たちが何をいっているのかピンと来ないから腹も立たないのではないでしょうか。
     いい換えるなら、この世代においてはオリジナル幻想は蘇りようもないほど完全に死んでいるということです。
     オタク第二世代はまだしも、第三・第四世代はもはや「パロディ世代」ですらありません。
     その証拠に、山本さんたちが批判する最近のファンタジーは、もはや「元ネタ」を明確に引用することがありません。
     ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。
     オリジナリティ・イズ・デッド。
     ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。
     むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。
     しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。
     もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。
     だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。
     ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。
     オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?
     いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?
     その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。
     そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。
     これは考えてみると奇妙なことです。
     異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。
     しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。
     もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。
     ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。
     そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。
     もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。
     読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。
     いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。
     ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。
     そんなものが面白いのか。
     面白いのです。
     もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。
     既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。
     見なれたなじみの世界へ行って、ちょっとした冒険を楽しむ。いわゆる「なろう小説」は多くがそういうものでしょう。
     それを堕落と捉えることはたやすいでしょうが、無意味なことです。
     旧世代とはエンターテインメントが持つ意味が決定的に変わってしまっているのですから。
     何が変わったのか。
     簡単にいうなら、いま、エンターテインメントは日常化したのです。
     かつて、エンターテインメントを楽しむということは、日常のなかに非日常的なひと時を約束するものだったでしょう。
     また、そういう体験をもたらす作品こそが傑作とみなされていたと思います。
     ですが、いまやエンターテインメントを消費することは、少なくともアニメを見たり、漫画を読んだり、ウェブ小説に耽ったりすることは、日常の一部に組み込まれた営為なのです。
     ぼくはそう思っている。
     それでは、なぜ、エンターテインメントは日常化したのか。
     それは、まずエンターテインメントの絶対量が大きく増えたということ、そして高速で定期的にエンターテインメントを提供するインターネットというメディアが普及したことが原因だと思われます。
     毎週放送されるアニメを見る。同じく毎週刊行される漫画雑誌を読む。そして、毎日更新されるウェブ小説を読む。
     これらは容易に「習慣」となり、日常の一部を構成します。
     そしてまた、膨大な量が提供されることによって、消費者は自然と「いくらがんばっても全部を消費しようがない」状況に置かれ、フィクションを消費する体験は特別性を失ったと思うのです。
     これは、音楽配信サービスの普及によって、音楽体験が特別さを失ったことと近いでしょう。
     とはいえ、ほんとうに素晴らしい傑作なら、いまでもぼくたちは「心で正座」して読むわけですが、「なろう小説」の大半はそういう性質のものではない。
     野尻さんなどがいうように、それらは、いってしまえば凡庸な、オリジナリティに欠ける仕事です。
     しかし、いい換えるなら、その魅力はその没個性さにあるともいえるのです。
     だから、「小説家になろう」で見られるいくつかの例外的に面白い作品を例に取って、こういう作品があるから「なろう」は素晴らしいと語ることはあたっていない。
     やはりなんといっても全体の99%を占める「凡作」の山こそが「なろう」の魅力なのです。
     いま、「凡作」と書きました。
     けれど、これは旧来的な価値観に則れば凡庸な作品といえるということであって、「なろう」を読む読者にとって無価値な作品ということではない。
     なんといっても「なろう」という「場」は、そういう作品によってこそ維持されているのですから。
     そもそも、SFであれ、ミステリであれ、ホラーであれ、ファンタジーであれ、ジャンルフィクションというものは、ある意味では凡人のためにあるわけです。
     天才はジャンルなんてなくても自分で独創的な世界を切り開いていきますから。
     もちろん、見方を変えればそれすらも純粋なオリジナルとはいえないわけだけれど、少なくとも独創的であろうとする「志」は高いとはいえる。
     ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
     これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
     「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
     個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。
     そういう読者は「なろう」という「場」に日常的に出入りして、そこからお気に入りの作品を探し出しては耽溺します。
     はっきりいってそれらは旧来の価値観から見れば他愛ない作品であるかもしれません。
     ですが、エンターテインメントが日常化したいま、それらの作品を日常の一部として味わうことには意味があるのです。
     もちろん、何万という作家のなかには、特別に才能がある人も混じってはいることでしょう。
     そもそもジャンルフィクションには、時々、「お前はこの仲間じゃないだろう」といいたくなるような、特別な存在感を持つ作家が混じって来たりするものなのです。
     ぼくはそういう作家たちを、大森望さんの言葉から採って「魔法の名前」と呼んだりしています。
     まあ、SFでいうスタージョンとかティプトリー、コードウェイナー・スミスあたりのことですね。
     ミステリにおいては麻耶雄嵩、ジャンプ漫画においては諸星大二郎、エロゲにおいては瀬戸口廉也なんて作家が、その「特別なる1%」にあたるとぼくは考えます。
     「小説家になろう」にここまで特異な存在がいるかどうかは知らないけれど、近い存在を挙げるとしたら『魔法科高校の劣等生』の佐島勤さんあたりでしょうか。
     『Re:ゼロから始まる異世界生活』だとか、『本好きの下克上』あたりもかなり異端の雰囲気を放っていますね。
     ただ、そういう異端の作家をジャンルや「場」の代表として語ることは違うかな、という気がします。
     異端の傑作は、ある意味で語りやすい。いってしまえば、『孔子暗黒伝』のほうが『ダイの大冒険』より遥かに語りやすいわけです。
     ですが、それらだけを特別視することはただ語りやすい作品だけを語るという罠に陥ることでもある。
     だから、特にぼくなどは「凡庸な」「オリジナリティのない」作品をどう評価し、どう語るかという問題を真剣に考えなければならないと考えています。
     旧来的な価値で見れば凡庸な作品にも、少なくとも日常の一部として人生をより豊かにするというバリューがあることは、先述した通り、あきらかなのですから。
     もちろん、 
  • 『SHIROBAKO』と作品の受け手はどうあるべきなのか問題。

