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第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」
1.少年の夢ふたたび。
ひとの夢は宝石に似ている。どれほどまばゆく輝く夢も、放っておけばやがて曇る。少年の日の夢はけがれなく純粋で、透明で、ひとを魅了する。しかし、魅了されたものの大半は年経るにつれ、若き日の夢を捨て、現実と妥協する。それが大人になることなのだと、自分を納得させながら。
ただ、その一方で、飽きず、油断せず、振りかえらず、ひと筋に夢に生きる人々もたしかに存在する。永遠の少年。かれらの夢は、歳月を経てなお、純粋で透明なまま曇ることを知らないのだ。
わたしは前著『BREAK/THROUGH』でそのような夢に捕らわれた人々と、その生きざまを語った。この第三駅では、ふたたび「少年の夢」について語りたい。その光と、そして闇の面について。
さて、前著でわたしは少年の夢を「美しい」といい、『プラネテス』のウェルナー・ロックスミス、『スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインといったキャラクターを通して、このようにその魅力を語った。
少年の夢――男の価値――人間らしさ――どのような言葉でいいあらわしてもいいが、それは、人間が持ちえる最も純粋なモチベーションのことである。痛々しいような想いの純粋さこそが夢を輝かせる。それはどこまでもむなしく、だからこそ、この世で最も純粋である。純粋な価値とはむなしいものなのだ。なぜなら、それを使って何かを得ることはできず、ただ、それそのものが目的であるような価値だけを、純粋、とそう呼ぶことができるのだから。
この考えにいまも変わりはない。しかし、限りなく純粋で美しい価値、それが、この世界で最高の価値なのか。その点には一考の余地があるだろう。
わたしたちは、この「少年の夢」という概念を、戦場感覚と結びつけて考えることができる。つまり、グランドルール「世界とは戦場である」からは、ひとつの「下位ルール」が導きだされる。即ち、「戦場である世界ではより強いものが生きのこる」。
これは、グランドルールから導ける唯一解とはいえないが、多くのひとを納得させうる解ではあるだろう。これを「下位ルールA」とする。この下位ルールAを極限まで突き詰めたものが「少年の夢」である。「少年らしさ」とはいかに妥協なくこの下位ルールに適応できるかという問題だといえる。
それが端的に表れるのが少年漫画である。少年漫画では、しばしば、何十巻をかけて延々と、だれがいちばん強いか、あるいは速いか、あるいは賢いかといった「ナンバー1決定戦」を描く。ときにそれはトーナメントのかたちを採る。そのようなかたちが「一番」を決めるためにもっとも適しているのだろう。それは単純だが、純粋である。
また、自然科学研究などにも、わたしたちは「少年」的な精神を見つけ出すことができるだろう。なぜなら、それは「意味」などに汚されない研究だからである。サイエンスの森をどれほど深くまで探索したとしても、「意味」は落ちていない。
あるいは現世利益は落ちているかもしれないから、その意味ではときに研究は純粋さを失うが、少なくとも「人生の意味」などに思い迷ってしまうような精神は科学研究に向いていないことはたしかである。それは完全に無意味であるが故にいっそう魅力的な遊戯なのだ。
ひとを魅了するゲームはすべて無意味である。チェスに何の意味があるだろう? それは結局、ただおもしろいだけのゲームだ。そうしてそれがおもしろいのは、自分の力を最大限にひきだしてくれるからである。「少年」とは、この、ただおもしろいだけのゲームに、すべてを捨て、命をも賭して夢中になれる人格を指す。
そこに一般的な意味での「幸福」はない。しかし、おそらくはそれ以上に価値があるものがある。「幸福」だけが唯一の価値ではないのだ。また、「幸福」を捨てているからこそ、果てしない技量の修練に己を捧げることができるともいえるだろう。
「幸福」は「満足」につながり、「向上心」を鈍らせる。いまここにある自分に満たされているのなら、「それ以上」をめざすべき理由はないのである。いまの自分に満たされないからこそ、さらなる上をめざす。その修練に、おそらくは終わりはない。ただひたすら「もっと上へ」と登りつづけるよりほかにない。
