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技術の追求こそ幸福である。(2063文字)
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技術の追求こそ幸福である。(2063文字)

2013-07-24 02:00
    文章読本 (中公文庫)

     文体などという大げさな表現を使う必要はないとしても、少しは読みやすい文章を書きたい。ずっとそう思っている。

     読みやすい文章とは何か。それはつまり、文意の認識速度が速い文章のことだ。その意味では、コンマ一秒でも速く文意を認識できる文章こそ良い。

     それでは、ひとの脳の認識速度を向上させるためにはどうすればいいのか。仮名と漢字を連続させることなく、バランスよく配する。とりあえずその程度のことは誰でも考える。ぼくもそう考えた。

     いっそう読みやすくするために、文章を整理し、可能なかぎり軽量化したい。読むまえにひと目みて、ああ、軽そうだな、とわかるくらいでちょうどいい。

     しかし、あまりに軽く設計しすぎると、文章はあたりまえのようにぽきんと折れてしまう。それではいけない。強度は一定に保たれていなければならない。

     だから、そのバランスを取りながら少しでも重たげなところを削ってゆく。なかなかむずかしい仕事である。ここを削り、そこを補い、全体の強度を注意深く維持しながら、少しずつ軽量化を進める。

     いくつかの簡単なルールはあるが、基本は自分の感性だけが頼りだ。あまり一定にリズムを刻み過ぎると、文章はとたんに退屈になる。だから、あえてリズムを外し、複雑化しなければならない。

     その複雑になったリズムが、それでもなおのびやかに響きわたるとき、読むことはじつに大きく豊かな快楽となるに違いない。いまのぼくには、そこまでの操作はできず、いかにも単調なリズムとなってしまっているが――。

     ぼくは、あくまで読みやすくわかりやすい文章を書きたい。もとより晦渋な表現を用いられるほどの語彙も教養もないけれど、そうでなくても、なるべく意味を取りやすく、すらすらと読み進められる文章が良い。

     その上、新鮮で柔らかく、瑞々しければ文句がないが、さて、そこまでの文章を書けるようになるまで、あと何年かかるか。歳をとればそのぶん言葉が萎びていく危険もあるわけだが、おそらくもうしばらくは大丈夫。だから、焦らず少しずつ技能を高めてゆこう。

     私見では、最近、それなりに軽さと強度のバランスを取れるようになって来たように思う。文章の見ためはそれなりのところまで来ているのではないか。

     ただ、見ためだけといえばその通りではある。ぼくの書くものはいかにも空虚だ。内実が欠けていて、表現だけがいたずらに麗々しい。いわば皮膚の化粧ばかりに熱心で、骨格と筋肉を鍛えることを失念している、そんな感じ。

     おそらく軽量化の次の課題はその内実を満たすことだろう。しかし、これは軽量化よりもっとむずかしい。なぜなら、ここまで来ると単純な技能というより、知性やら教養やら人間性の問題になって来るからである。

     たしかに未熟としかみえない文章が、その技術を遥かに超えて読むものの胸にひびくことがある。そういう文章は、魂の力を絞って書かれているのだ。だから読者を圧倒する凄みがある。

     それにくらべ、ぼくの文章はいかにも小賢しく技に頼っている。たしかにそれなりに軽さと強度を並立させることはできるようになったかもしれないが、相変わらず魂はこもっていない。最も必要なものが欠けている。だからつまらない。つよく記憶にのこらない。

     まっとうな文章とは、内実と技巧が両方ともそろっているものをいう。ぼくは技巧に走るあまり、内実をおろそかにし過ぎてしまった。その技巧のほうも、どうやらたかが知れてはいるようだけれど。

     これが謙遜ならいいが、事実なのだから困ってしまう。まったくどこで道に迷ったのだろう。とにかくいまからそこを補填しなければならない。

     しかし、はたしてそんな真似が可能だろうか。もちろん不可能でもやるのだ。やらなければならないことは、やらなければならい。

     
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