    2015-12-02 03:08  
    51pt

     アニメ『SHIROBAKO』を全話見終わりました。
     ついこのあいだ見始めたばかりなのに、ぼくとしてはめずらしいくらいのスピードで最後まで見てしまった。
     いやー、面白いですね!
     近年まれに見る――かどうかはわかりませんが、傑作といっていいかと。
     東京郊外にあるアニメーション制作会社を舞台にさまざまなトラブルに立ち向かう群像を描き出した作品なのですが、とにかくよくできている。
     どこがどう凄い!とはっきりいえるものではないのだけれど、逆にいうとそこが凄いのでしょう。
     極端に深刻にしたり、萌えに走ったり、リアルに徹したりしているわけではないのに、ちゃんと面白い。全体の完成度の高さで勝負できている。
     その点を高く評価するべき作品なのだと思います。
     こういう作品はこれはこれで凄いように思います。
     たぶん極端に振っちゃったほうが簡単なんですよね。
     アニメ制作現場の描写なんて、その気になればいくらでも先鋭的にできるだろうに、そうしないでバランスを取っている。その良識が感動的です。
     個人的に感心したのは、このアニメ、ストーリーが途中から始まっているんですよね。
     いきなりあるアニメの制作状況の途中から始まって、そのまま話が進んでいく。
     それまでどうだったのかの説明は一切なし。だれがどういう性格なのかも説明なし。
     ただ、各登場人物の芝居のなかでいつのまにかどの人が何者なのかがわかるようになっている。上手いなあ。
     初めは何がなんだかだったのに、いつしかすべてがわかるようになっているのだから、スマートです。
     こういう地味ともいえる作品が一定以上話題になってちゃんと評価されている事実は素晴らしいですね。
     各登場人物も萌えキャラといえばそうなんだけれど、あまりそこが強調されているわけでもないので、地味といえば地味なはずなんですけれどね。
     見ているとまったくそういう印象は受けない。とにかく楽しい映像体験でした。
     登場人物といえば、出て来るキャラクターのうち何人かは業界関係者がモデルになっているらしいんだけれど、よくわからない(笑)。
     庵野さんくらいかな、ぼくがわかるのは。庵野さん、思い切り庵野さんでしたねー。アニメになってもよくわかる個性ですね。
     そういうわけでとてもとても面白かったのですが、いち視聴者としては身に詰まされる作品でもありました。
     いや、ぼくたち視聴者はいつもかってなことばかりいっているけれど、作るほうは大変だよなあって。
     ほんとうはさらにさらに大変なのでしょう。
     そうやって作ったものをただみたいな価格で観ているのだから、もうありがたいというか申し訳ないというか。
     ぼくは 
  • 「ちゃんとしたオタク」と「キモチワルいオタク」の落差。