愛も知らず、優しさも知らず、ただ上をめざすことのみに特化した一匹の修羅。それはもはや、ひとにあらず、怪物であるかもしれない。しかし、それでもなお、わたしはその生き方を「美しい」と思う。そして、その姿こそもっとも「人間らしい」のではないか、とも。
「人間らしい」とは、ただ穏やかな、春風駘蕩たる日々をのみ指すのではないはずだ。酷烈な日常のなかに己を表現することこそ、「人間らしい」といえるのではないか。
「少年の夢」の行き着くところは、己の人生そのものを一個の作品、芸術品として完成させることである。そこには当然、「死」が見えてくる。生きている限り、人生は完結しない。ただ「死」をもってのみ、作品は完成するのである。
もちろん、ただ死ぬだけでは駄目だ。いかに綺麗に死ぬか。それが問題となる。往古、詩人はこう詠んだ。「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」。そうして西行はじっさいに春の頃死んだ。
わたしたちは、その詩とその死を、美しい、と感じる感性をもつ民族である。わたしたちが「少年」の生き方を美しいというのは、そういう文脈にのっとったものであるといえる。
これはたしかに危険な発想だ。どこかで、自刃を美とする価値観とつながっているようにも思う。が、わたしはやはり自分の価値を裏切ることはできない。やはり美しいものは美しいと思ってしまうのだ。
2.新選組幻想。
わたしが少年の夢というとき、真っ先に思い出される人物がある。司馬遼太郎の土方歳三である。土方はむろん実在の人物だが、わたしがここで語りたいのは、史実のかれではなく、司馬の生み出した架空のヒーローのほうだ。
司馬は長編『燃えよ剣』と短篇集『新選組血風録』において土方の活躍を綴った。その魅力は素晴らしく、後世に大きな影響を与えた。土方といえばもちろん新選組である。今日なお、新選組が若い女性にまで熱狂的な人気を誇っているのは、この、司馬の作品の影響が大きい。
あるいはそれは幻想でもあろう。そうであってもかまわない。わたしはこれから、幻想の土方歳三について話をするつもりだ。壬生の狼と怖れられた新選組のなかで、さらに「鬼の副長」と呼ばれる修羅で、この男は、あった。
しかし、わたしが土方を好きなのは、かれがその修羅の道を歩み抜いたからではない。土方が、そこにおそらくはだれにも真似のできぬ「美意識」を持っていたからこそ、わたしはこの男を「少年」と感じるのである。
土方は政治を解さない。時まさに風雲急を告げる時代、そのことでかれは多くのものから軽侮される。しかし、政治を解し、妥協を解するものたちが、いつしかその志を折り、ねじ曲げていっても、土方は折れない。
政治が、理想の火を掲げつつも現実の道を往くことだとするなら、土方はどこまでも理想に生き、理想に死ぬのである。享年、わずか35歳。新選組鬼の副長は、五稜郭にその生涯を閉じた。
この、土方の生きざまはわたしの目には何とも美しく見える。それは、たとえるなら、研ぎすまされた日本刀の、その鋼の美だ。作中にもそのような表現があるが、刀は、ただひとを斬る、そのためだけに生み出されたものである。
しかし、だからこそ、そこにはある種の「用の美」がある。土方は俳句を好んだが、しょせんは学のない身、へぼ詩人であった。しかし、その人生そのものを一篇の詩と見たとき、その美は、じつに比類がなかった、といえる。
土方は「武士」を目指し、その美学に殉じた。しかし、土方が見た「武士」とは幻想である。本来、この世のどこにも存在しない「武士」という名のイリュージョンに、この男は一生をささげた。
それは、愚かしい行為であったかもしれない。かれがその一生を仕えた江戸幕府は、それに値する政府であったか、怪しい。だが、おそらくは土方にとっては、それすらどうでもいいことであっただろう。かれはただ、己の信じる「美学」を、最後の最後まで貫く、そのためだけに生きたに違いないのだから。
土方には、恋人がいた。その恋人の存在は、しかし死に向かう土方を止めることはできない。彼女は止めようとも思わないに違いない。なぜなら、彼女が愛した男は、信じたものを捨て、二君に仕え、ひとり生き長らえることをよしとする男ではないと、そう知っていたから。そうして、土方は、雪の五稜郭に死んだ。
