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友達について考える。先日のラジオで、ペトロニウスさんたちが『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』をひきあいに出して、「友達というのは、必ずしも心から理解しあう必要はなく、たがいを利用しあうだけでもいいんだ」という意味のことをいっていたのだけれど(ぼくの意訳)、これは至言だと思います。
昨今のアニメや漫画を見ていると、「ほんとうの友達」とか「絶対に信じられる仲間」といったテーマを扱ったものが少なくなく、それはそれで感動的なのだけれど、ぼくは時々、それに違和感を抱くことがあります。
震災後よく使われることになった「絆」という言葉に対する違和感に似ているかもしれない。もちろん、仲の良い友達がいることは素晴らしいことだけれど、そういうふうに大上段にかまえて語られると、「そんなに友達が大切か? そんなに仲間がほしいか? ひとりでは幸せになれないのか?」と思ってしまうわけです。
ぼくはべつに人付き合いが嫌いではないけれど、それと同じくらい「ひとりでいること」の価値を重視したいのですね。「繋がっていること」にのみバリューを見出す価値観は、やはりどこか歪んでいると思う。
でも、やっぱりひとりは寂しいというひともたくさんいることでしょう。それはそれで個人の自由であるわけで、関係性を志向することはもちろん悪いことじゃない。ただ、そのとき、「ほんとうの」関係を希望したりすると、迷路に入ったりするよ、ということをいいたい。
たとえばだれかといっしょにいる時に「このひとはほんとうの友達だといえるだろうか? 欺瞞に満ちた偽りの関係なのではないだろうか?」と考えてみるとか、あるいは異性(ないし同性)と付き合っていてもそこに「本物の愛」がなければ「ほんとうの恋愛」ではないのではないか、といった考え方をすることですね。
関係性に「本物」も「偽物」もないんですよ。あえていうならすべての関係性がどこかで偽物なのであって、欺瞞を抱えている。なぜなら、ひととひとは決して完全には理解しあえないからです。
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