    2014-03-30 04:58  
    53pt
     まだ書き足りないので、先ほどの記事と同じテーマでもう一本書いてみます。少々異なる角度から語ることになりますが、同じことを云っているのだということが、わかるひとにはわかるはずです。
     以前にも言及したことがあるかもしれませんが、栗本薫に「コギト」と題する短編があります。まったく有名な作品ではありませんが、ぼくはこの話がしみじみと好きです。
     それはある日突然、「自分ひとりだけの世界」に行ってしまった女の子の話で、彼女がその「自分ひとりだけの世界」で、ああでもないこうでもないと延々と思考を巡らすさまがひたすらに一人称で描かれます。
     そして最後だけ三人称になり、「その外の世界」を描写して終わるのです。タイトルの「コギト」とは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」から採られています。
     つまり、これもまたわかるひとにはわかることに、この小説は「唯我論の地獄」、即ち「すべてが自分に回収されるナルシシズムの檻」の辛さ、苦しさを描いているのです。
     自分ひとりだけしかいない宇宙。「他者」が存在しない世界。それは荒唐無稽な妄想のようですが、しかし、病んだ現代社会においては、ひとはどうしてもこのような生き方を強いられることになりがちです。
     ほんとうの意味で「他者」と触れ合うことをせず、ただ自分の頭の中だけですべてを完結させて、ぐるぐると想像だけを強化していく、そういう地獄。
     その「檻」からいかに脱出し、「健康な自我」を獲得するかということが、ぼくがずっと考えているテーマです。
     さて、世の中には「オタク」というひとたちがいます。このオタクというあり方も、見ようによってはある種のナルシシズムの表れと見ることができるでしょう。
     何しろ、かれら(ぼくら)は現実を見ない。延々と「自分だけの妄想の世界」を楽しみ、そこに耽溺し、「他者」とのコミュニケーションを遮断しているように思えます。
     じっさい、そういうオタクは大勢いるようにも見える。しかし、ぼくは必ずしもオタクが「自分ひとりだけの宇宙」に閉じこもっているとは思わないんだな。
     オタクでありながら「世界という名のコミュニケーションのネットワーク」に接続し、健康でありつづけることはできる。何であれ「自分が好きなもの」を通して、常に現実世界と接触しつづけることは可能であるわけです。
     『すべてはモテるためである』の二村ヒトシの言葉に従うなら、オタクであることそのものはキモチワルくはない。ただ、オタクをこじらせていることがキモチワルいのだということになる。
     オタクをこじらせるとはどういうことか。それはつまり、どちらがより偉いかを競う権力闘争にハマったり、ほんとうは軽蔑してる「仲間」と傷を舐めあったり、異性を蔑視して束の間の優越感にひたったりすることです。
     そう、いま思えば、『新世紀エヴァンゲリオン』で庵野秀明が批判していたのは、オタクそのものというよりは、この「オタクをこじらせたキモチワルいひとたち」のことだったのだろうと思います。
     そして、ぼくもまた、いまはその批判に共感します。繰り返しますが、オタクであることそれ自体はキモチワルくはないのです。
     いや、もちろん、オタクであることそのものがキモチワルいのだ、というひとはいますが、そういうひとはじっさいに「あるひと個人」を見ているというよりは、「自分の頭のなかのイメージ」を見ているに過ぎないから、無視してかまわない。ようするにそのひと自身がナルシシズムにハマっているわけなのですから。
     「オタクであること」はそれ自体は、「何か熱中できる好きなこと」があるということですから、ポジティヴなことです。しかし、「ちゃんとできない(不健康である)」オタクは、たしかにキモチワルいのです。
     くり返しますが、言葉の表面的な過激さに惑わされないでください。『すべてはモテるためである』から引用しましょう。

     あなたがオタクでありながら、オタク仲間とうわっつらでヘラヘラ【濃い冗談】とやらで笑いあいながら、心の底ではお互いを憎んだり嫌いあったりしてるのは、だからなんですね。類は友を呼ぶんです。そういうあなたたちを見て一般の人は「オタクってキモチワルい」と思うんです。お互いウンザリしあいながら酒呑んでヘラヘラしあってる「ちゃんとしてない一般人」のキモチワルさと、じつはよく似ているんですけどね。そのままだと、あなたは、いつまでたっても【ちゃんとしたオタク】にはなれないし【ちゃんとしたオタク】と友だちにもなれません。