わたしは土方には壮烈な戦死の美学を見る。土方には友がいる。ひとりは新撰組局長、近藤勇。いまひとりは一番隊隊長、沖田総司。とはいえ、かれらですら最後まで土方に従うことはできない。土方の戦いは孤独でむなしい。だが、その孤独と、むなしさとは、一篇の歌となって、物語を読むわたしたちを感嘆させる。
同じような「美学」を、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンに見ることができる。カイエンは剣聖と呼ばれるジョーカー太陽星団最強の騎士である。かれはある事情からハスハ王国のムグミカ王女に仕え、邪悪の魔道師ディス・ボスヤスフォートと対峙する。勝ち目のない勝負。そうと知ってなお、戦いに向かう。
そのとき、少女の頃からカイエンを愛する科学者ミースは命を賭け、かれを止めようとする。が、ありとあらゆる手を用い、泣いてすがってもミースにカイエンを止めることはできない。カイエンはすでに死ぬことを決めているのだ。自分の人生を完結させることを決定しているのだ。
そこに迷いはない。かれは生涯のパートナーであるファティマ・アウクソーをも置いて、ひとり、ボスヤスフォートに立ち向かい、そしてムグミカ王女とともに殺される。この男は、最後の最後まで騎士であった。そこには土方歳三と同じある「美学」がある。「男」という名の美学である。
カイエンは、ムグミカを守りきれないことを最初からしっていた。自分が無駄死することをわかっていた。それでもなお、かれは姫を守るために魔道師に立ち向かった。その死は無意味だ。野良犬のような無駄死に。かれは生きていたならハスハの国を守れたはずなのだ。
それなのに、その死に惹きつけられるのはなぜだろう。おそらくはそれが騎士としての最も美しい死だからだろう。己の死に方を己で決め、ひとりそれを実行するカイエンはわがままな男である。しかし、まさにそうだからこそ、その「生」と「死」は輝く。
これは、一歩間違えれば、「死」を称揚する危険思想であるかもしれない。そして結局かれを止めることができなかったミースは哀しい。「愛」は、しょせん、それを捨てた者を止められないのだろうか。
どこまでも純粋に生き抜こうとする「少年」たちを、「愛」で止めることはしょせん不可能なのだろうか。わたしはそんなふうにも思う。しかし、おそらくはそうではあるまい。ただミースには力が足りなかった、それだけのことだ。
3.『どんちゃんがきゅ~』。
それでは、どのような「愛」ならば「夢」に殉じようとする「少年」と拮抗することができるのか。ここでは、そのサンプルとして、Lightのゲーム『どんちゃんがきゅ~』をあげたい。
『どんちゃんがきゅ~』については前著でもかるくふれた。しかし、この作品の全貌を解説し切ったとはとてもいえない。ここでふたたび解説しよう。『どんちゃんがきゅ~』は、それぞれ独立した作品として発表された『神様のりんご』三部作の第二作にあたる作品である。いわゆるアダルトゲームにあたるが、その内容はコミカルでいてシリアス。わたしは大きな感銘を受けた。
物語は、天使のように善良な少女、純紀子と、彼女が恋した男、佐藤俊夫の恋を追いかけていく。ふたりは相思相愛で、一見、その恋には何の障害もないように見える。しかし、もちろん、そうはいかない。
俊夫は人形職人である。かれは人形制作に没頭する。やがて、俊夫が「天才」ともいえる才能の持ち主であることがあきらかになる。俊夫にとって、人形は人生のすべてである。
かれは、ある人形の制作に行き詰まると、べつの人形を作ることによってその憂さを晴らすような男なのだ。俊夫にとって人形制作は趣味であると同時に趣味以上のものであり、仕事であるのと同時に仕事以上のものである。かれの「生」は、人形を作ることに特化している。
俊夫はアーティストなのだろうか。そうではない。かれは単なる職人である。俊夫の目的は、何らかの抽象概念を人形を通して表現することではなく、ただよりうまく人形を作ることである。
俊夫の目的は「芸術」ではない。単なる「技術」である。かれの興味は「技」にしかないのだ。そこから生まれる「収入」にも、「名声」にも、かれは全く興味がない。俊夫は虚無に憑かれている。
それでは、ふだんの俊夫は気むずかしい男なのか。そうではない。常日頃、かれほど穏やかな男はいない。かれは浮気もせず、酒も煙草もほとんどたしなまず、紀子をひたすら愛しつづける。しかし、あるとき、その「愛」が、ひとつの限界に突き当たる。かれの人形は、どれを見ても、紀子に似てしまうようになるのだ。
それは「愛」ゆえのことだった。紀子を愛しているからこそ、そこに、紀子を投影してしまうのだった。かれは天才であるにもかかわらず、否、天才であるからこそ、その「壁」にぶちあたる。決断の時が来る。紀子を選ぶか。それとも、人形を選ぶか。かれは人形を、「仕事」を選ぶ。地獄の決断。
かれは「愛」を選ぶこともできたはずだ。「幸福」を望むこともできたはずだ。しかし、かれにとって、「仕事」は「愛」や「幸福」以上に価値をもつものだった。
ここにわたしは土方歳三やダグラス・カイエンと同じひとりの「少年」を見る。純粋にして潔癖。ただ己の生きる道にしか興味がない男。「愛」よりも「幸福」よりも、己の「作品」を選んでしまう男。
物語は、語る。
これは「業」なのだ。俊夫の「宿命」。職人気質(キシツ)を職人気質(カタギ)に昇華させる秘密の調味料。男という生き物が古今東西ほとんどすべての社会においてヘゲモニーを握りつづけた原動力。家族はいらない、財産も名声も欲しくない、ただ腕のみが至上の高みに昇り詰めればそれでいい「美意識」。幸福の放棄を代償にして追い求められる、「道」。
そう、おそらくは「少年」の生き方を最もよく表す言葉は、「道」である。地平線の果てまで続く、ただ一本の「道」。「少年」は果てしなくその道を歩みつづける。それが、それだけが、かれの生き方なのだ。
求道、という言葉がある。「道を求める」と書く。そこにあるかぎりないストイシズムに、わたしは烈しく惹かれる。
荒木飛呂彦の『スティール・ボール・ラン』でも、リンゴォ・ロードアゲインが、かれが信じる「男の世界」を「光り輝く道」として語っている場面がある。ただ、往くと決めた道をひたすらに往く。おそらくは、路傍にたおれ伏す、そのときまで。それが「少年」に許された唯一の生き方。
土方も、カイエンも、その「道」を往き、「道」にたおれた。かれらと同じく、俊夫は「少年」であり、天才である。しかし、その人形作りの才能とは、必ずしも天が与えた恵みではない。むしろそれは呪いである。
「幸福」を、「家族」を、「名声」を、「愛」ですらも犠牲にし、すべてをささげ、そうしてようやく得られる「技」。おそらくは余人には何の意味があるともしれない、無意味、無価値な「美意識」。その「技」、「美意識」に呪われたのが俊夫である。
それは俊夫を神にもするだろう。天に昇らせもするだろう。しかし、それは「人」として何かが得られるということではない。むしろそれはありとあらゆる「人間らしさ」を捨てたときにのみ、その代償として手に入るものなのだ。「美」という名の「呪い」。
なるほど、その生涯は美しいかもしれない。このうえなく華麗であるかもしれない。しかし、ほんとうにそれだけが唯一の「道」なのだろうか。ほかに「道」はないのか。
物語はここからさらに意外な展開にいたる。そこにわたしは「少年」という生き方を超えるものを見いだす。具体的な展開については書かないが、ここからの展開が、この作品を真の傑作にしている、とは記しておこう。
4.魔術師のなかの「少年」。
さて、一般的にいって、わたしが上記してきたような価値観から思い浮かぶ作品はハードボイルドだろう。たとえばレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ。
しかし、わたしはふしぎとハードボイルドに惹かれるものを感じない。ハードボイルドヒーローはやはり「大人」なのであって、この世界のルールにそれなりに適応しているからなのかもしれない。わたしが求めるものは、この世界のルールそのものを破壊しかねないような、無鉄砲な情熱なのだ。
さて、ハードボイルドに惹かれないわたしを、かつて夢中にさせた作品がある。田中芳樹『銀河英雄伝説』である。この作品には、無数のヒーローたちが登場するが、主人公はそれぞれ異なる個性をもつふたりの英雄である。銀河帝国を統べる皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムと、自由惑星同盟の元帥ヤン・ウェンリー。
このうち、ふつう「少年」という言葉から連想されるのは、ラインハルトのほうだろう。ラインハルトは傑出した天才であったが、その人格は最後までどこか少年めいた純粋さをのこしていた。
しかし、ラインハルトに比肩する、あるいは上回る軍略家であった以上、ヤンにもどこかしら少年的な一面はあったはずだとわたしは思う。なぜなら、かれの奇術ともいえる軍略は、あらゆる常識と倫理とを排したところからしか生まれてこないものだからである。