     この場合の「ちゃんとしている」ということは、つまり「健康である」ということだとぼくは思います。もちろん、肉体ではなく、精神が健康であるということです。
     この社会においては、ひとは簡単に「エラソー」だったり「バカ」だったりする「キモチワルいひと」になってしまいます。「キモチワルいオタク」もまた、そのバリエーションのひとつです。
     二村さんが書いているように、それはじっさい、「キモチワルい一般人」の似姿であるに過ぎません。極端にオヤジ的だったりする態度を好むオタクのひとっていますよね。あれはある意味では自然なことなのです。
     そこから脱して「ちゃんとしたオタク」になることは、つまりは「ナルシシズムの檻」から脱出することと同じことです。ぼくはいま相当に「キモチワルい」自分を見つめ、「ちゃんとしたひと」になりたいと思う。
     『新世紀エヴァンゲリオン』では、 
  • その勇気はどこから来るのか。絶対基準がない社会で無難を飛び越えてゆく天才たちの肖像。(2188文字)

    2013-04-30 10:44  
    53pt




     先日、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVDとBDが発売になりました。Amazonなどを見るかぎり、ほぼ絶賛一辺倒だった「破」から一転、賛否両論に分かれている模様。それももう「賛」と「否」が戦争でも起こしそうなほど強烈に対決しあっている。
     いやいやいやいや、このサツバツ! これこそ『ヱヴァンゲリヲン』ですね。まあ、内容が内容ですから、殺伐とすることも当然といえるでしょう。
     ひたすらに憂鬱だったテレビシリーズ及び旧劇場版から一転、かつてないヒロイックなエンターテインメントを演出し、時代の空気を見事に捉えたかと思えた前作をさらにひっくり返す怒涛の展開。一本すべてを主人公を落とすために使うという、娯楽映画としてふつうに考えればありえない構成。
     いずれも「まさにこれぞエヴァンゲリオン!」ながら、ついていけないファンが続出することもあまりにも当然というしかありません。いいかげん慣れている古参のファンですら「ようやる」と唸らざるをえないくらいですからね。
     「序」「破」とおおむね高評価の作品を積み上げてきて、第三作の「Q」でこの冒険、ほんとうに庵野監督及び制作スタッフの頭のなかはどうなっているのだろうと思ってしまいます。
     興行収入的には「序」も「破」も大きく超え、50億円オーバーという記録的な数字をたたき出しているのだから「勝負に勝った」といえないこともないけれど、これは多くのひとが期待した『ヱヴァンゲリヲン』ではないはず。
     もっとシンプルでわかりやすい映画を作りつづけていれば自然、平均的な評価も高くなったはずなのに、その可能性を平然と捨て、挑戦的に、冒険的にチャレンジしつづける。こういう姿勢には何かそら恐ろしいものを感じずにはいられません。
     結果として「Q」に対してはありとあらゆる批判と罵倒が集中することになったと思いますが、しかしなんぴとたりともこの作品を「無難な凡作」ということはできないでしょう。というか、これほど「無難」から遠い作品もないものと思われます。
     連載再開にあたって『ファイブスター物語』の全設定を一新した永野護もそうだけれど、常に自分の持っているすべてをベットしてさらなる展開を求めつづけるこのひとたちの勇気はいったいどこから来るのでしょう? わたし、気になります!
     いやまあ、ほんとうはわかっていることではある。「無難」という道は、最も安全に見えて、実は最もダメな道なのだということ。挑戦することを忘れたとき、ひとは死ぬのです。「いま持っているもの」を守りに入ったとき、そのひとはクリエイターとしてはもう終わっているのです。
     たとえどれほどの資産と名声を持っているとしても、それをすべて投げ捨てて「新しい領域」へ入っていけるもののみが超一流(プリマ・クラッセ)の名にふさわしい。庵野さんや永野さんはそういう種類のクリエイターなんでしょう。
     ひとはかれらを「天才」と呼ぶけれど、決して神に与えられた生まれながらの才能だけで勝負しているわけではない。むしろ、たゆまず自分を更新しつづけるそのきびしさこそがほんとうの才能なのだと思う。素晴らしい!