ヤンはごく常識的な理性のもち主であったが、しかし、戦略を打ち立てるときにはその常識のすべてを捨て、高等数学の方程式を解くように効率的な殺人の方法論を考え出していたはずだ。そうでなければ、戦場の天才であることはできない。
だが、同時に、ヤンは純粋な少年ではありえなかった。かれは一方でじつに成熟した大人であった。思う。いわば、かれのなかには「少年」と「大人」というふたつの人格が混じり合うことなく共存していたのではないだろうか、と。
ヤン・ウェンリーという青年は、一見、怠惰な人物に見える。しかし、それは見せかけである。その実、かれはとても真摯で誠実な男なのだ。ただ、かれは自己宣伝に興味をもたないだけである。自分が真摯で誠実であると、そう宣伝することを無視するのだ。そうして、自分自身、怠惰な人間だと思い込んでいるようなところがある。
ヤン・ウェンリーの魅力の一面が、その見せかけの怠惰さにあることは間違いないであろう。ヤンは「努力」「勤勉」という美徳に対する生きた批判である。世間でいう勤勉な人間たちが、そうではない人間を見下し、優越感にひたることに対する生きた批判そのものである。
かれは一見、怠惰に見えるのに、だれよりも結果を出してしまう。作者はご都合主義として、このようなチートキャラクターを生み出したのだろうか。そうではない。現実を見れば、ヤンはだれよりも努力している。
エル・ファシルで上官が逃げ出したときも、かれは自分の仕事を投げ出さなかった。自由惑星同盟そのものが崩壊に向かうときも、かれは最善の努力を尽くした。かれの怠惰は、結局、そういうふうに見えるというだけのものでしかない。ヤンはじっさいには勤勉と努力に満ちた一生を送ったのだ。
たしかにかれは理不尽なまでの天才であった。かれは一面で穏やかであたたかな人格の持ち主でもあったが、またべつの一面では冷酷非情な策士であった。かれの「魔術」の犠牲となった人々は何十、何百万に及ぶかしれない。
その「魔術」を生み出したものは、かれのなかに住むひとりの非情の「少年」であったに違いない。ラインハルトがまさにそうであったように「天才」とは皆、「少年」である。冷酷で無邪気な自らの少年性に殉じた人々を、ひとは「天才」と呼ぶのだ。
ヤンもやはりそうだったはずだ。次の作戦を練り上げるとき、かれの頭のなかにはヒューマニズムなど一片もなかったに違いない。そうでなければ、優れた作品を考え出すことなどできない。しかし、それと同時に、ヤン・ウェンリーは慈愛の人でもあった。この矛盾が、かれをまたとない魅力的な人物にしている。
わたしは思う。天才とは皆、こういうものなのかもしれないと。ヤンの「仕事」にささげる「少年」めいて純粋な集中力と、「生活」におけるむしろ怠惰な性格は、別人のように見える。しかし、それこそ安定して才能を発揮する「天才」の条件であるのかもしれない。
ラインハルトのように、その人生そのものが「少年」めいた存在は、どうしようもなく破滅的である。土方歳三にせよ、ダグラス・カイエンにせよ、最後には死をもって自分の人生を完結させることを選んだわけだが、ラインハルトもまた、生きながらえたなら、どこかでそういう選択をせざるをえなかったのではないだろうか。
「少年」は「戦場」において最強の戦士である。なぜならかれは強くなること以外のすべてを捨ててしまえるからだ。わたしは、その生き方を、美しい、と思う。しかし、その破滅性に、あやういものを感じずにはいられない。じっさい、ラインハルトに仕えたオスカー・フォン・ロイエンタールなどは、最後には足を踏みはずし破滅した。
その意味で、ヤンは自身の「少年」性を最後までコントロールしえた、たぐいまれな成功例のようにも思えるのだ。ヤン・ウェンリー。魔術師と呼ばれた神がかり的な用兵を見せた天才軍人。しかし、かれの偉大さは、その不世出の才能にではなく、最後まで才能を飼いならしえたというところにあるのではないか。
「少年」を「より強いものが生きのこる」という「下位ルールA」に過剰適応した存在だと定義するなら、かれはあくまでも「大人」であった。イノセントな「少年」をその心にひそませた大人だったのである。かれのなかで、「少年」の人格と「大人」の人格は同居しながら決して混じりあい濁ることがなかった。
魔術師ヤン。かれの存在は、きわめて特異である。
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